「 理想の死に方は女優・杉村春子さんの最期。

人生のラストシーンは自宅より病院で迎えたい 」

2024年01月07日 婦人公論.JP

 

中村メイコさん「人生の最期は家ではなく病院で迎えたい」(写真:講談社)

 

女優の中村メイコ( なかむら・めいこ、本名神津五月=こうづ・さつき )さんが2023年12月31日に肺塞栓症(はいそくせんしょう)で死去したことが、2024年1月7日に発表された。89歳だった。昨年には『徹子の部屋』にも出演、12月にも番組収録にも参加するなど現役で活躍していた。父は作家の中村正常氏で、父に抱かれた

幼少期の写真が婦人雑誌のグラビアに掲載されたことがきっかけで映画デビュー。

86年という芸能生活を、生涯現役のまま幕を下ろした。心よりご冥福をお祈りするとともに、メイコさんが「理想の死に方」について語った記事を再配信します。
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昭和9年生まれの中村メイコさん。最近では骨折と入院を経験され、コロナ禍で女優業も思うようにならないという毎日を送っています。そのような中で自らの人生の最期を考えたなら、自宅ではなく、病院でその時を迎えたいとのこと。

常に明るく生きてきたメイコさんが考える理想の死に方とは――。

「在宅死」より「病院死」のほうがいい

慣れ親しんだ自宅で最期を迎えたい―。

そう考えている人も多いようだが、私は違う。

人生のラストシーンはシンプルな病室で迎えたいと思っている。

そのほうが家族は死を受け入れやすいし、後の気持ちの整理もつくからだ。

家で亡くなると、そこでまだ私が眠っているような気がして、家族も落ち着かない

ことだろう。

同居していた姑の最期がまさにそうだった。亡くなった後も彼女の部屋に入ると、

最期の日々が思い出されて涙があふれたものだ。家族にそんな寂しい思いはさせたくない。

女優ふうに言えば、家というのは人が死ぬための「セット」として似つかわしく

ない。やはり病院で死んでいくのがしっくりくるし、人生最後の演技のやり甲斐も

あるというものだ。

ひばりさんも、最後の日々は病院で過ごした。私は何度もお見舞いに行ったけれど、家にいたときよりもほっとしているように見えた。

彼女が元気な頃に住んでいた青葉台の豪邸には人が頻繁に訪ねてきて、にぎやかでよかった。でも、病を患って一人で過ごすには大きすぎるし、寂しかったに違いない。

理想は< 杉村春子さんの最期 >

私は最期の場面を迎えるための準備を少しずつ始めている。

まず、「見限りのいい主治医」が必要だ。延命治療など望まないし、「頑張って」

などと言われたくない。頑張りすぎず、ありのままに生きることが信条だった

のだから、それを貫き通したい。

「田舎のバス」(作詞・作曲:三木鶏郎)がヒットした頃の中村メイコさん。

『婦人公論』昭和30年5月号より(写真:中央公論新社)

 

ただ死ぬ瞬間まで、お洒落でいることはやめたくない。病院のおしきせの寝間着は

嫌だ。私の好きな画家のマリー・ローランサンは、薄いグレーのサテンのネグリジェを着て、淡いピンク色のシーツに包まれ、ふわりと死んでいったという。

ちょっと気取りすぎていて、私には似合わないかもしれないが、

せめて綺麗にマニキュアはしたまま死んでいきたい。

理想は、女優の大先輩、杉村春子さんの死に方だ。

二ヵ月半ほど病院で過ごされて、91歳で亡くなったのは平成9年の春だった。

入院は極秘にされていたのでお見舞いに行くこともできなかったが、

亡くなられた後に出版された本で、入院中の様子を知った。

見た人が明るい気持ちになるような最期の一幕を

杉村さんは、病院の中でもきちんときれいに浴衣をお召しになっていたという。

中村メイコさん。昭和49年3月25日、中央公論社にて撮影(写真:中央公論新社)

 

ハンサムな主治医の先生が大好きで、全面的に信頼していた。その先生が学会か何かで日本を一週間離れることになった。出発の前日、主治医は杉村さんの部屋に来て、言った。「杉村さん、絶対に大丈夫ですからね。担当の医者たちにすべて指示して

あります。お元気で待っていてくださいね」それを聞いた杉村さんはやおら体を

起こすと、「先生、帰ってきてくださるわよねぇ」と、医師の腕をかき抱いた。

「よっ、杉村春子!」という声がどこかから聞こえてきそうだ。

人生の最終盤でこんな見事なシーンを演じられるとは! 

私も喜劇役者なりのやり方で、見た人が明るい気持ちになるような

最期の一幕を演じ切りたい。

最後の言葉さえ伝えられたなら

昭和56年に亡くなった私の父も、最期を病院で迎えている。

いくつになっても元気で病気もほとんどしたことのない人だったが、

ある日体調を崩して入院、一週間もしないうちに亡くなった。

 

私は仕事で渡米していたため、父の死に目には会うことができなかった。「親の死に目に会えない」ことを不義理だと恥じる人も多いが、私はそうは思わない。

アメリカへの出発直前、父が心配だった私はつい「アメリカに行くの、やめようかな」と言ってしまった。そんな私に、病院のベッドで寝ていた父はこんな言葉を

かけてくれた。「君らしくないことを言うな。メイコは女優なんだから、

きちんと仕事をしてきなさい。また会えるよ」その時、父は背筋を伸ばし、

海軍式の敬礼をした。あんなに軍隊が嫌いだった父がそんなことをするなんて。

私はなぜかぞーっとした気分になり「ああ、もうお別れなのだ」と悟った。

私の予感どおり、父は私がアメリカに行っている間に亡くなった。

その日は自分の誕生日で、ちょうど80歳になった日に父は亡くなった。

母は泣きながら「ハッピーバースデー」を歌って、送ったという。

不思議なことに、人は自らの死期が近いことを悟り、メッセージを伝えることが

できる。最後の言葉さえ伝えられたなら、旅立つ瞬間に一緒にいたかどうかは

どうでもいいことだ。

病院であっという間に息を引き取りたい

私の母が亡くなったのも病院だった。亡くなる三年ほど前から、私たちと同居して

いたが、母は自分でごはんを作り、洗濯もしていた。ところが散歩中に土手で

転びそうになり、手をついたら骨折。それから少しずつ元気がなくなっていった。

検査を受けたいというので近くの病院に検査入院をしたら、肺癌が見つかった。

年齢を考えると、手術は困難という状況だった。

母は見かけによらず怖がりなので、告知はしないことにした。

病院の個室に入れて、病室を綺麗に整え、友達を頻繁に呼んだ。友達が来るたびに

缶ビールを開けて、本人も飲んで、小さなパーティのようだった。

入院して二ヵ月ほど経ったある日の夕方、病院から電話があった。

「今日がお別れの日になるでしょう」と担当医が告げた。

急いで病院に駆けつけると、母は意識があるのかどうか分からない状態で、

目を閉じたまま、フーフー、ハーハー苦しそうにしていた。

そんな母を見ていたら涙があふれてきて、あまりの悲しさに言葉が出てこない。

何十年も女優を続けてきた私が、台詞ひとつ言えなくなったのだ。

すると夫が後ろからそっと囁いてくれた。

「今まで、どうもありがとう。メイコはママが大好きよ、と言うんだよ」

混乱していた私は、そのまま言葉を伝えた。お医者さんから「あまり長くいるのも

いけない」と言われ、病院を出てしばらく歩いたところで携帯が鳴った。

「今、お母様が亡くなりました―」またしても、私は親の死に目に会えなかった。

でも、こう思うこともある。亡くなる瞬間はあまりに悲しくつらいものだ。

だから、怖がりの私がそんな苦しみを味わうことのないように、

神様が死に目に会えないよう配慮してくださったのだ。

私自身も、子どもたちにつらい思いをさせたくはない。

病院で医者に囲まれながら、あっという間に息を引き取るのが理想だ。

 

――中村さんのご冥福をお祈りいたします。

 

*本稿は、『 大事なものから捨てなさい―メイコ流 笑って死ぬための33のヒント 』(講談社)の一部を再編集したものです。


19年には骨折と入院を経験し、コロナ禍で女優業も思い通りにならない。

そんななかでも明るく生きる喜劇役者が語る「生きるヒント」。

 

中村メイコ女優

テレビ、舞台、著述などで幅広く活躍。

『 87歳と85歳の夫婦 甘やかさない、ボケさせない 』(共著)、

『 大事な物から捨てなさい 』ほか著書多数

 

 

俳優の中村メイコさん死去、89歳 テレビ草創期から活躍

 

 テレビ草創期から俳優や司会としてお茶の間に親しまれた中村メイコ、本名 神津

五月〈こうづ・さつき〉)さんが昨年12月31日、肺塞栓(そくせん)症で死去した。

89歳だった。所属事務所が今月7日、発表した。

葬儀は親族で行っており、後日お別れの会を開く。

 

 小説家の中村正常を父に、新劇俳優の中村チエコを母に、東京で生まれた。

2歳8カ月で父に抱かれてグラビア誌に登場、1937年には映画

「江戸っ子健ちゃん」に初出演。「天才子役」といわれた。

 

 奈良に疎開し、戦後、東京に戻った。49年からNHKラジオに出演した。

ラジオドラマでは複数の役を見事に演じ分け、「七色の声」を持つといわれた。

59年から3年続けてNHK紅白歌合戦の司会を務めた。NHK「お笑いオンステージ」

では故・三波伸介さんと共演。バラエティー「連想ゲーム」では紅(あか)組

キャプテンとして人気を博した。2002年のNHK連続テレビ小説「さくら」や、

08年の大河ドラマ「篤姫」にも出演した。

数年の婚約期間を経て57年に作曲家の神津善行さんと結婚した。

長女はエッセイストの神津カンナさん。83年にNHK放送文化賞、

02年に第2回徳川夢声市民賞などを受賞。

 

 所属事務所のホリプロによると、昨年12月25日の番組収録が

最後の仕事だったという。

 

 夫の神津善行さんは今月7日にコメントを発表。「2歳8カ月で映画デビューしてから86年という芸能生活を、生涯現役のまま幕をおろすことになりました。長い時間をこの世界に存在させていただいたこと、皆様に深く感謝申し上げます」と述べた。

 

 

中村メイコさん死去、89歳 夫の神津善行さん「生涯現役のまま幕をおろすことに」2歳でデビュー…テレビ草創期から

活躍 

 

ラジオやテレビの草創期から活躍した女優、中村メイコさんが昨年12月31日午後10時45分、肺塞栓症(はいそくせんしょう)のため東京都内の病院で死去したことが

7日、分かった。89歳だった。所属事務所のホリプロによると、近親者で葬儀・

告別式を済ませた。後日お別れの会を開く。最後の仕事は昨年12月25日に

収録したテレビ朝日系「徹子の部屋」で、夫で作曲家の神津善行さん(92)は

「生涯現役のまま幕をおろすことになりました」と愛妻をねぎらった。

デビュー作「江戸っ子健ちゃん」の写真

2歳から芸能界で活躍し、ラジオや映画、ドラマ、バラエティーと

〝なんでもできる〟昭和の実力派女優が旅立った。

メイコさんは2019年夏に夫の善行さんが開いた演奏会の楽屋で転倒し、股関節を

骨折。以降、車いすを使って生活することが多かったが、死ぬまで続けたBS朝日

「世界の船旅」のナレーションなど元気に仕事をこなしてきた。

昨年10月に東京都庁で行われた「名誉都民」の顕彰式では車いすで登場し、「〝メイコがねぇ〟って皆さんびっくりしてらっしゃると思います」とユーモラスに表現。

昨秋に仕事をした関係者によると、「頭と口は昔と変わらず達者で

冗談も話していました」と突然の悲報に絶句した。

最後の仕事となった今年のクリスマスの番組収録は、大親友の女優、黒柳徹子(90)のトーク番組「徹子の部屋」(月~金曜後1・0)で、未放送のため〝遺作〟に。

別の関係者によると、亡くなる6日前の収録時も普段と変わらない様子だったが、

容体が急変し、夫ら家族に見守られながら肺塞栓症で大みそかに息を引き取った。

08年夫婦で対談

 

葬儀は親族で済ませ、後日お別れの会を行う。喪主を務めた善行さんは「2歳8カ月で映画デビューしてから86年という芸能生活を、生涯現役のまま幕をおろすことに

なりました。長い時間をこの世界に存在させていただいたこと、皆さまに深く

感謝申し上げます」とコメントを寄せた。

 

東京都出身のメイコさんは1937年、映画「江戸っ子健ちゃん」の角帽の子供、

フクちゃん役でデビュー。NHKラジオの連続放送劇「ほがらか日記」で注目され、

天才子役と呼ばれた。44年に奈良県に疎開し、関西で演劇活動後、49年に帰京。

NHKラジオ「ジロリンタン物語」「お姉さんといっしょ」で七色の声を披露し、

〝電波の申し子〟として超売れっ子となった。

映画「東京チャキチャキ娘」(56年)、「御用聞き物語」(57年)などに出演。

明るい娘役を務める一方、55年から歌手としても活動し、同年のデビュー曲「田舎のバス」が大ヒット。59~61年までNHK紅白歌合戦の紅組司会を務めた。

私生活では57年に善行さんと結婚し、長女でエッセイストの神津カンナ(65)、

次女の女優、神津はづき(61)、画家の神津善之介さん(51)が誕生。

〝神津ファミリー〟としてもテレビで大人気となった。

92年にはづきが俳優、杉本哲太(58)と結婚する際には家族で会見を開くなど

親しみやすい芸能一家のイメージを開拓してきた。約86年の芸能人生を

まっとうしたメイコさん。あの明るい声は国民の記憶に残り続ける。

 

 

【コメント全文】黒柳徹子「寂しくなります」、

親友・中村メイコさん追悼、最後に会ったのは昨年

クリスマス収録「徹子の部屋」スポーツ報知

 

 女優の中村メイコさんが昨年12月31日午後10時45分、肺塞栓症のため死去した。89歳だった。所属するホリプロが7日、発表した。

 

 中村さんの親友で女優の黒柳徹子(90)が7日、スポーツ報知などに

追悼のコメントを寄せた。最後に会ったのは、昨年12月25日のテレビ朝日系

「徹子の部屋」(月~金曜・後1時、放送日未定)の収録だった。

 

【 以下、コメント全文 】

 メイコさんと最後に会ったのは、今から2週間前の「徹子の部屋」でした。

ちょうどクリスマスの日でした。メイコさんは元気で

「私が死んだら弔辞はあなたが読むのよ」なんて言ってました。

 

 しょっちゅうそういうことを言っていたので、特別なこととは思いませんでした。番組の終わりで「メイコさん夢は?」と伺ったところ、「犬の役も猫の役も

トンビの役もやったからないのよね~」が喜劇女優、最後のセリフでした。

 

 メイコさんは幸せだったと思います。家族みんなが理解してくれていたからです。2歳から仕事をしてたんですから、私から見ると変わっていましたが、

周りのみんなが、彼女にあわせて大切にしてくれていたからです。

 

 普段会うと「知らなんだ、知らなんだ」と芝居じみたセリフを言ってよく笑わせてくれました。眠る様に亡くなったと伺いました。デリケートな彼女が悩むことなく

あちらの世界に逝かれたのは、私にとっては心が休まることです。会う度に何か

ちょっとしたプレゼントをくださる方でした。寂しくなります。

 

中村メイコさん死去 3人の子育てにも全力「3時間以上

寝たことはないですね」とも…89歳 肺塞栓症のため

スポーツ報知

 

 女優の中村メイコさん(本名・神津五月)が昨年12月31日、肺塞栓症のため死去

した。89歳だった。所属するホリプロが発表した。葬儀・告別式は密葬で、親族のみで執り行った。後日、お別れの会を行う。最後の仕事は昨年12月25日、番組収録だった。作曲家の夫・神津善行氏(92)は「2歳8か月で映画デビューしてから86年という芸能生活を、生涯現役のまま幕をおろすことになりました。長い時間をこの世界に存在させていただいたこと、皆さまに深く感謝申し上げます」とコメントした。

 

 2歳8か月から芸能界を渡り歩いてきた、昭和で最も芸歴の長い女優の1人が

この世を去った。7つの声を使い分けて声優、女優、司会、歌、全てをこなした。

 「まったく記憶がない」という映画「江戸っ子健ちゃん」のフクちゃん役として

若干2歳でデビュー。5歳でNHKラジオ「ジロリンタン物語」「お姉さんと

いっしょ」などに出演。「七色の声」と呼ばれて人気になった。

「学校がすむと、子供はみんな放送局へ行くと思っていた」。

芸能界にいたのは86年。物心ついた時にはすでにタレントだった。

 

 ユーモア作家・中村正常の一人娘で、父親独自の教育方針も影響し、

中村さんの最終学歴は小学校卒業。その分、現場で女優としての力を蓄え続けた。

そんな演技力が培われたのは幼少期の頃の1人おままごとだった。「母(ちえこさん)に人形を与えてもらって、郵便屋さんや八百屋さんの言動をまねしていた。

それがすこし大きくなったら、家に来る雑誌や出版社の方のマネをしていた」。最終的には14人の演じ分けが可能になる声色を手に入れた。七色の声を駆使した話術も

人気で、ラジオとテレビの掛け持ちで、週に13本のレギュラー番組を持っていた。

1959年から3年間NHK「紅白歌合戦」の司会を高橋圭三と務めた。

 

 中村さんが力を入れたのはタレント、女優業だけではない。同じくらい家庭に

力を入れていた。1957年に作曲家・神津善行氏と結婚し、子供3人を授かった。

「朝はうちで子供と一緒にいてやる。午後仕事して、夕方は必ず家に帰り、自分で

夕食をこしらえる。それからまた仕事というのが日課。朝はママと一緒にはじまり、夕食にもママがいるという生活を子供にもさせてあげたい」。

結婚してからは「いまだに3時間以上寝たことはないですね」という。

 

 2004年の本紙インタビューで、今後の目標は「引退」と答えた。「よく、役者が

舞台で死ぬのは本望っていいますけど、私は職場にそんなご迷惑はかけたくない。

お客さんも共演者もびっくりするし。何かきっかけをみつけないと」。

 

 声優、女優、タレント、司会、歌手、良妻、作家の

 “七足のわらじ”で歩き、86年の芸能人生を駆け抜けた。

 

 ◆中村 メイコ(なかむら・めいこ)本名・神津五月。1934年5月13日、東京都

生まれ。37年、映画「江戸っ子健ちゃん」でデビュー。51年からNHKラジオ「ジロリンタン物語」「お姉さんといっしょ」などに出演。「七色の声」と呼ばれて人気に。

59~61年までNHK紅白歌合戦の司会を務めるなど幅広く活躍。

著書に「ママ横をむいてて」など。NHK放送文化賞など多数受賞。

 

 

メイコさんのお父さんが亡くなる前と、中森明菜さんのお母さんの状況に似ている。

( レコ―ディングの為にアメリカへ行かないと、その間に・・・ )

 

メイコさんのお母さんの状況と私のお祖母ちゃんの時の状況が似ている 物申すパンチ!パンチ!

(1週間の昏睡状態で面会後、自宅に戻る最中に病院から電話が・・・)

 

中村メイコさんは、連想ゲームなどTVで観ていました。 

楽しい人で、いつも明るいメイコさん、天国で好きな人たちに出会えて、演劇の話をみんなでして盛り上がっていますか? 

家族の人たちは、健康で仲良く長生きして、お仕事頑張って下さい 笑ううさぎ おばあちゃん 虹  

 

ご冥福をお祈りいたします。

 

 

純ちゃんに嫌な事 ( 首や頭を痛くしない、咳込まさない、口臭も持って来ないで、

体を動かしにくくしない、転ばさない、痛くしないで ) 人の言葉を言わさないでプンプン爆弾

 

【ボートゲームの禁じ手】を使わないで!

いくつかのゲームには、ルールで定められた禁じ手が存在する。

禁じ手を打った(指した)場合、即座に負けとなるのが一般的である。

スポーツやゲームのように明確な規制で禁じられたものではなく、

「使うべきではない」とされる手法についても「禁じ手」と呼ばれることがある。

 

※このルールを違反した時点で、ゲームオーバー及びゲームアウト!プンプン

その技術を使わないで!

 

嫉妬や執着、妬み、依存、あの三女が遠隔でコントロールし、あの子達が人の後ろに憑くの止めて  ムキー パンチ!パンチ!パンチ!

( あの三女、私をあの子に近づけようと、刀で相手をバッサリ切らす様にしてくる )

本当に、人に迷惑がかかる言動行動は止めて。心に入って来ないで、広げないで。

人に体調不良やネガティブな感情を持って来ない。口臭も。咳込まさない。やる気を取らない、人の後ろに憑かない憑依しない、心を読まない、言ってこないで プンプン パンチ!パンチ! 

思考低下させない、胸にモヤモヤさせない、情報を吸い上げないで。トイレ関係も。

言葉使いが乱暴。人をバッサリ言葉で切らない。深夜に連絡してこないで 物申す パンチ!パンチ!

仕事の邪魔や記憶障害にしない。目の錯覚、頭をボーっとさせないで、笑い上戸にしない。人に言われたことを他人の心の中に持って来ないで、響かせないで ムキー 爆弾 パンチ!

特にブログを書いている時、いちいち注文を言ってこないで、自分で考えて書いて。

私が寝てると思って、いろんなことを言うの止めて、負けず嫌いも程々に、優柔不断 プンプン パンチ!パンチ!

自分が言わせたい言葉を人に言わせない。乗り物関係を運転時は、邪魔をしてこない 

人の感情やパワーを抑えない、持って来ない。口のろれつが回らないようにしないで

頬を麻痺させない!唇を痺れさせない!卑猥な言葉を言ってこない、言わさないで パンチ!

あの親子、水晶を使って人を脅さない。個人情報保護法、プライバシー侵害しない!

その力、仕事以外に使わないで!人の為に使って、決して悪いように使わないで ムキー パンチ!パンチ!パンチ!

全責任は、お母さん達に取ってもらう。もちろん本人にも取ってもらう!

人のPCやスマホにハッカーになって侵入してこないで、エラーが出たので止めて パンチ!むかっ

首を痛くしないで!長女のパワーを持って来ないで!使わないで!

上記に書いていることは、みんなのことを指す 物申す パンチ!パンチ!パンチ!

 

3つの約束やルール、個人的に約束した事、日本の常識は必ず守って。

アミューズ同様、みんなに対しても約束など厳守して パンチ!パンチ!パンチ!

( 私の言うことを聞く・命関係は打ち止め・引退関係・契約書など、反故にしない )

 

 

いつもありがとうございます。

 

最後までお読みいただきありがとうございます 愛飛び出すハート