役員にブチぎれられた理由「あいつが入社してきたら、
とっちめてやる」 集英社オンライン 2024年2月10日
元TBSアナウンサーで現在はフリーアナウンサー、タレント、総合司会者、ラジオパーソナリティーなどマルチな肩書で活躍する久米宏さん。そんな彼がTBSの就職面接で起こした珍事とは。『 久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった 』(朝日新聞出版)より、一部抜粋、再構成してお届けする。
ラジオの深夜放送で知った、アナウンサー募集のお知らせ
冷やかしで試験を受けてはみたものの、TBSに入ることができるなんて万に一つも
あり得ないと思っていた。アナウンサー試験には、既卒者も含めて何千人もの受験者が押し寄せる。ここから選ばれることなど宝くじに当たるようなものだ。
しかも大学の成績は目も当てられなかった。
僕が早稲田大学を卒業したのは1967年。全国の学園紛争に先駆けた「第一次早大
闘争」があった翌年だったから、早大の卒業生はおしなべて就職に苦労した。
在学中の僕は演劇とアルバイトに明け暮れたノンポリ学生で、全学ストやバリケード封鎖による休講を理由に、これ幸いと大学に顔を出さなかった口だった。
早稲田大学の外観 写真/shutterstock.© 集英社オンライン 提供
大学の演劇仲間には長塚京三さんや田中眞紀子さんがいた。一つ下に吉永小百合さんが入学してきたときは大騒ぎだった。授業中「今日は授業に出ているらしい」と
書かれたメモが回ってくる。そんなときは先生さえ気もそぞろだった。
当時は知らなかったが、同期には中村吉右衛門さん、下にはタモリさんがいた。
大学4年になると、一緒に遊んでいた仲間が就職活動で忙しくなる。僕は漠然と演劇
プロデューサーになりたいと思っていた。とはいえ、親を心配させないためにも1、2社は受験しなければと考えていた。ところが受験しようにも、当時は大学の就職部に希望を出して推薦をもらわなければ採用試験さえ受けられなかった。
小学6年生のときにデビューした吉永小百合は、80年代にはすでに大女優となって
いた(「週刊明星」1988年9月29日号より)© 集英社オンライン 提供
そんなときにラジオの深夜放送を聞いていると、アナウンサー募集のお知らせが
2社あった。これなら就職部を通さずに、新卒も既卒も受験できる。
まずニッポン放送を受けたが、最終面接の日に寝坊して遅刻した。地下鉄の日比谷駅の階段をほとんど無呼吸で駆け上がっていった瞬間を、今でもはっきり覚えている。目覚ましすらかけていなかったのだから、最初から緊張感に欠けていた。
残された1社が、以後お世話になるTBSだった。
NHKが日本で初めてテレビ放送を始めたのが1953年。同じ年、日本テレビが民放初のテレビ放送を始め、TBS(当時はラジオ東京)は2年遅れでスタートを切る。元内務官僚の正力松太郎の主導で財界のバックアップを受けて設立された日本テレビと比べると、新聞各社が出資したTBSは比較的リベラルな報道姿勢を持った放送局だった。「報道のTBS」とか「民放の雄」と称されといっても、当時の僕はそんなことは
まったく知らず、今度はとにかく遅刻しないよう、毎回1時間前には必ず試験会場に
到着するよう心がけた。
「どんな権利があって、あなたたちは人に
優劣をつけるんですか?」
会場に行くと、ほかの受験生の多くは放送研究会のメンバーで、
互いに挨拶を交わす顔見知りだった。詰め襟を着ているのは僕だけ。
試験と面接が進むごとに自分だけが周りと違うことがわかってきた。
そもそも話し方から違った。彼らは子どものころからアナウンサーを夢見て腕を磨いてきたつわものたちだ。彼らというのは、このときは男性アナウンサーだけの募集だったのだ。音声テストで、天気予報やニュース原稿を読むのを聞くと、まるでラジオを聞いているようだった。こちらと言えば、鼻濁音の存在すら知らなかった。
久米宏さん(1998年11月12日撮影) 写真/共同通信© 集英社オンライン 提供
だいたいアナウンサーの募集人数は「若干名」と記されているだけで、何人採用するのかは知らされていない。試験官に尋ねても、「良い人がいれば何人でも採用するし、いなければゼロの可能性もある」と木で鼻をくくったような答えを繰り返すだけだった。
試験は7次まであった。最初にいた何千人がどんどん落とされて、
その悲劇を何度も目の当たりにすることになる。
試験を受けているうちに、だんだん腹が立ってきた。とくに疑問だったのが、
「なぜ試験官に人を選ぶ権利があるのか」ということだった。時間を費やして受験に来た学生が被告席のような所に座らされたうえ、「あなたはいい」「君はダメ」と
勝手に烙印を押されて次々落とされる。次第にその正当性を問いただすのが
自分の役目のような気がしてきた。
もちろん、そんなことで文句を言えば落とされることはわかっていたが、
それ以前に自分が受かるなんて、はなから思っていない。
「またここで何人も落ちるんでしょう? どんな権利があって、あなたたちは人に
優劣をつけるんですか?」受付をする人事部の若手と押し問答になり、
面接でもけんか腰だった。試験官は閉口していたと思う。
この時の人事部の担当者は東条さんだった。今でも覚えている。
「あいつが入社してきたら、とっちめてやる」と
息巻かれた重役面接
しかし、なぜか僕は落とされずに残っていった。5次試験だったか、目の前に出されたものについて3分間ほど話をするという課題が与えられた。ざるやモップ、百科事典……僕の前に置かれたのは赤電話だった。こんなときは電話にまつわるエピソードを上手にまとめて話すのが定番なのだろうが、これといって思い当たる話はなかった。
困ったあげく、たまたまポケットに入っていた十円玉を入れて、自宅の電話番号を
回した。もちろん小道具の電話だからつながらないが、いま自分がどういう状況に
あって電話をかけているかを母親に話して受話器を置いた。すると十円玉が戻って
こない。通話をしていないのに十円玉が戻ってこないことに僕は文句を言い立てた。すると、逆にそれが試験官にウケてしまった。
当時の公衆電話のイメージ 写真/AC© 集英社オンライン 提供
重役面接では、スタジオで俳優に扮した試験官に受験生がインタビューするという
課題が与えられた。僕はインタビュー相手に仲代達矢さんを選んだ。
当時、俳優座で「アンナ・カレーニナ」の舞台に立っていたのだ。
仲代さんに扮する試験官は、のちに『パックインミュージック』のパーソナリティーとして伝説的存在となる桝井論平さん。僕は少し意地悪な質問をしてみた。
「仲代さん、前の公演はどういう役でしたかね」
案の定、桝井さんは答えられない。僕はすかさず言った。「お互い勉強不足ですね」
サブ調整室にはスタジオの様子を眺めている社長以下役員がそろっている。TBS生え抜きのアナウンサーが一学生にやり込められる光景を彼らはきっと喜ぶはずだ。
受かるはずがない、という余裕ゆえのサービス精神だった。
恥をかかされた桝井さんは「あいつが入社してきたら、とっちめてやる」と息巻いていたそうだ。後年、僕のラジオ番組のゲストに招いたときに、そうおっしゃっていた。
6次面接で残った8人は戦友意識で結ばれていた。「このうち何人受かるかわからないけれど、これからも仲良くしようよ」と喫茶店で話をしていた。最終的に合格したのは4人だった。ところが、その後「アナウンサーが足りない」ということになり、一般職を受験した者から声の良い4人を、まともな試験もなしにアナウンサー職で採用した。
面接のイメージ 写真/shutterstock.© 集英社オンライン 提供
「だったら最終試験まで残った8人を全員合格にすればよかったのではないか!」
それでまた、会社側と大げんかになった。
熱気をはらんだ時代だった。1960年代後半からはベトナム戦争反対を唱えて市民組織の「ベ平連」が東京都内をデモ行進し、国鉄と私鉄が共闘してストを打った。
日本だけではなく、世界中の若者たちが既成の権威や体制に異議申し立てをしていた。ビートルズが世界を席巻し、ボブ・ディランが反戦歌を歌い、欧米でカウンター・カルチャーが花開いた。
僕が大学でしていた芝居は、フランスの翻訳劇などだったが、そのすぐ後に世の中を賑わせたアングラ演劇は、唐十郎の「状況劇場」や寺山修司の「天井桟敷」、そして鈴木忠志の「早稲田小劇場」も秩序を紊乱する猥雑なパワーに満ちていた。
高校でひときわリベラルな空気を呼吸した僕もまた、ノンポリなりに当時の若者に
共通する権力への反発心、すなわち反自民、反安保の気分を抱えていた。
要するにエネルギーにあふれ、荒っぽい時代だったのだ。
週刊明星 1988年9月29日号(集英社)© 集英社オンライン 提供
『 久米宏です。ニュースステーションは
ザ・ベストテンだった 』 文 / 久米宏
元TBSアナウンサー・久米宏が「受かるはずがない」と思って臨んだ就職面接で
役員にブチぎれられた理由「あいつが入社してきたら、とっちめてやる」
© 集英社オンライン 提供
2023年10月6日発売 990円(税込) 340ページ ISBN:9784022620842
久米宏、初の書き下ろし自叙伝。TBS入社から50周年を経てメディアに生きた日々を振り返る。入社の顛末から病気に苦しんだ新人時代。永六輔さんに「拾われた」
ラジオ時代、『 ぴったしカン・カン 』『 ザ・ベストテン 』そして『 ニュース
ステーション 』の18年半、その後『 久米宏 ラジオなんですけど 』の現在まで。
久米宏という不世出のスターの道のりはメディア史にそのまま重なる。
メディアの新しいありかたを開拓してきた一人の人間の成長物語として
めっぽうおもしろい、さらにラジオからテレビの貴重なメディア史の記録。
『ニュースステーション』元ディレクターが語る
久米宏の裏側「本人もツライと思う」
テレビ朝日で放送されていた報道番組「ニュースステーション」元ディレクターが語る久米宏。「あのぐらい堂々とね、図々しく突っ込める人はいない」と印象を
明かす場面があった。そして裏側の印象についても語られた。
ナスDの取材に帯同する72歳の元テレビ朝日の “伝説の辺境 ”ディレクター・大谷映芳氏は、「ニュースステーション」の元ディレクターで、このヒマラヤ取材に同番組で訪れていた方だ。現在は定年退職しているが、ナスDが「大谷さんとロケに行く」とテレ朝スタッフに話すと、多くが「楽しみにしてる」と話したという。
これを受け、大谷氏が「上の人はあれだけど、下はもう全然わからないでしょ。
大体『ニュースステーション』見た事ない人がもう入っているでしょう」と語ると、ナスDは「いっぱい入ってきてます」と認めた。
その上で、ナスDが「未だにテレ朝に久米宏さんがいたらどうなっていたんだろうな」と「ニュースステーション」のキャスターを務めた大物司会者の名前を挙げると、
大谷氏は「もうちょい楽にさせてね、続ければよかったのに」と話した。
ナスDが「やっぱり(久米さんは)ストレスもあった?」と裏側について聞くと、
大谷氏は「でしょうね。本人もツライと思うよ。毎週」と話しつつ、
一方で「あれくらい図々しく突っ込める人いないよね。どっかで引いてるから」と、ほかのキャスターとの差について指摘した。( ABEMA『ナスD大冒険TV』より )
久米宏が振り返る「横山やすしと島田紳助」秘話
2018.01.03 07:00 NEWSポストセブン
久米宏がやすしと紳助を語る( 撮影/二石友希 )
1982年、『ザ・ベストテン』(TBS系)の司会者として人気を博していた久米宏氏が、フリーになって初めて手がけた情報番組が『 久米宏のTVスクランブル 』(日本テレビ系)だった。後の『 ニュースステーション 』(テレビ朝日系)の原点とも
言うべきこの番組は、当時は異例だった芸人・横山やすしの起用で話題を呼んだ。
自伝『 久米宏です。ニュースステーションはベストテンだった 』(世界文化社)を刊行し、『 週刊ポスト 』( 1月4日発売 )のインタビューにも登場する久米氏が振り返る。
* * *
横山やすしさんはたまたま僕と同い年で、僕は昔からやすきよの大ファンで、
『 TVスクランブル 』という企画が持ち上がったときに、どうしてもやすしさんに
出てもらいたかったんです。それで、『 料理天国 』(TBS系)という番組で共演していた西川きよしさんにやすしさんを紹介してもらったんです。でもその後、「やすしさんと番組をやる」って言ったら、きよしさんは反対したんですけどね(笑)。
「やめたほうがいいですよ、やすしさんとはやめたほうがいいですよ」って。
でもやってみたら、やっぱり、面白かったんですよね、スリリングで。
ソ連の最高指導者だったブレジネフの葬儀のときに、「こいつ、アカやろ?」って言い出して。僕は、「バカ!」とか言ってやすしさんを怒ったりなんかして(笑)。番組も評判がよくて、数字も大河ドラマの裏で想像以上に健闘して、やすしさんの
評価もかなりあがったんです。新境地開拓みたいに言われて。ただ、やっぱり、居心地が悪かったんでしょうね、最終的に。自分が信じていることを言って、それが僕に「バカ」って言われたりなんかしたりして、でも、評判はいいという、妙な立場に
置かれたのが嫌だったのかもしれないですね。
きよしさんと二人でやっている漫才師から逸脱することが嫌だったのかもしれないし、自分がちょっと上から目線で人を見るような立場に立つことが嫌だったのかもしれない。言ってみれば、漫才師が評論家みたいなポジションに行くのが嫌だったのかもしれないですね。けれど、その後にお笑いの人たちがキャスターをやる流れが
できていくなかで、やすしさんがやったことは大きいことでした。
僕が『 ニュースステーション 』をやっているときに、島田紳助さんが見学に
来たことがあるんですよ。まだ『 サンデープロジェクト 』( テレビ朝日系 )の司会をする前だったんですけど。僕はそのとき、紳助さんが来ているのを知らなかったんだけど、たまたま大蔵省の主計局の人と予算編成をめぐって大議論になったんです。それを紳助さんが見ていて、一緒に来た人に、「これはおれにはできない」って
言って帰ったという話をあとから聞きました。でも、結局はやることになるわけで。
それから、難しくてわからないことはわからないで済ませてもいいんだっていう
ようになっていったと思うんです。そして、お笑いの人たちがワイドショーに出て
いろんなコメントを言ったりするようになっていった。今考えると、やすしさんは、
そういうところに一歩近づいていくのが嫌だったんだんじゃないかと思うんです。
◆聞き手 / 柳澤健( ノンフィクションライター )
私、久米さんの番組を観ていました。『ぴったしカン・カン 』『 ザ・ベストテン 』『 久米宏のTVスクランブル 』『 ニュースステーション 』などを。
久米さんを採用した重役の人も見る目があったのが分かります。もし、入社していなかったら、今のTV番組などは無かったと言い切ってもいいくらいの活躍でした。
そして、良い人達と出会ったおかげで勉強にもなり、フリーになり、いろんなことがあっても人に言わずに、恐れずに、言いたいことを言っているところを紳助さんが
見学に来て、自分のやる番組を決め、勉強もして、今の芸人さんがコメンティターをできるのも、こういった人たちのお陰ですね。やすしさんが・・・やってくれたから。誰かが嫌でも、こういう役割をしなければいけないことがある
久米宏さんをニュースステーションを辞めてから、ドラマ「ガリレオ」の最終回を
観た以外はTVで観たことがないので、もう一度TVで観たいです。
体調に気を付けて、夫婦仲良く、長生きをして欲しいです。応援しています
純ちゃんに嫌な事をしてこないで!咳や嗚咽をさせないで、口臭を持って来ない、
体を動かしにくくしない、人の言葉を言わさない、人の感情を持って来ない、
体などを痛くしない。トイレ関係も
【ボートゲームの禁じ手】を使わないで!
いくつかのゲームには、ルールで定められた禁じ手が存在する。
禁じ手を打った(指した)場合、即座に負けとなるのが一般的である。
スポーツやゲームのように明確な規制で禁じられたものではなく、
「使うべきではない」とされる手法についても「禁じ手」と呼ばれることがある。
※このルールを違反した時点で、ゲームオーバー及びゲームアウト!
その技術を使わないで!
束縛、嫉妬や執着、妬み、依存、あの三女が遠隔でコントロールするの止めて
( あの三女、お互いを似ているように近づけようとしないで )
人に威圧的な言動、迷惑な行動は止めて。心に入って来ない、心を読まない、
人に体調不良やネガテなィブな感情を持って来ない。口臭も。咳込まさない。
人の後ろに憑かない憑依しない、余計なことを言ってこないで。トイレ関係
思考低下させない、停止にしない。人の胸に衝撃を与えないで!
言葉使いが悪い。人をバッサリ言葉で切らないで。深夜に連絡してこないで
仕事の邪魔や記憶障害にしない。目の錯覚、老眼近視、頭をボーっとさせないで、
人に言われたことを他人に言わさない。心の中に持って来ない、響かせない
特にブログを書いている時、いちいち注文を言ってこないで、自分で考えて書いて。
負けず嫌いも程々に、優柔不断、人間不信を持ってこないで、キツイ気を感じる。
毒舌禁止、散財禁止
自分が言われたことを人に言わせない。乗り物関係を運転時は、邪魔をしてこない。
人の感情やパワーを抑えない、持って来ない。口のろれつが回らないようにしないで
唇を痺れさせない!卑猥な言葉を言ってこない、言わさないで、調子づかないで
あの親子、水晶を使って人を脅さない。マウントを取って来ない、過保護にしない!個人情報保護法、プライバシー侵害しない!その力、仕事以外に使わないで!
人の為に使って、決して悪いように使わないで。日本には言論の自由がある( 自分達に嫌な事を言われていると思って咳込まさない、自意識過剰、被害者意識が酷い )
店員さんや美容院の人に嫌な事をしないで、言わさないで
全責任は、お母さん達に取ってもらう。もちろん本人にも取ってもらう!
人のPCやスマホにハッカーになって侵入してこないで、エラーが出たので止めて
首を痛くしないで!長女のパワーを持って来ないで!使わないで!
上記に書いていることは、みんなのことを指す
3つの約束やルール、個人的に約束した事、日本の常識は必ず守って。
アミューズ同様、みんなに対しても約束など厳守して
( 私の言うことを聞く・命関係は打ち止め・引退関係・契約書など、反故にしない )
いつもありがとうございます。
最後までお読みいただきありがとうございました