こんばんは。
今はマヤ暦では白い魔法使いのウエィブスペルの期間になります。
この期間に 歩き巫女について書いてみます。
先日 祢津に行きました。 歩き巫女のお墓が沢山あって、
そこにみんなでお墓参りして手を合わせてきました。
こちらに江戸時代に歩き巫女が沢山住んでいたそうです。
日本一の巫女の村だそうです。
私がそのことを知ったのは6,7年くらい前です。
結構最近ですよね。
歩き巫女が住んでいたという古見立にある お屋敷も見学しました。
(現在お住まいの方がいらっしゃるので、外から拝見でした)
歩き巫女は 「ののう」 と呼ばれていて、そのお屋敷を
ののう屋敷というそうです。
私が住んでいるところも今は市町村も違うんですが、
江戸時代は祢津領ということでして、
すぐ近くの道も 祢津へ通じる 祢津街道がありました。
気になって調べると どんどん 祢津つながりが出てきます。
祢津ばかりでなく、更埴、上田、佐久地方と 歩き巫女たちが
いたそうです。 なので、 信濃の歩き巫女(ののう)は沢山
存在していたということになります。
神事舞太夫という男性が引率して、数人の巫女が一緒に旅して
いたそうです。
一年の大半を神事をしながら諸国を旅する巫女たち
それが 歩き巫女なわけです。
それにしても なぜ この東信濃に多くの歩き巫女が存在していたんでしょうね?
不思議ですよね。
巫女は古くから全国にいたといわれています。
そして 神和系 と 口寄せ系 と存在していました。
神和系の神子(かんなぎけいのみこ)は
神社や宮中の祭儀に奉仕する女性をいいます。
このあたりは有名なので割愛しますが、
伊勢神宮など、、神社の巫女さん
はたまた
倭姫や卑弥呼のような重要な役割をになった女性が
古~い時代から存在していたわけですよね。
沖縄だと 聞得の大君でしょうかね。あと、ノロもそうかな。
口寄せ系の巫女は神社に奉仕するのではなく、各地域に
土着し、あるいは各地を漂泊して 口寄せをする一種の
呪いに従事する巫女をいいます。
その中でも
恐山のイタコとか沖縄のユタなどは土着して、
その場所で活動されていると思うのですが、
歩き巫女は地元にとどまって活動するのではなく、
自分たちから諸国を巡り歩いて活動していたわけで、、、
結構特殊ですよね。
そういえば
出雲の阿国もこちらのタイプですよね。出雲大社の巫女だったと
いわれる 阿国たちがどうして、旅して、かぶき踊りなどしていったでしょうね?それが歌舞伎につながっていくわけで、、興味深いです。
ちなみに祢津にも歌舞伎舞台が 東町と西宮と2か所にあって、
今でも上演されています。(コロナで今年は休演)
舞台は神社の境内にあります。
きっと、祢津の歩き巫女たちも 踊ったり、歌ったり、芸能にもたけて
いた人もいたのかもしれないですね。
ちなみに歩き巫女は 正式には梓神子(あずさみこ)というそうです。
梓弓 檀弓 など弓を使って神をおろしをしていたからでしょうね。
私はね、実は歩き巫女ってかわいそうだなあってなんか思っていたんですよね。だって、普通の幸せみたいなのからは遠い感じで、
幼いころ スカウトされて 信濃にやってきて、修行して巫女になって全国を歩くって、、、切ないなあみたいな感じ。
でもね、歩き巫女ちゃんに話しかけてみたら、
かわいそうじゃないよ。楽しいこといっぱいあったよ。
いろんなところにいけて、いろんな人とお話できて面白かったよ。
普通にはできない体験できて、すごくよかったよ。
私たちの明るい面を見てよ、才能見てよって笑っていうのよ。
そうか~、そうだよね、て思って、巫女の才能のことも書いていこうって思いましてん。
認識を変えるだけで過去って変わるのね。
過去を癒すことは今を癒すことにつながるのね。
過去と未来と今は 同時に存在しているから。
つづきます。
歩き巫女のイメージアートです。