「赤い衝撃」のストーリーを簡単にお話ししましょう。
主人公は、大山友子(山口百恵)友子は、高校3年生ながら
短距離ランナーとして大活躍し、将来を嘱望されていた。
友子がオリンピック出場という目標に向けて早朝のトレーニングをしていたところに、
偶然、若手刑事の新田秀夫(三浦友和)が通りかかった。
元陸上選手だった秀夫は、友子の走りの才能に惚れ込んだ。
そして、秀夫はその場で友子にスタートダッシュの方法をアドバイスしたのだ。
これが友子と秀夫の恋の始まりだった。と、同時に二人の悲劇の始まりでもあったのだ・・・
友子の父親は、大山豪介(中条静夫)。
豪介は、たった一代で巨額の富を築いた大実業家であった。
汚い手口で成りあがってきた豪介は、暴力団の矢野次郎(谷隼人)に命を狙われていた。
そこで、警視庁は、豪介を警護するために二人の刑事を派遣した。
その二人の刑事は、新田雄作(田村高廣)と、その息子・秀夫。
そう。
早朝のトレーニングで友子にアドバイスを送った新田秀夫とその父だ。
運命の日がやってきた。
その日は、友子が出場する陸上競技大会の開催日だった。
友子は、周囲の期待に見事に応え、100メートル走で優勝を果たした。
娘の優勝に興奮した父・大山豪介は、料亭で大宴会を開き、
そのうえ自ら阿波踊りを踊りに踊りまくった。
踊る阿呆に見る阿呆 ♪♪
同じ阿保なら ♪♪ 踊らにゃ ♪♪ そん!そん!
しかし、まさにその時、料亭の外で矢野が銃を構えて大山豪介の命を狙っていたのだ。
豪介の警護にあたっていた新田親子が銃を構える矢野の姿を発見した。
秀夫は、すかさず銃を構えた。そして、豪介が料亭の外に出たその瞬間
バキューン!!
銃弾が轟いた。と、同時にドサッと、人が倒れた。
秀夫が放った銃弾が当たったのだ。
しかし、弾丸が当たって倒れたのは、矢野でも豪介でもなかった。
なんと、友子が銃弾に倒れてしまったのだ。
「あっ・・・」「・・・」 ドサッ!
「と、ともこー!!!」
友子は、脊髄損傷の重傷を負い、下半身不随となった。
友子は、もうアスリートとして走ることはできない、
自力で歩くことすらできない車椅子生活になってしまったのだ。
秀夫に憎しみを抱くようになった友子。
しかし、それと同時に秀夫への愛を忘れない友子の苦悩。
重い十字架を背負って生きていくことになった秀夫。
溺愛する娘の夢が砕かれ、怒りに狂う大山豪介。
しかし、友子の本当の父親ではない豪介。
実は、本当は、豪介の息子だったという秀夫。
豪介の身代わりに殺人犯として服役していた大山の秘書・北川政夫(長門裕之)
いったい友子の本当の父親は誰なのか?
友子と秀夫との関係は、どうなって行くのか?
じつにややこしく、全く予測不可能な赤いシリーズ特有の展開は、実際に観て頂きたい。
特に「俺のかわいいウサギ!!」と雄たけびを上げる大山大介の名セリフは必見です。
和泉雅子は、北極点挑戦のため1人でテントで
寝起きする試験を受けていた! 【 こいもうさぎのブログ 】より
演出家の石井ふく子さんに北極点挑戦のための休みをもらい、復帰後の仕事の約束まで
もらった、和泉雅子(いずみ まさこ)さんは、舞台「女たちの忠臣蔵」が終わると、
いよいよ、北極点挑戦の準備に全てを注ぎます。
村山雅美から隊長の心構えやサバイバルの必要性を学ぶ
演出家の石井ふく子さんの了承のもと、舞台「女たちの忠臣蔵」の稽古の合間を縫って、
北極点挑戦の準備を進めていた和泉さんですが、1984年12月無事に公演が終わると、
いよいよ、北極点挑戦の準備に全てを注ぎ、1984年暮れから翌年1985年正月にかけては
大忙しとなり、協力してくれる人たちへの挨拶にも奔走。まずは、五月女次男さんの紹介で、
第9次南極越冬隊長として、日本人で初めて南極点に立った村山雅美さんに会うと、
隊長の心構えや極地でのサバイバルの必要性などを教えてもらい、この時、村山さんに、
「マコ隊(和泉さんの隊の名前)」の ”頭脳” としてオブザーバーをお願いされます。
(五月女次男さんは、北極経験25回というベテランで、1978年4月26日には
日大隊(日本大学山岳部)の一員として、日本人初の北極点到達を果たされています。)
伊藤周左ェ門のテントで、1週間寝起きするテストに合格
そして、和泉さんは、同じく五月女さんから推薦してもらった伊藤周左ェ門さん(冒険家・
植村直己さんの友人)に会うため、伊藤さんが経営する谷川岳の土樽山荘にも訪ねられます。
( 土樽山荘では、植村直己さんが消息を断った後、定期的に偲ぶ会が開かれており、
登山家や冒険家の情報センターのような所だったそうです )
実は、伊藤さんは、植村さんの ”聖地” に女が踏み入るのは許せないと言っていた人物で、
和泉さんは、そこをなんとか口説き落として協力してもらうのが訪問の目的だったそうですが、
伊藤さんは、いきなり外にテントを立て、
暮れから正月にかけての1週間、ここで寝起きしなさい
と、言ったそうで、和泉さんは、言われた通りテントで寝起きすることに。
そして、約束の1週間が経つと、
一緒に行ってやる
と、伊藤さんの協力を得ることができたそうですが、
実のところ、和泉さんは、テントで寝たことがなかったため、うれしくて仕方なく、
テントでの生活中、テントのナイロンに雪がバンバンバン当たるすごい音に
感動されるなど、内心、大喜びだったそうです(笑)
朝日新聞社会面で北極遠征が密着取材されることが決定
こうして、着々と北極行きの準備は進んでいったそうですが、新年早々、和泉さんたちが
北極点を目指して準備している話をスポーツ紙が書くという情報が舞い込んできます。
そこで、和泉さんは、村山雅美さんと一緒に南極に行ったことのある朝日新聞の記者の
知り合いに相談に行くと「朝日新聞の社会面でやりましょう」ということになったそうで、
番記者(特定の取材対象者に密着して取材を行う記者)には、当時、社会部遊軍記者だった
たくちゃんこと、田中拓二さんが指名され( 田中さんは、後に、和泉さんの「マコ隊」の
番記者として、現地のベースキャンプで遠征の模様を逐一伝えられます )
1985年1月13日、朝日新聞朝刊社会面トップに、
女優の和泉雅子さん 北極点踏破に挑戦 地球のテッペンに立ちたい
という見出しとともに、13段抜きの記事が掲載されたのでした。
北極つながりで面識のなかった高倉健とも
ちなみに、ちょうど同じ頃、映画「植村直己物語」の契約の関係で、カナダ・レゾリュートからベーゼル・ジェスダーセンさんが来日し、赤坂プリンスホテルに滞在していたことから、
和泉さんは、朝日新聞の記者・田中さんとカメラマンと一緒に、改めてベーゼルさんを訪ね、
話を聞いたり、写真撮影をされると、翌日には、ベーゼルさんが和泉さんの事務所に訪ねて
こられていたそうですが、そこに映画「南極物語」で主演を務め、ベーゼルさんと親しく
なっていた高倉健さんがベーゼルさんの来日を知り、話がしたくて和泉さんの事務所に電話を
してきたそうで、たまたま電話に出た和泉さんは、これまで高倉さんには会ったことがなかったにもかかわらず、レゾリュートのことなど10分くらい話せたそうで、大喜びだったそうです♪
大相撲「土俵は女人禁制」歴史が教える意外なワケ
日本相撲協会が土俵の「女人 禁制 」について、八角理事長の名前で談話を出し、
女性を土俵に上げない「伝統」について、あり方を再検討する考えを示した。
京都府舞鶴市で行われた春巡業の土俵上で市長が倒れ、とっさに救命措置をした女性に対して、行司が「土俵から下りてください」と場内アナウンスを繰り返した“事件”がきっかけだ。
協会はこの対応を「不適切だった」と謝罪したが、話はそれでは終わらずに、
土俵の女人禁制を今後も守るべきかどうかにまで波及した。
「女性蔑視の象徴だ」「いや、伝統的な神事のしきたりでは」――そもそもこのしきたりは
いつから始まり、どういう理由で女性を土俵から遠ざけているのか。
本当のところは意外と分かっていない。
協会は女人禁制の見直しについて「時間が欲しい」という。
長年の伝統の見直しだから、簡単に結論を出せない事情は理解できる。
だが、大相撲には伝統を臨機応変に取捨選択してきたという「改革の伝統」もある。
相撲が日本の国技となった「明治の大相撲改革」のいきさつがその典型だろう。実は女人禁制が定着したのは、この明治の改革によるものだとしたら、古くからの伝統といえるのだろうか。
板垣退助が推進した「明治の相撲改革」
明治の改革には、明治維新の立役者のひとり、板垣退助(1837~1919)が深く関与して
いた。板垣が生まれた土佐(高知県)は昔から相撲が盛んで、板垣も子どものころから
相撲が大好きだった。土佐の板垣の邸宅にはたくさんの力士が集まり、さながら相撲部屋の
ようだったという。だが、意外なことに、江戸時代に神社などで行われていた興行としての
江戸大相撲( 勧進 相撲)に土佐出身の幕内力士は一人もいない。
土佐藩が強い力士を囲い込んで江戸に出さなかったためらしい。
土佐出身の力士が東京で活躍するのは、板垣邸のけいこ場で鍛え、大坂相撲から東京に
進出した 海山太郎 (1854~1926)からのことだ。東京での最高位は前頭筆頭止まり
だったが、むしろ、年寄友綱(貞太郎)となってから後進の育成や東京 大角力 協会
(現在の日本相撲協会)の大幹部(取締)として活躍し、今の二所ノ関一門の源流となる。
板垣も友綱の後ろ盾として協会の運営に関わっていく。
土佐勢が協会内で急速に発言力を強めたのは、板垣の政治力に加え、過去のしがらみがない
新興勢力の土佐勢と板垣に、低迷から抜け出す改革を期待したからではないか。
「野蛮」「廃止すべき」…維新直後の逆風
大相撲は、明治維新で大きな痛手を受けた。版籍奉還や廃藩置県は多くの力士から大名というタニマチを奪い、文明開化の「散髪令」や「裸体禁止令」により、裸のちょんまげ姿で組み合う相撲は野蛮とされた。明治維新直後は、大相撲は廃止すべきという声さえ強まっていた。
相撲界は、相撲好きだった明治天皇(1852~1912)や伊藤博文(1841~1909)らを頼り、東京遷都で東海道を行幸した天皇の錦の御旗の旗手を力士に務めさせたり、伊藤に頼み込んで
天覧相撲を開催したりして、何とか大相撲を存続させた。
だが、谷風、小野川、 雷電為右衛門 」が活躍した江戸後期の勢いはなかった。
土佐勢と板垣は、常設館の建設をテコに相撲の復興を図ろうと改革を進めていく。
当時の大相撲は屋根のある常設館を持たず、両国の 回向院 境内で行われていたため、
観客の収容人数も少なく、雨天時は中止となるため興行収入が増えなかったためだ。
板垣は常設館の設置に奔走し、明治42年(1909年)に初代国技館を完成させた。
日本銀行本店や東京駅などを手がけた辰野金吾(1854~1919)の設計による日本初の
円形ドーム式建築は多くの人の目を引いたが、人気回復を決定づけたのは、その名前だった。
「尚武館」「相撲館」を寄り切った名前
常設館の名前は、開館式の4日前に開かれた委員会で議論された。
板垣は「 角力尚武館 」を提案したが「『尚武』は音が『 勝負 』と同じで『 勝負館 』と
誤記されるのでは」という異論が出た。風見明さんの『 相撲、国技となる 』によると、
「相撲館」「武育館」などの案も出て紛糾するなか、年寄の 尾車 文五郎(1841~96)が
開館式の案内状を見てひらめいた案が「国技館」だったという。
「角力は日本の国技、歴代の朝廷これを奨励せられ、
相撲節会 の盛事は、尚武の気を養い来たり」
案内状を書いたのは、小説家で相撲好きだった 江見水陰 (1869~1934)。板垣は開館式の終了後に、「国技館なんて言いにくく難しい名をつけたのは私の不行届き」とぼやいているが、相撲ファンの評判は上々だった。常設館の収容人数は1万3000人と、従来の6倍以上になり、
雨天中止もなく10日間の本場所興行ができるようになって、協会の財政は安定した。
女人禁制が定着したのは明治以降か
より大きかったのは、この名前によって、相撲が日本の国技として国民に定着したこと
だろう。江見の案内文にある通り、国技となったことで、相撲の起源は宮中行事の
相撲節会にさかのぼり、大相撲は1400年の歴史を手にした。
これにより、大相撲は伝統と格式を求められることになる。
板垣は国技館建設の目的について、東京日日新聞の取材に対し「維新前の外国と交通がなかった時ならともかく、今日のごとく欧米各国から貴賓が来るようになり、我が国固有の相撲が
海外人に見られるようになった以上、常設館はなくてはならない」と語っている。
国技館はその後、火災や戦災などで建て直されるが、最も西洋風なのが初代だった。
外国人を意識して外見は洋風とし、中身は日本の伝統と格式を重視したわけだ。国技館の完成に合わせて板垣は、主要な部屋の関取を集め、八百長排除の誓約書に署名 捺印 させた。協会の
規律や威厳の向上から、地方巡業や力士の病欠「待った」の作法にまで注文をつけている。
土俵に女性を上げない「伝統」が確立したのも、この改革のなかでのことではないか。
大相撲は江戸時代から女人禁制だったようだが、明治初期までは各地で男女の相撲が
見せ物として行われ、着衣なしでの女相撲も行われていた。だが、改革によって大相撲は
他の相撲とは違う宮中行事を起源とする由緒正しい国技となった。
神道とのつながりが強調され、女性に相撲をとらせるのはもちろん、土俵に上げるのも
まかりならんという女人禁制が「後付け」された可能性が高い。
ちなみに『 日本書紀 』には「相撲を最初に取ったのは女性」とある。
元横綱審議委員、内館牧子さんの『 女はなぜ土俵にあがれないのか 』によると、雄略天皇
13年(469年)「絶対にミスをしない」と豪語していた木工の名人の手元を狂わせるため、
天皇が女官( 采女 )をふんどし姿にして相撲を取らせた話があるという。
いまなら「事実ならアウト」のパワハラ、セクハラだ。それから200年近く後の皇極天皇
元年(642年)に朝廷が開催した 健児 (兵士)相撲を相撲協会が「相撲」の起源と
しているのは、雄略天皇13年の女官の相撲が女人禁制と矛盾するからではなく、
女性に裸を強要したひどい仕打ちを相撲の起源としたくないからかもしれない。
板垣死ストモ相撲ハ…?
板垣は自由民権運動の盟主でもあり、男女同権への意識があった。しかし、女性への選挙権
付与は、納税者の戸主の女性に限るなど、板垣の思想は無条件の男女平等ではなかった。国技館の土俵を男だけの神聖な競技の場としたのも、当時の認識としては無理もないことだった。
明治29年(1896年)にアテネで開かれた第1回近代オリンピックも女人禁制で行われている。
ちなみに相撲の女性観戦は、江戸時代には千秋楽に限られていたが、明治5年(1872)に
2日目以降が観戦可能となり、その5年後には初日も含めて全面解禁されている。
相撲見物は興奮した観客によるけんかがつきもので、女性は危険と判断されていたが、
観客減に悩んだ相撲界が観客席の風紀向上に努めて解禁に踏み切った。
ちなみに女性の観戦解禁を助言したのは、土佐藩主の山内容堂( 豊信 、1827~72)だった。土佐は板垣以前から相撲改革の旗手だったのだ。
相撲界の発展に尽くした板垣の葬儀では、ひつぎを力士16人が担ぎ、相撲界からも
多数の参列者があったという。土俵の女人禁制が、時代に合わせるための明治の相撲改革で
生まれた副産物だとすれば、時代にあわせた相撲改革もできるはずだ。天上で板垣は
「板垣死ストモ相撲ハ死セズ」とつぶやきながら、議論の行方を見守っているかもしれない。
- 主要参考文献
- 内館牧子『 女はなぜ土俵にあがれないのか 』(2006、幻冬舎新書)
- 風見明『 相撲、国技となる 』(2002、大修館書店)
- 吉崎祥司、稲野一彦「相撲における『 女人禁制の伝統 』について」(2008、
- 『 北海道教育大学紀要 人文科学・社会科学編 』59巻1号)
プロフィル
丸山 淳一( まるやま・じゅんいち )
読売新聞調査研究本部総務。経済部、論説委員、経済部長、熊本県民テレビ報道局長、
BS日テレ「深層NEWS」キャスター、読売新聞編集委員などを経て2020年6月より現職。
経済部では金融、通商、自動車業界などを担当。東日本大震災と熊本地震で災害報道の最前線も経験した。1962年5月生まれ。小学5年生で大河ドラマ「国盗り物語」で高橋英樹さん演じる
織田信長を見て大好きになり、城や寺社、古戦場巡りや歴史書を読みあさり続けている。
太田知事、土俵入りならず/日本相撲協会が拒否
2004/02/18 19:50
大阪府の太田房江知事が、大相撲春場所(3月14日初日・大阪府立体育会館)の表彰式で
自ら土俵に上がって優勝力士に知事賞を授与したいと要望している問題で、日本相撲協会の
間垣・大阪場所担当部長(元横綱二代目若乃花)は18日、「今場所はない」と語り、
昨年までの4年間と同様、同知事が土俵に上がるのを認めないことを明らかにした。
太田知事は初当選した2000年から、優勝力士を直接表彰したい意向を日本相撲協会に
伝えてきた。しかし、協会は「土俵上は女人禁制とするのが大相撲の伝統」として拒否し、
代理の男性副知事が土俵に上がっていた。
間垣担当部長は「(知事は)今年も要望されたようだが、執行部からお断りの連絡を
入れたと聞いている。無理なこともある」と話した。
ドラマ【 赤い衝撃 】のセリフに
重い十字架を背負って生きていくことになった秀夫。
溺愛する娘の夢が砕かれ、怒りに狂う大山豪介。を読んで、
1987 Merry X'mas Show 松任谷由実 桑田佳祐さんがフジテレビで生放送されたのが
youtubu で観れますので一度観て下さい。その前に1986年もあります。
忌野清志郎さんが十字架に張り付けになって「桑田~覚えてろよ~」×2と叫んでいました
占い師の母から【十字架を背負って生きて行け~】と言われてことがありました
2004年春に「冬のソナタ」に嵌り、ぺ・ヨンジュンを好きになり、ファンになりました。
その後に、「冬のソナタ」の出演者が日本でファンミーティングがあり、ペ・ヨンジュンだけが
欠席で行われ、映画「4月の雪」があり、2010年にパク・ヨンハが自殺して、「冬のソナタ」の出演者が日本で集まりファンミーティング開催、私の夢が実現せずに消えてしまいました。
詳しくは、また来年書きます
【 ボードゲームの禁じ手 】を使わないで!
いくつかのゲームには、ルールで定められた禁じ手が存在する。
禁じ手を打った(指した)場合、即座に負けとなるのが一般的である。
スポーツやゲームのように明確な規則で禁じられたものだけでなく、
「使うべきでない」とされる手法についても「禁じ手」と呼ばれることがある。
人の脳の中枢神経を触らない、潜在意識に入って、コントロールしないで
( 目の錯覚、老眼近視。思考が低下、停止にしない。記憶が出来ない、出てこない、忘れる。人に自分の考えを言わさない。理性を失わせないで。胸などにモヤモヤとさせないで。
人の仕事の邪魔をしないで、人の後ろに憑かない憑依しない。喉、頭や首の神経を痛くしない。
人を縛らない、人をコントロールしないで、もっと自由にさせて。人のものまね、水晶禁止。
人に嫌なことをしたり、言って脅さない。人に必要以上に執着や嫉妬しない。過保護にしない。
人にお金を使わさないで( 家や外食、テイクアウト、旅行仕事も含む )。プライバシー侵害、
個人保護法。人を嵌めないで。楽天、ソフトバンクグループに嫌な事はしないで、手塚にも。
その力、仕事にだけ使って、自分勝手に使わないで。みんな(全部)に対して良い様に使って。
人に対して完璧主義を押し付けないで(暴言や自分勝手な言動行動は慎んで、人を縛らない)
毎日、深夜に連絡してこないで。自分が言った言葉に責任を持って、高圧的に言ってこない、
考えが甘い、ワガママを言わないで。トイレ関係。唇びるを痺れさせない。こけさせない。
顔や身体を熱く冷たくしない )吸い上げない。怒りの感情を倍増しない、笑い上戸にしない。
頭をボーッとさせない。人のアイデアを盗ったり、利用しないで自分で考えて。
やる気を取らない。ちゃんと直して。職権乱用しない。全責任は、お母さん達に取ってもらう。
解散や休止、脱退、独立させないで。言論や表現の自由が法で定められているの。)
あの長男、今まで我慢してきたけど、今日は、いつも以上に酷かったので書きました
( 人のPCやスマホにハッカーみたいに侵入してきて、更新プログラムに似せてこないで )
3つの約束やルール、個人的に約束した事、日本の常識は必ず守 って。みんなに対して
( 私の言うことを聞くように・命関係は打ち止め・引退をさせない。契約書、反故にしない )
いつもありがとうございます。
最後までお読みいただきありがとうございました