「武豊のライバルとなりえた騎手」といわれた騎手が岡潤一郎だ。
現在50代から60代の競馬ファンにとっては懐かしい名前かもしれない。
岡潤一郎は将来を期待されながら、落馬によって命を落とした騎手だ。
岡潤一郎騎手の落馬事故の詳細やプロフィール、騎手としての成績などを紹介しよう。
正確には岡潤一郎は元騎手だが、ここでは当時の活躍に敬意を表して岡潤一郎騎手とする。
岡潤一郎のプロフィール
- 名前:岡潤一郎( おかじゅんいちろう )
- 生年月日:1968年12月7日
- 没年月日:1993年2月16日( 享年24歳 )
- 出身地:北海道様似郡様似町
- 血液型:B型
岡潤一郎騎手は北海道浦河高等学校を中途退学し、競馬学校に入学する。
明るく親しみやすい人柄で、誰にでも好かれる好青年だった。
愛称のジュンペーと呼ばれ親しまれていた。
1988年に滋賀県にある、栗東トレーニングセンターの安藤正敏厩舎所属の騎手としてデビューを果たす。同じ年に「JRA最多勝利新人騎手賞」を受賞するなど、
活躍を期待された。
1993年1月30日の京都競馬第7レース4歳新馬戦で、騎乗馬のオギジーニアスが
故障を発生し、乗っていた岡潤一郎騎手は落馬してしまう。
救急搬送されるも同年2月16日に死去した。
ファンや競馬関係者は、才能溢れる若き騎手の早すぎる死を悼んだ。
わずか5年ほどの騎手人生だった。
岡潤一郎の落馬事故とは
レース中の落馬事故で、24歳という若さで死去してしまった岡潤一郎騎手。
騎手という仕事柄、危険とは隣り合わせだ。
だからといって、まさか未来を約束されたような騎手が
こんなに早く逝ってしまうとは誰が思っただろうか・・・
岡潤一郎騎手の落馬事故はどんな事故だったのか調べてみた。
落馬事故の詳細
岡潤一郎騎手の落馬事故が起こったのは1993年1月30日だ。
京都競馬場で行われた第7レース4歳新馬戦でその悲劇は起こってしまったのだ。
岡潤一郎騎手が騎乗したのは、将来を期待されたオギジーニアス。
実際にオギジーニアスは単勝2.7倍で一番人気だった。
その事故は突然起こった・・・オギジーニアスは左後ろ足を骨折し、左後方に大きくバランスを崩し転倒した。そのせいで岡潤一郎騎手は、馬場中央に投げ出されるような落ち方をしてしまった。
何度か落馬シーンを見たことがある競馬ファンにとっても、予想もしないような落ち方だったという。
落馬した岡潤一郎騎手は転がり、ヘルメットがずれてしまった。そして不運にもヘルメットがずれた頭部を、後続のシリウスギンガの脚が直撃したのだった。
当初はシリウスギンガに踏まれたといわれていたが馬は人を踏まないことから、
蹴るような形で蹄が当たってしまったと思われる。
まさに不運に不分が重なった事故だったといえるだろう。
岡潤一郎の容態は?
岡潤一郎騎手は救急搬送されたが、外傷性クモ膜下出血、頭蓋骨骨折、脳挫傷、
脳内出血により意識不明の重体となった。
懸命な治療を受けるも、肺炎を併発し1993年2月16日死去した。
岡潤一郎騎手の落馬事故後、京都競馬場は騒然となったが、当初は「落馬はよくあること」と命にかかわるような怪我ではないと楽観的に考えていたファンもいたようだ。
岡潤一郎騎手の重体のニュースが流れると、ファンの間には衝撃が走った。
スポーツ新聞では毎日のように一進一退を繰り返す岡潤一郎騎手の病状を
知らせる記事が踊った。
当時、岡潤一郎騎手のファンは、その記事を祈るような気持ちで読んだという。
しかし、ファンの祈りが届くことはなかったのである。
岡潤一郎が騎乗していたオギジーニアスのその後
岡潤一郎騎手が落馬事故の際に騎乗していたオギジーニアスは、レース後に左後ろ足骨折により予後不良と診断された。予後不良とは競走馬がレースや調教中に故障を発生させた際、回復が極めて困難であると診断された場合に、薬物を用いた殺処分が打倒だと判断されることをいう。予後不良と診断されるケースは主に脚の故障が多い。
予後不良と診断されたオギジーニアスは、事故当日の1月30日に岡潤一郎よりも
早く安楽死という形で天国へ旅立っていった。
この落馬事故で将来有望だった騎手と競走馬を同時に失ったことになる。
なんともやるせない事故だった。
本当はオギジーニアスに騎乗する予定ではなかった?
岡潤一郎騎手が騎乗しレース中に予後不良を発生したオギジーニアスには、
別の騎手が騎乗する予定だったのだ。岡潤一郎騎手はオギジーニアスに騎乗する
予定ではなく、急遽決まった騎乗だった。
本来オギジーニアスに騎乗する予定だったのは、藤田伸二騎手だった。だが急に自厩舎の都合で、府中競馬場で自厩舎の馬に騎乗することになり、オギジーニアスに騎乗できなかった。
オギジーニアスは期待された馬だったので、このとき藤田伸二騎手は、
「(オギジーニアスに騎乗できなくて)1勝を逃した」と思ったそうだ。
府中競馬場で岡潤一郎騎手の事故を見ていた藤田伸二騎手は「驚いた」と後に語っている。
岡潤一郎の形見は後輩へ受け継がれる
岡潤一郎騎手が愛用していた形見のムチは、所属していた安藤正敏厩舎に残された。岡潤一郎騎手の死後、安藤正敏厩舎に所属した川島信二騎手に託されたのだ。
川島信二騎手は、安藤正敏氏に岡潤一郎騎手の形見のムチを託された際に
「岡潤一郎のような騎手になれ」といわれたそうだ。
川島信二騎手は岡潤一郎の形見のムチを使って、見事初優勝を遂げた。
偶然かもしれないが、なんだか不思議なパワーを感じてしまう。
現在も岡潤一郎騎手の形見のムチは、お守りとして大事にしているのだとか。
岡潤一郎の葬儀について
岡潤一郎騎手の葬儀は、京都競馬場でJRA社葬として行われた。
JRA関係者だけでなく一般のファンにも開放され、多くのファンが
岡潤一郎さんとの最後の別れに訪れた。
JRA社葬だけでなく地元でも葬儀が行われたかどうかを調べてみたが、
詳しいことは分からなかった。
岡潤一郎騎手が多くの人に惜しまれながら亡くなったことは確かだろう。
岡潤一郎の騎手としての成績
岡潤一郎の騎手としての通算成績は2177戦225勝だった。
年平均約45勝という成績からしても、「期待の新人騎手」といわれていたことだけはある。
初騎乗こそ7着で終わったが、同じ年の1988年3月20日に行われた、
阪神12Rではトーヨーシンゲキに騎乗し初勝利を収めている。
また、同年に「JRA最多勝利新人騎手賞」を受賞した。
重賞 |
年月日 |
大会名 |
騎乗した馬 |
G1 |
1991年11月10日 |
エリザベス女王杯 |
リンデンリリー |
G2 |
1990年5月6日 |
NHK杯 |
ユートジョージ |
G2 |
1990年11月10日 |
デイリー杯3歳ステークス |
ノーザンドライバー |
G2 |
1991年10月20日 |
関西テレビ放送賞ローズステークス |
エインデンリリー |
G3 |
1991年3月3日 |
ペガサスステークス |
ノーザンドライバー |
岡潤一郎は武豊のライバルとなりえた騎手
競馬ファンであれば「岡潤一郎が生きていればな・・・」と考えたことが、
一度くらいはあるのではないだろうか。
岡潤一郎騎手は「武豊のライバルになる騎手」といわれていたのだ。
岡潤一郎騎手は武豊さんより1年遅れの1988年に騎手としてデビューした。
その年に44勝をあげ、JRA最多勝利新人騎手賞を受賞したのだ。
1991年にはエリザベス女王杯で、初のG1制覇も成し遂げた。まさに絵に描いたような順風満帆な騎手人生で、これからもっと活躍していくだろう騎手だった。
ファンにとっても競馬関係者にとっても、岡潤一郎騎手の事故はとてつもない衝撃だったのだ。
岡潤一郎のお墓はどこ?
岡潤一郎騎手のお墓は、彼の出身地である北海道様似郡様似町にある。
襟裳岬から程近い場所にある太平洋に面した静かな町が似郡様似町だ。
小高い丘の海が見渡せる墓地に岡潤一郎騎手のお墓はある。岡潤一郎騎手が亡くなってからすでに今年で28年になるが、今でもファンが墓参りに訪れるそうだ。
似郡様似町の市役所に問い合わせれば、岡潤一郎騎手のお墓の場所を教えてくれるというのだから驚きだ。それだけ岡潤一郎騎手が、地元の人にもファンにも愛された
証拠だろう。
武豊騎手も年に1回か2回は似郡様似町まで、岡潤一郎騎手のお墓参りに出向いているとブログで綴っている。
武豊のほうが騎手としては1年先輩だが、岡潤一郎騎手と武豊騎手は同学年である。
同じ学年で1年違いとなれば、親交もあったのだろう。少なくとも亡くなってからも
墓参りを続けるくらいの関係だったということだ。
よき友よきライバルだったのだろうと想像してしまう。
岡潤一郎の嫁は?
岡潤一郎騎手は24歳という若さで亡くなっており、結婚したという情報もないことから嫁はいないと思われる。では、岡潤一郎と検索すると「嫁」と出てくるのはなぜだろうか。
岡潤一郎騎手が亡くなった翌年の1994年に、競馬学校同期生の菊沢隆徳さんが
結婚式を挙げた。その招待客の中には、岡潤一郎騎手の席が設けられていたのだ。
このエピソードから岡潤一郎騎手が結婚していると誤解され、「岡潤一郎 嫁」と
検索する人が一定数いたのではないかと考えられる。また、単純に岡潤一郎騎手が
結婚しているかどうか気になった人が検索した結果かもしれない。
岡潤一郎の同期の騎手
岡潤一郎騎手は競馬学校4期生だ。
同期には、内田浩一さん、菊澤隆徳さん、岸滋彦さん、千田輝彦さん、
藤原英幸さん、町田義一さん、横田雅博さんである。
現在は内田浩一さん、岸滋彦さん、町田義一さんは調教助手、菊澤隆徳さん、
千田輝彦さんは調教師をしており、藤原英幸さん、横田雅博さんは引退している。
岡潤一郎騎手と同期の騎手で現在も騎手として活躍している人はいない。
そう考えると、武豊騎手のすごさが分かるというものだ。
そして、その武豊騎手とライバルたりえると称された岡潤一郎騎手のすごさも
分かっていただけるだろう。
総括:岡潤一郎を忘れない
24歳という若さで落馬により亡くなった岡潤一郎騎手。
騎手としてレースをする以上、落馬はある程度覚悟の上だろう。だとしても、
岡潤一郎という騎手が生きていたら・・・と思わずにはいられない。
武豊騎手とライバルとして勝負を繰り広げる岡潤一郎騎手を見たかったという
ファンは今でも多い。
岡潤一郎騎手が亡くなってから今年で28年。これからは岡潤一郎騎手を知らない
競馬ファンが増えていくだろう。けれど、かつて競馬界を風のように駆け抜けて
いった岡潤一郎という騎手がいたことを忘れたくない。
最後に、岡潤一郎騎手のご冥福を心からお祈りする。
【岡潤一郎の落馬事故】武豊のライバルになる
存在だった男の軌跡 ~ケンサクろぐ~ より 【一部抜粋】
現在の競馬界で誰もが知るジョッキーといえば「武豊騎手」ではないでしょうか?
デビューの年に当時の新人最多勝記録を更新して、2年目の菊花賞でGIを制覇。
3年目で全国リーディングを獲る。その後も活躍を続けJRA全国リーディング
ジョッキーは歴代最多となる18回獲得、騎手大賞は歴代最多となる9回を獲得。
その他にも通算4000勝を超えるJRA歴代最多勝記録、歴代最多騎乗数記録、ダービーを最多の6勝を挙げるなど数々のJRA記録を更新、日本競馬界のレジェンドと称されているほどの日本を代表する騎手ですが、そんなレジェンド武豊騎手のライバルとなる存在になっていただろうと言われるのが岡潤一郎です。岡潤一郎がいたら
もしかしたら今の武豊騎手の輝かしい実績が作られていなかったかもしれません。
それだけジョッキーとして優秀であった岡潤一郎さんの過去を振り返ります。
岡潤一郎騎手の戦績
1988年に栗東トレーニングセンターの安藤正敏厩舎所属の騎手としてデビューを
しました。3月5日の阪神競馬第2競走のダイタクゲニー号」で初騎乗し7着でした。
3月20日の阪神競馬第12競走のトーヨーシンゲキで17戦目にして初勝利。
同年に44勝を挙げJRA賞最優秀新人賞を獲得しました。
1989年には46勝をあげる大活躍をするのですが、この年の6月18日の札幌競馬で
5連続騎乗勝利を挙げました。この記録は2005年11月5日に横山典弘騎手が6連続騎乗勝利を挙げるまでの約16年間JRA記録として破られることなく残っていました。
1990年、ユートジョージ号に騎乗したNHK杯で初の重賞制覇をおさめます。
その同年の宝塚記念ではあの有名な「オグリキャップ号」に騎乗しています。
結果は2着でした。翌年の1991年にリンデンリリー号でエリザベス女王杯を制し
初めてのGIタイトルを獲得しました。しかしゴール入線後に馬が故障となり、
愛馬のいない中での表彰式となってしまいました。
また、結果的にはこれが騎手生涯唯一のGI勝利となってしまいました。
岡潤一郎が落馬、そして死去
1993年1月30日の京都競馬第7レース4歳新馬戦でオギジーニアス号で騎乗で事故は
起きました。4コーナーで同馬が左後脚に故障が発生し、バランスを崩して馬が転倒
するとそのまま岡潤一郎も落馬をしてしまいました。その転落の衝撃でヘルメットがずれ、そのヘルメットのない頭部を後続の馬の脚が直撃するという大事故になりました。救急搬送されましたが、外傷性クモ膜下出血、頭蓋骨骨折、脳挫傷、脳内出血によって意識不明の重体に陥ってしまい、2月16日午後0時57分に亡くなってしまいました。まだ24歳という若さでした。
( 中略 )
レース中の落馬が原因による死亡事故は、近年の医学の進歩により少なってはいる
ようですが、過去には多くの騎手が落馬で亡くなっています。1949年以前には7名、1950年代では8名、1960年代では9名、1970年代は6名、1980年代以降では8名と
38名もの方がなくなっており命がけで騎乗していることがよくわかります。
岡潤一郎は33人目の犠牲者となっています。死亡直後に告別式が行われていますが、この告別式は競馬ファンにも開放され、多数の弔問者が訪れたようです。
まとめ
岡潤一郎は、17戦目にして初勝利し、同年に44勝を挙げJRA賞最優秀新人賞を獲得
しました。1989年には46勝をあげる大活躍し、この年の6月18日の札幌競馬で
5連続騎乗勝利を挙げ約16年間JRA記録として破られることなく残っていました。
1990年にNHK杯で初の重賞制覇をおさめ、翌年の1991年にリンデンリリー号で
エリザベス女王杯を制し初めてのGIタイトルを獲得しました。しかしゴール入線後に馬が故障となり、愛馬のいない中での表彰式となり結果的にはこれが騎手生涯唯一のGI勝利となりました。
1993年1月30日の京都競馬第7レース4歳新馬戦の騎乗で落馬をし、その際に馬の蹄が頭部にあたり意識不明の重体。そのまま2月16日に帰らぬ人となってしまいました。わずか5年余りの騎手生活で、通算勝利数が225勝を挙げ、重賞勝利数が5勝。
G1勝利数が1勝でした。
岡潤一郎は結婚はしておらず、武豊騎手は1期上の先輩でした。
武豊騎手は今でも北海道様似郡様似町(さまにぐんさまにちょう)にある
お墓に年に数回お墓参りをしているようです。
多くのかたに愛された岡潤一郎さんのご冥福を心からお祈り致します。
武豊ジョッキーは、若い時から海外へ遠征や勉強に行き、向こうで使われている
ヘルメットや胸を守るプロテクターなどを導入し、悲惨な事故は今は防げている。
もし、岡潤一郎ジョッキーが生きていたら、もっと楽しいレースの駆け引きが
観れて、競馬も盛り上がったと思うと残念です
ご冥福をお祈りいたします。
1991年にリンデンリリー号でエリザベス女王杯を制しましたが、私も、京都競馬場へエリザベス女王杯を観に行きました。レース後、JRA パドック内で歌手の白井貴子さんが歌ってくれた「Someday」佐野元春さんの曲をカバーを聴きました。
TVで観るより、やっぱり生歌は凄く良く、感動したのを思い出しました。
これからも、いい曲を作り、みんなに聴かせて下さい
純ちゃんに嫌な事をしてこないで!咳や嗚咽をさせないで、口臭を持って来ない、
体を動かしにくくしない、人の言葉を言わさない、人の感情を持って来ない、
体などを痛くしない。トイレ関係も
【ボートゲームの禁じ手】を使わないで!
いくつかのゲームには、ルールで定められた禁じ手が存在する。
禁じ手を打った(指した)場合、即座に負けとなるのが一般的である。
スポーツやゲームのように明確な規制で禁じられたものではなく、
「使うべきではない」とされる手法についても「禁じ手」と呼ばれることがある。
※このルールを違反した時点で、ゲームオーバー及びゲームアウト!
その技術を使わないで!
束縛、嫉妬や執着、妬み、依存、あの三女が遠隔でコントロールするの止めて
( あの三女、お互いを似ているように近づけようとしないで )
人に威圧的な言動、迷惑な行動は止めて。心に入って来ない、心を読まない、
人に体調不良やネガテなィブな感情を持って来ない。口臭も。咳込まさない。
人の後ろに憑かない憑依しない、余計なことを言ってこないで。トイレ関係
思考低下させない、停止にしない。言葉使いが乱暴。人をバッサリ言葉で切らないで。深夜に連絡してこないで
仕事の邪魔や記憶障害にしない。目の錯覚、頭をボーっとさせないで、
人に言われたことを他人の心の中に持って来ないで、響かせないで
特にブログを書いている時、いちいち注文を言ってこないで、自分で考えて書いて。
負けず嫌いも程々に、優柔不断、人間不信を持ってこないで、キツイ気を感じる。
毒舌禁止、散財禁止
自分が言わせたい言葉を人に言わせない。乗り物関係を運転時は、邪魔をしてこない
人の感情やパワーを抑えない、持って来ない。口のろれつが回らないようにしないで
唇を痺れさせない!卑猥な言葉を言ってこない、言わさないで、調子づかないで
あの親子、水晶を使って人を脅さない。マウントを取って来ない、過保護にしない!個人情報保護法、プライバシー侵害しない!その力、仕事以外に使わないで!
人の為に使って、決して悪いように使わないで。日本には言論の自由がある( 自分達に嫌な事を言われていると思って咳込まさないで、自意識過剰、被害者意識が酷い )
全責任は、お母さん達に取ってもらう。もちろん本人にも取ってもらう!
人のPCやスマホにハッカーになって侵入してこないで、エラーが出たので止めて
首を痛くしないで!長女のパワーを持って来ないで!使わないで!
上記に書いていることは、みんなのことを指す
3つの約束やルール、個人的に約束した事、日本の常識は必ず守って。
アミューズ同様、みんなに対しても約束など厳守して
( 私の言うことを聞く・命関係は打ち止め・引退関係・契約書など、反故にしない )
いつもありがとうございます。
最後までお読みいただきありがとうございました