ともだち | + つれづれ in タイ・バンコク +

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つれづれなるままに。

2014年04月からタイ・バンコクに移住しています。
しごとは現地採用、1人暮らしです。
遊園地でも旅行でも1人でどこでも行けちゃう派。
でもインドア。手広くちょっぴりオタクです。

深夜だからコッソリ言ってみる。


実は「友だちたくさん!出会い!感謝!」みたいなカンジの方とは、経験上なかなか合わないなあ、と思っている。

ほんの少し会話をしたことがあるだけで友だち呼びされると、何となくその人の中の有象無象の1人になったような感覚になってしまうというか。
自分にとっての「友だち」は、「大切におもうただ1つのものたちの集まり」なのだけれど、その相手にとっては「数ある中の1つ」でしかないような。
「友だち」という言葉を安売りしたくないというか。


そんな気持ちもあって、「友達」ではなく「友人」という言葉であえて使い分けるときがあったりします。
普通に「友人」の意味で「友達」と使うときもあるから、厳密ではないのだけれど。

なので、気持ち的には、
「友人(場面によって「友達」と呼ぶ)」か
「知り合いの方」
のどちらになるかの感覚というか。

「友人」>「友達」な感覚で使っています。
正確には、「友人」か「知り合い」かだから、「友達」という言葉は「知り合い」として捉えている気がする。
…さらに言うと、「友達」と「友だち」も使い分けてはいるかな。


どこからが友人で、どこからが知人なのかというのもあるけれど、それは自分でも分からない。
少なくとも年月だとか、会った回数だとか、どれだけ相手のことを知っているかとか、そういう数値でどうこう言えるものではないと思っている。

古くからの腐れ縁な友人なんかも、普段からこまめに連絡を取ったりするワケではないし、ヤツがいま何をしているのかさっぱりポンな上にあまり興味もないのだけれど、たぶんこれからもずっと関係は続いていくと思うし、そういう付き合い方でアレとはちょうどよい。


ああでも、「会いたい」と思って、自分から連絡を取るような人は、わりと相手のことを大好きなカンジがしています。
なかなかにコミュ障なので、自分から連絡を取るって、ものすごく度胸のいるコトで、それを抑えてでも連絡したいというのは、よほどの執着か、よほど心を許しているかでしかない気がする。

この辺が「友だちが少ない」の所以のようにも思います。
そもそも、「友達」っていうカテゴリ自体が自分の中にはないし。


もしくは、肩書きとか関係性で相手を呼ぶのはすごく好き。

「部活仲間」や「同級生」、「同僚」「上司」「センパイ」「後輩」、「○○で一緒だった人」「○○クラスタ仲間」、「仲良くしてもらっている人」みたいな。
「友だち」と一方的に言われるより、距離がずっと近づいたような気がする。

例えば『源氏物語』での「三宮」「明石の君」「髭黒の大将」のような通称で呼ぶのもよい。
相手を地名や役職で呼んだりするような、そんな関係性。

一見するとぞんざいな呼び方の方が、かえって「相手をぞんざいな呼び方で呼んでも許される間柄」というカンジがして、好きなのです。
仲良くなればなるほど、「ヤツ」「アレ」「きみ」みたいな呼び方をしてしまうし、対応も冷たくなってしまうのだけれど、それが許されるだろうのを踏まえてそう接してしまうというか。
基本的にツンデレ仕様。デレないけど。

その対極にあるのが、自分の中では「友だち」で、実際に仲が良ければ「友だち」だろうが「ゴミクズ(元ネタを知った上でね)」だろうが、何と呼ばれても一向に構わないのだけれど、大した関係性も構築できていないのに「友だち」と呼ばれていたりすると、一気にその関係性の価値が下がるような。
あ、コレ、「知り合い」どまりで、「友人」にはならないな、なんて、無意識に感じてしまうというか。



そもそもね、「意識高い系」というのが、どうにもこうにも苦手で。

「意識高い」は素晴らしい。尊敬する。
苦手なのは「意識高い系」。
そこは違うと思っている。

何かをカテゴライズして、それをまとめて全て決めつけるようなのって、そんなに好きではないのだけれど、「意識高い系」だけはカテゴライズした上にまとめて苦手だと言ってしまいたくなるくらい、苦手で。

ちなみに、話のネタや冗談だと分かった上での話なら好きだけれど、血液型とか、国籍とか、そういうのでまとめられて決めつけられるのはあまり好きじゃない。
特に海外で生活するようになってから、「これだからタイ人は」とか、「日本人なのに」とか、一方的に決めつけられるのは何だかなあ…なんて思う場面もあったりなかったり。
断定ではなく、傾向として捉えるのはありだと思うけれど、十把一からげで決めつけられると、「それは違うよ!」と言いたくなることがたまにあります。

そして意識高い系に多く見られるのかなって思うのが、友だちの数や、有名人との繋がり自慢、そして頻繁な友だちとの交友レポート。
「お、おう…そうか…よかったね…」という感想しか抱けなくて、もしもその輪に入ったとしても、結局は自分もその数多の中の数字の1つにしかならないのかな…なんて遠巻きに見ては、一方的に遠ざけてしまうというか。

そんな一方的な苦手意識が、自分の交友関係の狭さを作っているようにも思います。



本当は、もっと人脈を広げたり、いろんな人と出会うことで、様々な可能性が広がっていくんじゃないかと思うこともあるのです。

でも、どちらかというと、大切におもうものには、丁寧に、大切に接していきたいとも思うので、無理をして新しい世界を広げなくてもよいのかなあ、なんて自分の性格をみると思ったりもします。

人だけじゃなくて、ものに対しても。

流行に乗らなくても、よいのかなあって。
恥ずかしくない程度に、必要なものがひと通りあればそれでよいのかなあって。

…いまだに、学生時代のときに買った服を現役で着ているけれど、元々流行や年齢を感じさせるようなものではなかったし、現在もたぶん浮いていないとは思っている。
こだわる人から見たら恥ずかしいことかもしれないけれど、客観的に判断しても、少なくとも不快感を与えるような格好ではないから、別によいのかな、なんて。
もちろんTPOや年齢相応かなんかは弁えるけれども、別に、自分はそれでよい。
いわゆる「ダサい」と言われるようなセンスをしている人よりも、流行に乗ってみんなと同じような格好をしている方が、よほどダサいのかなあ…とも思ってしまうよ。

でも、その感覚は人それぞれで。

否定するところではなく、考え方や好みの問題だから、ふーんそうなんだーくらいでよいのかなって。

流行を取り入れて、同じような格好をして、それはそれでアリだと思う。
ただ、自分ではあまり好きではないし、その労力やコストは、他に向けられたらもっと楽しいかなって思うから、やらない。

ファッション感覚な人付き合いも、それはそれでアリだとは思っている。
ただ、自分にはあまり向かないし、たくさんの付き合いにかける労力やコストは、今あるものに向けるだけでも精一杯だなって思うから、やらない。



人に対しても、ものに対しても、器用な方ではないから、相手にする数が増えれば増えるほど、それだけ1つ1つへの扱いや態度が薄っぺらくなってしまうんじゃあないかというのがこわくって。

時折、その感情の正体は「執着」なのではないかと、その気持ちは「思い」ではなく「重い」のではないかと、それもまたこわくなってしまうのだけれども、天秤にかけたときに、大切なものへの感情が無関心へと変わっていってしまう方がよっぽどこわくって。

執着しすぎないように、距離をはかりながら、そうしていまの世界があると思っているので、たぶんもう、こういう付き合い方はこれからも変わることはないのかなあって思っています。


ありがたいことに、会いたいとか、友だちになりたいとか、そんな風にたまに言ってもらえることも全くないワケではないのだけれど、それがなかなか難しいのは、単にこうして臆病なだけなのかもしれません。


あ、でもね、仕事とプライベートは別ね。
仕事では意識高い系なくらいでちょうど良いと思っている。キャラ設定は変えていく方向で。


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………

…毎度のコトながらではあるけれど、自分でもだんだん何が言いたいのか分からなくなってきちゃった(´・ω・`)

なんとなく、「友だち」って何なのだろうって深夜テンションで考えてみた結果、こんなコトになってしまっ…た…


仕方ないよ、こんな夜更けだもの。

仕方ない仕方ない。


基本的に、よそはよそ、うちはうち、なので他の人がどう思っていても、あまり興味はないし、興味のないものには「ふーん」で終わります。
Facebookもアメブロもツイッターも、「いいね」じゃなくて「ふーん」ボタンがあればよいのに。

そしてこの話に対しても、きっとほとんどが「ふーん」っていう感想だろうなあと思っている。


ふーん。