「余命半年から回復した理由」映画監督・大林宣彦が語る

「理想の死のかたち」#1 週刊文春 編集部 2020/04/11

 

 大林宣彦が肺がんのため、4月10日、東京・世田谷区の自宅で亡くなった。82歳だった。2016年8月に肺がんと診断され、余命宣告を受けていた大林監督。

生前、“理想の死のかたち” を語った『 私の大往生 』(文春新書)に収録された

インタビューを再公開する(記事中の年齢や日付、肩書き等は掲載時のもの)。

◆◆◆

大林宣彦 おおばやし・のぶひこ 1938年広島県生まれ。1977年『 HOUSE/ハウス 』で

劇場映画デビュー。故郷・尾道を舞台にした作品などで数多くの映画賞を受賞。

2016年、肺がんで余命半年を宣告されたが、その後も映画を作り続けている。

クランクイン前日に余命半年の宣告

――映画監督の大林宣彦さんが、肺がんの第4期で余命半年の宣告を受けたのは、2016年8月のこと。檀一雄の原作『花筐』(はながたみ)の映画化が決まり、
撮影に入る直前のことだった。しかしその後、抗がん剤治療が効いて
奇跡的に回復し、宣告から3年が過ぎた。

 

大林 余命半年だと告知されたのは、クランクイン前日のことでした。

僕は肺がんだと知り、ああ、これで映画を撮る資格が貰えた、ありがたいな、と思いました。

 僕は『花筐』をデビュー作にするつもりで、40年以上前に、代表作『火宅の人』を

口述筆記していた晩年の檀一雄さんに会いに行って、映画化の許可を頂いていました。

『花筐』は、空想の街を舞台にした作品です。なので映画を撮る時にどこを舞台に

すればいいか檀さんに聞くと、「唐津へ行ってご覧なさい」と言われました。

でもその後、僕は映画化することができなかった。『花筐』は戦争世代の断念と覚悟が

描かれています。平和ボケの戦後世代の僕に果たして作れるのか? と悩んでしまいましたし、戦争を忘れ経済成長に邁進している中で撮っても、何も伝わらないことも分かっていました。

しかし、がんになってようやく、この映画が撮れると思いました。檀さんと同じ肺がんになり、映画を撮る資格を貰えたと思った。だから、がんを宣告されても落ち込みませんでした。

3日後に、余命は3カ月になったが……

 余命半年の宣告を受けた3日後に、余命は3カ月になりました。がん細胞は、

倍々ゲームで増えていく。しかし、その後抗がん剤治療が効いて、今は “ 余命未定 ”。

 

 こんな話があります。

 アメリカで、楽観的な人を数百人、悲観的な人を数百人集め、長期に渡って調査しました。

その結果、楽観的な人には薬がよく効いて、悲観的な人にはあまり効かないことが

データに表れたのです。余命宣告から回復した僕には、がん仲間を励ます役目があると思って

いますが、みんな落ち込まず、楽観的でいることが何よりも大事なのだと伝えたいですね。

「大往生」という言葉は面白い。大往生とは、何の苦もなく、安らかに大満足して死ぬこと。

でも「大」を外して「人を往生させる」と言うと、迷惑をかけるという意味になりますよね。

自分は大往生して、周りを往生させないのが一番です。

 

 大往生した後、生まれ変われるとすれば、また映画作家になりたい。

勉強し直して一から始めるのではなく、これまでの自分の続きをやりたい。

映画には、内容でも、技術的にも、未開発のことがまだまだあります。

たとえば「フェードアウト」は、光が段々消えて最後は真っ暗になる手法です。

これは、映画がモノクロフィルムから始まったから生まれたもの。では、映画が最初から

カラーだったらどうだったでしょうか。もし、最初からカラーフィルムで映画が作られて

いれば、フェードアウトは黒になって終るのではなく、赤とか青になっていたかもしれません。

いま編集を終えたばかりの新作では、白と黒を一切使わない作品を作りました。

どんなふうになるか? それは観てのお愉しみですが、

映画にできること、やるべきことは、まだまだあるのです。

戦死したタカ兄さんが僕の家の廊下の隅に立っていた

――大林さんは、1977年、ファンタジー・ホラー『HOUSE/ハウス』で商業映画デビューを

果たした。その後、『転校生』『時をかける少女』『漂流教室』など多くの作品を

撮って来たが、幻想的な手法は、“映像の魔術師” と呼ばれた。

 

大林 僕にとって、生と死の間には「狭間」がないんです。

戦時中は、名前や顔を知っている人が戦死したと毎日知らせがあり、ある時、満州へ出征した

隣のタカ兄さんの戦死が伝わってきました。毎日、鶏屋のタカ兄さんのところへ行き、

卵を貰ってくるのが僕の仕事でしたから、よく知っている人です。戦死を聞いた後、

ふと見ると、タカ兄さんが鶏屋の格好のままで、僕の家の廊下の隅に立っていました。

タカ兄さんだけではありません。肺病になり、戦争に行けないから非国民だと恥じていた

ご近所のおじさんは、鉄道自殺しました。自殺した後、やはり家の廊下の隅に立っていました。死んだ人が、廊下に立っているのです。僕は、僕が覚えている限り、彼らは生きている、僕が

覚えてなければ死んじゃう、と学びました。そしてそれは、僕にとってすごく勇気になった。

 

 世の中には「本当」と「嘘」がある。タカ兄さんが死んだのは本当で、廊下に立っていたのは嘘ですが、僕の心の中では、タカ兄さんが生きているという真がある。

僕が映画で描きたいのは、この「真」です。子供の頃の体験は、今も映画に影響していますね。

敗戦直前の7歳の時、「母ちゃんと一緒にお風呂に入らん?」と母が言いました。

当時は男尊女卑が当たり前で、風呂に入るのも男女別と決められ、母とお風呂に入ったことは

ありませんでした。お風呂で母の裸を初めて見た時、女の人の裸は、こんなに美しく、

柔らかく、温かいものかと感じました。

僕の映画には、少女の裸が必ず出てきます。“脱がせ屋” と言われたりもしましたが、

「着せてないだけ」と答えています。赤ん坊は服を着て生まれて来ません。

命の象徴としての、裸を撮る。そこには、母親の裸を初めて見た時の影響がある。

僕を殺した後で、母ちゃんは自殺するんだと思った

 その夜、母は腰まであった髪をバッサリ切り、男性用の国民服を着てました。

母の覚悟だったかもしれません。寝間には布団がなく、座布団が2枚置かれ、

その間に小刀が置かれていました。僕は、母ちゃんがこの小刀で僕を殺してくれる。

母ちゃんだったら、きっと優しく殺してくれる。僕を殺した後で、母ちゃんは自殺するんだと

思いながら、座布団に頭を乗せたまま寝てしまいました。

固い座布団の布が頬に当たる心地は、今も覚えています。翌朝目を覚ますと、

僕は死んでなかった。母も、隣で眠っていました。その時、閉めた雨戸の隙間から、

庭の景色が逆さまに見えました。牛乳配達のお兄さんが来た姿も、逆さまに見えた。

僕は、座布団に頭を乗せたままだから、風景が現実とは逆さに見えるのだと思いました。

僕は、戦争で死んだ子供が逆さに出て来るなど、逆さまの映像を撮ることがあります。

それは、あの時の体験があり、僕の映画の原点にもなっているからです。

他人のようにうまくやるな、自分らしく失敗しろ

 商業主義の映画では、お客さんが分からないという理由で実験的なことがあまりできません。それに、大勢が集まれば、映画監督は集団の権力者になってしまいます。

どちらも嫌なので、僕は個人で映画を撮っています。僕とキャメラマンと助監督は、

人間として対等だし、むしろ新しく入った人の話を聞いてみたい。

 

 僕は新人に「学ぶなよ」と言うんです。商業主義の映画であれば、

学んでうまくなることも必要でしょう。しかし学んでしまえば、発想力が弱くなる。

本当に必要なことは、誰にも真似できない冒険をすること。それが新たな成功への源泉になる。「他人のようにうまくやるな、自分らしく失敗しろ」と自分にも課しています。

 

大往生アンケート

■理想の最期とは?

 撮影現場で「スタート」と言った瞬間に息絶えたいと思っていましたが、

映画を撮っている間は死ねません。(前文参照)

■心に残っている死に方をした人は?

 人は、亡くなる時に正体が出ると思います。いい人は大往生する。

悪い人は、迷惑三昧をかけて死んでいく。僕は、人柄だけはよくしようと

自分では心掛けています。結局無理であっても、僕は僕でしかあり得ないのですから。

■最後の晩餐で食べたいものは?

 映画プロデューサーであり、62年のパートナーである妻の恭子さんが作ってくれる

日常の食事を、暖かい陽ざしの中で「美味しいね」と言って食べたい。

僕は、日本中の故郷で映画を撮って来ました。その時お世話になった方々が今も応援団で、

旬の食材を送ってくださるんです。恭子さんがそれを嬉しそうに料理する。

我が家には、朝から晩まで、全国の旬の命が一緒に並んでいます。

 

 僕は商売のために映画を撮ったことはなく、今もお金はありませんが、

「世界で1番の旬のものを頂いているね」と言っています。ありがたいことです。

■もし生まれ変われるとしたら?

 再び、映画作家になります。映画作家として、まだまだ出来ることがある。

生まれ変わって一から映画作家になるのではなく、平和づくりに繋がる自由な表現を僕なりに

見据えつつ、僕らしい映画作家振りを、若い人と共にいつまでも続けたいと思います。

どうか、宜しくお願いします。

 

遺作となった『LABYRINTH OF CINEMA 海辺の映画館  キネマの玉手箱』は、

2019年10月にTIFF(東京国際映画祭)上映後、11月HIFF(広島国際映画祭)上映、

その後戦後75周年にあたる2020年4 月 10 日に公開を予定していたが、

コロナウィルスの影響により映画館が休館し、公開延期となっている。

佐藤愛子(作家)・渡邉恒雄(読売新聞主筆)・中村仁一(医師)・外山滋比古(英文学者)・酒井雄哉(天台宗大阿闍梨)・やなせたかし(漫画家)・小野田寛郎(小野田自然塾理事長)・内海桂子(芸人・漫才師)・金子兜太(俳人)・橋田寿賀子(脚本家)・出口治明

(大学学長)・高田明(ジャパネットたかた創業者)・大林宣彦(映画監督)・柳田邦男

(ノンフィクション作家)生を達観した14人へのインタビューは『私の大往生』(文春新書)に収録されています。

 

82歳で死去・大林宣彦監督「がんになって初めて “優しくすること” を学びました」映画監督・大林宣彦が語る「理想の死のかたち」#2

誰も殺してくれない。大人に騙された

――大林さんは、1938年の1月9日生まれ。父も母も代々医者の家系だった。

医者の父親が出征した後は、広島県尾道市の母親の実家で過ごし、7歳の時に終戦を迎えた。

大林 大家族で暮らす時代で、尾道の屋敷は広く、夜な夜な町の長が集まりました。

警察署長、税務署長、郵便局長……ヤクザの親分さんも集まって、芸者さんも呼んだ。

男衆はみんなフンドシ1本になって酒を飲み、意気軒昂に天下国家を論じる。

 

 当時は子供部屋などはなく、10人ばかりの子供はその辺で遊んでいました。しかし、子供は大人の話は注意して聞いている。大人たちは、次第に背中を丸め、ヒソヒソ話をするように

なった。大人たちは、戦争に負けていることを子供には話してくれません。でも、子供には

分かっているんです。軍国少年だった僕も、負ければ死ぬぞって覚悟していました。

憲兵のおじさんは、「負けた国は、皆、自決する。子供は、大人が殺してやるから安心しろ」と言っていました。しかし敗戦になった途端、大人たちがボロボロの服を着て、ヤミ米担いで

「平和じゃ、平和じゃ」と言ってスキップしている。誰も死なないし、誰も殺してくれない。

ふいに大人に騙されたという絶望感に襲われました。

「何のために生き延びたんだ?」僕を抱きしめて泣いた談志

 寺山修司が昭和10年生まれで、僕の3歳上。ミッキー・カーチスが昭和13年生まれで、

同い年。阿久悠さん(昭和12年生まれ)も、和田誠さん(昭和11年生まれ)も、

僕らは、敗戦時の記憶が人生に強く影響しているんです。

 

 落語家の立川談志(昭和11年生まれ)とは、晩年に仲良くなりました。

「大林さん、鬼畜米英をやっつけることが正義だと信じ、お国のために死んでやろうと

思っていたのに、負けた途端に、アメリカの正義が正しいと言われ、何を信じられる? 

正義なんて勝った国の都合じゃないか」談志は、よくそう言っていました。

 

 談志が古典落語を選んだのは、そこに、敗戦で失った日本の良さが生きていたからです。

その一つが夫婦愛。だから彼は「芝浜」の名人になった。談志はがんになった後、「オレなりに努力して、ここまで来た。がんごときに殺されたくねえ。何のために生き延びたんだ? 

大林さんなら分かるだろ?」と言って、僕を抱きしめながら泣きました。

マッカーサーの占領政策は “敗戦” を忘れさせた

 米国に負けたことを日本人が覚えていれば、将来、米国を憎むようになる。

そう考えたマッカーサーの占領政策は、日本人の大人には敗戦を忘れさせ、子供には、戦争などなかったことにする、というものでした。日本人は、米国に負けたことをきちんと教えられ

なかったと、今も思っています。今の若い人も、写真を撮る時にピース・サインをします。

あれは、戦争に勝った国が勝利を誇示するブイ・サインであり、本来は平和を意味するピース・サインではありません。なのに、負けた国の若者が、何も疑わず、ピース・サインをしている。

 

 この国の民は、戦争について教えられず、何も知らないんじゃないか。そう思うからこそ、

僕は映画を撮るんです。そして、文章は理解するものだとすれば、映像は感じるもの。

戦争を「理解する」より、戦争は嫌だと「感じて」欲しい。

だから僕の映画は「反戦」ではなく、「厭戦」なのです。

がんになって虫1匹殺せなくなった理由

 新作は、3人の若者が、幕末や太平洋戦争にタイムスリップする『海辺の映画館―

キネマの玉手箱』。20年振りに故郷の尾道で撮影した。

 

 僕は、がんで余命宣告された時から、虫一匹殺さなくなりました。

ふと見ると、左腕に蚊がとまっていたことがありました。その蚊を見た時、何十万、何百万と

いう蚊がこの宇宙にはいて、何十万、何百万人と人間がいる中、俺とお前は今が一期一会だなと思ったんです。僕はがん患者だから血は美味しくないかもしれないけれど、一所懸命吸って、

元気で暮らしてくれって。虫だけではなく、歩いていて、草も踏めなくなりました。

葉一枚を千切ることもなくなった。みんな同じ命です。

 

 体の中のがんにも言っています。ここに住み着いたからには、面倒を見てやる。だけど血を

吸い尽くして、筋肉を食い尽くして僕が死ねば、お前も死ぬぞ、少しは我慢を学びなさいって。

同時に、僕自身がこの宇宙にとってがんだったということにも気付きました。

思いのままに好きなものを食べ、ジェット機に乗って外国へ行く。僕がジェット機に

乗らなければ、地球の温暖化が少しは止まるだろうに。そのぶんだけ地球は長生きできる。

がんになって初めて、学んだこと

 僕はがんになって初めて、「優しくする」ということを学びました。

だから地球にとっていい患者になり、周囲に優しくすることを実践していきたい。

自分は人としてまだまだ青二才だと思っていますから。

 

 理想の最期は、撮影現場で「スタート」と言った瞬間に、息絶えること。

僕はそう思っていました。しかし実際は、映画を撮り始めると、編集してエンドマークを

付けるまでは、決して死ねないと思うんです。がんが分かった時も、この映画を完成させる

までは死ねない、とお医者の先生に申し上げました。「そうすると、映画を撮っている限り、

いつまでも死なないね」と妻の恭子さんと笑って言っています。

定期的に血液検査を行っていますが、今の僕はがんよりも老化のほうが気になります。老いる

ということは経験のないことで、面白い。これまで出来ていたことが、1つ1つできなくなる。それでも、これまでと同じことをやろうと思えば、その誤差が新しい発見を生むから面白い。

 

 人間は、本来125歳まで生きることができると伝え聞きました。

もし125歳まで生きるならば、僕は、あと30本は映画を撮らねば。

若い俳優たちには、「君たちが爺さん婆さんになるまで見届ける」と言っています。

彼らは冗談として受け止めているでしょうけど、まだ、僕に死ぬという発想はありません。

ただ、命を失くした瞬間に、世の中からずばっと忘れ去られたい。

その後は、僕の後を継いでくれる、まだ若い未来の表現者たちがいるからです。

 

 

大林宣彦監督が死去、82歳 肺がん余命宣告3カ月から3年8カ月…

 

 「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」の尾道三部作などで知られる映画監督、

大林宣彦さんが10日午後7時23分、肺がんのため死去した。82歳。2016年に末期の肺がんと

診断されたが、最期まで映画製作に執念を燃やし、最新作「海辺の映画館-キネマの玉手箱」は当初、この日が公開予定だった。ファンタジー、ノスタルジー、叙情性にあふれた作品を多く

手掛けた「映像の魔術師」は現役の映画人として天に召された。葬儀・告別式は家族葬で行い、「海辺の映画館-」公開後にお別れの会を開く。

 

 昭和、平成、令和と日本映画界を牽引してきたファンタジーの巨匠が、ついに力尽きた。

4年前に末期の肺がんで余命3カ月と告知された大林さんの訃報が11日未明に駆け巡った。

配給会社のアスミック・エースが文書で発表。同日午後7時23分に肺がんのため

東京・世田谷区の自宅で妻の恭子さん、長女、医師に看取られ、息を引き取ったという。

葬儀・告別式は近親者のみの家族葬で執り行い、後日お別れの会を開く。

関係者によると、東京都内の病院に入院していた大林さんは、1カ月前に自宅療養に切り替えていた。最近は新型コロナウイルス感染拡大の影響で大学病院に行けず、自宅近くの病院の

医師が週に数回訪問診察を行っていたという。ずっと寝たきりだったが、この日の夕方まで

意識があり、家族とも会話。夜に診察を受けていた際、眠るように亡くなった。

 

 遺作は近日公開予定の映画「海辺の映画館-キネマの玉手箱」。当初はこの10日に封切り

予定だったが、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、延期になっていた。

2月の尾道映画祭に同作の上映で参加予定だったが、コロナで叶わなかった。

 

 大林さんは2012年に前立腺がんを発病。克服したと思った矢先の16年8月に肺がん第4ステージが判明し、医師から余命3カ月と告知されながらも、手術は受けず抗がん剤で縮小した。

昨年、脳に転移。脳のがんが放射線治療で消えた後の18年7月から9月まで故郷の広島・尾道市を中心に同作を撮影していた。体調は万全ではなく、昨年7月からは毎月入院。

抗がん剤でもともとの肺がん治療を受けるかたわら、1年かけCG合成を含め編集作業を続け、

まさに最期まで映画製作に執念を燃やした。最後の公の場は昨年11月24日の

広島国際映画祭で、車いすで参加し、壮絶な覚悟を見せた。

 

 大林さんは、成城大学を中退後、CM制作で才能を発揮。男性化粧品メーカー、マンダム社のチャールズ・ブロンソンの「う~ん、マンダム」、ホンダ・ロードパルに起用した

ソフィア・ローレンの「ラッタッター」など約1000本を撮影し、CM天皇と呼ばれた。

77年に商業映画に進出し、美少女ホラーファンタジー「HOUSE」を初監督して、ヒット。

その後、82年「転校生」、83年「時をかける少女」、85年「さびしんぼう」の尾道三部作や

91年「ふたり」、95年「あした」、99年「あの、夏の日」の新・尾道三部作など故郷の広島県尾道市を舞台とした個人映画的色彩の強い美しい情景描写の作品のほか、「異人たちとの夏」「なごり雪」などノスタルジックで叙情感豊かな作品を多数監督し、熱烈なファンを獲得。

また、新人をヒロインに抜てきしてヒットさせるなど「アイドル映画」の先駆者としても

手腕を発揮した。私生活では成城大入学後の19歳のときに1年後輩の恭子さんと出会った。

大林監督が講堂でピアノを弾いている夫人の後ろ姿に一目惚れしたという。

その後、恭子さんは女優、プロデューサーとして大林さんを支え、結婚した。

 

 本紙の取材に応じた際、名監督は「映画で歴史を変えることはできないが、未来の歴史を

変えることはできるかもしれない。それが僕の持論。若い人たちにも観ていただきたい。

平和の大切さを訴える映画を作るのが僕の使命」と柔和な笑顔で語っていた。

おしどり夫婦として歩み、61年間の映画監督人生を全うした大林さん。

天国でもフィルムを撮り続けるはずだ。

【補足】

高峰三枝子さんと上原謙さんのCM「国鉄フルムーン」などで大きな反響を呼んだ。

 

『時をかける少女』でデビューした原田さんは「在りし日のお姿を偲びつつ、ご冥福をお祈り

いたします」とTwitterに思いを綴り、また『青春デンデケデケデケ』に出演した浅野忠信も「ありがとうございました 一緒に映画を撮った日々を忘れません」とTwitterを更新。

岩井俊二監督は「ちょっとすぐには受け止められない。 エネルギッシュな新作にコメントを

書かせて頂いたばかりでした」とまだ信じられないといった様子で「訃報を聞いて呆然と

している」と綴った行定勲監督は「恩師を失ってしまったような気持ちだ。

この時、拙作『遠くの空に消えた』を『僕が撮ったらあんな爽やな風のような映画にならない』と気に入ってくださった」と2ショット写真をアップするなど、出演者や映画関係者、

映画ファンから悲しみの声が相次いでいる。

 

訃報を受け、映画監督の山田洋次氏が11日、コメントを発表した。

山田氏は「大切な、大切な友人を失ってしまった。唯一無二のユニークな監督であり、

戦争を激しく憎しみ平和を愛してやまない優しいアーチストだった。大勢の映画人と

大林作品のファンとともに、彼の死を涙を拭いながら悲しんでいます」としのんだ。

 

 

大往生した後、生まれ変われるとすれば、また映画作家になりたい。

 

占い師の母が「生まれ変わっても、小石か水の一滴」だと言われました びっくり

 

白と黒を一切使わない作品を作りました。

 

母から「私が、これは白いと言っても、純ちゃんがそれを黒と言えば、白も黒になる」と おばあちゃん

 

 

みんなと個人的に約束しているのなら、絶対に約束を守って、約束を破らないで 物申す 爆弾 パンチ!パンチ!

 

最近、また純ちゃんに嫌な事 ( 首や頭を痛くしない、咳込まさない、口臭も持って来ないで、

体を動かしにくくしないで、転ばさないで ) をしてくるの止めて。 ムキー 爆弾 パンチ!

 

【 ボードゲームの禁じ手 】を使わないで!

いくつかのゲームには、ルールで定められた禁じ手が存在する。

禁じ手を打った(指した)場合、即座に負けとなるのが一般的である。

スポーツやゲームのように明確な規則で禁じられたものだけでなく、

「使うべきでない」とされる手法についても「禁じ手」と呼ばれることがある。

 

※ このルールを違反した時点で、ゲームオーバー及びゲームアウト!

 

人の脳の中枢神経などを触らない、潜在意識などに入ってコントロールしないで ムキー 爆弾 パンチ!

( 目の錯覚、老眼近視。思考が低下、停止にしない。記憶が出来ない、出てこない、忘れる。人に自分の考えを言わさない。理性を失わせないで。胸などにモヤモヤとさせないで。口臭も

人の仕事の邪魔をしないで、人の後ろに憑かない憑依しない。喉、頭や首の神経を痛くしない。

特に、乗り物を運転している時は、絶対に頭を低下やボーっとさせないで!体調不良にしないで

人を縛らない、人をコントロールしないで、もっと自由にさせて。人のモノマネや水晶禁止。

人に嫌なことをしたり、言って脅さない。人に必要以上に執着や嫉妬しない。過保護にしない。

人にお金を使わさないで( 家や外食、テイクアウト、旅行仕事も含む )。プライバシー侵害

個人保護法。人を嵌めないで。楽天、ソフトバンクグループに嫌な事はしないで、緊張させない

その力、仕事にだけ使って、自分勝手に使わないで。みんな(全部)に対して良い様に使って

人に対して完璧主義を押し付けないで(暴言や自分勝手な言動行動は慎んで、人を縛らない)

深夜に毎日、連絡してこないで。自分が言った言葉に責任を持って、高圧的に言ってこない、

考えが甘い、ワガママを言わないで。トイレ関係。唇びるを痺れさせない。こけさせない。

顔や身体を熱く冷たくしない )吸い上げない。怒りの感情を倍増しない笑い上戸にしない。

人のアイデアを盗ったり、利用しないで自分で考えて。パワーや感情を抑えたり取らないで。

やる気を取らない。ちゃんと直して。職権乱用しない。全責任は、お母さん達に取ってもらう。

解散や休止、脱退、独立、退社、業務提供解消させないで。離婚も。言論や表現の自由が

法で定められている)人のPCやスマホに、ハッカーみたいに侵入してこないで パンチ!むかっ

 

3つの約束やルール、個人的に約束した事、日本の常識は必ず守 って。みんなに対して パンチ!パンチ!パンチ!

( 私の言うことを聞くように・命関係は打ち止め・引退をさせない。契約書、反故にしない )

 

 

いつもありがとうございます。

 

最後までお読みいただきありがとうございました 愛飛び出すハート