1995年3月20日。13人が死亡、6千人以上が負傷した地下鉄サリン事件が発生した。同年元日の読売新聞に「上九一色村でサリン残留物」というスクープ記事が
掲載され、事件はその3カ月後だった。当時、警察庁担当だった三沢記者と、
オウム裁判を長くウオッチする瀬口記者に寄稿していただいた。
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元日号スクープ 怪物化する教団 まだ終わらぬ戦い
三沢 明彦( 福岡放送・元読売新聞 )
オウム真理教の捜査が一段落した頃、私は事件にかかわった刑事たちを訪ね歩いていた。松本サリン事件(1994年6月27日)のあと、地下鉄サリン事件を食い止める
ことがなぜできなかったのか。ひたすら怪物化する教団の実像をなぜ見抜けなかったのか――。
当時、松本事件の第一通報者へのいわれなき嫌疑から始まった教団捜査の内側に迫った取材はなかった。ならば自分が。警察記者として、第一通報者の自宅捜索を書き、迷った末に、95年の元日紙面で「山梨県上九一色村でサリン残留物」を記事にした
私の責任であろう、と。死者8人、負傷者660人の被害を出した松本事件で、長野県警は第一通報者にこだわったとされるが、それは違う。県警はサリン原材料物質を追跡し、第一通報者の聴取翌日の94年7月20日には、刑事が薬品を購入した都内の会社に向かっていた。住所地のアパートで、刑事は住人に尾行され、信者が集団生活していることがわかった。この時、教団の影が初めて浮上したのである。10月初め、刑事は山菜採りを装い、教団施設周辺の土を採取、11月半ば、科学警察研究所の鑑定に
よって、サリン副生成物が検出された。そして、神奈川、長野、宮崎などの県警が
警察庁で極秘の捜査会議を重ね、教団の一斉捜索に乗り出すことになった。
その頃には、長野県警は教団ダミー会社がサリン原材料物質の薬品を
大量購入したことをつかんでいた。しかし、ハードルは高い。
教団は「宗教弾圧」と批判し、米国のカルト教団の集団自殺も決断を鈍らせた。
何よりもテロや組織犯罪に対する態勢が脆弱だった。
だが、化学兵器を隠し持った集団が潜んでいる、という事実を見過ごすわけにはいかない。私たちは現実と向き合うべき、教団の真実を暴き出すことこそ、メディアの
使命ではないか。反撃があるかもしれない。しかし、このまま放置すれば、再び暴発するに違いない。迷った末の決断だった。元日紙面には「教団との戦いの年にする」との決意とメッセージを込めたつもりだ。それでも、警察庁主導・県警連合の捜査は動かなかった。当時の夜回りメモには「捜索は4月の統一地方選以降(警察庁幹部)」とある。その頃に入手した教団資料には、小銃製造、生物・化学兵器、レーザー開発の文言が並んでいた。「妄想集団か」と驚いたが、すべては現実だった。
彼らは国家転覆を企てていた。
私は仮谷清志さんが命を懸けて日本を救った、と思っている。
2月28日の夕刻、彼は都内で拉致され、殺された。そして、警視庁捜査一課が最前線に立ったことで、実行犯が割り出されたのである。だが、一斉捜索の2日前の3月20日、惨劇が起きてしまった。死者13人、負傷者約6300人。さらなる暴発を食い止めることはできなかった。証拠を積み重ねて立件する刑事警察の捜査手法や都道府県警察による捜査の限界が露呈したことは確かだ。
先日、地下鉄サリン事件で、夫を奪われた被害者の会代表の高橋シズヱさんに
お会いした。なぜ惨劇が繰り返されたのか、怪物が生まれたのか。
その答えを求めて、20年たった今も、彼女は裁判所に足を運んでいる。
その姿に接し、つくづく思う。元日報道など教団との長い戦いのほんのひとこまに
すぎない。そして、その戦いはまだ終わっていない。
みさわ・あきひこ▼1979年読売新聞東京本社入社 社会部 警視庁 警察庁 宮内庁などを担当し 編集局次長を経て2011年から福岡放送 現在は同社常務取締役
( 報道・制作担当 )
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オウム裁判傍聴 裁判からの「教訓」 社会で共有できているか
瀬口 晴義(東京新聞)
長く傍聴したオウム裁判の判決で印象に残っている裁判官の言葉がある。
「師を誤るほど不幸なことはなく、被告もまた、不幸かつ不運だった」。
2006年9月、地下鉄サリン事件の実行犯、林泰男被告に一審で極刑を宣告した
東京地裁の木村烈裁判長の言葉だ。人生をやり直すことのできない弟子たちの
無念さを判決で代弁したように思えた。
解脱や悟りを求めて出家した青年たちがなぜ、人の命を奪ったのか。
根本的な疑問に迫りたいと、地下鉄サリン事件や坂本弁護士一家殺害の実行役らと面会や文通を始めた。地下鉄サリン事件の実行犯だった広瀬健一死刑囚など同世代もいた。学生時代に何かの歯車が狂っていたら、立場が逆転していても不思議ではない。そんな思いもあった。
面会を重ねたのは、一審で死刑判決などを受けた6人。彼らと交わした書簡は200通を超える。岡崎一明死刑囚からは、6年余りの間に、70通を超える手紙が届いた。
それとは別に30人近い元信者にも繰り返し取材した。うっすらと見えてきたのは、
麻原彰晃死刑囚というペテン師が、狂信的な信者を操った「異常な事件」と
矮小化すべきではないということだ。
麻原死刑囚は、ヨガや瞑想法の指導者として卓越した力量を持っていた。
神秘体験を与え、「本物だ」と錯覚させるのはたやすいことだったろう。
極貧の幼年時代、視力障害、逮捕歴…。挫折から生じた教祖の社会への
破壊願望は教団が大きくなるのと比例するように膨れ上がった。
しかし、教祖の特異なパーソナリティーは車の「片輪」にすぎない。
生真面目であるが故に、この社会のあり方に強い違和感を抱いた若者たちや心の
空虚さを満たす絶対的な存在を求めた若者たちがいて、強力な「両輪」になった。
両者の「共同幻想」がなければ、教団の暴走はなかったのではないか。
長期間、オウム事件を取材してきて最大のいら立ちは、司法の場以外で、
事件の本質を検証しようという動きがまったく起こらないことだ。
米国では10年前の米中枢同時テロの後、遺族の強い要望で独立調査委員会が設立された。超党派の上下両院議員ら10人が中心になり、1年8カ月にわたって検証した結果を発生から3年後に575ページの報告書にまとめた。中央情報局(CIA)などがアルカイダのテロを防ぐ機会を10回も見逃した、と情報機関の連携の悪さも指摘した。
翻って、オウム事件では、警察の責任が厳しく追及されたことはなかった。
神奈川県警の初動捜査が迷走しなければ、松本、地下鉄両サリン事件の芽は摘めた
かもしれない。初めてサリンが長野県松本市で使用された後、地下鉄サリン事件を
未然に防げなかったことも警察組織全体の問題として、本来は国の責任として、
厳しく検証すべきだった。
髙橋シズヱさんをはじめ遺族や被害者の奔走で、被害者を救済する特例法ができた。犯罪被害者基本法も制定された。泣き寝入りしがちだった被害者支援の道が
大きく開かれた意義は強調したい。
人を思考停止にさせるカルト組織の恐ろしさなど、裁判から得られた教訓は
社会全体でどこまで共有されているのだろうか。
オウムの後継団体に入信するのは事件を知らない若い人たちだ。
裁判が終わった後も米国は東京拘置所に高官を派遣して、サリンを生成した元幹部
からの聴取を続けている。テロに対する日米両政府の意識の差はあまりにも大きい。
せぐち・はるよし▼1987年中日新聞(東京新聞)入社 宇都宮支局 社会部などを
経て 2013年から社会部長
オウム追及の江川紹子さん 新聞記者時代の
「二つの体験」大きな糧に 毎日新聞2021/1/31 05:00
ジャーナリストの江川紹子さんは、1982年に神奈川新聞社に入社しました。
定期採用された初めての女性記者でした。
当時の神奈川新聞の新人記者は、まず校閲部に配属されることが通例でした。
校閲という新聞制作に欠かせない仕事を通じ、事実を正確に伝える大切さや新聞の
用字用語、文章のスタイルを学び、原稿の締め切りから編集、組み版、印刷へと
流れる工程を学んだうえで、現場に出るという教育課程でした。しかし、校閲部は
深夜まで働く職場です。当時は、男女雇用機会均等法が施行される前で、女性の深夜勤務は認められていませんでした。「会社もどう扱っていいのか困ったようで」、
社会部の遊軍に配属されました。その後、横浜市青葉区の通信局や警察担当になり、「好きな警察担当を続けたい」と強く希望したにもかかわらず、会社の人事発令で
司法担当になりました。しかし、司法担当として経験した二つの鮮烈な体験が、
江川さんのその後のジャーナリスト活動に大きな影響を与えることになります。
ひとつは「山下事件」です。84年に横浜市で女性が死亡する事件がありました。
女性は難病を患っており、夫が絞殺したとして起訴されました。しかし、被害者の
死因が他殺であるか病死であるかが争われ、4人の鑑定人によって行われた法医鑑定の結果がいずれも食い違うという異例の展開になりました。事件から3年8カ月たった
87年11月、横浜地裁は無罪判決を言い渡し、そのまま確定しました。「 えん罪(えんざい)は戦後の混乱期の中で起きたものだという考えが吹っ飛んだ。冤罪は今も
まさに目の前で現在進行形で起きているのだということを思い知った」といいます。
もうひとつは、86年6月に「悪質開運商法根絶を」の見出しで弁護士グループの
活動を報じた記事をめぐる騒動でした。「悪質開運商法」とはカルト教団による
「霊感商法」のことですが、当時はその呼び名がまだ定着していませんでした。
江川さんは弁護士たちの活動を報じただけでしたが、記事が掲載されると、その夜から神奈川新聞社に猛烈な電話攻撃が始まりました。内容も、具体的な地名を挙げて「社長は、そこに住んでいるはずだな」と社長への攻撃を示唆したり、
編集幹部を名指しして「娘がいるだろう」などと脅したりする手口でした。
次第に無言電話に変わり、その数は1日で約8400件に上り、会社の業務もすべて
止まってしまうほどでした。この時、牧内良平・編集局次長兼社会部長が「暴力には屈しない」と闘う姿勢をはっきりと打ち出した署名記事を紙面に載せました。
すると、電話はピタリと止まりました。700字ほどの署名記事でしたが、
言葉の力で暴力を止める現場を目の当たりにしたのです。
「冤罪」と「カルト教団」、そして「言葉の力」。社会部時代の体験は大きな糧になりました。江川さんは88年、29歳の時に退職しフリーランスのジャーナリストになりました。「会社や仕事に不満があったわけではなく、30歳を前に、もう一度自由にいろんなことをやってみたいと思ったから」と振り返ります。そして、月刊誌などに冤罪事件のリポートを連載していた89年5月11日、自宅にかかってきた一本の電話が江川さんの運命を変えました。電話の主は知らない女性でした。江川さんの記事を読み、電話帳で番号を調べてかけてきたのでした。20歳になる娘がオウム真理教信者で、突然家出して教団に行ってしまったと訴えていました。警察や東京都庁にも何度も足を運んだものの、警察には「事件でない限り動けない」と言われ、都庁からは
何のアドバイスももらえないというのです。「娘が生きているのか、死んでいるのかも確認できない」。切実でした。突然の相談に、江川さんは戸惑いました。
そこで思い出したのが、霊感商法の取材で、統一教会と戦っている弁護士た…
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「とにかく不気味」新聞記者が遭遇した地下鉄サリン事件 発生から28年鮮明に残る記憶【福島テレビ】
1995年3月20日、日本の犯罪史上最悪の無差別テロ事件が起きた。あれから28年、
その現場を取材し被害者の1人でもある男性は “風化” に警鐘を鳴らす。
鮮明に蘇る現場の様子
オウム真理教の信者らが、東京の地下鉄の車内で猛毒の神経ガス「サリン」を撒いた「地下鉄サリン事件」 14人が死亡し6000人以上が被害に遭い、首都は大混乱に陥った。
当時、一早く現場に駆け付けた1人のカメラマン。
その記憶は、写真よりも鮮明に脳裏に焼き付いている。
「いまだにオウム真理教は許せませんから。何があっても許さないですね、私は。
あの現場を見ちゃうと」そう話すのは、産経新聞の福島支局長・芹沢伸生さん。
別の取材で現場に訪れていたところ、通行人の男性に声をかけられた。
「なぜか私に耳打ちをして ”こんなところにいる場合じゃないよ、この下が大変だよ” ってこう指を指したんですよね」
とにかく不気味…迫る危険
50mほど先の日比谷線・神谷町駅の地下鉄ホームへ急ぐと、異様な光景が広がっていた。
「券売機の前で若い女性が3人座り込んで ”目が目が” って泣いてたんですね。
ホームの端から端まで、人がずらっと倒れてたイメージなんですね。サラリーマン
ですよね。その人がうつ伏せになってるんですけど、まな板の上の鯉みたいにパタンパタンと本当に勢いよく跳ねてるんですよ。何も言葉を発してないんですよそれを見た時にとにかく不気味さ。何かが起きているというのを思ったのはよく覚えてます。あとは若干、酢酸の匂い」
当時、新聞業界に身を置いて12年目。多くの現場を経験しながらも、シャッターが
切れなかった。当時の紙面には大きく掲載されたが、現場で撮影できた写真はわずか13枚だった。「事件現場では最低でもフイルム5本ぐらいは撮る。180枚くらい撮って当たり前なんですけれども、その10分の1も撮ってない。なぜかというと、自分の身も危険だということで。その時に意識なくて大の字に伸びている、意識を失っているお年寄りの方がいらっしゃって。それで若いサラリーマンが、口をおさえながら介抱してるわけですよ。申し訳ないなと思いながらシャッター押したのを覚えてます」
自身の身体にも異変が
その後、芹沢さんの体を襲った異変。目の瞳孔が小さくなり視界が真っ暗になる
「縮瞳」と呼ばれるサリン中毒の症状だった。「体の中に、いつ爆発するかしれないような時限爆弾を仕掛けられた感じなんですよ。何も考えなくなったっていうのは、結構実は経ってからで。それまでは、なんとなく地下が嫌だとか、地下鉄が嫌だとか。明らかな症状が何かっていうのはなかったですけれども、なんとなく避けてたりなんとなく嫌がっている自分がいたような気がします」
繰り返さないため ”忘れない”
首謀者とされたオウム真理教の教祖・麻原彰晃こと松本智津夫元死刑囚が逮捕されたのは、地下鉄サリン事件から2か月後。オウム真理教の一連の事件を巡っては
2018年に、松本元死刑囚など13人の死刑が執行された。
オウム真理教の一連の事件を巡っては2018年に松本元死刑囚など13人の死刑が執行
「多分、オウム真理教の起した一連の犯罪っていうのは、もう完全に忘れ去られて
いるような気が私はしてます。信じられないようなことをいっぱいやってるので、
こんなことが今暮らしている日本で、そんな大昔じゃない時代にあったんだよって
いうのは、ちょっと知ってほしいなと思います。 1人で思い悩んでいる人が
どうしていいかわからなくて相談ができなくて、たまたまオウム真理教だった。
小さい頃からネット環境に染まっていると、ネットの中に活路や救いを生み出す
可能性もあると思うので、そういう意味ではオウム真理教的なことは、
今の方が場合によっては起こりやすい可能性もあるのかな」事件から28年。
同じ凶悪事件が繰り返されないよう、記憶を伝え続ける。
地下鉄サリン事件現場に遭遇ーー36歳でメーカーから
テレビ局記者へ転身
「今までのキャリアをかなぐり捨て無我夢中に」一部抜粋
1992年に日産自動車からフジテレビへ転職、36才で初めてマスコミ業界に飛び込んだ。入局後は経済・政治担当キャップ、ニューヨーク特派員、報道番組「ニュースJAPAN」のメインキャスター、経済部長、解説委員、BSフジ「プライムニュース」
解説キャスターを経て、2013年に独立、現在は自身が立ち上げたウェブメディア「Japan In-depth」の編集長を務める安倍宏行さん。異例の経歴とその仕事観、
見据える日本のメディアの将来像について伺った。
( 聞き手:村上和 連載企画:学生が迫る、メディアの担い素顔 )
それまでとは180°違う仕事
ーー実際に報道の仕事に携わる中で、始める前にイメージしていたものと
ギャップはありましたか。
まず、面接の度に「記者はやめた方がいい」と面接官に言われました。それから
「いい歳だし駆け出しから記者をやるのは大変だ」とも。そうは言ってもやったことがないのでわからない。できないと言われる度に、「そんなことありません。
大丈夫です」と言っていましたね。完全に反骨精神です。根拠はありませんがね。
配属後は、当然右も左もわかりませんでした。全く違う業種への転職で、漁師が突然銀行に転職するようなものですよ。また、昔は報道の現場は荒っぽかったのです。
ただ、あまりに違ったからこそむしろ楽しめました。普通のオフィスワークだったのが、突然現場の仕事になり、時には地べたに座ってずっと人を待つこともありました。現場でカメラマンに、「この前まで銀座のオフィスにいたんでしょ。まさか体育座りしてマック食べるとは思わなかったでしょ」と言われたこともありました。
0からのスタートなので、今までのキャリアをかなぐり捨てて無我夢中でやりました。それが嫌だと考える暇もありませんでした。今思うと無茶ですし他人には勧めません。一発目の転職は20代でしろと俗に言いますし。
ーー歴史的に大きな出来事を取材したことはありましたか。
地下鉄サリン事件の取材です。私は引きの強い(何かの重大な出来事が起こった時に必ず現場にいる)記者だと言われていました。
その日、私は日比谷線の神谷町駅近くの東京共同銀行の前にいました。
前年に東京協和信用組合と安全信用組合が破たんし、何千億円という負債を抱える
ことになったのです。不良債権が積み上がり、金融機関が連鎖倒産しかねないため新たな公的な整理機関である東京共同銀行を作ることになりました。そのオープニングが9時から神谷町で行われる予定で、経済部の記者も各社揃っていたのです。
そのとき、産経新聞のカメラマンが「駅で大変なことが起こっている」と飛んできたかと思うと、カメラを持って足早に現場に向かって行ってしまいました。私も周囲の記者も経済部の取材があったのでためらっていましたが、ただならぬ様子なので、
駅がすぐ近かったこともあり様子を見に行きました。
駅に着くと10人以上が倒れていて、転げ回って苦しんでいたり、口もきけず白目向いていたり、泡吹いていたりしている人が目に入りました。信じられない光景で、とにかく早く映像を撮らなければ、と思いましたが、そのときフジテレビのカメラマンは出勤中でまだ到着していなかったのです。ようやくカメラマンが到着したタイミングでポリスラインが張られ、現場に入れなくなってしまいました。ふと目をやると、外国人の方が倒れていたので、救急消防の隊員に、「英語が話せるから」と入れてもらいました。
その後11時頃に警視庁がサリンが原因であると発表。午前中から緊急特番を放送
しましたが、社会部の記者は皆出勤途中だったので現場にいたのは私だけでした。
カメラが回っている間もずっと自分1人でリポートし、撮って出し( 撮影したものを編集せずにそのまま放送すること )になりました。
今でもフジテレビに事件発生直後の記者リポートは私のものしかないはずです。
ーー安倍さんは『 ニュースJAPAN 』のメインキャスターもされていたそうですね。
記者時代との違いを教えてください。
自分で原稿をかけないことです。他人の書いた原稿を読むだけですし、
勝手なことも言えません。全く立場が違いました。
ーー自分で取材できるわけではないと。
そうですね。突発的な出来事が起こって現場にキャスターが行くことも
稀にありますが、通常はスタジオでニュースを読みます。
ーーなぜ急に記者からニュースキャスターに転向したのでしょうか。
未だにどうしてなのかわかりません。ちなみに、半年くらい経つと
視聴率が上がり始め、時には2桁を叩きだすようにもなりました。
軌道に乗ったきた時にまた突然上司に、「経済部長にするから経済部を率いてくれ」と言われキャスターを降りることになりました。
ーー記者は専門職というイメージがありますが、テレビ局では
ずっと記者でいられるわけではないのですか。
テレビは新聞と比べると専門性が低い。NHKは事情が異なりますが、民放ではベテ
ラン記者であっても番組制作に回ることも多く、ジョブローテーションが盛んです。
この事件は、TVで観て知っていましたが、報道されていないだけで、警視庁などは
地道に動いていたんだと分かりましたが、占い師の母が「改革には痛みも伴う」と
言っていましたが。もしサリンの事件の前に、仮谷清志さん拉致事件時に、それ以前にオウム真理教に捜査がされていたら・・・また違った展開になっていたんでしょ。
そして、この事件を忘れない、許してはならない、ということを肝に銘じたい
言葉の力で暴力を止める現場を目の当たりにしたように、私もこれから、もっと
言ったり書いて行きます
決して泣き寝入りはしない!詰めを甘くしないように!と言われていました。
裁判長も言っていましたが、私は、占い師の母という師に育てて貰って良かった
今までとは180度違う仕事(ライティング)に就き頑張って行きたいです。
そして、それを本業にして副業で母の形見の水晶を使って、占い師に成れたらと
思っています。両方とも勉強や経験を積まないといけない・・・
純ちゃんに嫌な事 ( 首や頭を痛くしない、咳込まさない、口臭も持って来ないで、
体を動かしにくくしない、転ばさない、痛くしないで ) 人の言葉を言わさないで
【ボートゲームの禁じ手】を使わないで!
いくつかのゲームには、ルールで定められた禁じ手が存在する。
禁じ手を打った(指した)場合、即座に負けとなるのが一般的である。
スポーツやゲームのように明確な規制で禁じられたものではなく、
「使うべきではない」とされる手法についても「禁じ手」と呼ばれることがある。
※このルールを違反した時点で、ゲームオーバー及びゲームアウト!
その技術を使わないで!
嫉妬や執着、妬み、依存、あの三女が遠隔でコントロールするの止めて
( あの三女、私をあの子に近づけようと、刀で相手をバッサリ切らす様にしてくる )
本当に、人に迷惑がかかる言動行動は止めて。心に入って来ないで、広げないで。
人に体調不良やネガティブな感情を持って来ない。口臭も。咳込まさない。やる気を取らない、人の後ろに憑かない憑依しない、心を読まない、言ってこないで
思考低下させない、胸にモヤモヤさせない、情報を吸い上げないで。トイレ関係も。
言葉使いが乱暴。人をバッサリ言葉で切らない。深夜に連絡してこないで
仕事の邪魔や記憶障害にしない。目の錯覚、頭をボーっとさせないで、笑い上戸にしない。人に言われたことを他人の心の中に持って来ないで、響かせないで
特にブログを書いている時、いちいち注文を言ってこないで、自分で考えて書いて。
私が寝てると思って、いろんなことを言うの止めて、負けず嫌いも程々に、優柔不断、人間不信を持ってこないで、キツイ気を感じる。毒舌禁止、散財禁止
自分が言わせたい言葉を人に言わせない。乗り物関係を運転時は、邪魔をしてこない
人の感情やパワーを抑えない、持って来ない。口のろれつが回らないようにしないで
頬を麻痺させない!唇を痺れさせない!卑猥な言葉を言ってこない、言わさないで
あの親子、水晶を使って人を脅さない。過保護にしないで!。個人情報保護法、
プライバシー侵害しない!その力、仕事以外に使わないで!人の為に使って、
決して悪いように使わないで。日本には、言論の自由がある( 自分達に嫌な事を言われていると思って咳込まさないで、自意識過剰、被害者意識が酷い )
全責任は、お母さん達に取ってもらう。もちろん本人にも取ってもらう!
人のPCやスマホにハッカーになって侵入してこないで、エラーが出たので止めて
首を痛くしないで!長女のパワーを持って来ないで!使わないで!
上記に書いていることは、みんなのことを指す
3つの約束やルール、個人的に約束した事、日本の常識は必ず守って。
アミューズ同様、みんなに対しても約束など厳守して
( 私の言うことを聞く・命関係は打ち止め・引退関係・契約書など、反故にしない )
いつもありがとうございます。
最後までお読みいただきありがとうございます