伊藤󠄁 博󠄁文󠄁、1841年10月16日〈天保12年9月2日〉- 1909年〈明治42年〉
大久保利通らの路線を受け継ぎ初代内閣総理大臣に就任し近代立憲主義社会の基礎を築いた。
4度にわたって内閣総理大臣(初代・5代・7代・10代)を務め一次内閣時には大日本帝国憲法の起草の中心人物となり、二次内閣では日清戦争の講和条約である下関条約の起草にあたった。四次内閣の組閣に際して立憲政友会を結党して初代総裁となり、政党政治の道を開いた。他、
初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監、元老などを歴任した。 百姓の身分から初代内閣総理大臣に上り詰め、その後も元老として明治日本を牽引したので今太閤の代名詞も持つ。
諱は、博文(ひろぶみ、「ハクブン」と読むこともある)。幼名は利助(りすけ)、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔(しゅんすけ)とし、さらに春輔(しゅんすけ)と改名した。明治初期に政府公文書で本姓やカバネを使うことが義務づけられていた時期には越智宿禰
(おちのすくね)博文と署名した。
生涯
生い立ち
天保12年(1841年)9月2日、周防国熊毛郡束荷村字野尻(現・山口県光市束荷字野尻)の
百姓・林十蔵(のちに重蔵)の長男として生まれる。母は秋山長左衛門の長女・琴子。
弘化5年(1846年)に破産した父が萩へ単身赴任したため母とともに母の実家へ預けられたが、嘉永2年(1849年)に父に呼び出され萩に移住した。萩では久保五郎左衛門の塾に通い(同門に吉田稔麿)、家が貧しかったため、12歳ごろから父が長州藩の蔵元付中間・水井武兵衛の
養子となり、武兵衛が安政元年(1854年)に周防佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって伊藤直右衛門と改名したため、十蔵・博文父子も足軽となった。彼は一人っ子であり
兄弟姉妹はいない(歴代内閣総理大臣としては他に三木武夫も一人っ子である)。(中略)
藩世子・毛利元徳へ経過報告したときには、攘夷派の暗殺計画を知り、高杉とともに行方を
くらましている。そして、この和平交渉において、天皇と将軍が長州藩宛に発した
「攘夷実施の命令書」の写しをサトウに手渡したことにより、各国は賠償金を江戸幕府に
要求するようになる。
挙兵
オールコックらとの交渉で伊藤は井上馨とともに長州藩の外国応接係を任されるが、下関戦争と禁門の変で大損害を被った藩は幕府への恭順を掲げる俗論派が台頭、攘夷派の正義派(革新派)との政争が始まった。伊藤は攘夷も幕府にも反対でありどちらの派閥にも加わらなかったが、
9月に井上が俗論派の襲撃で重傷を負うと行方をくらました。
11月、長州藩が第一次長州征伐で幕府に恭順の姿勢を見せると、12月に高杉らに従い力士隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)。このとき、高杉のもとに一番に駆けつけたのは伊藤だった。
その後、奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、正義派が藩政を握った。
のちに伊藤は、このときのことを述懐して「私の人生において、唯一誇れることがあると
すれば、このとき、一番に高杉さんのもとに駆けつけたことだろう」と語っている。
翌慶応元年(1865年)に藩の実権を握った桂の要請で行った薩摩藩や外国商人との武器購入
および交渉がおもな仕事となり、第二次長州征伐にも戊辰戦争にも加勢できずに暇を持て余す
形になった。慶応4年(明治元年、1868年)に外国事務総裁東久世通禧に見出され、神戸事件と堺事件の解決に奔走。これが出世の足がかりとなった。
明治維新
明治維新後は伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として、英語に堪能なことを買われて参与、
外国事務局判事、大蔵少輔兼民部少輔、初代兵庫県知事(官選)、初代工部卿、宮内卿など
明治政府のさまざまな要職を歴任する。これには木戸孝允の後ろ盾があり、井上馨や大隈重信とともに改革を進めることを見込まれていたからであった。
兵庫県知事時代の明治2年(1869年)1月、『国是綱目』いわゆる「兵庫論」を捧呈し、
- 君主政体
- 兵馬の大権を朝廷に返上
- 世界万国との通交
- 国民に上下の別をなくし「自在自由の権」を付与
- 「世界万国の学術」の普及
- 国際協調・攘夷の戒め
を主張した。
明治3年(1870年)に発足した工部省の長である工部卿として、殖産興業を推進する。のちにこれは、内務卿・大久保利通のもとで内務省へと引き継がれる。また同年11月から翌年5月まで、財政幣制調査のため芳川顕正・福地源一郎らと渡米。中央銀行について学び、帰国後に伊藤の
明治4年(1871年)11月には岩倉使節団の副使として渡米、サンフランシスコで「日の丸演説」を行う。明治6年(1873年)3月にはベルリンに渡り、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に
謁見。宰相ビスマルクとも会見し、ビスマルクから強い影響を受けた。
大蔵兼民部少輔を務めた際には、大隈重信とともに殖産興業政策の一環として鉄道建設を強力に推し進め、京浜間の鉄道は、明治5年5月7日(1872年6月12日)に品川 - 横浜間で仮営業を
始め、同年9月12日(1872年10月14日)、新橋までの全線が開通した。
当初、伊藤が新政府に提出した『国是綱目』が当時新政府内では極秘裏の方針とされていた
版籍奉還に触れていたために大久保利通や岩倉具視の不興を買い、大蔵省の権限をめぐる論争でも大久保とは対立関係にあった。また、岩倉使節団がアメリカで不平等条約改正交渉を始めた際、全権委任状を取るため一旦大久保とともに帰国したが、取得に5か月もかかったことで
木戸との関係も悪化した(改正交渉も中止)。だが、大久保・岩倉とは西欧旅行を通して親密になり、木戸とものちに和解したため、明治6年(1873年)に帰国して関わった征韓論では
「内治優先」路線を掲げた大久保・岩倉・木戸らを支持して大久保の信任を得るようになった(明治六年政変)。このあと木戸とは疎遠になる代わりに、政権の重鎮となった大久保・岩倉と連携する道を選ぶ一方、盟友の井上馨とともに木戸と大久保の間を取り結び、板垣退助とも
繋ぎを取り明治8年(1875年)1月の大阪会議を斡旋する。明治10年(1877年)に木戸が
死去、同年に西南戦争で西郷隆盛が敗死、翌11年(1878年)に大久保も暗殺されたあとは
内務卿を継承し、維新の三傑なき後の明治政府指導者の1人として辣腕を振るう。
明治12年(1879年)9月に「教育議」を上奏し、教育令発布となる。
明治14年(1881年)1月、日本の立憲体制をどう作るか井上馨や大隈重信と熱海で会談。
しかし大隈が急進的な構想を内密に提出、独走するようになると、政界追放を決め工作に取り
かかり、10月14日の大隈下野で目的を果たし、明治23年(1890年)に国会を開設することを
約束する(明治十四年の政変)。伊藤の漸進的な提案が通り、黒田清隆・西郷従道ら薩摩派とも提携したことで事実上伊藤が中心となる体制ができあがった。一方で井上毅が岩倉の指示を受け大隈案への対抗からプロイセン憲法を元にした憲法の採用を提案したときは退けたが、これは
井上が憲法制定を焦り、外国憲法をどう日本に定着させるかについて具体的に論じていない
ことと、上役の伊藤に憲法制定を促すなど分を越えた動きをしていたからであった。
明治15年(1882年)3月3日、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ、3月14日、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東巳代治ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発した。はじめベルリン大学の公法学者、ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受けた。のちにウィーン大学の国家学教授・憲法学者であるローレンツ・フォン・シュタインに師事し、歴史法学や行政について学ぶ。これが帰国後、近代的な内閣制度を創設し、大日本帝国憲法の
起草制定に中心的役割を果たすことにつながる。
明治18年(1885年)2月、朝鮮で起きた甲申政変の事後処理のため清に派遣され、
初代内閣総理大臣就任
明治18年(1885年)12月の内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目された。衆目の一致する所は、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三条実美と、大久保の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤だった。
しかし三条は、藤原北家閑院流の嫡流で清華家の一つ三条家の生まれという高貴な身分、公爵である。一方伊藤といえば、貧農の出で武士になったのも維新の直前という低い身分の出身、
お手盛りで伯爵になってはいるものの、その差は歴然としていた。
太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいるなか、伊藤の盟友であった井上馨は「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくては駄目だ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成。
これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。
つまり英語力が決め手となって伊藤は初代内閣総理大臣となったのである。
以後、伊藤は4度にわたって内閣総理大臣を務めることになる。なお、44歳2か月での総理大臣就任は、2022年現在日本の歴代総理大臣の中でもっとも若い記録である(2番目は近衛文麿の45歳、現行憲法下では安倍晋三の52歳)。維新以来、徐々に政府の実務から外されてきた
公卿出身者の退勢はこれで決定的となり、以降、長きにわたって総理大臣はおろか、閣僚すら
なかなか出せない状態となった。
第1次伊藤内閣では憲法発布前の下準備の機関創設に奔走、明治19年(1886年)2月には各省官制を制定し、3月には将来の官僚育成のため帝国大学(現・東京大学)を創設し、翌年3月には国家学会が創設、これを支援した。一方、井上馨を外務大臣として条約改正を任せたが、井上馨が提案した改正案に外国人判事の登用などを盛り込んだことで外国人司法官任用問題が起こって閣内分裂の危機を招いたため、明治20年(1887年)7月に外国へ向けた改正会議は中止、
9月に井上馨が辞任したため失敗に終わった。同年6月から夏島で伊東巳代治・井上毅・
金子堅太郎らとともに憲法草案の検討を開始する。またイギリス自由党議員で鉄道事業家の
ジャスパー・ウィルソン・ジョーンズの義理の息子である法曹のフランシス・ピゴットを憲法を含む法制顧問に迎えるなどし、のちに刊行した『秘書類纂』にも数々のピゴットの論文(和訳)を納めた。なおジョーンズの娘でピゴットの妻マーベルは1896年に植民地看護協会を設立しており、ウィンストン・チャーチルは新人議員のときに同協会を支援した。
明治21年(1888年)4月28日、枢密院開設の際に初代枢密院議長となるために首相を辞任。
第二次内閣
日清戦争
伊藤が明治25年から2度目の首相を務めていたとき、朝鮮の甲午農民戦争(東学党の乱)をきっかけに、7月に清軍と衝突、朝鮮の主権をめぐって意見が対立し、8月に日清戦争が起こる。
翌年の明治28年(1895年)4月に、陸奥宗光とともに全権大使として、李鴻章との間に下関の春帆楼で講和条約の下関条約(馬関条約)に調印する。また、戦争前に陸奥がイギリスと
治外法権撤廃を明記した条約を結び、条約改正に大きく前進した。
朝鮮の独立(第一条)と遼東半島の割譲などを明記した下関条約がドイツ・フランス・ロシアの三国干渉を引き起こし、第2次伊藤内閣は遼東半島の放棄を決め、翌明治29年(1896年)
8月31日、伊藤は首相を辞任する。
第三次内閣
明治31年(1898年)1月、第3次伊藤内閣が発足。6月に衆議院を解散、閣議で政党結成の意思を表明するなど、新党結成を唱えるが、山縣有朋の反対に遭い首相を辞任。同年8月に長崎を出発し、朝鮮の漢城で高宗と会見。9月には清の北京で慶親王・康有為らと面談、戊戌変法に取り組んでいた光緒帝に謁見し、10月には張之洞・劉坤一と会談している。北京滞在中の9月21日に保守派が決行した戊戌の政変に遭遇、そのときの状況と戸惑いを日本の梅子夫人に書き送って
いる。翌32年(1899年)4月から10月まで半年かけて全国遊説を行い、政党創立の準備と民衆への立憲体制受け入れを呼びかけている。また、1899年宮内省に設置された帝室制度調査局の総裁に就任し、皇室典範の増補と公式令の制定に取り組んだ。
第四次内閣
明治33年(1900年)9月には立憲政友会を創立し、初代総裁を務める。10月に政友会のメンバーを大勢入れた第4次伊藤内閣が発足するが、政党としての内実が整わない状態での組閣だったため、内部分裂を引き起こし翌34年(1901年)5月に辞任。政友会はその後西園寺公望・原敬らが中心となり伊藤の手を離れるが、立憲民政党とならぶ2大政党の1つとなり、大正デモクラシーなどで大きな役割を果たすまでに成長した。また貴族院議員として貴族院議長に就任する。
日露戦争
日清戦争後、伊藤は対露宥和政策をとり、陸奥宗光、井上馨らとともに日露協商論・満韓交換論を唱え、ロシアとの不戦を主張した。同時に桂太郎・山縣有朋・小村寿太郎らの日英同盟案に反対した。さらに、自ら単身ロシアに渡って満韓交換論を提案するが、ロシア側から拒否される。
明治37年(1904年)から始まった日露戦争を巡っては、金子堅太郎をアメリカに派遣し、
大統領セオドア・ルーズベルトに講和の斡旋を依頼している。これが翌38年(1905年)の
ポーツマス条約に結びつくことになる。なおこの日露の講和に際して、首相の桂が日本の全権代表として最初に打診したのは、外相の小村ではなく伊藤であった。桂内閣は、講和条件が日本国民に受け入れがたいものになることを当初から予見し、それまで4度首相を務めた伊藤であれば国民の不満を和らげることができるのではないかと期待したのである。伊藤ははじめは引き受けてもよいという姿勢を示したのに対し、彼の側近は、戦勝の栄誉は桂が担い、講和によって
生じる国民の反感を伊藤が一手に引き受けるのは馬鹿げているとして猛反対し、最終的には
伊藤も全権大使への就任を辞退した。また交渉の容易でないことをよく知っていた伊藤は、
全権代表に選ばれた小村に対しては「君の帰朝の時には、他人はどうあろうとも、吾輩だけは
必ず出迎えにゆく」と語り、励ましている。講和後は、勝利を手にした日本と敗戦国ロシアとの間の戦後処理に奔走した。
初代韓国統監
明治38年(1905年)11月、第二次日韓協約により韓国統監府が設置されると
伊藤が初代統監に就任した。以降、日本は実質的な朝鮮の統治権を掌握した。
伊藤は国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国の直轄を急ぐ山縣有朋や桂太郎・寺内正毅ら陸軍軍閥としばしば対立した。また、韓国併合について、保護国化による実質的な統治で
充分であるとの考えから当初は併合反対の立場を取っていた。近年発見された伊藤の明治38年(1905年)11月の日付のメモには「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述があり、
これについて京都大学教授の伊藤之雄は「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力が
つくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持っていた事を裏付けるものだ」としている。
実際に、この文言は「第二次日韓協約」に盛り込まれ、調印された。
伊藤は韓国民の素養を認め韓国の国力自治力が高まることを期待し、韓国での教育にも力を注いだ。1907年4月14日、韓国に赴任する日本人教師たちの前で「徹頭徹尾誠実と親切とをもって児童を教育し裏表があってはならないこと」「宗教は韓国民の自由でありあれこれ評論しない
こと」「日本人教師は余暇を用いて朝鮮語を学ぶこと」を訓諭した。また明治40年(1907年)
7月、京城(ソウル)にて新聞記者たちの前でも「日本は韓国を合併するの必要なし。韓国は
自治を要す」と演説していた。
原田豊次郎著『伊藤公と韓国』(日韓書房、1909年11月)に、韓国駐在の日本人記者を相手にした伊藤の演説の要旨が掲載されている。「今回事件」とは、ハーグ密使事件のことであるが、日本人記者を相手にした演説であり、伊藤の本音か確証はないが、小島毅は「私は本音ととっていいのではないかと思います。研究者もそのようにとっています」「日韓併合については
懐疑的な人」としている。
吞噬は日本の意にあらず。韓国人は動もすれば日本の意を誤解す、日本は決して此の如き意思を有する者にあらず、素より之を敢てする者にあらざる也。又今回事件の起生せるを機とし、韓国を併合すべしと論ずる日本人ありと云ふ。余は合併の
必要なしと考ふ。合併は却て厄介を増すに過ぎず、宜しく韓国をして自治の能力を養成せしむべき也。縦令国富み兵強くなるも、韓国の戈を倒にして我に打ちかかり来るが如き憂はなかるべし。韓国の富国強兵は日本の希望する所なれども、唯一の制限は韓国が永く日本と親しみ、日本と提携すべき事即ち是也。かの独逸連邦ウルテンブルグの如く韓国を指導し勢力を養成し、財政経済教育を普及して、遂には連邦政治を布くに至るやう之を導くを恐らくは日本の利益なりと、余は信ずる者也。
しかし、朝鮮内で独立運動である義兵闘争が盛んになるにつれて考え方を変え、明治42年(1909年)4月、時の首相・桂太郎と外相小村壽太郎が伊藤に恐る恐る「韓国の現状に照らして将来を考量するに、韓国を併合するより外に他策なかるべき事由を陳述」すると「公は両相の説を聞くや、意外にもこれに異存なき旨を言明」し、なおかつ桂・小村の提示した「併合の方針」についても「その大綱を是認」した。その2週間後の東京での演説でも伊藤は「今や方に協同的に進まんとする境遇となり、進んで一家たらんとせり」と併合を示唆し聴衆を驚かせたという。そして同年5月、統監職を辞職する。伊藤の翻意を確認した桂と小村は「対韓大方針」と「対韓施設大綱」を作成し「韓国」を併合する方針を明らかにした。韓国保護国化政策にまったく未練がなくなった伊藤は統監辞職後、4度目の枢密院議長に就任し、事後処理の為訪韓し陣頭指揮に立ち「韓国」政府に「韓国司法及監獄事務委託に関する覚書」を調印させ、また「韓国軍部廃止勅令公布」を行わせた。併合方針の閣議決定に反対した形跡はない(適当ノ時期ニ於テ韓国ノ併合ヲ断行スル事 明治42年(1909年)7月6日)。また、伊藤は統監として日本の政策に対する韓国国民の恨みを買うこととなり、それは朝鮮民族主義者の安重根による暗殺事件につながった。事件に動揺した親日派は韓国併合を加速させたが、前述の通り、併合方針は事件前に
内閣の閣議で決まっていた。
年表
- 1905年11月、特派大使として韓国に渡り、ポーツマス条約に基づいて第二次日韓協約(韓国保護条約)を締結する。
- 1905年11月22日、投石により韓国内で負傷する。
- 1905年12月、韓国統監府が設置され、初代統監に就任する。
- 1906年2月、日本公使館を韓国統監府に改め、国内12か所に理事庁、11か所に支庁を置く。
- 1907年6月、ハーグ密使事件。
- 1907年7月、京城(ソウル)にて新聞記者達の前で「日本は韓国を合併するの必要なし」と演説する。
- 1908年、韓国銀行(のちの朝鮮銀行)を設立する。
- 1908年9月、京城(ソウル)に朝鮮皇室博物館(現・韓国国立中央博物館)を造営する。
- 1909年6月、韓国統監を辞任する。
- 1909年10月26日、ハルビン駅で安重根に暗殺される。これが日本国内に報じられると、翌10月27日に国葬を行う旨の勅令314号が公布された。
- 1910年8月29日韓国併合により朝鮮総督府が設置されたが、統監府及び所属官署は、 当分の間存続し、朝鮮総督の職務は統監が行使するとされた。
第二次内閣、日清戦争時、始めた時は日本が優位だったが、段々と負け越してきた時、明治天皇の枕元に亡くなった坂本龍馬が立ち、日本が勝つと言ったその後、予言通り日本が勝利した。
伊藤博文が暗殺された当時、伊藤に随行した室田義文首席随行員がおよそ30年後に話した舞台の真相によると、彼の肉に埋まっていた弾丸が安重根のブローニング7連発拳銃用のものでは
なく、フランス騎馬隊カービン銃用であり、また弾丸があけた穴の向きが下向きであることが
おかしく、安重根からならば上向きになるはずであり、彼への命中弾は駅の上の食堂あたりからではなかろうか、ということである。しかし室田は事件当時は混乱していたためか、安重根の
裁判では「数発爆竹の如き音を聞きたるも狙撃者ありしことを気付かず、少時して洋服を着たる一人男が、露国軍隊の間より身を出して、拳銃を以て自分の方に向ひ発射するを認め、
初めて狙撃者あることを知り(中略)狙撃当時の模様は是以外に知らず」と証言した。
また別の例では、暗殺現場を間近で目撃したココツェフ蔵相が当日ただちに駐日大使に宛てて
電報を次のように打っている。「……陰謀は明らかに組織的なものだった。昨晩、蔡家溝駅で
我が警察はブローニング銃を持った3人の疑わしい朝鮮人たちをすでに逮捕していたという…」
30年後に真実を話すのではなく、なぜ、その時に言わなかったのか不思議。
気が動転していたのか? 冷静になって考えたら分かったのか?もっと弾丸の向きを分析できなかったのか?いくつかの疑問が残る事件で、えん罪事件になったのは明白ですね
こんなえん罪事件が2度と出ないように、いろんな方向から検証して刑を決めてほしいです
( 人の人生を狂わせたり、ダメにすることになるし、親族まで迷惑がかかるので・・・。)
みんなと個人的に約束しているのなら、絶対に約束を守って、約束を破らないで
最近、また純ちゃんに嫌な事 ( 首や頭を痛くしない、咳込まさない、口臭も持って来ないで、
体を動かしにくくしないで、転ばさないで ) をしてくるの止めて。味覚障害も
【 ボードゲームの禁じ手 】を使わないで!
いくつかのゲームには、ルールで定められた禁じ手が存在する。
禁じ手を打った(指した)場合、即座に負けとなるのが一般的である。
スポーツやゲームのように明確な規則で禁じられたものだけでなく、
「使うべきでない」とされる手法についても「禁じ手」と呼ばれることがある。
※ このルールを違反した時点で、ゲームオーバー及びゲームアウト!
人の脳の中枢神経を触らない、潜在意識などに入ってコントロールしないで
( 目の錯覚、老眼近視。思考が低下、停止にしない。記憶が出来ない、出てこない、忘れる。人に自分の考えを言わさない。理性を失わせないで。胸などにモヤモヤとさせないで。口臭も
人の仕事の邪魔をしないで、人の後ろに憑かない憑依しない。喉、頭や首の神経を痛くしない。
特に、乗り物を運転している時は、絶対に頭を低下やボーっとさせないで!体調不良にしないで
人を縛らない、人をコントロールしないで、もっと自由にさせて。人のモノマネや水晶禁止。
人に嫌なことをしたり、言って脅さない。人に必要以上に執着や嫉妬しない。過保護にしない。
人にお金を使わさないで( 家や外食、テイクアウト、旅行仕事も含む )。プライバシー侵害
個人保護法。人を嵌めないで。楽天、ソフトバンクグループに嫌な事はしないで、緊張させない
その力、仕事にだけ使って、自分勝手に使わないで。みんな(全部)に対して良い様に使って
人に対して完璧主義を押し付けないで(暴言や自分勝手な言動行動は慎んで、人を縛らない)
深夜に毎日、連絡してこないで。自分が言った言葉に責任を持って、高圧的に言ってこない、
考えが甘い、ワガママを言わないで。トイレ関係。唇びるを痺れさせない。こけさせない。
顔や身体を熱く冷たくしない )吸い上げない。怒りの感情を倍増しない、笑い上戸にしない。
人のアイデアを盗ったり、利用しないで自分で考えて。パワーや感情を抑えたり取らないで。
やる気を取らない。ちゃんと直して。職権乱用しない。全責任は、お母さん達に取ってもらう。
解散や休止、脱退、独立、退社、業務提供解消させないで。離婚も。言論や表現の自由が
法で定められている)人のPCやスマホに、ハッカーみたいに侵入してこないで
3つの約束やルール、個人的に約束した事、日本の常識は必ず守 って。みんなに対して
( 私の言うことを聞くように・命関係は打ち止め・引退をさせない。契約書、反故にしない )
いつもありがとうございます。
最後までお読みいただきありがとうございました