彼らは今、北朝鮮で何を思うのか 2020.03.27

 

平壌で暮らす6人

1970年3月31日、羽田空港から福岡・板付空港へ向かった日本航空351便(愛称「よど号」)がハイジャックされた。日本で最初のハイジャック事件である。犯行メンバーは、新左翼の

一党派である「共産主義者同盟赤軍派」の9人で、リーダーはその軍事委員長の田宮高麿。

ハイジャックは当初、3月27日に決行されることになっていた。ところがメンバーの中で

4人もが、飛行機へ乗ることに不慣れだったために乗り遅れたのである。

改めて決行することになったのは31日。午前7時20分、乗客131人を乗せた「よど号」は、

福岡へ向けて羽田空港を離陸した。それから20分ほどした時、田宮が立ち上がったのを合図に他のメンバーは “拳銃” や “日本刀” などを取り出した。当時はまだ、搭乗時の荷物検査が

なかったのである。ただ、これらの “武器” は、すべて模造品だった。

メンバーたちは鍵の掛かっていない操縦室へ駆け込み、機長に北朝鮮の首都・平壌

(ピョンヤン)へ行くよう迫る。そして、乗客全員の手首をビニール紐で縛り上げた。

ここから、「よど号ハイジャック事件」が始まったのである。

「新左翼」運動が追い込まれていく中で「国際根拠地」を求め、

「よど号」をハイジャックして北朝鮮へ渡った「赤軍派」の9人。

現在は、そのうちの生存する実行犯とその妻が平壌で暮らしている。

 

 

この記事のために撮影された全員の近影(2020年2月16日撮影、「よど号グループ」提供)

この「よど号グループ(以下「グループ」)」は、小西隆裕(1944年7月生まれ)、

若林盛亮(1947年2月生まれ)、赤木志郎(1947年11月生まれ)、魚本(旧姓・安部)公博(1948年3月生まれ)。そして田宮高麿(1943年1月- 1995年11月)と結婚した森順子(1953年5月生まれ)と、若林盛亮の妻・若林(旧姓・黒田)佐喜子(1954年12月生まれ)の6人。

私が「グループ」と最初に出会ったのは1992年8月。

当時の彼らは、訪朝した日本人に会おうとしてホテルへ訪ねて来た。

そうして何度か会って雑談を交わしてきたものの、取材は受け入れられなかった。

 

日米の動きに連動して取材が実現

米国は、北朝鮮が「よど号」ハイジャック犯を保護していることを「テロ支援国家」指定の

理由の一つとしていた。それが2008年10月に解除されることになり、「グループ」の帰国の

可能性が出てきた。そのため、スポークスマンの若林盛亮への取材が実現。これは『週刊現代』7月26日号に「北朝鮮 よど号犯が独占激白 『日本人拉致』と『帰国』」として発表した。

次に、ハイジャックを決行した4人へのインタビューを計画した。

ハイジャック事件が起きた当時、『週刊少年マガジン』に連載されていた漫画

「あしたのジョー」(原作:梶原一騎、画:ちばてつや)は爆発的人気を誇っていた。

リーダーの田宮は、事件直前に執筆した「出発宣言」に「最後に確認しよう。

われわれは “明日のジョー” である」と結ぶほどだった。「赤軍派」のハイジャック犯に

とって、「あしたのジョー」は特別な意味を持っていたのだ。そのため2009年4月、4人に

「あしたのジョー」への思いを中心にインタビューをし、『週刊現代』5月16・23日合併号に「よど号ハイジャック犯が語る『 40年目のあしたのジョー 』」を掲載した。

 

 

自分たちが所有する「あしたのジョー」を前にした4人(2009年4月13日撮影)

その後、私は、「グループ」が居住する「日本人村」で、妻たちを含めた6人を取材する

交渉を続けたものの実現には至らなかった。ところが2014年5月の「日朝ストックホルム合意」によって、北朝鮮が国内で暮らす “日本人調査” を実施することが決まると、日本政府との

帰国交渉を望む「グループ」は、一転して私の取材を受け入れることになった。

その年の9月、私は「村」に7日間滞在して徹底取材をした。

それはテレビ東京系列『未来世紀ジパング』(10月20日放送)などで発表した。

2年ほど前からハイジャック事件50年に向けた取材交渉をしてきたが、彼らと直接会って取材

することはついに実現しなかった。そこで「グループ」へ54項目の質問を送付したところ、

A4用紙37枚におよぶ「回答」が送られてきた。また、この記事のために最近の写真を

依頼したところ、新たに撮影したものを含めた4枚が手元に届いた。

この「回答」には、今まで明らかにされてこなかった話が数多く含まれている。

それらを中心にして「よど号ハイジャック事件」を振り返り、知られざる「グループ」の

活動や生活、帰国をめぐる新たな動きを紹介する。

なお、彼らからの文章を少しでも忠実に伝えるため、分かりにくい箇所のみの修正にとどめた。また「グループ」が、北朝鮮を「朝鮮」としているのはそのままにしている。

 

当初の目的地はキューバだった

私は以前から、「赤軍派」が合法的に出国するのではなく、なぜ “ハイジャック” という手段を取ったのか疑問に思っていた。日本から外国への渡航は1964年には自由化されていたからだ。1995年に死亡した田宮の後に「グループ」を率いてきた小西が答えた。

「全員、逮捕状が出ていたり、裁判中だったりしていたという事情から」という拍子抜けする

話だった。彼らには、外国へ出るのに、非合法の手段しか選択肢がなかったのだ。

「赤軍派」を含めた新左翼運動は、警察から徹底的な弾圧を受け、過激な運動形態によって

民心が次第に離れていった。追い詰められた「赤軍派」は起死回生の方策として、

とんでもない計画を立てた。それは、社会主義国で軍事訓練を受けてから日本へ密入国で戻り、

銃と爆弾で武装蜂起して首相官邸を占拠する、というものだった。

そのために、彼らが向かおうとしたのは実は “キューバ” だった。その理由とキューバとの

交渉経緯を小西が説明した。「キューバと新左翼との交流があって親近感が強かった上に、

私たち自身、具体的な連係の線があったから」とし、「当時の駐日キューバ大使と、

私たちの知人を介し直接会って交渉しました」と具体的だ。

 

 

「主体(チュチェ)思想塔」前の4人(2014年9月24日撮影)

キューバへ渡るために「強奪した船で米軍と銃撃戦をしながら行く」という荒唐無稽な方法が

検討された。ところが、この計画はあっけなく挫折。「駐日キューバ大使がキューバ行きを

断りながら、『近くにもっとよい国があるではないか』と勧めてきた」という。

社会主義国へ行きたいのなら他へ行け、と厄介な話を断ったのだ。

当時のベトナムでは、北ベトナムの支援を受けた「南ベトナム解放民族戦線」が、

南ベトナム政府軍とそれを支援する米軍と激しく戦っていた。

日本では、米国の軍事介入に反対するベトナム反戦運動が大きく盛り上がっていた。であれば、「赤軍派」は北ベトナムを目指しても不思議ではない。そのことを小西に聞くと、こう答えた。

「ベトナムはキューバと比べ親近感がなかったということです。

同じ戦う国、革命する国でありながら、より身近なアジアの国々の方がむしろ疎遠だった

というのは、今から考えればおかしなことだと思います」

 

 “未知の国・北朝鮮” 行きを決めた経緯

1968年1月23日、米国海軍の武装情報収集艦「プエブロ号」が朝鮮人民軍に拿捕された。

米国は北朝鮮への原爆投下を検討したものの断念し、捕虜となった82人を救うため

12月23日に全面謝罪をした。

 

 

平壌市内で展示されている現在の「プエブロ号」(2014年4月30日撮影)

翌年4月15日には、厚木基地所属の米海軍「EC121偵察機」が朝鮮人民軍によって撃墜される。ベトナム戦争が泥沼状態になっていたため、米国はまたしても報復を見送る。

このように北朝鮮は、米国と激しい軍事的攻防を繰り広げていた。

「朝鮮が米国と対決する反米意識の強い国というのはありましたが、外から伺い知ることの

できない得体の知れない国というのが一般的で、私もそうでした」(魚本)

「(朝鮮は)反帝の国、人民大衆が主人となった国として見ていました。だから、私は国際

根拠地をつくるために朝鮮へ渡るとともに、日本の学生が日本政府の封鎖を破って朝鮮に行く

こと自体が大きな意義を持っている、命をかけても良いほどのことだと思いました」(赤木)

一方、小西の答えは明快だった。「私としては、日本で一番悪く言われている国・朝鮮は、

我々にとっては一番良い国であるはずだ、というのが強くありました」

 

米兵の人形を叩く競技をする女性(2004年5月1日撮影)

 

こうして「赤軍派」の9人は、「金日成(キム・イルソン)首相が首班の社会主義国、

日本との関係が最悪の国、貧しい国」(小西)といった程度の知識しかないまま、

未知の国・北朝鮮へ行くことを決めたのだった。

 

着いたのは平壌でなくソウル

ハイジャックされた「よど号」は、北朝鮮まで行くには給油が必要という口実で福岡空港へ

着陸させられる。ここで高齢者と女性・子ども23人を降ろし、玄界灘を越えて朝鮮半島へ

向かった。ところが北上していた機体は、途中で大きく向きを変える。

着陸したのは、平壌ではなく韓国の金浦( キムポ )空港だった。

コックピットから身を乗り出した小西が、下にいた兵士に「ヒアー、ソウル?」と鎌をかけて

聞いた。すると「イエス、ソウル」との返事があったのだ。

騙されて韓国へ降ろされたことが分かり、機内は一気に緊張に包まれた。

 

 

「よど号」犯の指名手配ポスター。死亡が未確認として岡本武も入っている

日本政府は「よど号」受け入れを、ソ連と「国際赤十字」を通して北朝鮮政府に要請した。それに対して北朝鮮は「朝鮮中央通信」で、領空内の飛行への安全の保障と受け入れの意思を表明。日本政府は乗客を乗せたまま平壌へ行かせようとしたものの、韓国の朴正煕(パク・チョンヒ)軍事政権はそれを頑なに拒否したのである。状況は完全に膠着状態に陥る。

犯人が人質を “保護” する事態

「私たちにとって乗客たちは “制圧” しておくべき “人質” に過ぎなかった。少なくとも金浦空港での最初の夜まではそうだった。しかし2日目、『絶対に北へは行かせない』とする韓国政府の嫌がらせによって、機内の状況の極度な劣悪化が生じた。乗客の安全と健康を考慮せざるを

得ない立場になり、乗客は “保護” すべき対象になっていった」(若林盛亮)

機体への電源が断たれたために機内は蒸し暑くなり、トイレは溢れて悪臭が漂った。

何よりも、窓の外に見えるたくさんの武装した韓国兵が、銃撃しながら突入してくることを

乗客たちも恐れたのである。「平壌に飛ぶ方が安全は保障され、日本に帰ることも不可能で

ない。乗客たちはそう判断し、『一刻も早く金浦を飛び立ち平壌に飛ばせろ』の一点で、

ハイジャッカーと意思が一致した」と若林盛亮はいう。

「(乗客には)少なくとも(ハイジャック犯の)話は聞こうという感じはあったと思います。

それに韓国に下ろされ、韓国軍が包囲し、いつ攻撃してくるか分からない状況の中で、

同じ日本人という意識が強まったのも関係していると思います」(魚本)

 

ハイジャック犯たちに、いろいろとアドバイスする乗客さえ現れた。

「『いいかい、こういう時は慌ててはいけない』と、田宮に指南してくれる乗客がいた。

商社勤務で交渉の経験が豊富という方だった」(若林盛亮)

極限状態の中で、犯人と人質との間で奇妙な連帯感が生まれていたのである。

「ストックホルム症候群」という言葉がある。1973年8月、ストックホルムで銀行強盗が

人質を取って立てこもる事件が起きたが、その際に人質たちが犯人に協力する行動を取った。

死を覚悟するような状況には、起こることがあるという。

「乗客の皆さん。あなた方は人質なんだということを分からねばならない。

よって人質相応の態度を取って欲しい」と田宮がそうした雰囲気に釘を刺すほどだった。

こうした状況は、「ストックホルム症候群」によるものだけではないだろう。

 

 

日本へのメッセージを語る田宮(1995年9月撮影、「よど号グループ」提供)

「(ハイジャックに)一定の『理解』を示す人がいたのは、学生運動にまだ理解のあった

当時の時代背景があると思う」と若林盛亮はいう。

60年代後半は、米国での公民権運動やベトナム反戦運動、社会変革を求めるフランスの「5月革命」、民主化を求めたチェコスロバキアでの「プラハの春」といった世界的な流れが生まれた。日本でも学生運動だけでなく、変革を求める世論の高揚があった。

「最後のお別れパーテイーの時、(機内の清掃作業に)志願したある人は『反乱できるか

偵察したが勝てないと思ったのでやめた』と告白し笑い声が起きたりしました」(赤木)

このパーティーとは、山村新治郎・運輸政務次官が乗客たちに代わり人質になることが決まって4月2日に開かれたもの。この時に本名を名乗った田宮は「日本を愛するがゆえにこの闘争を

おこなった」と述べてから詩吟を披露。乗客たちも次々と歌ったりスピーチをしたりした。

ある乗客は「これだけたくさんの犠牲を強いたんだから、途中で挫折してもらったら困る」と

述べてから、歌詞に「北へ帰る旅人ひとり、涙流れてやまず」とある『北帰行』を歌った。

そして3日午後2時過ぎ、山村次官が現場へ到着し人質交換が始まる。

「乗客の方を半分に分け、半分下ろして運輸次官が上ってくることになり、誰が後に残るかを

乗客の方に聞きました。すると後部に座っていた人たちがいっせいに『自分が残る』と

言ったので、私は自分よりも他の人を優先させる日本人の良さに感銘しました」(赤木)

「乗客と別れる時、私たちは出口に整列して見送った。握手を交わしながら、乗客たちは

『健康でな』と言ってくれた。『がんばれよ』と励ます方もいたりして、不覚にも私の胸には

熱いものがこみ上げた。〈よど号〉から降りて去っていく乗客の方々の中には、見えなくなる

最後まで手を振り続けてくれた方がかなりいた」(若林盛亮)

午後6時過ぎ、「よど号」は平壌へ向かって飛び立つ。だがすでに暗くなっていたために

平壌の国際空港である「順安(スナム)空港」は見つからず、機体は平壌市街地の東側に

位置する「美林(ミリム)飛行場」へ強引に着陸した。

翌4日、北朝鮮政府は「赤軍派」の亡命受け入れを表明。

これに対して日本政府は、北朝鮮政府の対応に謝意を示す談話を発表した。

 

この続きは、また明日UPします 飛行機  汗うさぎ

 

 

純ちゃんに嫌な事 ( 首や頭を痛くしない、咳込まさない、口臭も持って来ないで、

体を動かしにくくしない、転ばさないで ) 人の感情を持って来ないで、言わさないで!ムキー 爆弾 

 

【ボートゲームの禁じ手】を使わないで!

いくつかのゲームには、ルールで定められた禁じ手が存在する。

禁じ手を打った(指した)場合、即座に負けとなるのが一般的である。

スポーツやゲームのように明確な規制で禁じられたものではなく、

「使うべきではない」とされる手法についても「禁じ手」と呼ばれることがある。

 

※このルールを違反した時点で、ゲームオーバー及びゲームアウト!その技術を使わないで!

 

本当に、人に迷惑がかかる言動行動は止めて。

人に体調不良やネガティブな感情を持って来ない。口臭も。咳込まさない。やる気を取らない、人の後ろに憑かない、憑依しない、入って来ないで。心を読まない、言ってこないで プンプン パンチ!パンチ! 

思考低下させないで、胸にモヤモヤさせないで、情報を吸い上げないで。トイレ関係も。

言葉使いが乱暴。人をバッサリ言葉で切らない。深夜に連絡してこないで 物申す パンチ!パンチ!

仕事の邪魔や記憶障害にしないで。目の錯覚、頭をボーっとさせないで、笑い上戸にしないで。

特にブログを書いている時、いちいち注文を言ってこないで、自分で考えて書いて。

私が寝てると思って、いろんなことを言うの止めて、負けず嫌いも程々に、優柔不断 プンプン パンチ!パンチ!

自分が言わせたい言葉を人に言わせない。乗り物関係を運転時は、邪魔をしてこないで 

人の感情やパワーを抑えないで、持って来ないで。口のろれつが回らないようにしないで!

頬を麻痺させない!唇を痺れさせないで!卑猥な言葉を言ってこないで、言わさないで! パンチ!

水晶を使って人を脅してこないで、個人情報保護法、プライバシー侵害しないで!

その力、仕事以外に使わないで!人の為に使って、決して悪いように使わないで ムキー パンチ!パンチ!パンチ!

全責任は、お母さん達に取ってもらう。もちろん本人にも取ってもらう!

人のPCやスマホにハッカーになって侵入してこないで、エラーが出たので止めて パンチ!むかっ

首を痛くしないで!長女のパワーを持って来ないで!

 

3つの約束やルール、個人的に約束した事、日本の常識は必ず守って。みんなに対して パンチ!パンチ!パンチ!

( 私の言うことを聞く・命関係は打ち止め・引退関係・契約書など、反故にしない )

 

 

いつもありがとうございます。

 

最後までお読みいただきありがとうございます 愛飛び出すハート