氷室京介「60歳になったらアルバムでも出すか」 還暦を迎えた | poohta8のブログ

    ‟ロックのカリスマ” 氷室京介に期する「有言実行」

     

     2020/10/07 文春オンライン

     

     いま40代のお笑いタレントがトークをしていると、ときどきBOØWYが

    話題にのぼることがある。

    たとえば、バナナマンはMCを務める乃木坂46の番組で、設楽統が唐突にBOØWYの「B・BLUE」のイントロをくちずさみ始めたかと思うと、相方の日村勇紀も一緒に

    絶妙のタイミングで歌に入ってみせ、乃木坂のメンバーたちを驚かせていた。

    BOOWY解散コンサートで熱唱する氷室京介 ©共同通信社

    BOOWY解散コンサートで熱唱する氷室京介 ©共同通信社

    BOØWYが後進たちに与えた影響力の大きさ

     もちろん、お笑い以上に後進のミュージシャンにBOØWYが与えた影響は大きい。バナナマンとほぼ同年代であるGLAYのTAKUROは、14~15歳のころ友達の家で「B・BLUE」を聴き、腰を抜かすくらい衝撃を受け、そのまますぐにレコード屋へCDを買いに行ったという。BOØWYのメンバーでも、とくにボーカルだった氷室京介はカリスマ的存在として、ソロに転身してからもずっとリスペクトを集め続けてきた。

     

     TAKUROは、氷室がBOØWY解散後初めてリリースしたソロデビューアルバム

    『 FLOWERS for ALGERNON 』(1988年)について、《 人生であれほど美しい

    アルバムを聴いたことがない 》と語っている(※1)。

    
GLAYのTAKUROも衝撃を受けたという「B-BLUE」


    GLAYのTAKUROも衝撃を受けたという「B-BLUE」

     

     その氷室は、2014年にライブ活動無期限休止を宣言、翌々年の4大ドームツアーの

    最終地・東京ドームでの公演をもってステージから去った。このとき、《 60(歳)

    くらいになったらアルバムでも出すか 》と、今後も時間をかけてアルバムを

    つくっていくと宣言し、会場は拍手と歓声に包まれたという(※2)。

    あれから4年、氷室はきょう10月7日、ついに60歳の誕生日を迎えた。

    これに合わせて、今夜9時からはオンラインイベント「KYOSUKE HIMURO 60th ANNIVERSARY ONLINE HANABI LIVE “DISTANCE”」も予定されている。

    ライブハウスを中心に活動し、ライブは常に酸欠状態

     群馬県高崎市出身の氷室は高校在学中、同級生の松井恒松らと「デスペナルティ」というバンドを結成し、本格的に音楽活動を始めた。当初、氷室はドラム、

    松井はサイドギターを担当していたが、やがて氷室がギターを持って

    リードボーカルを務めるようになり、松井はベースに回った。

    高校卒業後、デスペナルティはアマチュアバンドのコンテストの関東甲信越大会に

    出場し、決勝でギタリストの布袋寅泰率いるBLUE FILMと争っている。

    それから2年後の1981年、氷室・松井・布袋を中心にBOØWY( デビュー前の表記は「暴威」)が結成され、新宿ロフトでライブデビューする。このあとドラマーの

    高橋まことが加入し、翌1982年に1stアルバム『 MORAL 』をリリースした。

     

     初期はライブハウスを中心に活動していたBOØWYは、1984年にはライブは

    酸欠状態となるのが常となり、音楽業界でも注目され始める(※3)。

    3rdアルバム『 BOØWY 』リリース直後の1985年6月には、渋谷公会堂公演を敢行。

    このとき彼らはまだレコードセールスでは大々的なブレイクはしておらず、渋谷公会堂でのライブはかなり思い切った勝負だった。しかし見事に成功を収め、これを機にホールでの活動に移行する。1986年の4thアルバム『 JUST A HERO 』は初めて

    チャートにランクインし(最高位5位)、同作を引っ提げての全国ツアーの最終日には、初めて日本武道館のステージに立った。いまなお伝説的に語り継がれている氷室の「ライブハウス武道館へようこそ」というMCは、このとき飛び出したものである。

    突然の解散、そして氷室のソロデビュー

     しかし、BOØWYは人気絶頂にあった1987年12月、渋谷公会堂でのライブで

    氷室の口から解散を宣言。翌1988年4月、オープンまもない東京ドームでの

    2日間にわたる “LAST GIGS” をもってすべての活動にピリオドを打つ。

    その後、氷室はいち早くソロ活動を開始し、解散からわずか3ヵ月後には

    ソロデビューシングル「ANGEL」、さらに9月には前出のアルバム

    『 FLOWERS for ALGERNON 』をあいついでリリースした。

    BOØWY解散後にはわずか5か月で『FLOWERS for ALGERNON』をリリース

    BOØWY解散後にはわずか5か月で『FLOWERS for ALGERNON』をリリース

     

    ソロになってからも氷室の歩みはさまざまな伝説で彩られている。たとえば、1993年のアルバム『Memories Of Blue』リリース時の全国ツアー「L'EGOISTE」における “やりなおしライブ”。これは1月の大阪城ホールでの公演中、氷室が突然、きょうは

    体調が悪くて満足のいくステージができないかもしれないと観衆に明かしたうえ、後日行なう東京公演に「ここにいる全員を招待する!」と宣言したのが発端であった。彼はこの日、公演前からマネージャーにきょうはやめさせてくれと訴えていたが、

    認められなかったので、途中でやめてもいいとの条件でステージに上がったという(※4)。結局、氷室は途中降板することなく全曲を歌い終えるも、約束は守った。

    東京・代々木体育館でのツアーファイナルの翌々日(5月12日)、同じ会場で、

    大阪公演に来ていた観客を無料で招待してあらためてライブを開催したのである。

    氷室が貫く「自分の美学」とは?

     しかし、これについて周囲のスタッフが美談のように語るのを、氷室は

    よしとしなかった。後年、以下のように忸怩たる思いを吐露している。

    《 これはもうプロとしてあってはならない、忘れてはならない、自分を戒めなくてはならないひとつのエピソードとして解釈しています。やりなおしといっても、悪い

    コンディションになってしまったのは自分の責任であるし、今日調子が悪いからお前明日またこいよっていう(苦笑)。お金を頂いておきながら、その勝手さ。それは

    もうエンタテインメント・ビジネスの風上にも置けない、自己満足というか、若気の至りというか、非常に恥ずかしい思い出ということでこの事実を受け止めています 》(※1)

     氷室はべつのところでも、「自分の感情や価値観に流されてしまうという意味で、プロとしては自分は最低だと思う」という趣旨の発言をしていた(※5)。

    そこで例として彼があげたのが、2007年夏にGLAYと一緒に行なったライブである。このとき彼は新曲中心のセットリストでのぞんだ。ファンを喜ばせるなら、往年の

    ヒット曲のオンパレードで盛り上げる手もあったはずだが、それはダサいという頑固な自分の美学を優先させてしまったのだという。もちろん氷室のなかにも、オーディエンスと盛り上がり感動を共有したいという部分はあるので、毎回自分のなかでバランスを取りながらやってはいる。それでもどうしても譲れないところがあるらしい。

     

    かねてよりBOØWYへの思いを述べているGLAYのTAKURO ©文藝春秋

    かねてよりBOØWYへの思いを述べているGLAYのTAKURO ©文藝春秋

     

    《 ただ絶対的に一番大切なのは、あまりパブリックなイメージだとか、

    相手の要求していることに流され過ぎてはいけないということだと思います。

    常にこっちが発信側であり、届かない人には残念だけれど外れていってもらう。

    その基本的な、一番大切なところで軸がブレてしまうと、今度はどこに住んでいても周りに流されて、音楽を作ること自体が辛くなってしまうと思うので。

    いつもいい意味での勝手さは大切にしなきゃいけないと思いますよね。

    そもそもそれは性格的にも譲れないところだと思いますし 》(※5)

     

     

    占い師の母から「私は柔軟性があるので、どこへ行っても住める」と

    言われていました 笑ううさぎ おばあちゃん 音譜

     

    「マニアックなことをやりつつ、ポップなバランスを取る」

     この姿勢は、氷室の発言に一貫して見出せる。90年代後半、メガヒットを出す

    アーティストがあいついだ時期には、そうした流れを否定こそしないものの、

    《 でも、僕が300万枚売ることはテーマじゃないですよね。そんなこと考えて

    作ってないし。100万枚のクォリティーを作るっていうのかな。その中で、

    カッコいいなと思われるものを作ること。そうやって100万枚をキープすること。

    マニアックな新しいことをやりつつポップなバランスを取っていくというのかな。(中略)それがやれてるのは日本じゃ俺くらいしかいないんじゃないかと

    思いますよ 》と語っていた(※6)。

    1999年に発売のシングル「ダイヤモンド・ダスト」

    1999年に発売のシングル「ダイヤモンド・ダスト」

     

     実際、彼は常に新しいことに挑戦しながらも、「SQUALL」(1996年)や「ダイヤモンド・ダスト」(1999年)といったシングルをヒットさせるなど、セールス的にもきちんと実績を出してきた。この間、1997年にはロサンゼルスに拠点を移している。

    インターネットを介してのファンサービスにも、同様の姿勢がうかがえる。

    2006年には期間限定で自宅スタジオからポッドキャスト配信を開始して注目された。しかし結局、ファンクラブのコミュニケーションツールのような形になってしまったあげく、「いかに自分が大変な人生を送っているか」を氷室にわかってほしいと

    いう人ばかりが集まってくるので、この企画は中断せざるをえなかったという。

    こうした体験を踏まえ、彼はネットとの距離感を考えなければならないと、

    2013年の時点で次のように持論を展開した。

    1996年発売のシングル「SQUALL」

    1996年発売のシングル「SQUALL」

     

    《 俺らの仕事って宿命的に大勢を相手にしている職業なわけだよね。そこで相手が

    どんな得体の人なのかもわからず、いい加減にコミュニケーションをとってしまう

    ことの危険性に目を向けないといけないと思うんです。たぶんみんなもっと真剣に

    考えなくちゃいけない時代が近い将来くるんじゃないかと思います 》(※1)

     

     ファンと感動を共有したいと思いながらも、自分が流されないためには

    必要以上のサービスはせず、いい意味での勝手さを貫く。

    そうしたバランス感覚こそ、氷室がカリスマと目されるゆえんなのかもしれない。

     

    2014年の「ONE LIFE」が30枚目のシングルとなった

    2014年の「ONE LIFE」が30枚目のシングルとなった

    最後の東京ドーム公演での「宣言」の行方は?

     冒頭に記したとおり、氷室は2014年の全国ツアーをもってライブ活動の無期限休止を発表した。耳の不調がその理由であった。しかし、このときのツアーの最終公演(横浜スタジアム)は氷室にとって、リハーサルでの骨折に加え、落雷によるライブ中断とアクシデントが重なり、満足いく内容ではなかった。そこで終演時には

    「このリベンジは必ずどこかで」と観客に約束してステージをあとにする。

    この約束は、翌々年、ファイナルライブとなった4大ドームツアーという形で

    果たされた。彼を不調を押してでも最後の最後にライブへと駆り立てたのは、

    かつてのやりなおしライブのときと同じく、忸怩たる思いではなかったか。

     

     有言実行の氷室のことだから、最後の東京ドーム公演での「時間をかけてアルバムをつくろうと思います」との宣言も、きっといずれ実現させるに違いない。そのとき、彼はどんな新しい音を聴かせてくれるのだろうか。

    ※1 『氷室京介ぴあ』(ぴあ、2013年)
    ※2 「ORICON NEWS」2016年5月24日配信
    ※3 『ミュージック・マガジン』2013年3月号
    ※4 『VIEWS』1996年11月号
    ※5 『SWITCH』2007年1月号
    ※6 『スコラ』1998年1月8日号

     

     

    “全曲BOOWY”氷室京介の復興支援チャリティライブ開催、   11万人が黙祷   

    「B.BLUE」「MARIONETTE」「ONLY YOU」などを歌い、BOOWY時代を彷彿させる熱唱で観客を魅了した氷室京介

     

      全曲BOOWYの楽曲で構成されるという、氷室京介の東日本大震災復興支援
    チャリティライブが東京ドームで開催された。
    1日5万5000人、2日間で約11万人が酔いしれた。

     氷室自身、東京ドームでの公演は7年ぶりで、BOOWYの解散ライブを含め7度目。全曲がBOOWYの楽曲で構成されるライブは今回が初めてとなった。開演直前、場内アナウンスにより、5万5千人の観客が黙祷を捧げ、その後、ライブがスタートした。

     氷室がステージに登場し「カモン! 東京ドーム! 今夜はおまえらが主役だぜ!
     騒ごうぜ!」と呼びかけ、1目「DREAMIN'」の演奏が始まると、会場内は既に
    最高潮。終始その熱気のまま、本編22曲、アンコール3曲、計25曲を演奏した。「B.BLUE」「MARIONETTE」「ONLY YOU」等の代表曲はもちろん、BOOWY解散以降、歌うことがなかった「BAD FEELING」や、BOOWY活動当時にも数回しか
    演奏されることのなかった「"16"」等のレアな楽曲も約23年ぶりに披露した。

     最後は、震災を受けて書き下ろした新曲「IF YOU WANT」が、被災地で復興に
    向けて活動している人々の映像と共に会場内に流れ、その楽曲に込めたメッセージを伝える形で終了した。この日会場にて販売されたグッズ等の利益を含め、本公演に
    おける収益金の全てが、東日本大震災の復興支援として被災地における救済活動、
    復興支援活動を行っている団体へ寄付される。 《 関口賢 》

     

    氷室京介、東京ドームでの震災チャリティー公演で

    全編BOOWY曲を披露

     

     

     氷室京介が6月11日(土)に東京ドームで、東北地方太平洋沖地震の復興支援を

    目的とするチャリティー・ライヴを行うことがあきらかとなった。

    当初は、同日同会場にて自身の50歳のアニヴァーサリー公演を行う予定だった氷室。だが、告知日の直前に地震が起こったことを受けて発表を見送り、急遽公演の内容を変更してチャリティー・コンサートを行うことに決めたという。

    可能な限り節電に配慮し、収益金のすべてが被災地復興のための義援金として寄付

    されるこの日のライヴは、特別に彼がヴォーカリストを務めていた伝説のバンド、BOOWYの楽曲のみで構成される予定。その解散ライヴ〈 LAST GIGS 〉が行われた

    バンドゆかりの会場で、ファンにエールと元気を送るべく、ソロとしては初めての

    全曲BOOWYナンバーによるパフォーマンスが披露されることになる。

     

    彼は今回の発表に合わせ、以下のコメントを寄せている。

    「互いの気持ちと力を合わせて支え合う運命の時、微力ではあるけれど俺なりに、

    過酷な状況下でいまも闘っている皆さんを応援したいと思います。

    We are down but never give up!」。

     

    〈 KYOSUKE HIMURO GIG at TOKYO DOME 

    "We Are Down But Never Give Up!!" 〉
    日時/会場:6月11日(土) 東京ドーム
     

     

     
     

    東日本大震災チャリティライブ

    KYOSUKE HIMURO GIG at TOKYO DOME 

    "We Are Down But Never Give Up!!"

     

    東京ドーム 

    2011年6月11日(土)、12日(日)

     

     

    本公演における収益金は東日本大震災の復興支援として特定非営利活動法人ジャパンハートを
    はじめとした被災地における救済活動、復興支援活動を行っている団体へ寄附をさせていただきます。
    また、節電に配慮し、最小限の電力消費で展開できる簡素化した必要最小限のステージセットに
    致します。その中で最大限のパフォーマンスを用いて、皆様に安心して楽しんで頂ける
    ライブになる様、心がけます。
     
    セットリスト
    1.DREAMIN’
    2.RUNAWAY TRAIN
    3.BLUE VACATION
    4.ROUGE OF GRAY
    5.TO THE HIGHWAY
    6.BABY ACTION
    7.JUSTY
    8.WELCOME TO THE TWILIGHT
    9.BAD FEELING
    10.“16”
    11.LONGER THAN FOREVER
    12.MEMORY
    13.B・E・L・I・E・V・E
    14.季節が君だけを変える
    15.B.BLUE
    16.MARIONETTE
    17.PLASTIC BOMB
    18.DOWN TOWN SHUFFLE
    19.BEAT SWEET
    20.RENDEZ-VOUS
    21.ONLY YOU
    22.IMAGE DOWN

    Encore
    01.ON MY BEAT
    02.HONKY TONKY CRAZY
    03.NO.NEW YORK
     
     
    開演の10分前に東日本大震災の犠牲者を追悼する黙祷がありました。
    黙祷が終わると会場から熱烈なヒムロコール。なかなかライヴが始まらず開演したのは
    予定時刻より15分遅れの18:15
    ヒムロックの第一声は「Hello!東京ドーム!! 今夜はオマエらが主役だぜ!騒ごうぜ!!」
    いきなりDREAMIN' で熱い一夜が始まりました。

    衣装は、黒のタンクトップに黒のシースルーのフード付きパーカー、革パン、ウォレットチェーンで、
    なぜか髪がボサボサ。なんで?(笑) これは汗で髪が濡れてくると落ち着いてきてかっこよくなりました。

    いつもながら出だしは緊張しているのか硬かった。がんばれー!!
    途中(PLASTIC BOMBのあとかな?)、「All right,Tokyo dome baby! 楽しんでくれてるか?」
    言っただけで、本編は曲紹介さえもせずに畳みかけるようにノンストップで歌いつないでいました。
    こういうMCなしのスタイルが私は好きです! シンプルゆえにヒムロックのかっこよさが際立ちます。

    曲は私の好きな曲ばかりでうれしかったです。
    “16” では驚きました。ワンフレーズ歌い終わった後のヒムロックの表情!
    そして一気に歌いあげたあとの目付きが23年前のヒムロックでした。ドキドキしました^^; 
    もうこのあとはただただヒムロックがかっこよくて、楽しくて楽しくて・・・。あっという間に本編終了。
    終演後も私の耳にはずっと “16” が鳴りやまなかった。本当にかっこよかった!

    アンコール待ちの時に、自然発生的にスタンド席でウエーブが起こるとアリーナ席から拍手。
    拍手を受けてまたウエーブ、アリーナからはまたまた拍手。
    おもしろくなっちゃったのか、ヒムロコールそっちのけでウエーブの繰り返し(笑)
    まるで練習でもしたようなきれいなウエーブでした。そして私がいたアリーナ席からは惜しみない拍手。
    ヒムロックの名の下に集まったファンが1つにまとまった瞬間でした。
    そしてアンコール。
    歌の前にメンバー紹介を含むMCがありました。

    「Thank you! 今回は東日本大震災のチャリティーってことで、もともと予定していた
    東京ドームのこの日を使って、懐かしいBOOWYの曲をみんなに聴いてもらっています。
    ツアーが終わって休みに入って3ヶ月、久しぶりのライヴで緊張もしているし、
    いきなりこんなデケー所なんでかなり緊張しています。
    それに、BOOWYは元俺が所属していたバンドなんで、自分で自分のコピーをするのは
    なんか不思議な気分だし、それなりにプレッシャーも感じています。
    オリジナルメンバーに対する敬意もあるだろうし、複雑な気持ちの中、
    こうして俺のわがままを聞いて俺をサポートしてくれている最高のメンバーを紹介します。」


    「ここんところ、コイツと言えばGLAY、帰ってきた裏切り者、on drums 永井利光!」
    「えーっと、次どっちだ?こっちからいくかな。段取り決めてこなかったんだよ(笑)」
    とここでヒムロックが誰を紹介していいのか迷う。
    「もう俺とは何年になるのかな?かなり長い付き合いだよな?」とDAITAに話しかけるヒムロック。
    「すっげー頼りにしているギタリストです。on guitar DAITA !!」

    「リハーサルではさ、こういう曲やる時、めちゃくちゃ気持ちいいよね~なんて言ってたんだけど、
    今日の俺はブチ切れててさ。いつもいつも俺のこのわがままなビートを、ヨタっても何しても
    しっかりと支えてくれようと努力してくれてます。あっ、できてます(笑)。on base 西山文晃!」

    とここでなぜか西山さんが後ろに下がりかけてすっ転ぶ(笑) それにヒムロックがすかさず楽しそうに
    「あ~っ、あれだな?(笑)BEAT CHILDの時のTO THE HIGHTWAYのコピーだな(笑)。」

    「キーボード、それからサックス? 何だっけあれ? サックスだよね? 
    キーボードもうまいけど、吹く方もめちゃくちゃうまいプレイヤーです。
    俺の中では、ルパンに出てくる石川五ェ門なんだよな(笑)。いつもすげーかっこいいプレイしておいて、
    「またつまらぬものを斬ってしまった」っていう感じの (笑)。on keyboard 大島俊一!」

    「俺とはバンドの頃からの古いつきあいで、いつもいつも世話になりっぱなしです。on guitar 本田毅!」

    「今日はBOOWYの曲をやるってことでさ、昔はライヴでゴチャゴチャMCなんか
    したことなかったんで、できるだけしゃべらないでいこうってことでさ。
    これで自分のパフォーマンスがかっこよきゃ、まあ良かったんだけどさ。」

    かっこいいよ!めちゃめちゃかっこいいよ!

    「もう一曲、みんなにどうしても聴いてほしい曲、この曲でひとつになりたいなっと。
    3月11日に宮城沖で地震があって、津波が起こって、大変な思いをした人がたくさんいるけど、
    今日からは、この波をポジティブなエネルギーに変えて、この波が大きく広がってくれるといいなっと思います。
    また7月になると、ここで友達がやるみたいなんで、その時にも盛り上がってほしいなと。」

    友達って、布袋君や吉川のこと?

    「最後にもう1曲、当時一番大事にしていた曲を贈りたいなっと思います。NO! NO! NO! NEW YORK!!」

    歌い終わるとヒムロックはあっさりとステージを去って行きました。
    そして、IF YOU WANTが流される中、モニターに東日本大震災の映像が映し出され、
    ファンが立ったまま静かに見入っていました。
    これから先、何年かかるかもわからない長い復興への道を、最後の一人が立ち上がるまで私たちは見守って行こう!


    今回は不正入場を阻止するために、当日会場で本人確認後にチケットが発券されました。
    事前に送られてきたチケット引換券には席が明記されていませんでした。
    開演約2時間ほど前に行きましたが発券はスムーズでした。
    物販はすでにほとんどが売り切れの状態で何も買わずに帰ってきました。

    節電と言うことでステージの照明はシンプルでした。
    左右につけられたモニターは通常よりも小さめでしたが観やすかったです。
    席は44列目とステージからかなり遠くて、ヒムロックの姿を確認するのは困難でしたが、
    それでも真ん中あたりの席。私の後ろにはまだ40列ほど・・・。
    でも、モニターに映し出されるヒムロックで十分楽しめました。
     

     

     

    布袋寅泰「氷室京介と出会えたことはやっぱり大きい」 BOOWYは“今見てもカッコいい” 載日 

     

    ギタリストの布袋寅泰が、19日に放送されたフジテレビ系バラエティ特番

    『まつもtoなかい ~マッチングな夜~』(21:00~)に出演し、伝説のバンド・BOOWYを振り返った。※「BOOWY」の2つ目のOはストローク符号付き

     

    • 布袋寅泰

    松本人志に「今お家にBOOWYのアルバムとか、何かはあるんですか?」と

    聞かれると、布袋は「ありますよ、もちろん。聴かないですけどね」と回答。

    ただ、「YouTubeとかでいろいろ見てると、若い頃の自分が出てくるじゃないですか。ちょっと甘酸っぱいような。でも、今見ても聴いてもカッコいいですけどね」と感じるという。

    その言葉に、中居正広は「自分の過去のVTRを見て、『今見てもカッコいいな』って言えるのは本当に素敵だなと思う」と感心。

    布袋は「(デビュー)40周年を迎えて、60歳になって、あの時あっての僕ですもん。

    若い頃は気づかなかったあの時の大切さとか、パートナー・氷室京介と出会えた

    ことはやっぱり大きいし、ドラム・ベースのまこっちゃん(高橋まこと)・まっちゃん(松井常松)、あの4人でやれたっていうのがやっぱり良かったんですよね」と、

    しみじみ語った。

    松本に「氷室さんと会うことはないんですか?」と聞かれた布袋は

    「長くお会いしてないですね」と言うが、トークのマッチング相手・新庄剛志に

    「布袋さん、氷室さんの引退のライブのときに行かれてましたもんね」と

    言われると、「はい、行きました行きました」と微笑んで答えた。

     

     

    【結成40周年記念インタビュー】伝説のバンドBOØWYのドラムス・高橋まこと「メンバーには『俺が叩けなくなる前に再結成してくれよ』って伝えてあるんだけどな」

    2021年07月10日  取材・文/尾谷幸憲 撮影/グレート・ザ・歌舞伎町

     

     

    伝説のバンドBOØWYのドラムス・高橋まことが結成秘話、極貧生活からの

    社会現象化、そして解散後の交流まですべてを語る!

    氷室京介、布袋寅泰、松井恒松、高橋まこと「BOØWY」が、今年で結成40周年を

    迎える。そこで高橋まことさんに、当時の知られざるエピソード、解散の真相BOØWYのすべてを語り尽くしてもらった。

    "夢を見ているヤツら" のための再結成はあるのか?

    ■「声がデカいから採用されたんだよ

    BOØWY(ボウイ)結成40周年おめでとうございます!

    高橋まこと(以下、高橋)ずいぶんたっちまったなぁ。40年たっても忘れ去られて

    いないバンドにいたっていうのは光栄なことだよね。今日こうやってインタビューを受けさせてもらってるのも、メンバーたちのおかげよ。感謝の気持ちしかない。

    ただなあ、BOØWY当時のことをあんまり覚えてねえんだよ。

    俺だけが覚えてんの。語り部だよ、俺は(笑)。

     

    ――バンドは1981年、氷室京介(ボーカル)、布袋寅泰(ギター)、

    松井恒松(現・常松、ベース)らによって結成されました。

    まことさんは後から加入されましたよね。

    高橋 実は、加入前に客として接触してんのよ。知人のミュージシャンに誘われて

    新宿ロフト(*)に行ってみたら、ヤツらがステージに上がっていた。

    最初の印象は......おっかなかったねぇ。

    当時はバンド名が漢字の「暴威」で、氷室は髪の毛が真っ青で目つきが鋭く、

    「座ってんじゃねえ!」と客を煽(あお)っている。布袋は背が190㎝もあるから、妙な威圧感がある。ただ演奏が始まると、荒々しいけど勢いがあってカッコよかった。

    *当時東京・西新宿にあったライブハウス。1999年、歌舞伎町に移転

     

    ――加入の経緯は?

    高橋 話を聞いたら、新しいドラマーを探しているらしかった。

    それで「何かあったらよろしく」と、電話番号を交換してその日は終わって。

    それから数日たったある日、家でボーッとしてたら氷室から電話が来て、

    「スタジオに遊びに来ませんか?」と。実質的なオーディションだよな。

    俺はすぐさまスタジオに向かったよ。メンバーと合流して、試しに『IMAGE DOWN』1stアルバム『 MORAL 』収録曲 )を演奏してみることになって。

    俺はナメられちゃいけねぇと思って、ばかデカい声で

    「ワン、ツー、スリー、フォー!!」ってカウントを取った。

    後から松井に「声がデカすぎ」って笑われたよ。どうやら俺の前にも何人かの

    ドラマーをオーディションしていたけど、どいつもこいつも覇気がなかったらしい。俺は声がデカいから採用されたんだよ(笑)。

     

     

    ――当時、まことさんはすでにプロでのキャリアがあり、レコーディングの経験も

    ありました。7、8歳も年下だった氷室さんや布袋さんたちに惹(ひ)かれた理由は?

    高橋 実はその頃、STRAIGHTってバンドに所属していて。後にREBECCAや

    RED WARRIORS(ダイアモンド✡ユカイが在籍)を結成するギタリスト、

    木暮 "shake" 武彦のバンドだよ。

    でも、STRAIGHTはアマチュア気分の抜けないバンドでね。それと比べると、

    「暴威」からは音楽業界でのし上がってやる、というような気迫を感じた。

    そこにピーンときちゃったんだよ。

    当時は今みたいにバンドをかけ持ちする時代じゃなかったから、STRAIGHTの

    メンバーたちに脱退を伝えた。そのときの俺には「暴威」しか見えなかった。

    ■極貧生活から武道館へ

     

    ――当時の伝説のひとつに、「ギャラが野菜だった事件」がありますが。

    高橋 それ本当だよ。新宿ロフトの担当から「佐賀で3万人集まるイベントがある」って言われて行ってみたら、ただの村祭りでさ(笑)。でも、ちゃんと1時間以上

    ライブはやったよ。で、帰る前にギャラをもらいに行ったら、なぜかレタスだの

    ナスだのキュウリだのを渡されて。

    野菜はありがたいけど、これじゃ東京に帰れないと言ったら、今度は焼酎の

    「さつま白波」が出てきた。どうもイベントの主催がヤリ手で、これで済ませられ

    ないかと思ったらしい(笑)。最終的にはちゃんとギャラをもらったよ。

    野菜は東京に着いたときにはもう腐ってたね。

     

    ――その後、バンドは徐々にブレイクしていきますが、

    きっかけはなんだったんでしょうか?

    高橋 1984年くらいかな? 新宿ロフトのライブに300人以上集まるようになって。毎回酸欠状態でたばこの火もつかないんだよ。その後、もう少し規模の大きい

    渋谷ライブインって箱でやり始めて、800人くらい入るようになった。

    そのタイミングで新しい事務所からオファーが来てさ。

    そのとき氷室が言ったセリフが印象的でね。「もう一度、大人にダマされてみるか」って。アイツは一度、東京の音楽事務所に入って、自分が思うような活動が

    できなかったことがある。だからそんなことを言ったんだろう。

     

    新宿ロフトに今も残る、初期BOØWYのステッカーを指す高橋氏。「この時計、

    当時はもっと高い所にあったから、布袋のヤツが貼ったんじゃねぇかな?」

     

    ――そして1986年には4thアルバム『 JUST A HERO 』をリリース、

    初の日本武道館公演を行なうことになります。

    高橋 単純にうれしかったよ。自分たちのワンマンだったし。このとき、氷室が

    ライブ中に「ライブハウス武道館へようこそ!」って言ってさ。聞いたときは

    「おまえ、何言ってんの?」って思ったけど(笑)。「ライブハウス出身の俺らが、

    ついにここまで来たぞ」っていうのをヤツなりの言葉で言いたかったんだろうね。

     

    「髪型からファッションまですべて布袋がコーディネートしてたよ」

    ■最後のライブは新聞で知った

    ――布袋さんはBOØWYの初期から、さまざまなミュージシャンとコラボしてま

    した。この時期には山下久美子さん、鈴木雅之さん、吉川晃司さんらの楽曲に参加。サウンドプロデューサーとして頭角を現しつつありましたよね。

    高橋 アニメ『風の谷のナウシカ』の王蟲(オーム)の鳴き声も、あいつがギターで作ったくらいだしな(笑)。当時の布袋はバンドの枠を超えるほど、創作意欲が

    あふれ出していたんだと思う。

    一方、氷室はバンドのリーダーとしてバンドを率いる重責を担っていた。

    BOØWYは自分たちもコントロールできないほど、大きなバンドになって

    いたんだよ。メンバーそれぞれのバンドに対する距離感が異なってきていた。

    バンドってのは、全員の気持ちがひとつにならないとやっていられない。

     

    ――翌年には6thシングル『MARIONETTE』、最後のアルバム『PSYCHOPA

    TH』がリリースされ、共にオリコン初登場1位を記録します。

    高橋 でもレコーディング中にメンバーと「これで最後だ」なんて話は一切

    していない。誰もそれを言い出さないし、俺も確認しなかった。ただ、音を聴けば

    わかるんだよな。このアルバムはデジタルの打ち込みも使っていない、4人にしか

    作れない生身のバンドサウンドになっている。最後だからこその素の姿かもな。

     

    ――「LAST GIGS」は予約の電話で電話回線がパンク、計10万人を動員

    するなどの現象を生みました。メンバーとしてはどんなステージでした?

    高橋 初日の4月4日、氷室と布袋はモニターの音があまり聞こえていなかった。で、ライブが終わった後、メンバー&スタッフ全員で緊急ミーティング。「どうやったら音が聞こえるようになるか?」「モニターを上げろ!」とかずっとテストして。みんな必死よ。それを見ながら思ったね。「明日、終わるバンドなのに、みんな

    まじめだな」って(笑)。俺らメンバーもスタッフも音楽に関しては譲れなかった。おかげで4月5日は無事、最高のステージができたよ。

     

    ■再結成に関しては全然ウエルカム

    ――こうしてバンドの幕は下りたわけですが、その後、何度か再結成の噂が

    流れました。

    高橋 確かベストアルバム『THIS BOØWY』(1998年)が200万枚くらい

    売れて、映像版『LAST GIGS』、解散宣言ライブの映像『1224』(共に2001年)が出たあたりだったんじゃないか?

    俺も知り合いから再結成の噂があるって話が伝わってきて。俺は全然ウエルカム

    なんだけど、結局、何もなかった。たぶんマネジメントが動いてたんじゃないかな? 細かいことはよく知らねえけど。

     

    ――2011年の東日本大震災のときは? 氷室さんが同年6月11日、12日の

    東京ドーム公演を、急きょ被災地支援のため全編BOØWYの楽曲のみの

    チャリティライブを実施しています。

    高橋 当初は氷室のアニバーサリーライブの予定だったんだよ。

    それを突然、全曲BOØWYに切り替えるっていうのは相当な苦労だったと思う。

    さすがだなと思ったよ。

    もしかしたら俺のところに「叩け!」って連絡あるかもしれないと思ってたけど、

    それはなかった。まぁ、その日俺は別のライブがあったしね。

    俺の地元は福島だから氷室を素直に応援したいと思った。

     

     

    この時、みんなが混乱をしていて、自分達は何をしたらいいのか?と

    個々で考えていた時期で、氷室さんもこの震災のことを考え、チャリティーLIVEを

    しようと考えましたが、自分に余裕がなくBOØWY再結成は、その時、

    考えられなかったとライティング担当だった武中さんから聞きました 物申す パンチ!パンチ!

     

     

    ――このとき布袋さん、松井さんは氷室さんと一緒にやりたがっていたという話が

    伝わっていますが。

    高橋 それぞれの思いはあって当然だよ。でも解散の話をしたときと同じで、

    メンバー全員が同じ気持ちで同じ方向を向いていなきゃBOØWYはできない。

    そもそも震災の復興が目的ならば、それぞれの活動の範囲のなかでできるし。実際、俺は今も復興支援のライブを続けているし、布袋にも出てもらったことがあるよ。

     

    ――その後も、まことさんを軸にメンバーの交流は続いていますよね。

    高橋 そうだね。氷室とは、2014年のツアー中に会った。ちょうどヤツがライブ

    活動から卒業すると発表したツアーの途中で表敬訪問したんだ。ライブ終了後、

    楽屋に行ったら「まこっちゃん、久しぶり!」って。久々に話して盛り上がったな。

    布袋とは、2019年の彼のアルバム『GUITARYTHM Ⅵ』に松井と一緒に参加した。3人でスタジオに入るのは『LAST GIGS』以来31年ぶりだった。

    アルバムのツアーにも松井と一緒に出たよ。

     

    ――そういうつながりを考えると、全員をまとめてBOØWYを再始動させられるのは、まことさん以外いないのでは?と思ってしまいますが......。

    高橋 ばか言ってんじゃねえよ(笑)。俺がどうのこうの言う話じゃないって。

    個人的な話をすれば、俺は再結成に関しては「やるなら、いつでもやるぜ」って

    いうスタンスだけどな。ただ、俺は今年で67歳。そろそろ隠居の年代だよ。

    BOØWY時代、「売れたら辞めよう」って話をしてたとき、一応メンバーにはこう伝えてあるんだけどな。「俺がドラム叩けなくなる前に再結成してくれよ」って。

    アイツら、覚えてねえだろうなぁ(笑)。

     

    またいつか、氷室さんの体調が良くなり、みんなのタイミングが合う時に

    BOØWY再結成をして、ファンと共にLIVEをして盛り上げて欲しいです 笑ううさぎ おばあちゃん 虹

     

    ●高橋まこと( Makoto TAKAHASHI )
    1954年生まれ、福島県福島市出身。1970年代からロックシーンで活躍。

    BOØWYのドラムスとして一世を風靡。現在は福島復興支援チャリティライブの

    ほか、ライブハウス支援のためのアルバム「 Let’s Go MAKOTOO'S」を

    結成。「矢口早苗 DARK SIDE OF THE MOON」などのバンドにも参加。

    67歳にして現役

    ■BOØWY
    氷室京介(Vo)、高橋まこと(Ds)、松井恒松(現・常松、B)、布袋寅泰(G)。ロックバンドのマーケットが開拓されていなかった日本にバンドブームを

    打ち立てたBOØWY。シングル、アルバム等の出荷枚数は累計1500万枚を超えて

    いる( 2019年、ユニバーサル・ミュージック・ジャパン調べ )

     

     

    純ちゃんに嫌な事をしてこないで!咳や嗚咽をさせないで、口臭を持って来ない、

    体を動かしにくくしない、人の言葉を言わさない、人の感情を持って来ない、

    体などを痛くしない。トイレ関係も。しつこく言ってこないで。脅さないで! プンプン 爆弾

     

    【ボートゲームの禁じ手】を使わないで!

    いくつかのゲームには、ルールで定められた禁じ手が存在する。

    禁じ手を打った(指した)場合、即座に負けとなるのが一般的である。

    スポーツやゲームのように明確な規制で禁じられたものではなく、

    「使うべきではない」とされる手法についても「禁じ手」と呼ばれることがある。

     

    ※このルールを違反した時点で、ゲームオーバー及びゲームアウト!プンプン

    その技術を使わないで!

     

    人に腹痛や胃を痛くしない、気分を悪くしない!身体を熱くしないで パンチ!パンチ!

    TV等の撮影やスタッフに付いて行って、ロケや取材等の邪魔をしないで ムキー パンチ!

    束縛、嫉妬や執着、妬み、依存、あの三女が遠隔でコントロールするの止めて パンチ!パンチ!パンチ! ( あの三女、お互いを似ているように近づけようとしないで )

    人に威圧的な言動、迷惑な行動は止めて。心に入って来ない、心を読まない、

    人に体調不良やネガテなィブな感情を持って来ない、無気感を持て来ないで、

    人の後ろに憑かない憑依しない、余計なことを言ってこないで。トイレ関係 プンプン パンチ!パンチ! 

    思考低下させない、停止にしない。人の胸に衝撃を与えないで!首を痛くしないで!

    人をバッサリ言葉で切らないで。深夜に連絡してこないで 物申す パンチ!パンチ!

    仕事の邪魔や記憶障害にしない。目の錯覚、老眼近視、頭をボーっとさせないで、

    人に言われたことを他人に言わさない。心の中に持って来ない、響かせないムキー 爆弾 パンチ!

    特にブログを書いている時、いちいち注文を言ってこないで、自分で考えて書いて。

    負けず嫌いも程々に、優柔不断、人間不信を持ってこないで、キツイ気を感じる。

    口臭も。咳込まさない。毒舌禁止、散財させないで、調子づかないで プンプン パンチ!パンチ!

    乗り物関係を運転時は、邪魔をしてこない。中枢神経を触って来ないで。

    人の感情やパワーを抑えない、持って来ない。口のろれつが回らないようにしないで

    唇を痺れさせない!卑猥な言葉を言ってこない、人をコントロールしないで パンチ!

    あの親子、水晶を使って人を脅さない。マウントを取って来ない、過保護にしない!個人情報保護法、プライバシー侵害しない!その力、仕事以外に使わないで! ムキー パンチ!人の為に使って、決して悪いように使わないで。日本には言論の自由がある( 自分達に嫌な事を言われていると思って咳込まさない、自意識過剰、被害者意識が酷い ) 

    店員さんや美容院の人に嫌な事をしないで、言わさないで ムキー パンチ!パンチ!パンチ!

    全責任は、お母さん達に取ってもらう。もちろん本人にも取ってもらう!

    人のPCやスマホにハッカーになって侵入してこないで、エラーが出たので止めて パンチ!むかっ

    長女のパワーを持って来ないで!使わないで!

    上記に書いていることは、みんなのことを指す 物申す パンチ!パンチ!パンチ!

     

    3つの約束やルール、個人的に約束した事、日本の常識は必ず守って。

    アミューズ同様、みんなに対しても約束など厳守して パンチ!パンチ!パンチ!

    ( 私の言うことを聞く・命関係は打ち止め・引退関係・契約書など、反故にしない )

    契約書を読んで!約束を破るとペナルティーが、母との勝負を忘れないでムキー爆弾パンチ!パンチ!パンチ!

     

     

    いつもありがとうございます。

     

    最後までお読みいただきありがとうございました 愛飛び出すハート