日経ビジネス 2022.7.29
時代を変えた名機Apple Ⅱ
米アップルコンピュータ( 現アップル )は1977年、大ヒットモデルとなる
「Apple Ⅱ」を売り出した。前編の「アップル創業まで何があったのか ジョブズという稀有な起業家の軌跡」では、それまでのアップルの歴史を紹介した。
Apple Ⅱは商業的に成功を収め、79年にはスペックを向上させた「Apple Ⅱ plus」、80年には東レが販売代理店となった日本市場向けのカナ入力モデル「Apple Ⅱ J-plus」、83年には部品点数を減らした廉価版「Apple Ⅱe」を発売し、アップルの
成長を支えることになる。スティーブ・ジョブズ( 以下、ジョブズ )にとって、
大きな成功体験となった。
Apple Ⅱの発売当初の価格は1298ドルだった。 666ドル66セントだった「Apple I」と比較するとほぼ倍の価格だ。総務省の小売物価統計調査(動向編、77年)では、東京都区部における乗用車の価格が96万2000円だったのに対し、Apple Ⅱは77年の為替レートで換算すると35万円強となる。
Apple Ⅱが優れていたのは、基板の状態で販売したApple Iと違って、完成品としてパッケージ化したことや、カラー出力が可能だったことなどが挙げられる。
また上級者にとっては拡張性があって改造が可能であり、中級者にとっては電子工作をすることなくパーソナルコンピューター( PC )を利用できたというターゲットの広さがある。さらにジョブズのこだわりによって設計された本体のデザイン性の
高さも無視できない。他社の武骨なものとは異なり、Apple Ⅱは洗練された
芸術品のような様相すらあった。
Apple Ⅱは、本体にキーボードが付属していた。フロッピーディスク用のドライブやディスプレーなども販売された。データの入出力が可能となったことでゲームや
プログラムのやり取りが盛んになったといわれている( 写真:Shutterstock )
成功を受けて、名機Apple Ⅱを超える1台を作ろうとジョブズはまい進するが、
歯車はだんだんと狂い始める。また、アップルの順風満帆な成長とは異なり、
プライベートでのジョブズは不可解な生き様を見せていた。
社史に学ぶ!あの企業のなぜ
経済界をリードするあの企業について、社史から成り立ちや変遷を学び、
今に続く存続と発展のビジネス戦…
78年、クリスアン・ブレナンとの間に娘リサが誕生する。
ただ、ジョブズは娘を認知せず、DNA鑑定で実の娘だと立証された後も、
なかなかアクションを起こさなかった。養育費の支払いを渋り、ブレナンは施設で
リサを育てるなど不遇な生活を送る。80年には、ジョブズはアップルの株式公開で
億万長者になっていたにもかかわらずだ。実の両親から養子に出されたことは、
ジョブズ自身にとってもつらい経験だったはずなのに、彼自身が親としての責務を
果たさないのを不可解に思う人も多いはずだ。実際、彼は、実の両親と同じ選択を
することとなった( その後、ジョブズとリサは和解している )。
新プロジェクトを引っかき回すジョブズ
78年、ジョブズは、Lisa(リサ)プロジェクトをスタートさせる。
娘と同じ名前が付けられたこのプロジェクトは野心的なものだった。
中でも採用されたGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)や
マルチタスク機能はPCスペックの向上と相まって歴史を塗り替えるものだった。
だが、ジョブズはこのプロジェクトを引っかき回した。
開発者たちの間に、いきなり首を突っ込んできて、こんなものを作るなんてと
批判する。時には辞めてしまえと開発者を罵倒し、プロジェクトのメンバーは疲弊
していった。盟友スティーブ・ウォズニアックはApple Ⅱの改良に没頭しており、
誰もジョブズの暴挙を止める人がいなかった。そんなジョブズに対し、81年当時のCEO(最高経営責任者)だったマイク・マークラがプロジェクトへの参加禁止を
言い渡す。ジョブズが外された後の83年、「Apple Lisa」が販売される。
だが、9995ドルと強気すぎる価格設定のため見事に売れなかった。
次にジョブズが参加したのが、Macintoshプロジェクトだ。
複雑化した製品を簡易化し、安価なPCを開発することを狙って、
79年にジェフ・ラスキンという技術者が立ち上げたものだった。
話は遡るが、79年、ジョブズは米ゼロックスのパロアルト研究所を訪れる機会を
得た。そこで、コンセプトモデルだったGUI機能をベースにしたPC「アルト」と
出合うことになる。それまでのPCはプログラム一つ動かすのにもコマンドの入力が
必要だった。それに対し、マウス操作だけで直感的に操作できるアルトは、PCの常識を覆すものだった。このコンセプトを、よく言えばオマージュし、悪く言えば模倣して作られたのが84年1月に発売された「Macintosh 128K(以下acintosh)」だった。
ジョブズ、アップルから追い出される
84年1月、アメリカンフットボールの最大の試合、スーパーボウルのテレビ中継で、映画『エイリアン』や『ブレードランナー』で名をはせたリドリー・スコット
監督が製作したMacintoshのコマーシャル『1984』が流される。
Macintoshは優れたマーケティングと設計思想によりApple Ⅱを超える大ヒットとなる可能性を秘めていた。実際、GUIやシンプルなPC設計は現在のmacOSだけでなく、他のPCにも多くの影響を与えることになる。
MacintoshはデスクトップPCだが、持ち運ぶことも想定され、キャリングケースも
用意されていた。ただ本体だけで7.5kgあり、実際に持ち運ぶには重かった
( 写真:Shutterstock )
だが、Macintoshは84年末に需要の読み違いを起こす。年末商戦では期待ほどの
売れ行きにならず、アップルは初の赤字に陥ってしまった。
当時CEOだったジョン・スカリーとジョブズは「ダイナミック・デュオ」と呼ばれるほどパワフルで良いコンビとされていたが、その内情は対立関係にあった。
スカリーは、Macintoshの売り上げ予測を外したことの責任をジョブズに迫り、
85年5月、ジョブズはアップルにおける全ての業務から外され、
実権のない会長職に就くことになる。
スカリーは、もともと米ペプシコ( ペプシコーラ )の事業社長だった人物だ。
類まれなるマーケティングスキルを持ち、米国の炭酸飲料王者の米コカ・コーラに
迫る実績を上げたブランドづくりの達人だった。そんなスカリーに
「あなたは、一生砂糖水を売り続けたいのか、それともあなたは私と一緒に
世界を変えたいのか?」と強烈なラブコールを送って引き抜いてきたことは
あまりに有名だ。自らが招いた人物によって、自分が創業したアップルを
追い出されたのは皮肉としか言いようがない。
負のスパイラルに陥ったアップル、ジョブズが劇的復活へ
93年までスカリーはアップルを率いることになる。拡張機能を持った「Macintosh SE」や、初のポータブルPCとして発売した「Macintosh Portable」など意欲的な
製品も発売したが、ライバルのPCには大きく水をあけられてしまった。
次のアップルのCEOとなったマイケル・スピンドラーの時代でも、その状況は
変わらず、アップルは次第に負のスパイラルに陥っていく。
ジョブズは、アップルから追い出された後、教育、ビジネス用の高性能なコンピューターを開発・製造するNeXTを設立し、名誉職だったアップルの会長職を辞任した。当初は教育機関などに向けたハイエンドPCを作ることを目標としていたが、
高すぎるスペックや価格設定からPC自体は期待したほどのヒットにはならず、
93年にはソフトウエア企業となる。この方針転換がジョブズをアップルに引き戻す
きっかけとなった。
96年、アップルはギル・アメリオをCEOに迎える。物理学者でありながら企業再生にたけた彼は、アップルの再建を任されることになる。この時のアップルは中核と
なる技術力が失われつつあり、次世代OS(基本ソフト)の開発も頓挫していた。
アメリオは自社開発を諦め、外部からOSの軸となる技術を転用ないしは購入することを決める。そうした事情をジョブズは聞きつけ、アップルに接触を図る。
ちょうどその頃、ジョブズは経営状態が良好とは言えなかったNeXTの売却を
考えていた。NeXTには次世代OSの核となる技術やそれをリードできる技術者が
おり、アップルにとっては最高の助け舟となった。導入まで曲折はあったものの、
アメリオはNeXTのOS(NeXTSTEP)を利用することを決め、同社を買収した。
この判断は、アップルの次世代OSを生み出し、今のアップルのOSの核を形作った
起死回生の判断だったと言えるだろう。ただ、この買収はアメリオにとっては
あまり幸せな結果をもたらさなかった。彼が呼び込んだジョブズと、すぐに仲たがいを起こしてしまったからだ。結果として、アメリオは、97年にはCEOを退任することになる。アップルの経営トップの席は、まるで椅子取りゲームのような様相を
見せていた。
次のアップルはどこへ
アップルに返り咲いたジョブズは大規模なレイオフを敢行し、ライバルであった
はずの米マイクロソフトとの業務提携や資金調達を成功させ、98年には新生アップルを象徴するiMacの発売にまでこぎ着ける。かつてのワクワクする製品を作る
アップルが戻ってきたのだ。
新たな音楽習慣をつくったiPodやスマートフォンとして一大ブランドとなったiPhoneの登場と躍進については、またの機会に触れることにして、最後は現在の
アップルの状況について触れておきたい。
度々体調悪化について報じられたジョブズ。イベントなどに登壇する機会が減り、2011年6月の基調講演を最後に表舞台から退いた。11年10月5日、すい臓腫瘍の
転移により死去した。56歳だった( 写真:AP/アフロ )
2011年8月、体調を悪化させたジョブズは退任した。その後、10年以上アップルを率いているのはCEOのティム・クックだ。ジョブズがすい臓がん手術などで現場を
離れた頃からジョブズの代理として手腕を奮い、その後、ジョブズ時代の製品を
受け継ぎGAFAM (Google、Amazon、Facebook、Apple、Microsoft)と呼ばれる世界的に影響を持つIT企業にまで育て上げた。18年8月2日には、米企業として
初めて時価総額1兆ドルを突破する。さらに、22年には3兆ドルを突破している。
ここ数年のバブルのような米国での株高も影響したとはいえ、株価が10年で
およそ10倍にまで高まったのは彼の手腕によるところが大きいだろう。
ジョブズ時代の遺産を引き継いだものの、新たな製品を作れなかったと批判されることもあるクックだが、競合スマートフォンブランドが立ち上がって消えていく中、iPhoneブランドを陳腐化させることなく維持した。また、15年に発売した「Apple Watch」といったスマートデバイスを生み出したことも評価に値するだろう。
経営陣同士の激しいバトルや、その過程でCEOが度々変わるなど、転機を何度も経験したアップルだが、カリスマが世を去った後、成長を続ける企業として存続した。そんな、アップルをつくり上げたクックは22年8月にはCEOとして12年目を迎え、
ジョブズに次ぐ長期政権となっている。22年11月にはクックは62歳となる。
次のCEOへのバトンタッチも臆測される中、今後アップルがどのようなステージを
歩むことになるのか、気になるところだ。
(文=宇佐美フィオナ)
スティーブ・ジョブズはこうやって考えていた。
「山をも動かす」シンプルな思考術
「目標を設定し、達成する際に、複雑さに巻き込まれる」という罠をはっきりと理解していました。 アップルの共同創業者として、ジョブズは「シンプルさ」がいかに
複雑さに勝るかを追求していたものの、「シンプル」にすることは簡単ではないということも指摘しました。テック業界の大物であるジョブズは、次の有名な言葉を残しています。 シンプルであることは、複雑であることよりも難しいときがある。物事をシンプルにするためには、懸命に努力して思考を明瞭にしなければならないからだ。 だが、それだけの価値はある。なぜなら、ひとたびそこに到達できれば、山をも動かせるからだ。このジョブズの言葉は、問題に対処するとき、決断を下すとき、そして思考一般についても、物事を明確でわかりやすくしておくことがいかに重要であるかを教えてくれます。そして、「シンプルであることは簡単なように思えても、そこに到達するためには、実は注意深く思考し集中することが大いに必要だ」ということでもあります。この名言は、シンプルさとは物事が簡単であるということではなく、
複雑なものをもっとも基本的な形に削ぎ落とすことだということを指摘しています。
【成功の秘訣】スティーブ・ジョブズはどんな人?
世界を変えたリーダーシップ術やその人生を解説
- 「一点集中とは『ノー』と言うことだ」
- 「なにをしないのか決めるのは、なにをするのか決めるのと同じくらい大事だ。会社についてもそうだし、製品についてもそうだ。」
- 「革新的なつながりを見つけるためには、ほかの誰とも違う経験の組み合わせをもつべきだ」
これらはスティーブ・ジョブズの言葉です。
スティーブ・ジョブズはこれまでありとあらゆるメディアで語り尽くされてきまし
たが、それでもまだ私たちの心を捉えて離さない不思議な魅力がある人物ではないで
しょうか。革新的なデバイスを生み出し、文字通り世界を変えたと言っても過言では
ありません。本記事ではそんなスティーブ・ジョブズについてその生涯や、
成功の秘密を改めて解説していきます。
スティーブ・ジョブズとは?
スティーブ・ジョブズの本名は「スティーブン・ポール・ジョブズ」と言い、
1955年にアメリカで生まれ、2011年10月5日に56歳で亡くなっています。
Appleやピクサー・アニメーション・スタジオを創業した起業家であり実業家でも
あり、そして工業デザイナーでもあります。
30歳以下でビリオネアになったスティーブ・ジョブズ
スティーブ・ジョブズは30歳以下でビリオネアとなった数少ないアメリカ人の
うちの一人に選出されています。ビリオネアとは「超富裕層」のことで、
保有する金融資産( 不動産を除く )が10億円以上と定義されています。
アメリカの経済誌「フォーブス誌」は1982年に初めてアメリカの億万長者400人を
発表し、そのときに当時27歳だったスティーブ・ジョブズを特集しました。
それから30年以上の時が経っていますが、30歳以下で相続などではなく自分の力で
財産を築いてビリオネアになった人はスティーブ・ジョブズ含めてたったの8人しか
いません。そしてこの8人のなかには、巨大IT企業4社「GAFA」の一角を担うFacebookの創業者であるマーク・ザッカーバーグ氏も含まれています。
スティーブ・ジョブズの生涯
1955年、シリア人の父とアメリカ人の母との間にサンフランシスコで
スティーブ・ジョブズは生まれました。しかしジョブズは生まれてすぐに
アメリカ人家庭に養子に出されています。
このこともあり、ジョブズは幼少期から「自分は何者なのか」という葛藤があった
そうです。6歳になったジョブズは好奇心旺盛でヘアピンが電気を通すのかを
知りたかったため、コンセントに刺して感電することもありました。
また、イタズラが大好きで親の部屋に盗聴器を仕掛けたり、小学校では授業中に
花火をするなど世話の焼ける少年でした。その後、4年生になったジョブズは知能検査を受けると、並外れた知能を持っていることがわかり1年飛び級してクリッテンデン
中学に入ることになったのです。しかし、飛び級したジョブズはクラスに馴染む
ことができずにいじめられるようになりました。
そこで、家族は引っ越して別の中学校に転校させたのです。
Appleの共同創業者となるスティーブ・ウォズニアックと
出会う
1971年、16歳になったジョブズは友人の紹介で、後にAppleの共同創業者となる
スティーブ・ウォズニアックと出会い、すぐに意気投合します。
2人はウォズニアックに母親から「エスクァイア」という雑誌をもらい、そこに載っていた不正に無料で長距離電話ができる装置である「ブルーボックス」の記事を読んだ
2人は、この装置を自作してしまいます。この装置を学生に対して1台150ドル
(およそ17,000円)で売り、最終的に200台ほど売れましたが、銃で脅されて装置を奪われたため2人は装置を売ることをやめたそうです。後にジョブズはこの経験が
なければアップル・コンピュータを創業することは確実になかったと語っています。
高額な学費の私立大学に入るも半年で退学
翌年、ジョブズはオレゴン州ポートランドのリード大学に入学します。
学費が高額な私立大学で親の金銭的な負担は大きかったものの、ジョブズはリード
大学以外には入らないと断言していました。しかし、ジョブズは「価値を見いだせず、両親の貴重な学費を価値のない教育に使いたくなかった」としてわずか半年で
退学しています。しかし、退学したあともリード大学内を歩き周り、哲学やカリグラフィーといった関心がある講義にだけ潜り込んで大学生活を過ごしていました。
アップル・コンピュータを創設
そしてついに1976年にスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックは、
2人でアップル・コンピュータを創設します。アップル・コンピュータの最初の製品「Apple Ⅰ」は購入者がケースやキーボードを付け足さなければなりませんでした。
しかし、AppleⅠを元にした翌年の製品「Apple Ⅱ」は、Appleが初めて成功した一般消費者向けのコンピューターで、使いやすさにこだわってつくられた製品でした。
さらに1980年、当時25歳ごろだったジョブズはすでに1億ドル以上を稼いで
いましたが、ジョブズはあまりお金に執着していなかったと言われています。
実際、彼は「金銭的成功は重要でない。私はお金のためにやっていたわけでは
ないから」と語っています。
「Apple」の社名やロゴマークの由来
Appleといえば象徴的なリンゴのロゴマークですよね。しかし、なぜ社名が
「Apple」で、ロゴのリンゴがかじられているのかご存知でしょうか?
当時、スティーブ・ジョブズは果実のみを食べる果実食主義だったことと、リンゴ農園から帰ってきた直後だったこともあり「アップル」という名前を思いつきました。そして「アップル」という名前が「楽しげで、元気がよく、威圧感もない」というのが社名に決めた理由です。また、当時在籍していたアタリ社よりも電話帳で先に
表記されることも理由の一つでした。
リンゴのロゴがかじられている理由は「かじる(bite)」とコンピューターが扱う
データ量の単位である「バイト(byte)」にかけていることや、トマトに見えない
ように、という理由があるとされています。しかし、スティーブ・ウォズニアックは真意はわからないとしたうえで「ジョブズは音楽が好きだったのでアップル・レコードから名前をとったのかもしれない」と語っています。
スティーブ・ジョブズの死因や手術を拒否した理由
このようにしてスティーブ・ジョブズはAppleを創業し、後にiPhoneや
iPadなどの革新的なデバイスを世に送り出していきました。
しかし、2011年には56歳で亡くなってしまいます。
死因はすい臓がんでしたが、早期発見ができれば回復する見込みがありました。
しかしジョブズは診断を受けてから9ヶ月も手術を拒否していたのです。
なぜ、ジョブズはすぐに手術を受けなかったのでしょうか?
すい臓がんの発見
2003年、スティーブ・ジョブズがすい臓がんと診断されてから、ジョブズは表舞台
から姿を消しました。完治が可能な珍しいタイプのすい臓がんであったため、
早期に手術を受けていれば回復する可能性も高かったのですが、ジョブズは診断を
受けてから9ヶ月間、手術を拒み続けたのです。その結果、肝臓への転移など
がんの悪化につながり、取り返しのつかない状態になってしまいました。
手術を拒んだ理由
スティーブ・ジョブズは「自分の体を切開されたくない」として手術を拒んでいました。また、大学中退後にはインドへ旅に行ったり瞑想や禅といった東洋思想に影響を受けていたのです。これにより、西洋的な外科手術や現代医療に疑問を抱いており、ジョブズはマクロビオティックやスピリチュアリストに会いに行くことでガンを克服しようとしていました。しかし、妻や周囲の人間に説得され、2度の手術を受けていますが2011年にすい臓がんが再発し、亡くなってしまいました。晩年には民間療法に
頼ったこと、もっと早く手術を受けなかったことを後悔していたようです。
スティーブ・ジョブズが成功した秘密とは
アメリカ元大統領のバラク・オバマ氏はスティーブ・ジョブズについて
「アメリカのイノベーターのなかで最も偉大な一人であった」と評しており、
Google創業者のラリー・ペイジは「彼はとてつもない業績と驚くべき輝きを持つ
偉人であった」と評しています。
スティーブ・ジョブズはなぜこれほどまでに成功することができたのでしょうか?
ここではジョブズが成功した秘密について見ていきましょう。
- ユーザーエクスペリエンスを徹底的に追求する
- 幅広い経験と深い経験を組み合わせる
- 好奇心が強く、同調せず、反抗的である
- 無駄な会議をしない
それでは1つずつ解説していきます。
ユーザーエクスペリエンスを徹底的に追求する
Google創業者のラリー・ペイジはスティーブ・ジョブズについて「彼のユーザー
エクスペリエンスへの関心はいつも他の人より高く、常に私にインスピレーションを与えてくれる存在であった」と語っています。
ユーザーエクスペリエンスとは直訳すると「ユーザー体験」となり、ユーザーが
製品やサービスを利用した際に得られる体験や感情の総称を指しています。
スティーブ・ジョブズは製品づくりの際には常に「テキサスのおばさんでも簡単に
使える機械」を目指していました。この考えをもとにデバイスから物理的なボタンを無くす「タッチパネル」という方式が採用されたのです。つまり、「タッチパネルという技術を開発したからiPhoneをつくった」のではなく、ユーザーエクスペリエンスが最も良くなるように考えて、タッチパネルを採用したのです。
幅広い経験と深い経験を組み合わせる
スティーブ・ジョブズは「革新的なつながりを見つけるためには、
ほかの誰とも違う経験の組み合わせをもつべきだ」と語っています。
ジョブズのこの考えは科学的にも立証されています。1901年から2005年までの
ノーベル賞を受賞した科学者と一般的な科学者を比べた研究では、どちらの科学者もその分野において高度な専門性を持っていました。しかし、ノーベル賞受賞者は
一般的な科学者よりも芸術にたずさわる割合が、並外れて高かったのです。
また、起業家や特許の申請に貢献した人は、一般的な人よりも絵画や建築、
スケッチ、彫刻、文学などを趣味にしている確率が高いこともわかっています。
つまり、創造性を発揮するには「幅広い経験」と「深い経験」が
組み合わさる必要があるのです。
好奇心が強く、同調せず、反抗的である
スティーブ・ジョブズは、アメリカ建国の父であるベンジャミン・フランクリンや、アルベルト・アインシュタインなどの歴史的な偉人や成功者と同じ特徴を持って
いました。これらの人物は想像力や強い情熱を持っていますが、
それ以外に3つの共通点があります。
それが、
- 好奇心が強いこと
- 周囲に同調しないこと
- 反抗的であること
というものです。これらは日本社会においては一般的には疎まれたり忌避される性質ではないでしょうか? しかし、並外れた成功を収めたり偉業を成し遂げる人には、
このような性質が備わっているのです。なぜなら、このような人たちは地位や権力に興味がなく、素直だからです。そして、リスクを恐れず行動し続けます。
無駄な会議をしない
スティーブ・ジョブズは会議をする際に、会議に出席している正当な理由を
本人が挙げられない場合、その人を追い出したといわれています。
つまり、会議をする際には絶対に必要な人だけですることを徹底していたのです。
あなたの会社では何も発言しない傍観者や、「とりあえず呼んでおこう」と
いったような人が会議に参加していませんか?
スティーブ・ジョブズは会議を行う際は必要最低限の人数で行い、
より洗練された会議にすることを意識していました。
スティーブ・ジョブズの名言
スティーブ・ジョブズは数々の名言を残しています。
そこで、ここではジョブズの名言を見ていきましょう。
クリエイティビティのカギ
稀代の芸術家、パブロ・ピカソは「優れた芸術家は模倣し、偉大な芸術家は盗む」と言ったとされています。そして、スティーブ・ジョブズは1994年のインタビューの
際にクリエイティビティのカギは、「人類が成し遂げてきた最高のものにふれ、
それを自分の課題に取り込むこと」だと答えています。
奇しくも2人の天才は、本質的に同じことを言っていたのです。
Think Different
スティーブ・ジョブズの実の父親はシリア人でしたが、ジョブズが生まれてすぐに
アメリカ人家庭の養子に出されました。このような境遇に育ったジョブズは
「自分は何者なのか」という葛藤があったのです。
その葛藤の結果ジョブズが導き出した結論は「自分は他人と違っていてもよい。むしろそれが新しいものを生み、世の中を変えることにつながる」というものでした。
そして、この思想を表現したものが「Think Different」という1997年のAppleの
有名なテレビCMです。
まとめ
ここまでスティーブ・ジョブズの生涯や成功の秘密を見てきました。
スティーブ・ジョブズについてはさまざまなメディアやコンテンツで
語られていますが、それでもなお私たちを惹きつける強い魅力があります。
そして、日本企業が学ぶべきポイントはまだまだあるといえるでしょう。
Appleやスティーブ・ジョブズの哲学に触れることで様々なヒントを得て
みてはいかがでしょうか。
スティーブ・ジョブズが亡くなって、この先 Apple は、どうなるのかと思っていましたが、技術者やCEOが頑張ってスマホを販売されていますが、ジョブスの様なアイデアを出せる人がこの先出てくるのか?みんなでアイデアを出し合って行くか、
ヘッドハンティングや育てるしかない。後継者問題は、どこも大変ですね
ジョブスは、初め手術を拒んで周りに説得されて受けて、後で後悔したと思う前に
なぜもっと早く手術をしなかったのか?会社や家族のためにも
しつこいようですが、何か違和感を感じたらすぐ病院へ行って下さい
純ちゃんに嫌な事をしてこないで!咳や嗚咽をさせないで、口臭を持って来ない、
体を動かしにくくしない、人の言葉を言わさない、人の感情を持って来ない、
体などを痛くしない。トイレ関係も。しつこく言ってこないで。脅さないで!
【ボートゲームの禁じ手】を使わないで!
いくつかのゲームには、ルールで定められた禁じ手が存在する。
禁じ手を打った(指した)場合、即座に負けとなるのが一般的である。
スポーツやゲームのように明確な規制で禁じられたものではなく、
「使うべきではない」とされる手法についても「禁じ手」と呼ばれることがある。
※このルールを違反した時点で、ゲームオーバー及びゲームアウト!
その技術を使わないで!
束縛、嫉妬や執着、妬み、依存、あの三女が遠隔でコントロールするの止めて ( あの三女、お互いを似ているように近づけようとしないで )
ここからは、今までと同じなので省きます。
全責任は、お母さん達に取ってもらう。もちろん本人にも取ってもらう!
人のPCやスマホにハッカーになって侵入してこないで、エラーが出たので止めて
長女のパワーを持って来ないで!使わないで!
上記に書いていることは、みんなのことを指す
3つの約束やルール、個人的に約束した事、日本の常識は必ず守って。
アミューズ同様、みんなに対しても約束など厳守して
( 私の言うことを聞く・命関係は打ち止め・引退関係・契約書など、反故にしない )
いつもありがとうございます。
最後までお読みいただきありがとうございました