さて、今日も何時ものように日記を書こうと思うが
今回の内容は、自分にとって特別な日になると思う
また、この病気にかかってしまった人や
この病気の検索でひっかかった人がこの文章を読んでいることだろう
今回の記事は稀少がんの一種である外陰がんの
1年間におよぶ闘病生活をまとめた記事である
最初に、1年間の闘病を経て確実に学んだことを箇条書きする
自分のように後悔しないように、これから頭を抱える可能性のある人へ
この記事を読んでいる人に届くことを願う
・患者を少しでも長生きさせたければ、家族で協力してトイレのたびに
アソコをぬるま湯で洗い流し、薬を毎回必ず塗ってあげること
でないと、がん部分が炎症を起こし、免疫力が低下して病気が早く進行する
恥ずかしいなんて、そんなものは慣れる。
病気の場所は想像通り目を伏せたくなるが、命には変えられないものがある
とにかく、やるべき事をやるんだ
・患者が寝てしまって、薬を飲ませたほうがいいか分からない場合
可哀想だが、とにかく起こして薬だけでも飲ませたほうがいい
規則正しく、朝昼晩、薬を飲ませないと病気が進行する
・どうしてこうなったのか、とか過去のことは一切考えてはいけない
とにかく、今なにをすべきかという事だけ考える
・ステージ4の場合は、人にもよるが想像以上に急速に進行する
とにかく1秒でも多く患者との時間を過ごしてあげてほしい
母は亡くなる3日前は普通に話せたし、趣味も続けていた
だが、突然に声がガラガラになり、手が震え、そして瞬く間に
命は絶たれてしまった。この間は2週間ちょっと
何がおこってもおかしくないのだ
・患者には好きなものを食べさせ、好きな事をさせ、
可能な限り悔いが残らないようにさせてあげること
いつ死んでもおかしくないのだから、今までの感謝の気持ちをもって
常に接するということ
・トイレには100%悩まされることになる
最終的には患者は寝たきりになる
おむつの交換や、総合的な介護をする覚悟が必要だ
まず、母の紹介からだが年齢は59歳で
体は普通だが体重は50前後、生まれつき平均体温が低く、
貧血を持っている。性格はとても優しく大らかで、
明るくていつも幸せそうな母だった。
ボートレースや競輪、ハンドメイドなどが得意で
バックやポーチ、ぬいぐるみなどを作っていた
その一方で自分のことをあまり多く語らず、
めんどくさがりやな一面もよく見られた
それでも俺には、精一杯の愛情を受けて俺は育った。
去年のちょうど今日、母が突然トイレに駆け出した。
ドタドタと走る母に家族はびっくりし、
見ると床には血が垂れていた
母はトイレのたびに生理用品の引き出しを開けていたことは
何となく分かっていたので、とにかく病院に行こうと声をかけたが
その日は休日で、病院はどこも休みだったので、
1日は家の布団で過ごした。青白い顔色でとても気分が悪そうだった
次の日に隣町の婦人科で検査をしてもらった結果は、
外陰がんのステージ4Aの診断を受けた。
聞いたこともないがんで、調べると女性のアソコにできる
癌だということを知った。
非常に希少性が高いがんで、症例もないことから
俺たちはとにかくこの、得体の知れない病気に立ち向かう決意を固めた
あまりのショックで、とにかく喉が渇いて仕方がなかったが
仕事を無我夢中になってやることで、
なんとか気持ちをしのいでいた。
病気で倒れるまでは、俺は母の事をあまり
コミュニケーションはとっていなかったから、顔色のこととか
当時ははっきりと分かっていなかったと思う
それもすごく後悔しているが、過ぎたものは仕方ないと思っている
母はもともと貧血持ちで、体温も低い。
これらががんに関係があるなんていうのは病気で倒れてから知ったことだ。
母は入院してすぐに、放射線治療と抗がん剤の治療が始まった。
シスプラチンという抗がん剤を使い、副作用などの心配があったが
幸いなことに58歳の母は吐き気、食欲不振などは全く起きなかった
病院で何ヶ月か過ごし、家族も何度も何度も面会しにいった
病院までは片道50分で、かなり遠いが慣れて苦にならなくなった
次第に病院に母に会いに行ったり、病院の周りを散歩したり
そんな時にも楽しむことは忘れないでいた
特に、印象的だったのが病院の近くにある公園で、
友達に公園で野鳥が観れると教えてもらい、
ピーナッツを手に持っていると、ヤマガラが寄ってきてくれると知り、
実際にやってみたら本当に小鳥がやってきて、驚いた。
とても可愛らしく、生命力に溢れていた
また、がんセンターの最上階にある味噌ラーメンは
究極にうまくて、行くたびに必ず食っていた。
本当にうまかった。あのラーメンは
そんな時期を数ヶ月過ごし、治療の結果が出てきて
結果はがんのメインは相当に小さく治療することができた
ほぼ無くなるくらいまで小さくできたが、
抗がん剤、放射線治療、ともに体が限界になるMAXまで行ったが
唯一、一部分の腫瘍は完治させることができなかった
まだ、やれることはないのか
完治はさせられないのか
家族は不安になり、今最先端の重粒子線治療や、
東京の稀少がんセンターへの転院も検討したが
重粒子のほうは治療実績が無く、外陰がんには適応できないと言われた。
だが、股のリンパ腺はなんとかできるかもしれない、と返事はもらったが
結果的に、母をその治療をさせることはできなかった
理由としては、重粒子は一度放射線治療を行った場所には照射できなかったのだ
仕方なく、又のリンパ腺と膣の奥にはがん細胞を残し退院となった
だが1回目の退院の時は、母はびっくりするくらい回復し、
自力で歩き、自分の好きな番組をみたりしていた
父と毎日話をしていたが、父も苦労しているようだった
特に、母のアソコは治療後は毎日塗り薬を塗る必要があり、
その仕事は父に任せていたが、次第に父もその仕事がつらくなり、
介護センターの人に1日の間で何回かは手伝ってもらうことになった
介護センターの人とは仲良くやっていたようで、とにかく話しが弾んで
いつも陽気にガールズトークを行なっていたようだ
だが、母は微熱と平熱を何度も繰り返すようになった。
股が病気の進行によって、細胞が露出していることにより
あまり衛生的でないと、感染症が起こり熱が出た。
抗がん剤を受けて髪の毛はもちろん全て抜け落ちてしまった
母は何度も何度もお漏らしをしたが、
その度に父と俺でケアをしてあげていた
とても辛そうだったが、俺たちにできることはとにかく
母が欲しいものを準備してあげたり、
なるべく精神的なケアを行うことに徹していた
やがて、病気が進んでいくにつれて父の精神的なバランスも崩れ始めた。
父はいつもはニコニコしているが、母が病気になってからは
とても肩を落としていて、常に悲しそうな顔に変わった
あの頃は父はうつ病になり掛けていて、
俺たちは可能な限りサポートをし、なんとか父は回復していった。
母には父の方が病人みたいになってどうするんだ!と言い、
逆に病人の母が父を励ましていた。ちょうどコロナの真っ最中で
行きたかった競輪にも行けなくなったのが心に響いていたようだ
だが、俺は父と母を山にドライブさせにいったり
なるべく精神的なケアを行うことで、乗り越えることができた。
やがて夏になり、部屋にはエアコンが必要だということで
ささっと部屋にエアコンの手配を済ませ、母も父も満足そうだった
だが、時は流れて10月、退院後は元気だった母も少しづつ
横になる時間が増え、眠りにつく時間も増えていった
母は薬を飲んでも、やはり高熱が続き、痛みも増えていたようだ
そろそろ、従来の薬では痛みが取れきれないということで、
あの薬を使う時が来たんだと思った。そう、モルヒネ等の麻薬だ
麻薬というと体に悪いイメージがあるが、実際問題、あの薬が無かったとしたら
母は1年間も生きられなかったと思う。それくらい重要な薬だ
モルヒネを飲んだ母は、心地好さそうに眠ることができたり、
趣味のハンドメイドをしたりすることもできたのは、
この薬の甲斐あってのことだ。結局モルヒネを使うことが
寿命を縮めるのは大きな誤解で、むしろ使わないほうが患者を苦しめることになる
そして、母はまた10月にまた入院になったが、場所は緩和ケア病練だと告げられた
俺たちは、まだ早いよね。もっと行きていて欲しいと願いつつも
母は、色々と覚悟を決めていたようだ
薬の調整を行うだけだがら、1週間くらいでまた退院できるよ
そう告げられていたので、母も家族も陽気な感じだったが
俺自身はやはりこの場所へ行くということは死期が近いと何かを察していた
母がその時を迎えるとわかったのは、看護師の人から
ここまで進んだら、もう治らないと告げられた時だ
俺は頭の中が真っ白になりながら帰ったが、こうなる事も分かっていたし、
これから来る不安などは、今何をすべきなのかという事で埋めて、
精神を何とか保つ事ができていた
看護婦はとても熱心な人で、とにかく俺におむつの交換と、
母への精神的ケアを教えてくれたりと、とにかく熱心だった
その看護婦への感謝は今でも当然忘れない
あの時看護婦が俺に熱心に、母への接し方を教えたのは、
母の寿命が間も無くだということを知っていたからだろう
11月の2日、ついに緩和ケア退院の日が来た。
看護婦からは「1回は退院できるよ」と告げられていたが、
この事は裏を返すなら、どういう意味なのかは考えたくはなかったが
ともかく母と共に過ごせるということは幸せだった
母ももちろん、家族と共に過ごしていたかったし、
「帰りたい、帰りたい」といつも言っていたから、
とにかく遠い病院で最後を迎えるより、家のほうがいいと思っていた
家族も、母も、俺も、もちろんそうだ
退院して、やっと家に着いたがここで大きな問題に直面することになる
母は、全く歩けなくなっていたのだ
入院する時は50mくらいは自力で歩けていたのに、
退院した時は1歩も歩けない、そして立てずに膝をついてしまった
本当に辛そうだった。痛みも耐えながら、まったく動かない足をみて
俺は辛くて胸を締め付けられる思いだった
親戚の義理の兄もかけつけ、俺と父と義理の兄で腕をかかえて
なんとか家に辿りつくことができたが、ここで俺はある事を察した
これは、本当に大変なことになるなぁと
歩けないということは、トイレにも一人でいけないし、
食事も準備してあげないといけない。
当然精神的ケアもしてあげないと、色々と積もるように見えてくるものがある
だが、とにかく準備だけは万全だった。
部屋中に設置したレンタル用の手すり
起き上がりもできる、机つきの介護用ベット、これもレンタル
ベットの横にすぐ、ポータブルトイレ、おしりふき
そして、膨大な量のナプキンと、おむつだ
最後に忘れてはならない、重要なアイテム、ペットシートがある
とにかくこれは重要なアイテムだ。遠慮なくベットに敷いてあげるべきだ
がんの患者は水っぽいウンコになることがある
母は常に薬のせいなのか下痢のようなウンコばかりだった
だがら、毎回のようにベットのシーツが汚れるのが悩みだった
だが、このペットシートを使うことである程度は汚れを抑えることができる
とにかく、安いしどんどん使うべきだと思う
ベットとトイレの間に2〜3枚敷いてあげるだけでOKだ
母はおむつにトイレをしたらブザーで俺たちを呼べるようにした。
無線でピンポーンと鳴るチャイムはホームセンターに行けば売ってる
設置も楽勝だし、これで母もすぐ俺たちを呼べるってわけだ
うんちは1日5回以上は出て、その度に必ずぬるま湯で洗い流し、
おむつが汚くなってしまったらその都度、交換する。
できればナプキンだけ交換できれば節約にはなるが、難しい
洗い流したあとはかゆみ止め、炎症どめ、保湿クリームを塗ってあげる
父と俺で協力して毎回のようにやっていたが、
母は自力でトイレに行きたがっていたようだった
だが、母はもう自力で立つ事もままならず、毎回お漏らししてしまう
母はこのことをとても、やるせなく思っていたようで
ごめんねー!と悔し涙を流していた時もあった
だが俺たちは、生きているだけでありがたい事なんだよ、とか
お母さんが居なければ、俺はこの世に居なかったんだがら
気にしなくていいんだよ、と可能な限り慰めた
母はトイレのたびにとても痛みを我慢しているようだった
洗い流す時もとても痛そうな顔で我慢をしていた
だから、とにかくウンチが出そうな時間に入る前に
できれば頓服用の痛み止めを飲ませてあげればいいのだが・・
この痛み止めは同時に眠気も誘ってしまう為に
母が深い眠りに入ってしまうこともしばしばあった
そうなってしまうと、食事やトイレ(無意識に出ている)おむつ交換が
規則正しくできなくなってしまったり、毎回起こす必要があるのが
俺たちのある意味悩みだったと思う
それでも、なるべく母を起こしてせめて薬だけは飲ませてあげていた
薬は中の痛み止めが3種類、強力なモルヒネが2種類、整腸剤と飲んでいた
かなり多いが、薬の管理は慣れれば楽勝だ
なんなら、ネジとか色々入れられるような専用のケースを
100円ショップで買って、それに入れて使ってもいい
そんな感じで、痛み止めの管理とおむつ交換と俺と親父は慣れていった
母親も痛み止めのおかげなのか、趣味に没頭していた
母はハンドメイドが好きで、パッチワークという
言うなら布で絵を描くような、そういう芸当を楽しくやっていた
とても無我夢中にやっていたが、時々寝落ちして、
針をベットに落としてしまったりと、悩みはあったものの
本当に楽しそうにやっていたから、家族は心が温まった
しかも、母親は亡くなるまで食欲は全く衰えなかった
時にはハンバーガー1個を丸々食べたり、大好きなラーメンや
ナポリタンを食らいつくように食べていた
うわぁ〜これ食べたかったんだぁ!と大喜びした日もあったり
俺たちもやっぱり見ていてほっとする時間でもあった
だが、緩和ケアから退院して2週間が過ぎたころ、
急に母にある変化が起きてきた。手の震えが出てきた
右手と左手、両方がプルプルと震えてしまって思うように物が持てない
母は「寒いから手が震えちゃうんだよ〜」と言っていたが
おそらくは、薬による何らかの影響だったり、
母の体に何らかの病気の進行があったのは間違いないことだったと思う
この頃から、もう立ち上がってトイレに行くことは難しくなり、
自力で起き上がることもできなくなってしまっていた
手が震えてスプーンも持てなくなり、俺たちは母の手となり、
ご飯や水などを口に運んであげたりした
それでも母はなるべく、自分の力で食べたいらしくて
ベビースターラーメンを食べた時は、ベット中にぽろぽろとこぼしまくって
大変なことになったが、それはそれで、ある意味朗らかな思い出となった
退院してきて2週間、この頃から明らかに、
母が急速に衰弱してきているのが素人の俺でも明らかだった。
次第に滑舌が悪くなって、おばあちゃんのような口調になっていった
それでも、ふがふが口調の母の言葉でも会話はできるし、
最近の俺の仕事のこととか、母のお願いとか
色々と母の時間を作って、ちょこちょこと接してはいた
そして、亡くなる3日前の朝に挨拶しに行ったが
今日は明らかにいつもより、ぼーっとしていた
話しかけても、どこかレスポンスが何時もと違う
何か、どこか、憔悴しきっているような何かを感じた。
だが、それは病気には波があるが故に、上がったり下がったりの、
下がったり、の部分だと俺は信じていた
その日の朝は調子悪かったが、熱もなかったから安心した。
夕方あたりから母はまたハンドメイドをやり始め、
楽しそうにパッチワークで何かを作っていたが、
夜ご飯を食べたあとはすぐに寝てしまった
そして、寝る前の9時、おむつ交換の時だったが
母は呼びかけてもなかなか、起きない。とにかく深い深い眠りに入っている
俺と父で何度も何度も、呼びかけて、やっと起きた言葉が
「ポータブルトイレに行こうか?」という父の呼びかけだった
母はこの言葉でフッとびっくりする位目が覚めた
おそらく、母は自力で立ってトイレに行きたくて行きたくて
本当に仕方なかったんだろうと思う。その願望で目が覚めたんだろう
だが、その日の交換は、母が本当につらそうだった
痛みや苦しみをぐっとこらえて、言葉にできないやるせなさが
その場にいた俺と父の胸の心を縛り上げていた
だが、やっとこさおむつの交換はできたし、一安心だ
その日は俺も父も「これは、つかれたねぇ」と言ってよくねた
そして、亡くなる2日前、この日は母はなぜか絶好調で、
朝9時から心地良さそうに、ハンドメイドをやり始めた
ものすごい熱量で、お昼ご飯を食べた後も、ハンドメイドを続けた
そして、夕方の3時頃「疲れたね、」といって途中でやめて寝てしまった
それから、夜ご飯の時間になったら薬の飲ませる為に母を起こした。
この時は意外と、すっと起きて、野菜炒めを食べたりと食欲はあった
ついでにおむつ交換もすませてしまって、それからは
次の日までぐっすりと寝ていたようだ
そして、亡くなる前日、母は朝9時にバナナを食べた。
その日は俺も朝にちょこっと顔を出して、どんな感じか見に言ったが、
母は、いつも以上にぼーっとしていて、喉もガラガラになり、
会話の口数も大きく減ってしまっていた。
新しく設置した加湿器の話をしたりしていたけれど、
時々会話で何を言っているのか分からなかったりと、
いよいよ、母もその時が近づいているんだろうかと感じていた。
そしてバナナを食べて、薬を飲んだ後、すぐ寝てしまった。
その後は、母は12時になっても、夕方の15時になっても、
起きることなく、とにかく長く長く寝ていた。
父は、とにかく寝ている母にもう起きないんじゃないかと、
うう・・と悲しいそうな気持ちを俺に打ち明けたりしていた
俺は大丈夫だよ、と慰めたが、夕方の5時くらいに
母にある変化が起きた。
いびきの音がゴロゴロ〜という音に変わった。
吸って、吐いての吐く時にゴロゴロという音が出る。この事に気付いた俺は
すぐに病院にこの事を連絡した。
すると先生は、そろそろお母さんも限界だろうから、
明日すぐに入院するべきです。入院の手配も済ませておくから、
朝9時に救急車を読んで、病院に連れてきてください
と言っていた。
このゴロゴロ音について質問したが、先生は
飲み物が喉につまっているから数日経てば治るよ、と言っていたが
それは俺たちの気持ちを落ち着かせる為の嘘のようなもので、
本当に残念だが、これは死の前兆だった
その日、ネットで調べてすぐにわかったが「死前喘鳴」という
怖い名前が付いている。本当に最後の時に起きるいびき音だ
その事を知った俺は、顔が真っ青になったが、
同時にある事が頭に浮かんだ。
今はとにかく母の近くにいてあげよう。と言う事だ
そのイビキが始まって、1時間後、家族全員揃った。
だが、相変わらず母は深い眠りに入ったまま起きなかった。
俺、兄貴、父、そして眠るような母に、お母さん!と呼びかけた
何度声をかけたのか、分からない。しかし夜6時頃
その時、母は微かにピクっと反応し、右目だけわずかに開け、右腕を動かした。
しかし、その時は一見起きてるのか寝ているのか全然わからなかった。
父と兄貴は一旦自分の部屋に戻り、母と俺だけになった
お母さん!来たよ!起きてる?と耳元で話しかけると
母は微かに頷いた。首がわずかに動く程度だった
それには俺もびっくりし、母は起きている!と直ぐに父と兄貴を呼んだ
お母さん、今兄貴もいるし、親父もいるよ!
という問いかけに、頷いた
母はとてもかすれた小さな声で「今なんじ?」と言った
俺は「夜の6時だよ!」と言い、母はうなずいた。
母はお腹をさすって、微かに「お腹すいた・・」と言った
俺たちは母の大好物のラーメンを食べさせたかったが、
憔悴しきっていて、もう口を動かすこともままならない母に、
麺類なんてとてもあげられない。噛む事も飲み込むこともできない。
だから俺たちは麺をとにかく刻みまくって、飲み込めるようにし、
スープだけでも飲ませてあげた。
その後、自家製のサツマイモも一口だけ食べさせてあげて
母は「あまい」と答えてくれた。それも、すごく嬉しかった。
もう、頷くことしかできない母に「寒くない?とか」「水飲む?とか」
できる限りのコミュニケーションは取るようにしていた。
水はなんとか、3口くらいは飲むことはできた。
だが家族全員が、明らかに最後の日になるかもしれないと思った
母に意識がある時に、俺の自信作の曲を最後に聞かせてあげたりして、
なるべくいつも通りの言葉をかけるようにしていた。
夜の7時、母はそのまま眠りについた。
眠ってからは、母への感謝の気持ちを耳元でつぶやいたりしていた。
今思えば、意識がある時に言えばよかったのかもしれないが、
母にそんな気持ちを伝えるなんて、なんだが死を予感させるようで嫌だった
だから、なるべくいつも通りの言葉を選んだ
母は相変わらず呼吸はゴロゴロとし、深い深い眠りについていた。
とても心地好さそうに、深く呼吸をし、俺と父はその様子を伺っていた。
「・・変わりはないよね」と呼吸の音を聞きながら、その日は父も俺も
母の様子を注意深くみていた
夜10時になり、父は寝る準備をすることにした。
疲れた俺も、その日は夜更かしすることなく寝るようにした。
俺はその日、母が最後の日を迎えて病院へ向かうんじゃないかと予想していたから
夜更かしはせず、とにかく寝たが、まさかこれがその通りになるなんてね
深夜2時、父の大声が聞こえた。母の名前を叫んでいた。
その声で俺と兄もすぐ部屋に駆け寄った。
母は、息も、鼓動もしていなかった。
すぐに俺たちは救急車を呼び、心臓マッサージも行ったが、
その努力もむなしく、母は天国へ旅立ってしまった。
この日のことは一生忘れない日になった。
救急車へ同伴し、落胆する父に俺はこう慰めた。
いつかはこうなるって、分かっていたでしょ。
今するべきことは、とにかく、母への感謝だよ。
そう慰めて、一度、がんセンターの病院へ向かった。
その日は、色々な情報が頭の中に滝のように舞い込んできて、
色々な人の声が縦横無尽に聞こえるような、そんな日だった。
母との思い出も蘇るし、感謝の気持ち、そして別れの辛さ、
これからの事、家族、葬式、親戚、仕事・・走馬灯のよう
一気に何かが、そう、混沌として、それらが全て涙に変わっていった。
父も、兄も、そして俺も、ばあちゃんも、親戚もみんな、
一緒になって母のお葬式に参加し、最後の弔いを行なった
「ねてるのとおなじにみえるね。ほんと、オレより先にいっちまうなんて!!」と
泣きながら、俺たちの気持ちを全て代弁してくれるように言ってくれていた。
特におばあちゃんは、娘を亡くしたことにとても悲しんでいて、
いま思うと、母は本当にいい人だった。
父とは仲がめちゃくちゃ良くて、とても陽気で明るく、サバっとしていて、
いつも楽しそうな感じの人だった。だから、失うのはとても辛かった。
だが、それでも俺たちは前を向いてなくちゃいけない
母の分まで一生懸命になって生きる。それが俺たちに託されたことだと
肝に命じて生きていかなきゃいけない。きっとそうだと思う
お母さんが居なかったら、俺はこの世に居なかったんだから
本当に、今までありがとう
そんな感じで、母への思いも書ききれないくらいあるが
今回のこの記事はこれくらいで幕を閉じようと思う。
ここまで、呼んでくれた人がいるか分からないけど
とにかく、ありがとう
母、享年59。天国でも幸せに暮らしていることを願います。