ORICON NEWS
乳がんを患い闘病中だったフリーアナウンサーの小林麻央さんが22日夜、死去
した。34歳だった。一夜明けた23日午後2時30分頃から都内で行われた会見で、
夫で歌舞伎俳優の市川海老蔵(39)が「きのう、妻が旅立ちました」と報告した。
訃報を受け、SNS上には悲しみと追悼の声であふれ、数多くの芸能人らもしのんだ。
ツイッターなどでは「麻央さん早すぎる…若すぎる…」「母として 妻として
女性として生き様を見せてもらいました。本当に悲しい。こんなにも万人に
愛された麻央ちゃん。安らかに」「若いのに、幼い子供もいるのにただただ残念。
でも闘病生活よく頑張ったと思います。どうかゆっくりお休みください」などの
コメントであふれ、「オレンジジュース」のエントリーで更新した麻央さんの
最後のブログにも続々とメッセージが届いている。
会見前に、すでに訃報が報じられており、フジテレビ系『バイキング』のMC・
坂上忍は「闘病されてて、(姉・小林)麻耶ちゃんともお付き合いあった中で…」と、口にするも言葉に詰まり「後で会見するんでしょ? ちょっとそうさせて頂き
たいというか、いつも通りにさせていただいていいですか?」と手で顔をおさえ
涙を拭った。
元バレーボール女子日本代表の大山加奈は、先日、母・久美子さんが、がんと
闘った末、55歳で亡くなったばかり。ツイッターでは「つらいニュース…母と同じ
時期にガンと闘っていらしたのでなんとも言えない気持ちでした」と心境を明かし「母の55才でもまだはやいって思うのにわたしと変わらない34才。
わたしにはこどもがいませんがあんな小さな子たちをおいていかなければならない
麻央さんの気持ちを思うと…涙止まらない…」とつづった。
お笑いタレントのダンカンも「最期まで戦って、戦って、戦った人が逝ってしまった。乳がんも6月22日もママリンとまるで同じだなんて…虚し過ぎます。…ママリン そっちで宝物の子供たちのこととか、沢山会話してあげてな! オレにはそんなことをお願いするくらいしか出来ないよ」と天国の妻へメッセージした。
そのほかにも、海老蔵の自主公演『ABIKAI(えびかい)』の演出(2013年8月、15年6月)を手がけた演出家の宮本亜門氏も事務所を通じて「麻央さんは怒涛の
最終舞台稽古の時も、最後列の一番端に座り、まるで観音様のような
温かい眼差しで、海老蔵さんや皆を見守っていました」。
「余りに優しい穏やかさに満ちて、それはそれで全てが美しい方でした。
どうぞ安らかに。これからも家族を見守ってあげてください。
海老蔵さんとともに、良い作品を精一杯作らせていただきます」と誓った。
麻央さんのがんは昨年6月、夫で歌舞伎俳優の市川海老蔵(39)が会見を行い
公表。1年8ヶ月前に受けた人間ドックで判明し、抗がん剤で手術に向けて治療中で
あることを明かした。麻央さんは闘病中の昨年9月に「癌の陰に隠れないで」と医師に励まされたことから、ブログを開設し闘病の様子、家族との生活などを伝えていた。
【補足】
入退院を繰り返していた麻央さんは今年4月22日、再入院し、輸血や鎖骨の血管下に点滴用ポートを埋め込む手術を受け、がんが顎に転移したことをブログで告白した。
5月29日に退院後は、在宅治療に。39度台の高熱を出した6月4日付のブログでは
「どうなったって生きるしかない」と強い意欲をにじませていた。
闘病生活は2年8カ月の長期に及んだが、回復はかなわず、幼い子供2人を残し、
早すぎる生涯を閉じた。
◆小林麻央(こばやし・まお)1982年7月21日・東京都出身。大学在学中に『恋のから騒ぎ』に出演し、2003年にフリーアナウンサー事務所のセント・フォースに所属。同年からフジテレビ『めざましどようび』のお天気キャスターを務め、06年10月より日本テレビ『NEWS ZERO』のサブキャスターに就任。10年1月に市川海老蔵と
結婚し、同年3月に『NEWS ZERO』を卒業。11年7月に第1子長女の麗禾(れいか)ちゃん、13年3月に第2子長男の勸玄(かんげん)くんが誕生。
2013年8月といえば、同年8月22日午前7時頃、東京都新宿区西新宿6のマンション
前で、歌手の藤圭子さんが倒れているのが見つかり、病院に運ばれたが死亡。
15年6月は、同年15年6月4日テレビ朝日で 第8話 アイムホーム
「最終章戻れない二人…仮面の夫婦が、W不倫!?」
【あらすじ】
恵(上戸彩)のパソコンを見た久(木村拓哉)は、恵のある秘密を知り動揺。そのことを恵に聞けず、一人もんもんとする中、小机(西田敏行)に誘われて飲みに行く。泥酔し帰宅した久が鍵を開けて中に入ると、そこは自宅ではなく杏子(吹石一恵)という女性の家で、杏子から自分たちが不倫していたと聞かされる。
小林麻央に14年間連れ添ったマネジャーが語る
「麻央が亡くなった日」「文藝春秋」編集部 2017/07/11
「6月22日の夜、事務所の社長から電話があり、『 麻央ちゃんが亡くなった 』と
知らされました。その瞬間に、頭の中が真っ白になりました」
先月22日、34歳で亡くなった小林麻央さんのマネジャー、菅大善氏(セント・フォース取締役)が「文藝春秋」8月号(7月10日発売)で彼女との思い出を語っている。菅氏は麻央さんが「めざましどようび」でお天気キャスターとしてデビューした
2003年から、14年の長きにわたって担当。姉の小林麻耶がTBSを退社してフリーに
なってからは、小林姉妹2人を裏から支え続けてきた人物だ。
「翌日(6月23日)、自宅に伺って久しぶりに彼女の顔を見たとたん、
胸にこみ上げてくるものを抑えきれず、涙が止まりませんでした。
一緒に仕事をしてきた日々のことが、次から次へと思い出されてくるのです。
『 お疲れさま 』
月並みですが、そう言葉をかけるのが精一杯でした」
菅氏が麻央さんから、がんになったと報告を受けたのは、2016年の1月のこと
だった。麻央さん自身が告知を受けてから1年3カ月ほどしたころだ。
周囲への気遣いを絶やさない麻央さんは、菅氏の誕生日(12月31日)にも
毎年必ずメッセージを送ってくれていたという。だが2015年の大晦日には、
メッセージが届かなかった。
「少し前に連絡したときに『 ちょっと体調が悪いんです 』と話していたし、
11月に長男の勸玄くんの初お目見えなどがあって、忙しいんだろうなと
特に気にすることもありませんでした」
すると、年が明けて数日したころ、麻央さんから電話があった。
「ごめんなさい。体調が悪くてメッセージを送れまんでした」
まず謝罪の言葉を口にしたあと、麻央さんはこう切り出したという。
「実は私、がんなんです」
突然の告白に驚いた菅氏は、「え……、どういうこと?」と言ったきり、
言葉が続かなかった。それでも麻央さんは菅氏を気遣って、終始いつも通りの
明るい口調で続けた。
「実はちょっと前にがんになっていたんです。本当に言えなくてごめんなさい。
すぐに治して、みなさんに『 がんでした 』と報告するつもりだったんです。自分が
がんになるなんて人生わからないですよね。でも、大丈夫です。治しますから」
夫の市川海老蔵が、麻央さんが進行性の乳がんであることを会見で公表したのは、この年の6月。今から振り返れば、菅氏への報告の電話があった時点で、
すでに深刻な病状だったようだ。
菅氏は、麻央さんが闘病する姿はもちろん、芸能界入りを決意する際に憧れの女性の存在が大きかったこと、『NEWS ZERO』のキャスターを引き受けるまでの逡巡、そして海老蔵との交際秘話など、彼女に寄り添った14年間を詳しく振り返っている。記事全文は「文藝春秋」8月号に掲載されている。
に開催
乳がんを公表し、闘病中だったフリーアナウンサーの小林麻央さんが
お亡くなりになりました。これを受けて、夫の市川海老蔵氏が6月23日に会見。
「本当にかけがえのない時間を過ごせた」と最愛の人の死を悼みました。
市川海老蔵が記者会見
市川海老蔵氏(以下、市川):えー、昨日夜に、妻、麻央が旅立ちまして、
それによりまして、いろいろとございます。
その中で、家族の時間や家族でしなくてはならないこと、家族で話すべきこと。
あと子どもたちとのこと。そういったことの時間という中で、思った以上に
みなさまに伝わったのが早かったということで、急遽このようにみなさまに
時間を作っていただいたのも、そのように多くの方にご迷惑がかからないように。
そしてまたブログや、ましてやアナウンサー時代から妻のことを応援してくださった方々にご報告ということで、このような時間を設けさせていただきました。
本日はどうぞよろしくお願いいたします。
記者:ご僅々のところ大変申し訳無いんですけれども、麻央さんとの最後の時は
どなたが看取られて、どんな言葉をかわされたんでしょうか?
市川:私は昨日も舞台でございまして、それまで麻耶さんと麻央のお母さんと、
ずっと看病をしていました。私は昨日舞台が終わった後に、ここで別の撮影が
ございまして、その後にロビーでまた別の稽古がございました。
そして、そのときにお母様からLINEが来ていたんですけれども、
ちょっと僕は見ることができませんでした。
約1時間半ほど遅れて見た内容が、「具合が悪い、ちょっとお医者さまも来ていて
家族を呼んだほうがいい」というような内容でして、私もちょっと慌てて急いで家に帰ったわけです。そうして帰りまして、妻の麻央はこの世にいてくれて。
たまたま、本当にたまたまなんですけど、私がちょうど妻の傍に座って、
呼吸が苦しそうだったんで、「大丈夫かな……」と思って。
昨日は、一昨日までは喋れたんですけど、昨日はずっと喋れずにいたので。
あの、まあこれは本当に不思議な話なんですけれども、息を引き取る瞬間、
私は見ていました。その時、僕は本当に不思議なんですけれど。
「愛してる」と言って。彼女が。その一言を言って……。泣いちゃいますよね。
その一言「愛してる」と言って、本当にそれでそのまま旅立ちました。
記者:愛してるという言葉は、麻央さんはちゃんと受け止めたように見えましたか?
市川:いや、僕が言ったわけではなくて、彼女が。旅立つ間際に「愛してる」、「る」が聞こえたか聞こえないかはちょっとわかんなかったですけど。
「愛してる」と言って、旅立ったのがちょっと……。
まあなんと言うんでしょうか、こんなに愛されていたのは、よく分かって
いたんですけど、最後の最後まで愛してくれていたことに……。
なんとも言えませんね。すいません、なんか。どうしようね、昨日の今日で
なにも準備ができていなくて、このようなところでお見苦しいところをすいません。
記者:最期、自宅で送ってあげることができたのは良かったと思いますか?
市川:それはとても良かったと思います。お母さまもお父さまも、私もお兄さまも、麻耶さんも。子どもたちもずっと側にいられたので、すごく良かったなと。
病院で、私は父を病院で亡くしているので。
病院のときとは違う、家族の中で、家族とともに一緒にいられた時間というのは、
本当にかけがえのない時間を過ごせたと思います。
最期は家族みんなで麻央さんを見送る
記者:ご家族みなさんで、見送ることができた、と?
市川:そうですね。子どもたちも、見ていました。
記者:麻央さんは闘病の中で……かなりつらい中で、いつも笑顔を忘れずに
闘ってこられましたけれども。そんな麻央さんの生き方を、海老蔵さんは
どんな言葉で送ってあげたいですか?
市川:おっしゃるとおり、本当に笑顔、勇気、愛情、そして決してぶれない自分。
そしてどんな状況でも、相手のことを思いやる気持ち。まあ、愛ですよね。
そういった力が……最後までぶれず、一昨日まで笑顔で。笑顔で……話していて。
昨日……、昨日はやっぱり、ちょっと調子が悪かったので。我々家族も、急に……
そうなってしまったので、戸惑った部分が、すごく大きかったです。
記者:海老蔵さんからは、どんな言葉をかけられましたか?
市川:僕ですか? いつ?
記者:麻央さんが、亡くなられる前に。
市川:ああ……。もう、この世にある、ありとあらゆる言葉を。
耳元で、話していました。
記者:海老蔵さんにとって、麻央さんはどのような存在ですか?
市川:……。私の……どんな部分も、どこまでも、愛してくれていたんだと。
存在っていうのは……。存在ね……、できればずっと一緒にいて、
私のほうが先に逝って。彼女には、もっと幸せに。もっと楽しく、家族や
お友達……。麻耶さんや、お父さま、お母さま。そして、僕……私が、
役者として成長してきた過程を、ずっと見守ってもらいたかった存在です。
記者:麗禾ちゃんと勸玄くんの様子は……。
市川:うーん……。麗禾は……昨日は、ずっと麻央のそばを離れませんでした。
そして、彼女の横で、ずっと寝ると言って。寝ていました。……。
( 麻央が亡くなったと )認識はしていると思いますね。
勸玄は……まだ、わかっているんですけれど……わかっていないところもあって。
今日の朝も、麻央の横になっているところに、二人がいて。
麻央の顔を触ったり、足をさすったり……手を握ったり。
そういうところを見ると、私が今後背負っていくもの、やらなくてはならないこと。子どもたちに対して、とても大きなものがあるなと、痛感しました。
勸玄はまだ、わかっていますけど……わかっていないと思います。
子どもにとっても「非常に重要な存在」
記者:奥様から学んだ大切なこと、どういったことを、
これからも伝えていきたいと思いますか?
市川:彼女が元気になったら、自分が歩んで来た過程の病、乳がんやそれに伴う病に対して、自分が治ったらば「こうしたい」「ああしたい」「多くの人の救いになれるような存在になれるようになりたい」ということで、一生懸命、闘病していました。
それでブログというものも始めたんです。マスコミさんのおかげで、
ある意味、公になって本当にありがたかったと思います。
それでブログというものを始めて、なにかこう同じ病の人たちや、
苦しんでいる方々と悲しみや喜びを分かち合う妻の姿は、私からすると、
なんか人ではないというか、なんと言うんですかね、すごい人だなぁというか。
言い方はおかしいですけど。とにかく総合的に教わったこと、
そして、また今後も教わり続けることは、愛なんだと思いますよ。
記者:3年間、闘病生活だったんですけれども、今、海老蔵さんの中に浮かんでくる
麻央さんの姿というのは、どういう表情を一番思い浮かべられますでしょうか?
市川:どういう表情? 全部ですね。初めて会ったときの彼女から、
今の……今日の朝まで、全部。全部ですね。
記者:笑顔が多いですか?
市川:そうですね。多かったと思います。
記者:これまで、いろいろなお話を麻央さんとされてきたかと思うんですけれども。もちろん、最期のお言葉である「愛してる」という言葉が、もちろんその言葉が
一番残ってらっしゃると思うんですけど。これまでお話されて来た中で、海老蔵さんに対してのお話でしたり、子どもさんへのお言葉でしたり、いろいろ印象に……。
市川:子ども? そうですね。心残りだと思いますよ。2人のことについて。
どうすればいいんだろうって、考えても答えが出なかったものだと思います。
ですから、いろんなこともあり、今回も、子どもたちが出演したり、7月も倅が
出るんですけど、そういうのを見に来ることを、1つの目標として、いろんなものを
作ったんですけど。うん。まあでも、きっと見てると思うんでね。そういう意味で。
だから、心配で、心配で、しょうがないんじゃないでしょうか。
記者:海老蔵さんが託されたことみたいなものはありますか?
市川:うーん、ちょっと多すぎて、言葉に出せないですよね。もちろんね、
今舞台やってたわけで、このあとも舞台ありますし、来月もすぐありますし。
子どもも稽古もありますし、麗禾の成長のことも考えますし。
やっぱりこれから、まだ5歳と4歳ですから。これから、お母さんという存在が、
彼女や彼には、非常に重要な存在なわけではないですか。それを……失った。
それは、僕は代わりにはなれないですけど、できる限りのことをやっていくように
思っていますね。
天国の麻央さんに「いつも想ってるよ」
記者:麻央さんがよく言っていた言葉で、今、思い出されることってありますか?
市川:よく言っていた言葉、うーん……。でもやはり言葉というか、お姉さんの
麻耶さんがちょっと調子悪くなった時も、例えば私が舞台で非常に疲れた時も、
彼女自身は、やはりもっと重い病にかかっている。そして、お母さまが看病で
疲れている時も、麻央の方がもちろん大変なのに、やはり自分よりも相手のことを
心配するやさしさ。こういう言葉ということではなくて、どこまでも自分よりも
相手のことを想う気持ち、これはね、一番多かったですね。
記者:麻央さんと出会って、結婚されて、家庭を築いて、
今、改めて、麻央さんはどんな奥さんでしたか?
市川:えー、そうですね……わかりませんね。
どんな奥さん? 僕を変えた奥さんなんじゃないですか。
記者:どんなところを?
市川:わかりません。
記者:麻央さんがプロポーズの時に「来世も一緒にいよう」という言葉が
一番響いたとおっしゃっておりましたけれども。
市川:そのつもりです。その話もしました。ですが、まあ、僕が愛想つかされない
ようにがんばらないといけないのかなと。
記者:その話をされた時、麻央さんはなんとおっしゃってましたか?
市川:元気な時?
記者:はい。
市川:喜んでましたよね。
記者:改めて、今、麻央さんに言いたいこと、最後にお聞かせください。
市川:まだ昨日の今日なので、こういうところも聞いてると思うので、
全部聞いてると思うのでね。言うことは言わなくても伝わると思うので。
まあ、「いつも想ってるよ」っていうことですね。
記者:麻央さんのブログに励まされた方に、最後に一言。
市川:麻央のブログや麻央の存在で励まされた方々がいらっしゃるということで、
今回のこういうような形も、ある意味取らせていただいたと思うんです。
実際そういうことがなければ、このようなことをご報告すること自体が形としては
どうかと思います。ですが、そういう多くの麻央のことを応援してくださった方、
そしてまた麻央のことを、ともに闘ってる方々。本当に昨日、先に旅立ちました
けれども、ずっと麻央はきっと、みなさまのそばにもいると思うので。
本当にいろいろありがとうございました。
司会者:では、以上でございます。
市川:どうも。
記者:ありがとうございました。
この記者会見で海老蔵さんが「7月も倅(せがれ)がー」と言っていましたが、
この言葉は、亡くなった團十郎さんが言っていた言葉だと思います
市川海老蔵 麻央さんに送った最後のLINEは
「結婚してください」記事投稿日:2018/03/13 17:00 週刊女性
歌舞伎俳優の市川海老蔵(40)が3月12日に放送されたテレビ朝日系
『徹子の部屋 最強夢トークスペシャル』に出演。妻・小林麻央さん(享年34)が
17年6月22日に亡くなる直前に送った最後のLINEについて明かした。
麻央さんが旅立った日は舞台や撮影などで忙しかったと回顧した海老蔵。
「麻央が逝くのが夕方から夜にかけてでした」と話し、「そのときに最後の
LINEをしました。なんでこんなLINEを送ったのか分からないけど、
“愛してるよ。結婚してください”と。それが彼女との最後のやりとりだったんです」としみじみ振り返った。
また、以前出演したドキュメンタリー番組で、現在でも麻央さんに
LINEを送っていると明かしていたが、最近麻央さんから返信が届いたと告白。
「びっくりしました。誰かがやったに決まってるのに、
すべての思考が止まりました」とパニックになったという。
返信を送ったのは娘・麗禾ちゃんだったそうで、海老蔵の「麻央げんき?」と
いうLINEに対し、ハートマークが送られてきたという。
海老蔵は「文面が明らかに麗禾でした。もうドキっとした麗禾と返しました」と
親子の微笑ましいエピソードを披露した。
上記の会見時も、同じように海老蔵さんの思考が停止したので、
言葉が出てかなかったり、言葉が途中つまったんでしょう。
こんな時に、よくそんなことができるよね
海老蔵さんが麻央さんに、“愛してるよ。結婚してください” という最後のLINEを、
あの三女が海老蔵さんに憑依して送らせたんでしょ。この時の記憶がないはず。
みんな、いい迷惑しているから止めて
30年程前に、私達も似たようなことがあったので分かりました
( 純ちゃんに送った記憶がないと言われましたが、やっと分かりました )
市川團十郎が抱える“重荷”と“責務”…亡き妻・麻央さんとの「愛の巣売却」報道の背景 公開日: 日刊ゲンダイ
13代目市川團十郎(45)が亡き妻・麻央さん(享年34)との“思い出の家”を
売却すると、発売中の「女性セブン」が報じて話題になっている。
同宅は、2010年、結婚を機に團十郎が購入。生家から50メートルほどの距離に
あり、敷地50坪、地下1階、地上2階。地下には大きな赤いバスタブがあり、
妻の麻央さんのこだわりが詰まっていた。新居に移って早々「六本木暴行事件」を
起こした團十郎を追って報道陣が連日殺到したこともあった。
息子・新之助には“重荷”を継がせたくない…(C)日刊ゲンダイ
その後、長女・市川ぼたん(11)、長男・新之助(10)が誕生。
17年には麻央さんの自宅療養のために、ワンフロアで過ごせる高級賃貸マンションに転居。麻央さんの死後、自宅は稽古場と事務所にリフォームされていた。
21年に敷地300坪の生家を売却した際も、“自宅は売りません”と語っていた
團十郎だったが、麻央さんの七回忌を迎え、ついに手放すことにしたという。
芸能リポーターの川内天子氏がこう言う。
「母・希実子さんの実父が事業で失敗した際に負った借金返済のめどが立つという
算段ができ、今が手放すチャンスと考えたのでは。そのくらい借金問題は團十郎さんにとってストレスでもあり、新之助さんの代にまで借金を残したくないという
気持ちが強かったのでしょう。襲名披露興行も順調。麻央さんも七回忌を迎え、
気持ちの整理も一区切りつけて13代目に徹する覚悟なのでしょう。
再婚も視野に入れている可能性もある。そして何より、借金を返せば借りていた
松竹に引け目を感じずに交渉できることが最重要と考えたのでしょう」
9日、都内で行われたSEIKO「時と日本文化プロジェクト」発表会見に、
一家3人で登場。報道陣に「夢は歌舞伎役者ということですか?」と聞かれ、
新之助は「違います」と回答。團十郎は「後で家族会議を」と一笑したが……。
まずは新之助への“重荷”を継がせないことが父・團十郎の責務なのかもしれない。
小林麻央さんが亡くなったと知った時は、本当にビックリしたのを覚えています。
こんなに、みんなに愛された人であり、海老蔵さんからも、こんなに愛されていた
最愛の人(麻央さん)が亡くなる前に、「愛している」と言って亡くなったと
愛妻を亡くしましたが、子供と3人で仲良く、これからも歌舞伎を盛り上げて、
頑張って下さい
天国で、みんなと一緒に楽しく過ごして下さい。ご冥福をお祈りいたします。
占い師の母から「今、私が言っても信じられないと思う。その時が来たら分かる」と
言われた意味が段々と分かってきました
『伊勢物語』の魅力を力説!日本最古の歌物語に迫る!
古典の世界は美しい。いつもそう思います。
日本の奥ゆかしさを感じさせる魅力的な人物。
古の言葉で綴られるからこそ美しい幽玄の世界。
その古典世界の中でもひと際輝きを放つのが六歌仙の一人、
在原業平(ありわらのなりひら)。
男性貴族の理想像として描かれ、美しい和歌を多く残すも、
不遇な人物として書かれました。
今回は彼が主役の歌物語・『伊勢物語』を手に取って、
この作品の魅力に迫りたいと思います。
『 伊勢物語 』は歌物語
『 伊勢物語 』は歌物語、つまり和歌を含んだ短い小話を
たくさん繋げて作ってある作品です。
125個の文章からできており、登場する和歌は210首。
一つ一つの話が短いので作品全体でもそう長くはなく、
短い作品の中に多くの和歌がギュっと詰まっています。
知名度も古典文学史上の影響も内容の面白さも日本最高峰レベルであることは
間違いないので、日本人なら読んでおいて損はありません。
和歌を載せる前に、少し【 伊勢物語 】を説明していきます。
純ちゃんに嫌な事をしてこないで! 咳や嗚咽をさせないで、口臭を持って来ない、
体を動かしにくくしない、人の言葉を言わさない、人の感情を持って来ない、
体などを痛くしない。 トイレ関係も。 食欲を無さないで。 脅さないで!
【ボートゲームの禁じ手】を使わないで!
いくつかのゲームには、ルールで定められた禁じ手が存在する。
禁じ手を打った(指した)場合、即座に負けとなるのが一般的である。
スポーツやゲームのように明確な規制で禁じられたものではなく、
「使うべきではない」とされる手法についても「禁じ手」と呼ばれることがある。
※このルールを違反した時点で、ゲームオーバー及びゲームアウト!
その技術を使わないで!
TV等の撮影やスタッフに付いて行って、ロケや取材等の邪魔をしないで
束縛、嫉妬や執着、妬み、依存、あの三女が遠隔でコントロールするの止めて ( あの三女、お互いを似ているように近づけようとしないで )
人に威圧的な言動、迷惑な行動は止めて。 心に入って来ない、心を読まない、
人に体調不良やネガテなィブな感情を持って来ない、無気感にさせないで、
人の後ろに憑かない憑依しない、余計なことを言ってこないで。 トイレ関係
思考低下させない、停止にしない。 人の胸に衝撃を与えないで! 首を痛くしないで!
仕事の邪魔や記憶障害にしない。 目の錯覚、老眼近視、頭をボーっとさせないで、
人に言われたことを他人に言わさない。 心の中に持って来ない、響かせない
特にブログを書いている時、自分で考えて書いて。 深夜に連絡してこないで
負けず嫌いも程々に、優柔不断、人間不信を持ってこないで、キツイ気を感じる。
口臭も。 咳込まさない。 毒舌禁止、散財させないで、調子づかないで
乗り物関係を運転時は邪魔をしてこない。 中枢神経を触って来ないで。
人の感情やパワーを抑えない、持って来ない。 口のろれつが回らないようにしないで
唇を痺れさせない! 卑猥な言葉を言ってこない、人をコントロールしないで
あの親子、水晶を使って人を脅さない。マウントを取って来ない、過保護にしない! 個人情報保護法、プライバシー侵害しない! その力、仕事以外に使わない 人の為に使って、決して悪いように使わないで。 日本には言論の自由がある( 自分達に嫌な事を言われていると思って咳込まさない、自意識過剰、被害者意識が酷い )
店員さんや美容院の人に嫌な事をしないで、言わさないで
全責任は、お母さん達に取ってもらう。 もちろん本人にも取ってもらう!
人のPCやスマホにハッカーになって侵入してこないで、エラーが出たので止めて
長女のパワーを使わない! 上記に書いていることは、みんなのことを指す
3つの約束やルール、個人的に約束した事、日本の常識は必ず守って。
アミューズ同様、みんなに対しても約束など厳守して
( 私の言うことを聞く・命関係は打ち止め・引退関係・契約書など、反故にしない )
契約書を読んで!約束を破るとペナルティーが、母との勝負を忘れないで
いつもありがとうございます。
最後までお読みいただきありがとうございました