平成の終わりに、令和の夜明けに*今日は平成最後の日 | + つれづれ in タイ・バンコク +

+ つれづれ in タイ・バンコク +

つれづれなるままに。

2014年04月からタイ・バンコクに移住しています。
しごとは現地採用、1人暮らしです。
遊園地でも旅行でも1人でどこでも行けちゃう派。
でもインドア。手広くちょっぴりオタクです。

平成最後、なにする?

▼本日限定!ブログスタンプ

あなたもスタンプをGETしよう




たぶんきょうは、
こういうコトを書く人が多いのだろうね。



平成が、あと少しで、終わる。



いまは平成31年だっけ?

海外にいると和暦を使う機会に乏しいので
すぐに忘れてしまいます。


自分の年齢もすぐに忘れてしまうから
あまり「年」にこだわりがないのかも。




昭和60年の生まれなので、
物心がついた頃には平成でした。


だから、生きてきたほとんどが平成だった。

平成じゃあない時代って、
なんだかまだピンと来ない。

令和って、耳慣れなくて、
なんだかちょっぴりムズムズしちゃう。



平成。



幼稚園くらいの頃にあったバブル期の記憶もあまりなくて、だけどバブルが弾けたときのニュースなんかを見ていたという記憶はおぼろげながらにある。
昭和の生まれではあるけれど、バブルを知らない世代でもある。



小学校低学年くらいまでは土曜日もふつうに学校があって、いま思うと、週休2日じゃなかっただなんて、想像ができない。
だけど、土曜日はすぐに学校が終わって、家に帰ると父も母もいて、家族みんなで焼きそばだとかラーメンだとかをワイワイ食べるのが、なんだかすごくワクワクしていた。
土曜日は、家に帰るのが好きだった。



携帯電話がなかったのも、いまでは考えられないかも。
何か用事があるときは、家電に連絡。
事前に決めておいた待ち合わせに遅れてきたら、ずーーっと待っていないといけなかった。
だから、ちゃんと時間通りに来ていた。
まさか海外と日本とで、いつでもどこでも簡単に国際電話ができるだなんて、しかもタダだなんて、本当にすごい。



ネットも普及していなかったから、情報量も少なかった。
何かを調べるときは、図書館。
そして自分の目と耳でしっかりと判断する。
何かに対する答えはすぐには見つからないから、しっかりと考えて、仮説を立てて、実証するように。

いまはすっかり便利になって、考えなくてもすぐに答えがわかるようになった。

だけど、考えようとしなければ、
考えるコトをしなくなった。

考えることを辞めてしまったら、きっともう、人間だけが特化できた知能は、あっという間に役立たずになっちゃうんだろうな。





天災や人災は様々あったけれど、
平成は、戦争のない御代だった。
少なくとも、日本国内においては。


令和も、その先も、
そうあり続けるコトを願ってやまない。




平成がそうであったように、
令和は技術革新がより加速していくと思う。

特にAIをはじめとしたITの分野は確実に伸びていく。

AIを知れば知るほど、自分の人間としての価値を見失いかけていきそうだと感じる。

間違いなく、知識や技術は、AIにとって代わられる。
彼らはもうすでに、たぶん私よりもずっと賢い。


今まで当たり前だったコトが、どんどん当たり前じゃあなくなる。

今までありえなかったコトが、想像もしなかったコトが、どんどん当たり前になっていく。


平成のはじめ、いったいどれだけの人が、スマホの存在を想像していただろう。

当時の人にそんなコトを話しても、きっと誰からも信じてもらえないと思う。


だから、令和もきっと、間違いなくそうなる。

AIの進化で、間違いなくそれは加速する。


それから、日本どころか地球を飛び出して
人類は間違いなく宇宙に向かう。

これからの時代は、宇宙開拓だ。

自分の国のコトだけを考える時代は、
そろそろ終わりへとシフトしていくハズ。



そう考えると、とてもワクワクする。

世界は、どんどん変わっていく。




そしてまた一方で、日本の加速は、世界には敵わないのではないか、とも思う。

中国やタイの加速感と、
日本の加速感とでは、
やっぱりちょっと違う。


日本は、よくも悪くも慎重で、
日本は、よくも悪くも前例を重んじる。


日本の得意は、いろんな「もしも」を考えるコトで、その「もしも」の中には、加速に乗り切れない人たちへの配慮も含まれる。
メジャーだけでなく、マイナーについても考える。
だからこそ、日本独自のきめ細かな製品やサービスが生まれるし、だからこそ、低速者であっても切り捨てられない。

あくまで個人的に感じているコトではあるけれど、中国の場合なら、「もしも」の少数派ではなく、はじめから大多数のみを想定している。
マイナーではなく、メジャーに対してをまずは考える。
低速者は切り捨てて、どんどんどんどん、加速する。

タイもなんだかんだで、日本に比べたら切り捨て型なんじゃあないかな。
世界一の格差社会も、そうして生まれる。
その切り捨ての溝を埋めるのが、タンブン思想かな、と個人的には思ってる。

そしてそれはきっと、日本の外から日本を見ているから感じているコトなのかもしれない。


令和の時代、
日本はどれだけ加速していくのか。


日本はとてもとても個性の強い国だから、そんな長所を上手く伸ばせていけるような時代になったらステキだなあ、って思います。



令和。



これからの時代の波をどう泳いでいくのか、
加速していく技術にどう追いつくのか。

ネットが普及して、いろんな疑問は調べれば答えがすぐに分かる時代になったけれど、こればっかりは正しい答えは見つからないと思う。


令和の時代は、これから作られていくのだから、どんな時代にもなれるのだから、そんな不確定で複雑な未来、AIだって描けないと思う。



令和は間違いなく、
平成以上に生活が変わる。

そう、信じている。

良い未来になるかもしれないし、
悪い未来になるかもしれない。

どんな未来になっていくのかは、
その時々の人たちの努力によるもので、
それは大化の御代から変わらない。



平成のはじめの幼かった頃、
想像もつかなかったような未来の世界が、

平成の終わりの今、
目の前に当たり前のように広がっている。



令和の新しい未来が、
当たり前のように受け入れられるように
少しでも良い未来へとつなげていけるように

そして人間としての価値を見出すために
人間が得意とする「考える」と、
それを支える「学習」を
より一層励まねばならないな、と思う。



キリッ (`・∀・´)




そう思いながら、
今夜も私は、昭和に描かれた
手塚治虫の『ブッダ』を読む。


いやね、なんだかんだ言って、
昭和とか平成とか令和とか、
時代がどんなに変わっても、
良いものは良いんすよ。面白い。

なんだったら『源氏物語』なんて、
仮に後一条の長和の時代に書かれたとして
200も前の元号の時代の作品なのに、
どちゃくちゃ面白いもんね。

平成から令和に変わっても、
面白いものは面白いし、
本質もきっと変わらないんだろうな。


変わっていく新しい時代も、
新しくなっても変わらないという現実も、
どちらもすごく、興味深い。



そんなワクワクを実現させていくには、
令和もまた、平成のように
戦争のない安らかな時代である必要が
ぜったいにある。


令和の御代が、幸多く、安からんコトを
心から願う。