芸能リポーター・石川敏男の芸能界”あの出来事のウラ側は……”⑪
大阪の早朝番組の帰りだったから午前8時過ぎだったと思う。
「ポール牧さんってご存じですよね。自殺したようです」と、警視庁の幹部から連絡が入った。東京・西新宿の自宅マンションから飛び降り自殺したという。
‘05年4月22日の未明のことだった。連絡をいただいたのは、知人のお嬢さんの
結婚披露宴でお会いした警視庁の警視さん。
その披露宴での出会いから、意気投合し飲み友達になっていたのだ。
新しい情報をもらうことはあまりなかったが、彼の過去の話はいつも面白く、
警察官の仕事の大変さも聞かされていた。記者としてのこちらの質問には答えてもらえる
ことは少なかったが、時には世間をビックリさせるような情報も頂いたこともある。
電話があったとき、オレは新幹線の車中。ポールさんの現場には行けなかったので、
代わりのリポーターに行ってもらうことになった。
俺の情報が早かったために到着が早く、まだ他社はいなかったそうで、
「現場は血の海で、生々しい雰囲気が漂っていた」と、駆け付けたリポーターが
言っていたのを記憶している。9階にあったポールさんの部屋の窓は開いたままで、
手すりに乗り越えた跡があった。
メールが全部消された携帯電話が残されていたようだが、遺書は見つからなかった。
ポールさんと言えば “指パッチン” で一世を風靡したコメディアン。
東八郎さん、関武志さん、三波伸介さんらと浅草の軽演劇会を引っ張ってきた芸人だ。
キザな風貌やホラ話の話芸で人気を博した。三波さんも東さんも関さんも
亡くなってしまい、ひとり気を吐くコメディアンだった。
北海道の寺の息子として生まれ、10歳で出家得度。12歳から父に代わって住職の代理を
していたという過去も。17歳でコメディアンになる夢を捨てきれずに上京。
漫談家・牧野周一さん、榎本健一さん、はかま滿緒さんらに弟子入りし、
関武志さんと出会って「コント・ラッキー7」を組んで芸人になった。
人気絶頂の頃は、当時の大劇場・日劇(観客動員約千人)や国際劇場(約4千人)で
私財をなげうって大々的な興行も行った。しかし、それが失敗し、莫大な借金を
抱えることにもなってしまう。そのことが原因で、失踪、自殺未遂騒動も起こした。
実兄の死後には再度、得度し、頭を丸めて茨城県の寺で再修業。
長いこと低迷を続けていたが、例の ”指パッチン“ で夢の再ブレーク。
00年には「芸人僧侶」として全国各地で年間250回以上の講演を続けるまでになった。
そんな中「好事魔多し」。今度は女性スキャンダルだ。
知人のホステスをホテルの一室に連れ込み、「手かざし」のヒーリングを
行うというセクハラ行為。すっかり仕事を追われることになった。
芸人らしく「私の股間、いや、コケンに関わること」と会見を開いたが、仕事は激減。
ポールさんのことを思い出すと、ふとアンジャッシュの渡部健さんの「女性トイレ
スキャンダル」を考えてしまった。芸能界は本当に「好事魔多し」の世界だ――。
ポール牧さん・牧伸二さんの芸人魂へし折った “借金苦”
夕刊フジ 2013.05.08
浅草芸人だったポール牧が東京・西新宿の10階マンションから飛び降り自殺したのは、
2005年4月22日のことであった。ウクレレ漫談の牧伸二が多摩川丸子橋付近から
投身したのは奇しくも同じ4月29日のこと。2人はともに漫談家、
牧野周一門下( ポール牧は破門 )であった。
牧伸二をめぐっては、会長を務める東京演芸協会の500万円以上の協会資金が不明で、
「5月30日の総会までに用意する」と理事らに約束していたともいわれる。
だが、ポール牧の場合と同じで、誰も言わないのであえてズバリと書く。
人は借金では、めったに自殺をしないが、キツく厳しい取り立ての借金苦では
自死の道を選ぶ。私はそう思う。
牧伸二が亡くなる数日前の夕暮れ時。浅草国際通りの老舗喫茶店「ペガサス」で
見かけた牧伸二は私と同じように杖をつき、歩くのも極めて困難な風体であった…。
私の生業(なりわい)のエロスと同様に、人々は「笑い」を「下」に見る。
つまり、お笑い芸人を「可愛がる」、そして「愛し」もするが、「敬いはしない」のが
世の常だ。だから、お笑いで成り上がった芸人は笑われない芸能分野の歌手や俳優、
司会業に機を見て転じ、小説家あるいは芸術家にあこがれの目を向けたがるものだ。
しかし、究極の手元不如意に陥ったポール牧と牧伸二は、それぞれ生涯
「指パッチン」と「やんなっちゃった節」の芸風にこだわった天晴れな2人だった。
実のところポール牧は、当時マンションのベランダを乗り越える体力はなかったし、
牧伸二も橋の欄干を軽々と乗り越える体調ではなかったはずだ。
真実は「借金という真っ赤な他人」から突き落とされたと同じことだ。
私に言わせれば、まさに「金で相当追い込まれたな!」である。
浅草、上野界隈の凄まじい芸能の裏面に精通したポール牧と牧伸二は、
結果的に遠隔リモートコントロールにより、死に追いやられ、
自ら最後の力を振り絞りマンションと橋の上から飛び降りたのだ…。
牧伸二は、人生の悲哀を笑い飛ばし、世相を風刺したりする四行詩に特別な才能を示した。
生涯で2000近くの四行詩を生み出したが、最後は「あ~、やんなっちゃった…」と
自らの命を絶ったのか。昭和の演芸界では先代林家三平の「どうもすいません」と
一対を成すフレーズで、楽観的でありながら悲観的フレーズであった。
師匠から「武器を持て」と言われ、ウクレレを友とした牧伸二だが晩年、浅草六区の
東洋館では、ウクレレ漫談を脱却し、ロックンローラー「シンジ・マッキー」という名で
ロックを歌っていた。また、夜には浅草の多くのスナックに出入りし、自らが作詞作曲した
「浅草お祭り音頭」のキャンペーンに力を注ぎ、行商人のようにCDを手売りしていた。
晩年のポール牧が、僧籍を抜け軽井沢に引きこもったこととは違う。
牧伸二は78歳になっても積極人生であった。繰り返すが、牧伸二には橋の欄干を
乗り越える体力があったはずもなく、ただあったのは芸に対する執念だ。
借金苦は、マイナスの超人力を人に与えるものなのか…。(出版プロデューサー)=敬称略
ポール牧の死因と自殺の理由!嫁と子供や離婚~現在まで総まとめ
MATOMEDIA
指パッチンの芸で一世を風靡したポール牧さんですが、2000年に起こった
セクハラ騒動の余波もあり、晩年はかなり不遇だったようですね。
この記事では、ポール牧さんのセクハラ騒動、嫁と子供と離婚、
そして死因や自殺の原因についてまとめてみました。
ポール牧のプロフィール
名前:ポール牧 本名:榛澤一道( はんざわ かずみち )
生年月日:1941年8月2日 出身地:北海道天塩町
ポール牧、1983年に借金を抱え自殺未遂を起こした過去があった
1990年代になると、浅草芸人時代の後輩であるビートたけしさんより「お笑いウルトラ
クイズ」に呼ばれたことがきっかけとなり、再ブレイクを果たしたポール牧さんは、
ラッキー7時代からの持ちネタである「指パッチン」で人気を博すことになりました。
ポール牧、1996年に兄の死をきっかけに再出家
芸人として再ブレイクを果たした後のポール牧さんですが、1996年に再出家をして
芸人活動の一線から退くことになります。ポール牧さんが再出家をした理由に関しては、
僧侶をしていた兄・道男さんの死が原因でした。
幼少期に東京のお寺に養子に出されたという複雑な経歴を持つ道男さんは、
ポール牧さんにとって思い入れの深い人物であったため、兄の死をきっかけに、
一度断念をしていた仏の道へ入る決心がついたようですね。
再出家後のポール牧さんについては、テレビで見る機会は激減しましたが、僧侶としての
ポール牧さんの話が聞きたいという声は大きかったようで、教育委員会や学校での
講演会の仕事がどんどん舞い込んで来る特需状態が続くことになりました。
ポール牧さんは、同世代の多くの芸人同様に暴力団員との交流もあった人物だと
言われております。浅草芸人がルーツであるポール牧さんが交流をしていた暴力団員は、
稲川会系暴力団の構成員が多かったらしく、新宿・歌舞伎町に拠点を置いていた
井の上組の組長・井の上孝彦さんとは昵懇の仲でした。そんなポール牧さんには
不思議な力があり、具体的に言うとヒーリングの能力があったそうです。
「ポールさんが4〜5分、手をかざすと、その部分が熱くなって痛みが
なくなるらしいんです。出先でも腰や肩、背中が痛いという人がいると、
“見せてごらん” と “治療” していました」
ポール牧さんのヒーリング能力は、稲川会の2代目会長である石井進さんが
メキシコで倒れた際に、窮地を救ったという逸話まであるそうですね。
「ポールさんには不思議な力があって、人が痛めた箇所に手をかざすとたちまち
治ってしまう。実際、親父(井の上孝彦さん)がゴルフ場でぎっくり腰になって
動けなくなった時も、同行していた彼の力で事なきを得たことがありました。
だから親父は、ポールさんの力で石井会長を助けようと考えたんでしょう。
現地に着いたポールさんが “治療” を施すと、立ち上がることすらできなかった
石井会長が、自力で歩けるまでに回復したのです」
ポール牧、2000年に銀座のホステスからセクハラで告発される
ポール牧さんのヒーリング能力は関係者の間では有名な話だったらしく、
それを口実に女性をホテルに連れ込むことも可能なほどだったようですね。
ポール牧さんがそんなヒーリング能力の悪用の仕方をどれだけしていたのかは
定かではありませんが、2000年12月になると、銀座のホステスの女性から
写真週刊誌にセクハラを告発されることになりました。
ところが、2000年、写真週刊誌に女性スキャンダルが報じられる。
知人のホステスをホテルの一室に連れ込み、手かざしの「ヒーリング」を
行うなどと言いながら、全裸にしてセクハラしたというものだった。
ポール牧、セクハラ騒動で仕事をすべて失っていた
セクハラ騒動後のポール牧さんは、セクハラとの表現も生温いわいせつ事件を起こしてしまった身ということもあり、講演関連の仕事がぱったりと途切れることになってしまったそうですね。
「あの頃、ポールさんは芸人の仕事より僧侶としての講演の方が多かった。
ギャラは1本30万円から50万円で、月に10本から20本近いオファーが
あったんです。ところがその多くは地方の教育委員会や学校でした。
記事が出るとキャンセルが続出して、仕事が一気になくなった。
2001年11月になると、茨城県鹿嶋市に一道寺というお寺を創建したポール牧さんは、
住職として余生を送ることになりました。
ポール牧の結婚・離婚歴は4回…元嫁への慰謝料と子供の養育費で
金銭苦に ポール牧、4度目の結婚をした嫁との間に子供もいた?
ポール牧さんは、通算で4回の結婚・離婚歴があります。
1985年頃にAさんという女性と4度目の結婚していたようですね。1985年といえば、
「東京新喜劇」の運営失敗により、ポール牧さんが借金を抱えていた
どん底時代となりますから、Aさんが糟糠の妻であったことは言うまでもありません。
ポール牧さんは戦前生まれということもあり、昔気質で破天荒な芸人だったらしく、
後輩芸人が自宅に遊びに来ると、Aさんにお金をねだって繁華街に遊びに
繰り出していたとも言われております。
2人の間に子供が生まれていたどうかの情報は公開されておりませんが、
ポール牧さんは離婚した元妻たちに養育費を支払っていたとの知人の証言があるため、
ポール牧さん自体には子供がいたことになります。
ポール牧、2001年にどん底時代を支えた嫁と4度目の離婚
ポール牧さんは、セクハラ騒動直後となる2001年6月に16年間連れ添ったAさんと
離婚をしています。2人の離婚原因に関しては特に公開されていませんが、
セクハラ騒動がその引き金になったことは想像に難くない状況と言えます。
離婚後は、元嫁への慰謝料と子供への養育費でかなり金銭的に苦しくなったようです。
ポール牧の現在…2005年にマンションから飛び降り自殺
ポール牧、死因は飛び降り自殺による全身打撲だった
ポール牧さんが東京都新宿区にある自宅マンション(9階)から
飛び降りて死亡したのは、2005年4月22日早朝のことでした。
ポール牧さんの死因は全身打撲だったと言われております。
22日未明、西新宿の街にドシンという鈍い衝撃音が鳴り響いた。
付近を通りかかっていたタクシーの運転手は歩道に血まみれで倒れている男性を
発見。慌てて通報して男はすぐ救急車で病院に搬送された。足から落ちたようで
顔はほぼ無傷だったが、全身の打撲がひどく、2時間後、死亡が確認された。
男性はこのマンションに住むポール牧(享年63)。
茨城県鹿嶋市で住職をしていたはずのポール牧さんが新宿に住んでいた理由に関しては、
一道寺の資金繰りに苦しんだ末に、2004年の夏頃に住職を廃業していており、
ひっそりと芸能活動を再開していたようですね。
ポール牧、葬儀を取り仕切ったのは懇意な間柄だったヤクザだった
ポール牧さんの葬儀は、取り仕切ったのは遺族ではなく、友人である稲川会系
井の上組組長・井の上孝彦さんだったそうですね。
北島三郎の『 兄弟仁義 』には「親の血をひく兄弟よりも/かたいちぎりの
義兄弟」とあるが、2人の関係は肉親以上だった。05年4月に、ポール牧が
西新宿の自宅マンションから飛び降り自殺をした際、井の上組長が遺体を
引き取り、墓地や葬儀の手配の一切を取り仕切ったのである。
いくら親しい間柄とはいえ、遺族ではなく井の上さんが死後の面倒を全面的に見ている時点で、ポール牧さんが離婚した家族たちとかなり疎遠な間柄だったことが伺えます。
ポール牧の自殺理由は借金苦?…長年うつ病を患っていた噂も
ポール牧の自殺理由① うつ病説
ポール牧さんの突然の自殺の理由については、マネージャーの甲斐喜久男さんの話では、
1990年前後から患っていたうつ病が原因なのではないかという話となっています。
元々は軽いうつ病であり寛解していた時期もあったそうですが、セクハラ騒動を
きっかけに再発し、精神安定剤を利用する状況だったようですね。
自殺したポール牧さんの自宅には、酒瓶が転がっているような状況だったともいわれており、
精神安定剤とアルコールの同時併用の副作用により、突発的に激しい自己嫌悪状況に
陥ってしまい、自殺してしまったのではないかと囁かれております。
自殺直前はスポンサーも付き、生活に困窮する状態ではないとみられていた。
部屋には酒瓶が転がっていて、うつ病の薬とアルコールの同時併用で発作的に
自殺したとの見方もされた。
ポール牧の自殺理由② 金銭トラブル説
ポール牧さんの自殺理由に関しては、金銭トラブル説も存在します。
自殺直前のポール牧さんには、知人に投資詐欺会社を紹介してしまい、
600万円の損失を与えてしまったというトラブルがあったようですね。
もちろん、ポール牧さん的には善意の行為であり、紹介先が投資詐欺会社とは
知らなかったようですが、それゆえに知人を騙す形となってしまったことに対して、
罪悪感を感じていたのではないかという憶測が流れています。
だが、当時問題視されて、後に摘発された投資詐欺会社に彼の知人がおり、
そこに別の知人を紹介して600万円を投資させてしまい、それを苦にした
自殺との報道もあった。
それ以外にもポール牧さんには、かなり大きな額の税金を未納していたとの噂もあり、
セクハラ騒動により突然講演会関連の仕事を失ったことにより経済苦に陥ってしまい、
自殺をしてしまったのではないかという話もあります。
ポール牧について総まとめすると…
・ポール牧は4度の結婚・離婚歴があり、元嫁との間に子供もいたと言われている。
・ポール牧は2005年4月に自宅マンションから飛び降り自殺。死因は全身打撲だった。
・ポール牧の自殺理由は、長年患っていたうつ病と金銭トラブルが原因といわれている。
ポール牧さんに関しては、自業自得とはいえ、
晩年は、かなり寂しい人生を送っていたようですね。
この世代の男性には良くある話とはいえ、日頃家族を大切にしていないと、
老後に苦労する一例と言えるのかもしれませんね。
ポール牧さんのご冥福を祈りつつ、この記事のまとめを終了させて頂きます。
【ポール牧の生き方】なぜ白いブレザーに黒のズボンに
着替えて死を選んだのか デイリー新潮 配信
日本で唯一「大衆文化担当」の肩書を持つ朝日新聞編集委員の小泉信一さんが、
様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載
「メメント・モリな人たち」。第4回は「指パッチン」で知られた喜劇役者・ポール牧
(1941~2005)さん。18年前、衝撃の飛び降り自殺で自らの人生に幕を下ろした
ポールさんは、「ドーランの下に涙の喜劇人」という句を残しています。
人を笑わせる一方で、自身が背負っていた悲しみとは何だったのか――。
喜劇役者に誇りを持っていた
殺人事件の被害者が亡くなる直前に書き残したメッセージを「ダイイング・メッセージ」と
呼ぶ。容疑者につながる手がかりとなることもあり、推理小説や探偵ドラマなどにも
たびたび出てくるキーワードである。まさに息を引き取る間際の「痛烈な叫び」。
ではあの時、彼がとった行動はどう読み解いたらいいのか。2005年4月22日、東京・西新宿の自宅マンションから飛び降り自殺した喜劇役者のポール牧さん(本名・榛澤一道)である。
発見された時は、おなじみの白のブレザーに黒のズボン姿だった。いわゆる「舞台衣装」を
着たまま死ぬということは、まさにダイイング・メッセージではないか。
関係者への恨み?芸能界への未練?はたまた、かねがね噂があった女性スキャンダルか? 奇しくもこの1年ほど前の04年5月23日、「未来を生きる君へ」と題した朝日新聞の
企画記事にポールさんのインタビューが掲載されていた。そこには自身が好きだという
フランスの喜劇役者マルセル・パニョルの言葉が出ていた。「工場から油にまみれて
家路を急ぐ人たち、災害で家を失った人たち、親兄弟や子どもに先立たれた人たち。
そういう人たちに、たとえ一時でも安らぎとほほ笑みを与えてあげられる者、そういう者を
喜劇役者といい、そう呼ばれる権利がある」ポールさんは10代のころ、夜間高校の図書館で
パニョルの著書を手にし、以来、この言葉を自身に問いかけ続けてきたという。
当時は寺の住職の代理をしていたが、コメディアンになる夢を捨てられず、17歳で上京。
漫談家・牧野周一さん(1905~75)らに弟子入りし、関武志さん(1924~84)と出会って「コント・ラッキー7」を組んで人気芸人になった。喜劇役者という仕事に誇りを
持っていたはずなのに、なぜ自身の手によって自らの人生に幕を下ろしてしまったのか。
真相は謎に包まれたままだが、投身自殺にあたってわざわざ舞台衣装に
着替えたということ自体、何かしら深い心の闇を抱えていたことがうかがえる。
携帯電話の連絡先はすべて消されていた
悲報から数日後、ポールさんが暮らしていた西新宿のマンションに遺族と一緒に
入ることができた。1LDKの部屋。奥にベッドがあった。枕元には母親の写真が飾ってあり、
仕事で持ち歩いていた愛用のカバンも置いてあった。遺族によると、携帯電話からは
連絡先がすべて消されていたという。部屋の中には妙な生々しさが残っていた。
つい先ほどまでポールさんがいたような感じ。窓を開けてベランダにも出た。
そこには台が置いてあった。何だか見てはいけないものを見てしまったような
後ろめたさに見舞われた。 きっとポールさんはそこに乗り、手すりを乗り越えて
飛び降りたのだろう。現場はマンションの9階。結構な高さである。
「独りって寂しいね」
最近の若い人は知らないかもしれないが、ポールさんは全身でリズムをとりながら
指を鳴らす「指パッチン」で人気者になった、いわゆる昭和の芸人である。
「悲しみに沈む人を元気にしたい」というのが芸人になった理由だった。
1996年、兄の死をきっかけに仏門に入る。僧侶だった兄の師匠が住職を務めていた
静岡県袋井市の「可睡斎」で修行。2002年には茨城県鹿嶋市に自分の寺を持った。
名前は「一道寺」。落慶法要のとき、境内に迷い込んだ野良犬を「ゲスト」と命名し、
世話をした。「捨てられた犬を拾うと幸せになれる」と説法で話していたという。
「指紋がなくなるまで指パッチンをやる」と豪語していたが、私生活では4回の結婚と離婚。
芸にも行き詰まり、とうとう独り暮らしとなる。うつ病を理由に、所属していた事務所を
やめたこともあった。人前ではいつもテンションが高く、そう状態だったが、ギャップが相当、激しかった。ポールさんの死から1年後。私は、朝日新聞の東京社会部から稚内支局に
異動になった。まさに日本最北の極寒の地。宗谷海峡の向こうはロシア・サハリンである。
肩書は「朝日新聞稚内支局長」と言っても、支局(自宅を兼務)に勤務しているのは
私ひとりだけ。ただ本社とは違い、つまらぬ人間関係に振り回されることもなく、まさに
「北の大地」を自分の車で走り回った。その広大な管内に、ポールさんの生家があった。
稚内市から約100キロ離れた天塩町。雄大な天塩川が日本海に流れ込む。向こうには
うっすらと利尻の島影が見えた。きっとポールさんの子どものころや家族のことを知っている
人がいるに違いない。そう思って訪ねたところ、ガソリンスタンドを営む幼なじみのA氏に
会うことができた。 「たしかに、ポールさんが亡くなる2カ月ほど前、稚内空港まで
迎えに行きました」A氏はそう言う。ポールさんは実家の墓参りに訪れたらしい。
素顔がかすかに見えてきた。空港から町までの車の中、窓から雪景色を見つつポールさんは
「独りって寂しいね」と突然、ぽつりとつぶやいたという。生家では義理の兄 とも
久しぶりに会ったそうである。 「仕事の悩みがあったのかなあ」と友人たちは語った。
自殺したのは、この里帰りの2カ月後だった。
「悲しいときは泣くんじゃない。我慢して笑うんだ」
「僕の(お笑いの)原点は母です」と話していたポールさん。母きちさんは山形の米沢生まれ。16歳のとき脊椎の病気を患った。不自由になった片方の足を支えるため、両手を広げて
バランスをとりながら歩いたという。若くして夫と死別。生まれたばかりの赤ちゃん
(のちのポールさん)を抱え、親類を頼って北海道に渡る途中、青函連絡船の中で赤ん坊が
泣き出した。お乳が出ず、途方に暮れていたとき、僧侶が近づき「どれどれ」と赤ん坊を
抱くと、ぴたりと泣きやんだという。その僧侶が、のちにポールさんの父となる。
布教のため天塩に向かう途中だった。当時、きちさんは26歳。僧侶は66歳。40歳の年齢差が
あったものの2人は結婚。だが生活は貧しかった。檀家は少なく、寺の収入だけでは食べて
いけない。敷地の一部を畑にして野菜を作った。冬は底冷えする。ポールさんは1枚の布団に、きちさんと幼い妹2人と足を突っ込んで寝た。1個の生卵を分け合い、ご飯に醤油をかけて食べた。真冬でも吹雪の中、母と一緒に1軒ずつ檀家を目指して歩いた。烈風が吹くと泣く妹たち。「泣くな」と叱りながらも、自分も情けなくなり、涙が溢れた。10円のお布施を握りしめ
家に帰ったという。「悲しいときは泣くんじゃない。我慢して笑うんだ」口癖のように言って
いたのが母だった。わざとズデンと雪道で転んで家族みんなを笑わせたという。
母はポールさんが上京後も、毎月、手紙を送った。封筒には千円札。「このセンエンが
ありがたいとおもうなら、すべてのヒトにやさしくしてあげなさい」 と書かれていた。
母は1967年、53歳で亡くなった。
現世で会えないなら、来世で
そんな母親の遺影が、ポールさんのマンション一室に飾ってあった。
着物姿で柔和な笑みを浮かべていたように覚えている。きっと優しい人だったに違いない。
私はポールさん一家が暮らしていた北海道の原野を思い浮かべた。内陸部では零下20度~30度にも下がる極寒の地。立っている足の裏から冷たさが血管の中にのぼり、痛みが全身を
駆け抜けるような感覚だっただろう。そんな過酷な場所で子ども時代を過ごしたからこそ、
母から受けた優しさやぬくもりは忘れられなかったに違いない。そういえば、ポールさんと
親しかったタレントのガッツ石松さんは、私の取材にこんなことを言っていた。
「彼は見た目と違い、とても繊細な心の持ち主でした。笑いとは、人の心に安らぎを与える
ものだと言っていたけど、それは北海道のお母さんから学んだんじゃないかな」 ポールさんはきっと母に会いたかったにちがいない。利己心のない愛情でどんなときでも接してくれた母。
だが故郷の北海道には母はすでにいなく、時間だけがむなしく過ぎ去っていた。
「現世で会えないなら、来世で」とでも思ったのだろうか。
さて次回は、昨年の暮れに急逝した俳優の佐藤蛾次郎さん(1944~2022)。
おなじみ、映画「男はつらいよ」シリーズに欠かせなかった名脇役である。
最愛の妻に先立たれ、孤独の日々を過ごしていたさなかでの訃報だった。
小泉信一(こいずみ・しんいち) 朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。
新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。
東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。
『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者
群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。 デイリー新潮編集部
やっぱり職権乱用で、その力(若い子)を使って人に嫌な事をしていた
人の脳(神経)を触って、潜在意識に入ってきて、その人が言いそうなこと
過去に言ったことを引き出して( 吸い上げて )言わさないで、思わせないで
人に言われたことを、私に持ってきたり言わせたり、本当に絶対に止めて
その力、仕事に使って、自分の欲の為に使わないで、コントロールしないで
仕事のストレスを人に向けないで( 邪魔をしないで、プライバシー侵害も )
人の感情を抑えないで、パワーも盗らないで、思考を低下させないで
体を熱くしないで、お腹を痛くしないで、人を咳込まさないで
文句があるのなら、直接、私に言ってきてほしい、人を入れないで
いつもありがとうございます。
最後までお読みいただきありがとうございました