NIKKEI STYLE 

 

 

1942年、福岡県出身。高校卒業後に上京。64年から3年10カ月、植木等に付き人兼

運転手として師事。独り立ちしてからは伊東四朗との掛け合いなどで

次々とヒットを飛ばす。2011年から日本喜劇人協会会長。

9月に明治座で「めんたいぴりり~未来永劫編」に出演。五十嵐鉱太郎撮影

 

喜劇役者、小松政夫さん(77)の人生は21歳のとき、ある求人広告を偶然目にした

ことで急転回した。当時人気絶頂だった植木等さんの付き人兼運転手となり、

芸能界の扉を開く。必死だった下積み生活、親父(おやじ)さんに食べさせて

もらった丼の味が忘れられないという。

アルバイト先の菓子店でつまみ食い

教師だった父親は戦後、福岡で洋菓子店を開き、外国人も買いに来るほど繁盛して

いた。物資の乏しい時代に、アンコ入りの紅白まんじゅうをよく作った。

朝食はいつもハムエッグとトースト。「おぼっちゃまでした」

しかし中1のとき父親が亡くなると生活は暗転。6畳2間の狭い家に、母子7人が暮らした。母親は「マサ坊、高校にはやれんから中学を出たら働いてくれんね」と懇願。「毎日がどん底の貧乏」だったという。

自らの意志で定時制高校に進学。かわりに生活費を稼ぐため老舗和菓子店

「石村萬盛堂」でアルバイトを始めた。「おいしいんだ!」。

つまみ食い厳禁の貼り紙がしてある前で、わざと店の商品である菓子をつまんだ。

幼い頃から人を笑わすことが大好きだった。店の女将は他の者には厳しいのに

「駄目っしょ」というだけ。「なぜか、かわいがってもらった」

高校卒業後、上京して役者になろうと考え、女将に「出世払いでお金を前借り

できませんか」と頼んだ。女将は「辞めるときは前借りっていわないの」と言って、

100円札を100枚手渡した。1万円は当時の大卒初任給とほぼ同額の大金だ。

ポークカツからトップ営業マンへ

どん底の貧乏からお茶の間の人気者へ――。サクセスストーリーの節目には、

恩人たちとの出会いがあった。1人目がアルバイト先の女将とすれば、

2人目は自動車ディーラーの元上司だ。

19歳で上京して劇団に合格したものの入団金が払えず、職を転々とした。事務機を

売り込もうと自動車ディーラーに日参していたとき、一人の男性が近寄ってきた。

「空手チョップだよ~ん」。突然、力道山の物まねで胸をたたく。

「何するんですか」と食ってかかると、黙って近所のレストランに連れ出された。

「Youはこれを食え」。初めてのポークカツのおいしかったこと。説得に押され、

自動車ディーラーへの転職を決心した。営業部長だった男性とは妙に馬があった。「この人のためにがんばろう」。2年半、休みを一度も取らず毎日13時間働いた。

いつしか毎月10万円を稼ぐ、トップ営業マンになっていた。

ある日、芸能週刊誌の3行広告が目に留まった。「植木等の付き人兼運転手募集。

やる気があるならめんどうみるヨ~~」。月給は7000円。大幅な減収となる転身に

同僚たちは驚いたが、営業部長は「お前に合っているかもな。

後の仕事は俺が全部片付けてやる」と、文句も言わず送り出した。

昼食抜きで師匠の車磨く

人生最大の恩人、植木等さんとの師弟関係は有名だ。「親父さん」と慕って、

一心に尽くした。過労で倒れた植木さんの快気祝いのゴルフ大会。

早朝、運転手として会場まで送り届けると、「プロの洗車を見せてやる」と

パンツ一丁になって車を磨き上げた。夕方になって、プレーを終えた人たちから

感嘆の声があがる。「おっ、新車かい?」。苦労は報われたが、洗車に熱中する

あまり食事を取ることをすっかり忘れていた。

ゴルフ大会からの帰り道。後部座席に体を沈めた植木さんが尋ねた。「おい、昼飯

食べたか」「はい」「ウソつけ」。食事を抜いていることはお見通しだった。

「俺もあまり食べてないから、そば屋にでも寄ろう」。師匠と食事にいくときは、

安いかけそばかラーメンを頼むのが常だった。このときもかけそばを選んだが、

師匠の注文を聞いて驚いた。カツ丼と天丼。「よかった、親父さんすっかり回復したんだ」ところが丼が運ばれてくると、師匠は「いけねえ、油ものは医者に止められていたんだ。お前、これも食べなさい」と勧める。最初から食べるつもりがないのに、腹をすかせた弟子にたっぷり食べさせんがための芝居だった。

師匠の気遣いに触れ、泣きながら丼をかき込んだ。

「この男は、今は私の運転手ですが、いずれ大スターになります」。

植木さんは、人に会うたび売り込んでくれた。

その言葉通り、人気番組の出演をきっかけにスターへの階段を駆け上った。

「いつも最高の人たちに巡り合った。だから今の自分がいるんです」

まずシジミのニンニクしょうゆ漬け(左)を注文し、フカヒレの姿煮で締める(東京都新宿区の「青葉」)

旧コマ劇場裏の台湾料理店

小松さんが30年以上通うのが、新宿・歌舞伎町にある台湾料理の名店「青葉」

(電話03・3200・5585)。今はなき新宿コマ劇場の楽屋口のちょうど向かい。

入り口脇の奥まったテーブル席が小松さんの指定席だ。まず店の名物の「シジミの

ニンニクしょう油漬け」(1000円)を注文し、最後に「フカヒレの姿煮」

(6300円)で締める。お酒が大好きな小松さん。「シジミは肝臓にいいし

プクッとした独特の食感が最高」。台湾産は黄金色で、見た目も美しい。

「黒色の日本産では客が満足してくれない」(李克順・社長兼総料理長)。

肉厚のフカヒレはコラーゲンたっぷりで、舌の肥えた多くの食通をうならせてきた。

レトロな雰囲気の店内には音楽が静かに流れ、古き良き「昭和」を感じさせる。

最後の晩餐

子どもの頃、父親の作るすき焼きが大好物でした。今でも肉は好きで、サーロインかロースの鉄板ステーキが食べたいですね。数年前、自宅近くにいい店を見つけ、

妻とよく行きます。店主は無愛想ですが、焼き方が実に上手。口の中でとろける

食感が最高です。(木ノ内敏久) [NIKKEIプラス1 2019年6月29日付]

 

 

小松政夫さん死去 植木等の愛ある“クビ宣告”に涙した 

師弟愛を生前明かす  週刊朝日 2020/12/11/ 17:56

 

 コメディアンで、俳優の小松政夫さんが11日、肝細胞がんで7日に亡くなっていたことがわかった。78歳だった。植木等さんの付き人として、芸能の世界に飛び込んだ小松さん。温かい笑いで、人々を楽しませてきた。その活躍の礎となったのは、

オヤジさんと慕った植木さんと小松さんの師匠と弟子を超えた、人情味あふれる

関係だった。故人をしのび、週刊朝日に掲載された生前のインタビューを再掲する。

 

 クルマのセールスマンをしていた21歳のときです。

ビアホールに置いてあった雑誌を開くと、求人広告が目に留まったんです。

「植木等の付き人兼運転手募集。やる気があるなら、面倒見るョ~~」

「これだ!」と思いましたね。絶好の茶箪笥、いやチャンス。大草原に四つ葉の

クローバーが、ほら摘んでくださいと言わんばかりにピョーンと立っているように

見えました。あの雑誌を手に取らなかったら、今ごろ何をやっていたんでしょうね。

もしほかの芸能人の付き人募集だったら、応募してないでしょうね。

 

 当時は営業所のトップセールスマンで、大卒初任給の10倍ぐらい稼いでいました。ほとんど休みなしでがむしゃらに働いて、毎週日曜日の夜、横浜のビアホールに

あった大きなカラーテレビで、「シャボン玉ホリデー」を見るのが楽しみ。

ブラウン管の中の植木等は大スターですよ。

求人広告には600人ぐらいの応募があったそうですが、面接して数日後に採用の

連絡をもらいました。仕事柄、物腰も言葉遣いも身についていたし、お金があった

から服や靴だってパリッとしてましたからね。自分は運がよかったんです。

 

――こうして小松は1964年、植木等の付き人になった。

もともと生粋の博多っ子。幼いころから人を笑わせ、喜ばせるのが好きだった。

 

 子どものころ、家に友達を呼んで、バナナのたたき売りの口上なんかを

披露していたんです。お菓子をふるまって、独演会です。

父は実業家で、僕は小さいころはかなり裕福な生活をしていました。

中学のとき、父が急死して、生活は一変しました。

高校を卒業後、俳優を目指して上京。俳優座養成所の入所試験のとき、

道に落ちている10円玉を見つけて、さあどうするかみたいなことをやったんです。

キョロキョロして、素知らぬ顔で靴を脱いで、足の指でそっとはさんで……

なんてことをやってたら、合格しちゃった。

でも、入学金が工面できなくてね。結局諦めました。

 

 それからいろんな仕事をしましたね。魚市場、花屋、はんこ屋、コピー機の

セールスマン……。クルマの販売店にコピー機を売りに行ったとき、ブルドッグ

みたいな怖い顔した営業所の責任者の部長に「お前は見込みがある。ウチに来い」って言われたんです。それでクルマのセールスマンになりました。

口八丁で、ノルマは達成。報奨金が出たら宴会です。

僕は、盛り上げ役を買って出ました。幼いころに覚えた露天商の口上など、

宴会芸なら引き出しがたくさんありますからね。

 

――サラリーマンの経験は後に、芸につながった。

 あるとき、課長に僕が叱られていたら、ブルドッグ部長が「声が大きい」と

課長を注意したんです。すると課長は「お前のせいで怒られちゃったじゃないか、

知らない、知らない」って急にオネエっぽいトーンになって。

そう、私のギャグの「知らない、知らない」は、その人がモデルなんです。

「シャボン玉」に端役で出してもらうきっかけにもなりました。

 

――植木との出会いに話を戻そう。当時の小松は22歳。

セールスマン時代は月10万円以上あった収入が、付き人になると7千円になった。

それでも、人生におけるかけがえのない日々だったと振り返る。

植木のオヤジと出会っていなかったら、松崎雅臣(本名)は小松政夫になって

いないし、小松政夫じゃないもう一つの人生っていうのは、松崎雅臣であって

小松政夫じゃないし……。あれ、なんだかよくわかんなくなってきちゃった。

 

 お金のことはぜんぜん気になりませんでした。当時のクレージーキャッツの

人気はすさまじくて、寝る時間もほとんどなかったけど、とにかく憧れの植木等さんの側に毎日いられるんですから、こんな幸せなことはありません。

セールスマンのときは販売台数というノルマに追われていたけど、オヤジさんに

一日に一回、「おお、ありがとうな」「おお、気が利くな」と喜んでもらうことが、

自分のノルマだと思っていました。とにかく、少しでも長くいっしょにいて、

オヤジさんから吸収したいって必死でしたね。

 

 ある舞台で、植木等がはいている大きなスカートの中に隠れて、

ちょこまか動き回るコントがありました。オヤジさんが高げたをはいていて、

動くたびに私の足を踏むんです。痛いの痛くないの。

だから、私の足の親指の爪は、大きく変形しているんです。

舞台の上で生爪がはがれて、そのままにしておけないから、出番が終わってから

モップを持ってふらふら出ていく。「何しに来たんだお前」「いや、きれいに

しようかなって思って」って、そこでまたひと笑い。

何十年もたってから、そのことを知ったオヤジさんは「そうだったのか」って

申し訳なさそうにしてました。でも、こっちにとっては、足は痛かったけど

笑いが取れて、ありがたい話ですよ。

 

 2017年に、NHKで私が書いた自伝的小説を原作にした「植木等とのぼせもん」っていうドラマが放送されました。そのせいもあるのかな。若い人が当時の芸能界の話に興味を持って、話を聞かせてくれって来たことがあるんです。

こっちも大喜びで、こういう毎日だったって話しました。私にとっては楽しくて、

いい思い出です。でも若い人は「そうですか。さぞ、わずらわしかったでしょうね」って。もうガッカリですよ。おいおい、何を聞いてたんだってね。

今は通じないのかなあ。寂しい話ですよ。

 

――舞台やテレビの端役をしながら、付き人を3年10カ月務めた。

植木のことは、人生の師と仰ぐ。

 

「知らない、知らない」や淀川長治さんの物まねがウケて、シャボン玉でも

いろんな役をやらせてもらって、顔が売れていたみたいです。駅で植木等の

カバンを持って立ってたら、女の子たちが「キャー!」って寄ってくる。

オヤジさんにかと思ったら、私にサインを求めるんですね。

「してやれよ」ってオヤジさんに促されて、晴れがましいような恥ずかしいような気持ちでサインしました。女の子たちがいなくなったあとで「お前も本物になったな」って言ってくれてね。こんなこと言ってくれる人はいませんよ。

 

 ある日、クルマを運転中に後部座席の植木から、「おい、松崎。お前、明日から

ウチに迎えに来なくていいから」と言われた。クビかと思ってビックリしますよね。

知らないうちにオヤジさんは、渡辺プロダクションと話し合って、

タレントとして私と契約をする段取りを取っていてくれてたんです。

ハンドルを握り締めて泣きました。しばらく動けないでいたら、オヤジさんに

「まあ、急ぐわけじゃないけど、そろそろ行こうか」って言われてね。

 

 私が一応売れっ子と言われるようになったころ、オヤジさんはあまり忙しくはなかった。どんな大スターでも、あの植木等でさえも、入れ替えの時期は来てしまう。

そんなときでも「いよー、よく来たな」って、あの調子で歓迎してくれてね。

「俺、仕事ヒマだからテレビばっかり見てるんだけど、お前が頑張ってるのを

見ると、俺ももうひと花咲かさなきゃって思うんだよな」と言ってくれました。

そのときはトイレに入って泣きましたね。

 

 オヤジさんのところに行くとき、こっちは弟子ですから、運転手付きのクルマで

玄関まで乗りつけるわけにはいかない。門からちょっと離れたところで待ってろって言って、ひとりで来たような顔で訪ねる。「飲んでくか」「いや、今日はクルマなんで」「うそつけ。運転手がいるくせに」って、お盆にコーヒーとお菓子を載せて、

自分で運転手のところに持っていくんです。「小松が世話になるな」って言って。

ああ、自分はずっと植木等の庇護の下に生きてるんだなあって思いました。

 

――そんな植木の人格は、小松の芸にも深く根を下ろしている。

エキセントリックなコントでお客さんを笑わすだけでは喜劇ではない。笑いの後に

涙あり、涙の後に笑いあり。喜劇は見ている人が喜ぶ劇。それが小松の持論だ。

 

 テレビや映画にも出させてもらっていたのですが「やっぱり板(舞台)が

やりたい」と思ったんですね、1982年にライブハウスで「一人芝居~四畳半物語」を上演しました。演出は伊集院静さん。当時出演していたバラエティー番組の構成を

手掛けていて、そのご縁で参加していただきました。

 

 独身男が酔っ払ってアパートの四畳半に帰ってきて、寝るまでの話です。

玄関でつまずいて布団に倒れ込んだり、背広のズボンを寝押ししたり。

たばこを吸いたいんだけど、吸い殻しかない。なるべく残っているのをほぐして、

新聞紙に巻いて吸い始める。「朝日はまずいなあ」って言ったら、ウケましたね。

日常の切ない悲哀を演じて、クスクス笑ってもらう舞台をやりたいと思ったんです。ところが、やってみたらどっかんどっかん。

また、ひとり芝居をやってみたいですね。今度は独居老人で。女房も死んじゃって、ブツブツ言いながら飯の支度をしたり、「母さん、元気かい」って言いながら仏壇に線香をあげたりする。「あれ、チンはどこ行った?」って、捜しても見つからない。仕方なく鍋を持ってきてコーンって鳴らしてみる。

 

 コメディアンとして、この歳だから伝えられることが必ずあると思っています。

どうかひとつ、これからも、長ーい目で見てやってください。

(聞き手・石原壮一郎)

 

<プロフィール>
小松政夫(こまつ・まさお)/1942年、福岡県博多生まれ。日本喜劇人協会会長

(第10代)。植木等の付き人を経て、芸能界デビュー。「笑って!笑って!!60分」や「みごろ!たべごろ!笑いごろ!!」では、伊東四朗とのコンビで一世を風靡。

2016年にはCD「親父の名字で生きてます」をリリース。

「もうちょっと歌い込んで、紅白を目指さないとね」。著書に『時代とフザケた男』『昭和と師弟愛 植木等と歩いた43年』など。

※週刊朝日  2019年1月18日号から再掲

 

 

 

【独占】小松政夫さん死去から1年、妻が明かした」

「最後の言葉」と「夫の秘密」週刊女性PRIME

 

「福岡の山笠祭りには毎年参加していました。7月1日から15日まで開催される

のですが、夫は“この期間は絶対に仕事を入れるなよ!”と毎年言っていました」

 

 手に持った写真を見つめて目を細めたのは、小松政夫さんの妻・朋子さん。

'20年12月7日に亡くなってから1年を迎えた。

浮気した夫を蹴り飛ばした!

 毎年『博多祇園山笠』を楽しみにしていたという小松さんの故郷は福岡県。

父親は洋菓子店を営む、裕福な家庭で育った。しかし、小松さんが中学生のときに

一転する。「父親が病気で亡くなったのです。それで生活は一気に苦しくなった。小松さんは定時制高校に通いながら働いて、家計を支えていました。高校卒業後は俳優を目指して上京しますが諦めて、自動車販売店に就職。トップセールスマンとして、月収12万円を超えることも。当時の大卒初任給が1万円でしたから、高給取りで

した」(芸能ライター)

 だが、週刊誌の求人広告が小松さんの転機となった。

「植木等さんの運転手募集という求人に飛びついたのです。給料は下がっても、

まったく後悔はなかったそう。植木さんと初めて会った日に“君はお父さんを早くに

亡くされたそうだね。これからは私を父親と思えばいい”と言われて一生ついていこうと思ったと話しています。運転手として3年10か月を迎えたとき、植木さんが

渡辺プロの社長に頼みデビューすることができたのです」(同・ライター)

 

 植木さんのことを“親父さん”と呼び、慕った。デビューを果たし、

ヒット曲『しらけ鳥音頭』や『小松の親分さん』といったギャグで人気を博し、

一躍お茶の間の人気者に。このころに出会ったのが、妻の朋子さんだ。

「新宿にある『どん底』という居酒屋に友達と行ったときに、

声をかけられて知り合いました」(朋子さん、以下同)

 

 少しずつ距離を縮めて、結婚。'76年のことだった。

「結婚してみてわかったのですが、すっごく遊びまわるんです。浮気したことも

ありました。そのとき夫は酔っぱらっていたから蹴っ飛ばしてやりましたね(笑)。

初めは芸能人ってみんなこうなのかしらって思っていたんですが、あるとき、

やっぱりおかしい!と思ってピシャリと言ったんです。

亭主関白でしたが、いつの間にか立場が逆転してました(笑)」

 

 お酒が大好きだった小松さん。大人数を引き連れて、自宅に帰ることもしばしば。

「毎週30人近く連れて帰ってきた時期がありました。本人は酔っぱらって

先に寝ちゃうし、私は食事を作ったり、知らない人の話し相手を朝までしたり……。

飲み屋さんを開いていたら儲かったと思います(笑)。毎回もう勘弁!

と思っていましたが、次の日には “昨日はありがとう” と必ず言ってくれました。

だから、しょうがないなって許しちゃって」

 妻に支えられ、仕事にも精を出し、俳優としても活躍。

「次はどんな映画をやろうか」

 '19年には主演舞台『うつつ 小松政夫の大生前葬』を上演。

小松さんの娘役として共演した女優の棚橋幸代が、その人柄について明かす。

「小松さんはお芝居に対して真摯に向き合う方で “あそこをうまく演じられ

ないんだよ” “あの場面はこうしたほうがいいんじゃないか”って、

いつも稽古後にいろいろお話ししてくれました。

 

 ご病気を患っていたはずなのに、そんなそぶりはいっさい見せずに。

公演の打ち上げで、出演した女性陣みんなで小松さんを囲んでハグしたんです。

そしたらボロボロと泣いて喜んでくれたんです

周囲のことも常に気にかけていた人だった。昨年の夏にはこんな連絡があったと

いう。「久しぶりに電話をくれて“元気にしてる? また舞台のみんなで飲みたいね”ってお話ししていたんです。元気でよかったと思っていたから、訃報を聞いたときは

ショックで涙が止まりませんでした。コロナで会えなかったのが本当に悔しい……」(棚橋)

 

 長年にわたって小松さんと親交があった映画監督の坪川拓史氏も、

いまだ悲しみを抱えるひとりだ。「僕の映画5本にすべて出演してくださっている

のですが、撮影が終わると “次はどんな映画をやろうか” と小松さんは

必ず言ってくださった。ふたりで話して、映画を作ってきたんです。

小さいころにテレビで見ていた憧れの人と映画を作れて本当に幸せでした」

 

 出会いは、坪川氏が小松さんに自身の映画への出演オファーをしたことがキッカケだった。当初は断られたが諦められず、小松さんが出演する舞台の楽屋に押しかけた。熱烈なアプローチに根負けした小松さんが「わかった」と話したのが21年前

こと。今も昨日のことのように思い出すという。

「小松さんが亡くなる数か月前に電話で話したときも、次の映画の話をしました。

その脚本も完成しているんですが、小松さんの役をほかの人にお願いして

撮影するって気持ちになれなくて……。今も脚本を書くときに、小松さんに

どんな役をやってもらおうかと考えてしまいます。僕が映画を作る理由のひとつが

なくなってしまった。心にポッカリと穴があいてしまった感じです……」(坪川氏)

部屋から出てきた大量の「空きビン」

 そして、知られざる小松さんの魅力について続ける。

「“バナナの叩き売り”の口上や“泣き売”を演じてくれたり、昔の座敷唄を教えていただいたこともありました。ギャグだけでなく、本当にさまざまな芸に精通していた人なのです。そんな小松さんの一面を、今後はもっと伝えていきたいと思っています」

 

 '19年に肝細胞がんが発覚したが、周囲には何も伝えていなかった。

どうしてなのか。朋子さんによると、「病気を治して、まだまだこれから舞台をやろうと考えていたのだと思います。いつも舞台の話をしていましたから。アルコール性の肝細胞がんと言われていたので、本人も身体のことを考えてか“酒はもうやめた”と話していました。それが昨年の11月に、急激に体調が悪化したんです」

 

 抗がん剤治療を行い、目に見えて衰弱していった。

'19年、『博多祇園山笠』に参加する小松政夫さん(朋子さん提供)

'19年、『博多祇園山笠』に参加する小松政夫さん(朋子さん提供)

 

「病院で寝たきりになり、声も出なくなっていました。12月6日には眠っていたん

ですが、突然 “おい! 今日は帰るぞ!!” って大きな声で叫んだんです。

ビックリして起こそうとしたんですが、起きなくて……。コロナ禍で付き添いが

病院にいられる時間も限られていましたから、しょうがなく家に帰ったんです」

 

 翌7日の午前5時に病院から電話があった。駆けつけたが意識はなく、

そのまま息を引き取った─。「家に帰りたかったんだと思うと、かわいそうなことをしたなって……。1年たちましたけど、今も亡くなった実感がわかなくて。地方公演に行っている気がしたり、“ねえ、あれはどうしたっけ?”と話しかけちゃったり。

でも、誰もいないことに気がついて、現実に引き戻されます」

 

 他界後、小松さんの部屋を片づけていた朋子さん。

小松さんが隠していた “あるモノ” を見つけたと明かす。

「お酒の空きビンがゴロゴロと出てきたんです。紙コップも置いてあって。

コロナですから、誰かが家に来たわけでもない。昨年の夏はふたりっきりで

食事していましたが、お酒も飲まないので、本当にやめたんだと思っていたんです。

そんなに飲みたかったのなら、言ってくれれば堂々と飲ませてあげたのに……」

 

 お墓は、夫婦で旅行した際に見つけた、湖を望む霊園に建てたという。

春には、しだれ桜が満開になる。

 

 

コメディアンとして活躍後、俳優としても活躍されていた小松政夫さん。

植木等さんとの出会いで、この道へ進み伊東四朗さんとのコンビで番組を盛り上げ、

凄く面白く楽しく観ていました。もうあの優しい、いつも謙虚な小松政夫さんを

観れないけれど、天国で植木等さんやクレイジーキャッツのメンバーと仲良くして、楽しく過ごしていますか?ゆっくりして、みんなを見守っていてほしいです照れ おばあちゃん 虹

 

ご冥福をお祈りいたします。

 

 

純ちゃんに嫌な事をしてこないで!咳や嗚咽をさせないで、口臭を持って来ない、

体を動かしにくくしない、人の言葉を言わさない、人の感情を持って来ない、

体などを痛くしない。トイレ関係も。しつこく言ってこないで。脅さないで! プンプン 爆弾

 

【ボートゲームの禁じ手】を使わないで!

いくつかのゲームには、ルールで定められた禁じ手が存在する。

禁じ手を打った(指した)場合、即座に負けとなるのが一般的である。

スポーツやゲームのように明確な規制で禁じられたものではなく、

「使うべきではない」とされる手法についても「禁じ手」と呼ばれることがある。

 

※このルールを違反した時点で、ゲームオーバー及びゲームアウト!プンプン

その技術を使わないで!

 

 

人に腹痛や胃を痛くしない、気分を悪くしない!身体を熱くしないで。

TV等の撮影やスタッフに付いて行って、ロケや取材等の邪魔をしないで ムキー パンチ!

束縛、嫉妬や執着、妬み、依存、あの三女が遠隔でコントロールするの止めて パンチ!パンチ!パンチ! ( あの三女、お互いを似ているように近づけようとしないで )

人に威圧的な言動、迷惑な行動は止めて。心に入って来ない、心を読まない、

人に体調不良やネガテなィブな感情を持って来ない、無気感を持て来ないで、

人の後ろに憑かない憑依しない、余計なことを言ってこないで。トイレ関係 プンプン パンチ!パンチ! 

思考低下させない、停止にしない。人の胸に衝撃を与えないで!首を痛くしないで!

人をバッサリ言葉で切らないで。深夜に連絡してこないで 物申す パンチ!パンチ!

仕事の邪魔や記憶障害にしない。目の錯覚、老眼近視、頭をボーっとさせないで、

人に言われたことを他人に言わさない。心の中に持って来ない、響かせないムキー 爆弾 パンチ!

特にブログを書いている時、いちいち注文を言ってこないで、自分で考えて書いて。

負けず嫌いも程々に、優柔不断、人間不信を持ってこないで、キツイ気を感じる。

口臭も。咳込まさない。毒舌禁止、散財禁止、調子づかないで プンプン パンチ!パンチ!

乗り物関係を運転時は、邪魔をしてこない。中枢神経を触って来ないで。

人の感情やパワーを抑えない、持って来ない。口のろれつが回らないようにしないで

唇を痺れさせない!卑猥な言葉を言ってこない、人をコントロールしないで パンチ!

あの親子、水晶を使って人を脅さない。マウントを取って来ない、過保護にしない!個人情報保護法、プライバシー侵害しない!その力、仕事以外に使わないで! ムキー パンチ!人の為に使って、決して悪いように使わないで。日本には言論の自由がある( 自分達に嫌な事を言われていると思って咳込まさない、自意識過剰、被害者意識が酷い ) 

店員さんや美容院の人に嫌な事をしないで、言わさないで ムキー パンチ!パンチ!パンチ!

全責任は、お母さん達に取ってもらう。もちろん本人にも取ってもらう!

人のPCやスマホにハッカーになって侵入してこないで、エラーが出たので止めて パンチ!むかっ

長女のパワーを持って来ないで!使わないで!

上記に書いていることは、みんなのことを指す 物申す パンチ!パンチ!パンチ!

 

3つの約束やルール、個人的に約束した事、日本の常識は必ず守って。

アミューズ同様、みんなに対しても約束など厳守して パンチ!パンチ!パンチ!

( 私の言うことを聞く・命関係は打ち止め・引退関係・契約書など、反故にしない )

契約書を読んで!約束を破るとペナルティーが、母との勝負を忘れないでムキー爆弾パンチ!パンチ!パンチ!

 

 

いつもありがとうございます。

 

最後までお読みいただきありがとうございました 愛飛び出すハート