北島三郎は好きだったらしい…ブルースの女王の根幹に

“ジョッパリ精神” デイリー新潮2023/12/9(土)11:15

 

 ものまね番組の審査員として下品な芸風には厳しい姿勢で臨む一方、努力を重ねる芸人には

優しい眼差しを向けていた芸能界の大御所・淡谷のり子さん(1907〜1999)。

「ブルースの女王」として長く第一線で歌い続けたその根幹には、出身地にちなんだ

「ジョッパリ精神」がありました。朝日新聞編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍

した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。

偉大な歌手の知られざる人生に迫ります。

「これは私の戦闘服」

 幾度か襲った危機的状況を出身地・津軽の「ジョッパリ(強情っ張り)」精神ではねのけ、

己の生き方を曲げなかった。「ブルースの女王」として人気を集め、60年以上にわたって

歌謡界で活躍した歌手・淡谷のり子(本名・淡谷のり)である。

 

 そのジョッパリぶりを最初に発揮したのは戦時中だった。濃い口紅に高いヒール、

派手なロングドレス。東京・銀座を歩いているところを咎められた。

「いまは日本国民が皆一致団結し、戦地の兵隊さんを応援するときです。

それをあなたは、そんな姿で、前線の皇軍将兵の皆さんに顔向けできますか?」

NHKの朝の連続テレビ小説「ブギウギ」で、淡谷がモデルとなった茨田りつ子に

愛国会のメンバーが抗議する場面があったが、たぶんそんな感じだったのだろう。

このとき淡谷は、「これはあたしの戦闘服。丸腰では戦えません。兵隊さんが鉄かぶとを

かぶるように、歌手の化粧はぜいたくではありません」と見事に啖呵を切って反論したと言われている。おしゃれには惜しまず金を費やした歌手人生。その額は生涯で8億円を超えたそうで

ある。マニキュアも、西洋風の濃いメーキャップも、毛皮を着たのも、芸能界では淡谷が

初めてだったらしい。一方で、当局からは始末書も書かされた。

「カカトの高いハイヒールはいけない、ツメにエナメルはいけない、ハデな舞台衣装はいけないというから私はつっかかるのよ。いつ死ぬかわからない兵隊さんの前で汚いステージは

できないってね。反抗するから始末書なの」(朝日新聞:1990年3月2日夕刊)

 

 戦地での慰問公演でも、ジョッパリ精神を発揮した。「退廃的だ」と歌唱を禁じられる

こともあったヒット曲「別れのブルース」(1937年)、「雨のブルース」(38年)のほか、

外国曲も臆することなく堂々と歌った。

津軽地方には「ジョッパリ以上の強情っ張り」という意味で「カラキズ」という言葉もあるが、どんな状況に置かれても自分の信念を貫いた点では、カラキズという表現のほうが似合うかも

しれない。そうそう、「大の演歌嫌い」だったことも挙げないわけにはいかない。

「あんなめめしい歌、誰が聴くんですか」などと、ことあるごとに文句をつけている。「あんなケチくさい歌、みんなロープで縛って油かけて燃やしたい」と、驚くべき発言もしている。

 

 軍歌にも徹底して嫌悪感を抱き続けた。

「きくと悲しくなるの。戦争の悲惨さを知らないから歌えるのよ。戦争中に九州の特攻基地を

慰問したのよ。白ハチマキの16歳ぐらいの少年特攻隊員が20〜30人私の歌を聞いてくれたの。歌っている途中、私にニコニコ笑って礼をして、片道燃料で飛び立っていくの。

私は歌の途中で涙がでて歌えなくなったの。なんて残酷なって……。

若い人を死に追いやる軍歌は絶対に歌わないって思ったわ」(同前)

そんな淡谷にとって、国民服やモンペを着たまま舞台に上がり、生きる喜びを歌う

ブルースを歌うなんて、とうていできなかったに違いない。

「歌手じゃなくて『カス』」

 日本芸能界のご意見番でもあった淡谷。楽譜も読めず、音声訓練もきちんとせず、音程さえ

いい加減な後輩歌手に対して、「歌手じゃなくてカス。粗大ゴミよ」と言いたい放題だった。

美空ひばり(1937〜1989)に対しても「大嫌い」。自分の正直な気持ちを隠さなかった。

 

 ひばりが笠置シヅ子(1914〜1985)の大ヒット曲「東京ブギウギ」を歌って芸能界に入ってきたことを快く思わなかったに違いない。「人のモノマネ」と公然と批判したのである。

まだ10代のひばりを淡谷は楽屋風呂に入れてあげたこともあったが、後に国民的大スターに

なったひばりは「そんな思い出ない」と平然と言ったという。

淡谷にとっては、まさに恩義を忘れる言動。淡谷は許せなかったのだろう。

一方、なぜか北島三郎(87)は好きだったらしい。青森出身の淡谷だけに、北海道出身の

北島には親近感を覚えたのだろうか。北島の勇壮な歌が、淡谷の心を動かしたのだろうか。

 

 さて淡谷だが、東京の城南地区で暮らしていた。実は私も近くに住んでいたため、

「ここが淡谷のり子さんの自宅です」と近所の人に教えられた。本人がすでに亡くなっていた

ことや、建て替えられていたこともあり、いまはどんな人が暮らしているのかは分からないが、以前は表札に堂々と「淡谷」と書かれていた。でも、「有名人の豪邸だぞ!」といった

雰囲気はなく、周囲の風景に溶け込んだ清楚な住宅だった。

 

 ここで淡谷の経歴について簡単に振り返りたい。

1907年、青森市の呉服商の長女として生まれた。だが、父親の激しい女道楽の影響もあり、

家は貧しかった。「教師になってほしい」という母親の願いもあり、県立青森高等女学校から

東洋音楽学校(現・東京音大)に進み、クラシックの声楽を学ぶ。

在学中も貧しい生活は変わらず、モデルをして学費を稼いだこともあった。

同校を首席で卒業後、1929年にレコード歌手としてデビューした。

「別れのブルース」や「雨のブルース」などの流行歌だけでなく、ジャズやタンゴ、

シャンソンなどをレパートリーとして幅広く歌い続けた。

結婚、離婚、裏切り……。さまざまな人生経験を生かし、著作や雑誌、放送での人生相談

などでも活躍。80歳を超えてもテレビ出演やコンサート活動を続け、現役としての歌手活動に

こだわった。

真の芸能とは大衆に根ざすもの

 淡谷は自分の歌を「はやり歌」と表していた。「大衆の歌」である。だが、それは聴き手を

見くびったり迎合したりして生まれる類いの歌ではなく、格調高い「大衆の歌」だった。

土俗的なものを嫌い、陳腐な歌や人をバカにしたりする芸に対しははっきり異を唱えるので、

怖がれたり、恨まれたりしたこともあったが、それは「大衆」に敬意をはらい、

「大衆」に根ざした芸能こそ、真の芸能という信念があったからだろう。

 

 85歳で新曲を出し、渋谷の小劇場ジァン・ジァンで80年から93年まで定期コンサートを

開いた。まさにジョッパリ精神があったからこそだった。日本の音楽に大きな足跡を残し、

闘士としては平塚らいてう(1886〜1971)や与謝野晶子(1878〜1942)に連なる女性でも

あった。タンゴやシャンソンなど、ヨーロッパの音楽を咀嚼し、日本の歌の中に定着させた。

いつも上品な色香を発していたのが淡谷だった。

1972年に紫綬褒章受章、71年と78年に日本レコード大賞特別賞を受賞している。

 

 嫌なものは嫌。好きなものは好き。それが長生きの秘訣だったのかもしれない。

ステージでピアノによりそって、そっと死んでいくのが理想だったかもしれない。

足腰が弱くなり、車椅子を使うようになってからは、マイクを向けられても決して

歌おうとはしなかった。93年12月、休養宣言。静かに余生を自宅で過ごしていた。

98年には青森市の名誉市民に選ばれた。「光栄に感じています。決定のあかつきにはぜひ、(称号を)受けたい」と喜んでいたそうである。

99年9月22日、老衰のため自宅で亡くなった。故人の遺志で訃報は伏せられていたが、

3日後の25日、新聞やテレビ、ラジオでその死が報じられた。

朝日新聞を始め各紙は1面で扱い、テレビも特別番組を組んだ。

ラジオに出演中だった永六輔(1933〜2016)は、番組の中で急遽、戦時中に沖縄で

旧日本軍に集団自決を強いられながら生き残ることができた老婦人の話をした。

婦人は「淡谷さんがいることが、戦後、生きる支えになった」と永に話したという。

歌い手として、芸能人として、自分を美しく見せることにこだわった淡谷。瀕死の白鳥のように舞台で命を絶ちたいと、死に際の練習をしていたこともそうである。亡くなってから24年に

なるが、朝の連続テレビ小説「ブギウギ」の影響もあり、再び淡谷の生き方が注目されている。

 

 次回は俳優・勝新太郎(1931〜1997)。「座頭市」シリーズなどのアンチヒーロー役で

人気を博し、大麻所持や倒産と、私生活でも話題をまいた。華のある本当のスターであり、

人間臭さをぷんぷん漂わせた名優でもあった。亡くなってから26年になる。

 

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、

編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

 

 

淡谷のり子には娘がいる、死因は?夫、若い頃、

笠置シヅ子、美空ひばりとの関係

 

淡谷のり子には娘がいる、秋本順子なの?

 

淡谷のり子さんには、娘さんがいるとのこと。歌手の秋本順子さん、だという記事があります。

淡谷のり子さんが結婚した、和田肇さんとの間には、子供はもうけなかったようなのですが。

じゃあ、娘さんの父親は? となると、ディック・ミネさんだということがまことしやかに

言われていて。ディック・ミネさんは、当時かっこいい、モテる男性で、遊び人でも

あったのです。そして、秋本順子さんは年格好や、どことなく似ているというところから

言われていたのですが。でも、秋本順子さんは、1947年生まれなので、ここで食い違いが

あり、この話は事実ではないようですね。

父親の事は、娘が出来たとも知らず中国で死んでしまった、と語っていたそうです。

淡谷のり子さんご自身は、娘さんのことも、その父親のことも、誰、などと生涯口に

することはなかったそうです。女性として、とても勇気がいることだったでしょうね。

淡谷のり子の晩年、死因は?

淡谷のり子さんは、80歳を前に「ものまね王座決定戦」(フジテレビ)で審査員を務めます。

独特のしゃべり口で、辛辣なコメントをして、「名物審査員」になりました。

私も、淡谷のり子さんにコメントを振られるのを楽しみにしていました。

特に、元歌の歌詞を変えて歌う、悪ふざけなモノマネをする清水アキラさんが出てくると、

顔の表情がすごくこわくなって、点数も低くしか出しません。

私も同感で、淡谷のり子さんのコメントも点数も、スカッとしていました。

でも後に、清水アキラさんは、おかげで自分の芸が磨かれた、と言っています。

そして、80歳で全国80カ所コンサートを実施。85歳には、新曲「揺り椅子」をリリース。

しかしその後、1993年(平成5年)に脳梗塞になり、倒れます。

そして、軽度の麻痺が残り、意欲なども減ってきて、1996年(平成8年)には寝たきりに。

しかし、後輩の歌手たちに企画されて、1996年米寿コンサート、

1998年には、青森市名誉市民の推戴式に車椅子で登場。

そして、1999年9月22日、老衰のため逝去されます。享年、92歳ですね。

80歳を越えても、全国をまわって歌われたこと、頭が下がる思いがします。

淡谷のり子の夫は誰なの?

淡谷のり子さんの夫は、ジャズピアニストの和田肇さんです。

淡谷のり子さんの歌の伴奏を務めた縁で、1931年に結婚されます。1歳年下です。

淡谷のり子さんと同じく東洋音楽学校(東京音楽大学)ピアノ科を卒業。

しかし、1935年には離婚。わずか4年ほどの結婚生活ですね。淡谷のり子さんは、

歌手として乗りに乗っていた時期だったから、すれ違い生活だったのでしょうか。

淡谷のり子の若い頃は

淡谷のり子さんは、22歳の時、10年に一人のソプラノと呼ばれる実力までになりました。

これは、元々のものではなく、指導者の久保田稲子さんと共に必死の努力でのことです。

また、淡谷のり子さんは、クラシックを真摯に勉強し、クラシック歌手としてデビューします。

しかし、それだけでは家計を支えられず、流行歌も歌うのでした。

当時の学校では、これを低俗な歌を歌った、とか堕落と見なされたそうですが。

加えて、淡谷のり子さんは、ブルースだけではなく、シャンソン歌手としても日本人第1号と

なります。それに、戦時中の慰問のときのエピソードにも、淡谷のり子さんの深い人間愛と

強い意志を感じました。戦時中は、ぜいたくをしていると叩かれた時代。

しかしながら慰問先には、しっかりとメイクをして、ドレスを着て歌ったのです。

戦士たちに、つかの間の夢をという心遣い、そして、外国兵のいるところでは、

英語で歌うという区別のない愛。愛は、強いのだなと思うのです。

淡谷のり子、笠置シヅ子とはライバルだった?

淡谷のり子さんと、笠置シヅ子さんは、同じ服部良一さんに師事していたこともあり、

同じ時代に歌手として、影響を与え合っていたのですね。

淡谷のり子さんが、7歳年上で朝ドラ「ブギウギ」では、笠置シヅ子さんが淡谷のり子さんに

憧れる、という筋書きです。当時は、淡谷のり子さんや東海林太郎さんのようにその場に立って静かに歌う、というのが歌手というものでしたが。

一方、笠置シヅ子さんは、ステージで踊り観客と一体になったりと対照的でした。

淡谷のり子さんは、そのことに辛辣な批判をしたこともあります。しかし、ライバルながらも、仲が悪かったわけではなく、お互いの家に遊びに行くこともあったそうです。

笠置シヅ子さんの娘さんの笠置エイ子さんに、お母さんに感謝しなさいよ、ということを

言っていたのだそうですね。お二人とも娘さんがいて、その父親は、笠置シヅ子さんの方も

生まれる前日に亡くなっていたのです。

そんな辛い過去や、この時代の歌手としての苦労をお互いよくわかりあえたでしょう。

笠置シヅ子さんの情報を知りたい人は、この人のブログから行ってください。

 

 

淡谷のり子は、「ものまね王座決定戦」や小堺一機さんの「ごきげんよう」のゲストで知り。

その後、ジャズやブルースを歌う歌手だと知りました。

 

淡谷のり子さんは、人から強情ぱりと言われても自分の信念を通した凄い人で苦労人。

戦時中、ちゃんとメイクや衣装を着て慰問に行き、人に勇気を与え心を癒し、

とても愛を持っていた人だと分かりました。ご冥福をお祈りいたします。

 

詳しくは書きませんが、淡谷のり子さんや美空ひばりさんが、あんな事を言うとは思えません。

占い師の母が「本人にしか知り得ない事」と言っていたので・・・笑ううさぎ おばあちゃん 虹 

 

 

純ちゃんに嫌な事 ( 首や頭を痛くしない、咳込まさない、口臭も持って来ないで、

体を動かしにくくしないで、転ばさないで ) をしてくるの止めて。 ムキー 爆弾 パンチ!

 

【 ボードゲームの禁じ手 】を使わないで!

いくつかのゲームには、ルールで定められた禁じ手が存在する。

禁じ手を打った(指した)場合、即座に負けとなるのが一般的である。

スポーツやゲームのように明確な規則で禁じられたものだけでなく、

「使うべきでない」とされる手法についても「禁じ手」と呼ばれることがある。

 

※ このルールを違反した時点で、ゲームオーバー及びゲームアウト!その技術使わないで!

 

人の脳の中枢神経などを触らない、潜在意識などに入ってコントロールしないで ムキー 爆弾 パンチ!

( 目の錯覚、老眼近視。思考が低下、停止にしない。記憶が出来ない、出てこない、忘れる。人に自分の考えを言わさない。理性を失わせないで。胸などにモヤモヤとさせないで。口臭も

人の仕事の邪魔をしないで、人の後ろに憑かない憑依しない。喉、頭や首の神経を痛くしない。

特に、乗り物を運転している時は、絶対に頭を低下やボーっとさせないで!体調不良にしないで

人を縛らない、人をコントロールしないで、もっと自由にさせて。人のモノマネや水晶禁止。

人に嫌なことをしたり、言って脅さない。人に必要以上に執着や嫉妬しない。過保護にしない。

人にお金を使わさないで( 家や外食、テイクアウト、旅行仕事も含む )。プライバシー侵害

個人保護法人を嵌めないで楽天、ソフトバンクグループに嫌な事はしないで、緊張させない

その力、仕事にだけ使って、自分勝手に使わないで。みんな(全部)に対して良い様に使って。

人に対して完璧主義を押し付けないで(暴言や自分勝手な言動行動は慎んで、人を縛らない

深夜に毎日、連絡してこないで。自分が言った言葉に責任を持って、高圧的に言ってこない、

考えが甘い、ワガママを言わないで。トイレ関係。唇びるを痺れさせない。こけさせない。

顔や身体を熱く冷たくしない )吸い上げない。怒りの感情を倍増しない笑い上戸にしない。

人のアイデアを盗ったり、利用しないで自分で考えて。パワーや感情を抑えたり取らないで。

やる気を取らない。ちゃんと直して。職権乱用しない。全責任は、お母さん達に取ってもらう。

解散や休止、脱退、独立、退社、業務提供解消させないで。離婚も。言論や表現の自由が

法で定められている)人のPCやスマホに、ハッカーみたいに侵入してこないで パンチ!むかっ

 

3つの約束やルール、個人的に約束した事、日本の常識は必ず守 って。みんなに対して パンチ!パンチ!パンチ!

( 私の言うことを聞くように・命関係は打ち止め・引退をさせない。契約書、反故にしない )

 

 

いつもありがとうございます。

 

最後までお読みいただきありがとうございました 愛飛び出すハート