弊ブログではお馴染みの題材、仮乗降場と線路班。

仮乗降場は一部を除いて、北海道版の時刻表にはその存在と列車の時刻が記載されていたため、一般の目に触れる機会がありました。

線路班は保線の詰所のようなもので、そこに務める保線員の方々やそのご家族のために営業列車(あるいは荷物列車や貨物列車に便乗という形)が線路班のそばに停車するダイヤが決められていました。

線路班は乗務員の方々が使用する運転時刻表などの内部資料にはその存在とダイヤが記載されていました。

 

この運転時刻表では、「駅間で停車する地点」というものの位置や名称が明記されていて、仮乗降場も正式には駅でないため「駅間で停車する地点」の一種でした。

そして線路班もまた同様です。

しかし運転時刻表を見ていると、位置は明記されているものの名称が書かれていない「駅間で停車する地点」というのが稀に見られます。

大概はその名前が当時まだ認知されていなかった仮乗降場で、その運転時刻表が作成されたダイヤ改正の直前に設置されたばかりの仮乗降場であるケースが多いです。

 

ちなみに信号場は正式な「停車場」であるので、駅と同格に表記されることになっていて、仮乗降場的に旅客の乗降を扱う場合は無印、旅客の取り扱いを行わない場合は駅における運転停車同様、時刻の欄に〔 〕を付けて区別していました。

 

そのなかで今回取り上げるのは札沼線の昭和31(1956)年6月1日改正時に札鉄局が発行した列車運転時刻表に記載された「50km600m」という「駅間で停車する地点」です。

結論から申しますと、これは何なのか私には分かりませんでした。

JTB社刊「停車場変遷大事典」や「駅名来歴事典」では線路班も記載されているのですが、札沼線の当該地点に線路班その他の停車場があったという事実は確認できませんでした。

位置的には石狩月形駅から札比内駅の間で、豊ヶ岡駅は未開業です(当該区間は昭和28〈1953〉年に復活)。

豊ヶ岡駅(昭和35年開業)が起点(桑園駅)から51.0kmというキロ程になるので近いのですが、それでも400mほど離れていますし、豊ヶ岡駅開業の5年も前に既にあったという事実には違和感があります。

ちなみにこの昭和31年運転時刻表には同年11月に開業する鶴沼駅や南下徳富駅、中徳富駅などは影も形もありません。

なぜか豊ヶ岡駅の400メートル桑園寄りに停車地点が設けられていたのみです。

 

なおダイヤですが、この区間を走行する1日5往復の列車のうち2往復が停車していました。

旅客の乗降も取り扱っていた可能性がありますが不明です。

災害などで本来の駅が使用不能な場合に仮駅を設けて臨時に旅客を取り扱う場合がありますが、昭和31年の札沼線ではそうした様子もなく、普通に桑園駅~雨竜駅間で運行が行われていました。

同年11月には雨竜駅~石狩沼田駅間のレールが復活し全線で運行が再開されるのですが、この時刻表はその約半年前ということになります。

※札沼線は戦時中、不要不急路線として石狩月形~石狩追分間のレールが剥がされ、戦後、段階的に復旧されています。


はたしてこの「50km600m」は何の地点なのか。

もう少し情報を加えますと、まずこの区間で運転される列車5往復は全て貨車と客車が併結された「混合列車」でした。

そして駅での停車時間は30秒〜60秒というところが多い中で、この地点での停車時間はどの列車も5分0秒と長めにとられていました。

停車するダイヤは朝の下り1本目(9:05着/9:10発)と3本目(15:17着/15:22発)、上りの3本目(13:03着/13:08発)と最終列車(19:17着/19:22発)でした。


さらにこの運転時刻表全体を通しての傾向について掘り下げます。

まず先述した「運転停車は〔 〕を付けていた」という話ですが、どうやらこの昭和31年6月1日改正の札鉄局発行列車運転時刻表では〔 〕を付けることはしていなかったようで、また時刻表の巻頭または巻末にまとめられている「駅間で停車する地点」の一覧などの付表も全くありません。

したがって旅客の扱いの有無は全く不明というわけです。

ただ仮乗降場などではたとえば手宮線色内仮乗降場は「(臨)色内」、幌内線幌内住吉仮乗降場は「(臨)幌内住吉」と表記、線路班などでは「竹切線路班」「越路線路班」「星置線路班」など施設名は明記されており、単にキロ程だけが書かれた停車場というのは札沼線の「50km600m」だけなのが一際目を引きます。

信号場についてはそれと分かるような表記はなく、駅と同様に単に「空知太」「小幌」などとだけ記されています。

室蘭本線では富浦駅と富浦線路班は別々に書かれていますが、胆振線の尾路遠仮乗降場は省略されていて尾路遠線路班のみ記載があります。


とはいえこれ以上の情報はこの運転時刻表から読み取ることはできず、結局何の地点なのかは不明としか言えません。

私の個人的な考えですが、停車時間が5分と長めなことから、貨物用の仮駅だったのではないかと推察します。

列車の交換設備などであれば正式な信号場として名称が与えられるでしょうから、そうした類のものではないように思います。

蒸気機関車の給水給炭設備であっても同様です。

こうしたことから可能性が高いのが、貨物用の何らかの施設かと考えています。


一つの仮説として、石狩平野では現在に至るまで稲作が盛んですが、その圃場づくりのために泥炭地だった石狩平野の土壌から排水をし、他所から土を運んで埋め立てる、「客土」という改良事業が行われていました。

現在の新篠津村、月形町、当別町では「西篠津」「蕨岱」「篠津」という3つの工区で昭和30(1955)年から昭和42(1967)年にかけて国営事業として客土事業が行われていたと記録に残っています(以後は道営事業に移行)。

これに関連して、石狩川から取水する篠津運河が月形町内から引かれており、「50km600m」の地点も詳細な位置関係は不明ながら、この近くに位置するようです。

客土工事では軌道により客土を運搬した工区もありましたが、「西篠津」「蕨岱」「篠津」のうち「西篠津」の工区では軌道が使用されたという記録があります。

他の工区では馬そり客土だったようですが、この客土事業における物資の運搬の結節点として臨時に貨物駅のような施設が置かれたのではないかと考えることもできます。

ただあくまで私の素人考えですので、間違っているかも知れません。

地理院地図や航空写真も調べてみましたが、残念ながら客土事業が始まってから豊ヶ岡駅が開業するまでの5年間の間に作成されたものはなく、そちらから確認することもできませんでした。


札鉄局の運転時刻表はこの版のほかには昭和45年のものしか所有しておらず、前後のダイヤでどのようであったかを調べればもう少し輪郭が見えてくるかと思いますが、私個人の範囲ではここまでしか分かりません。


消化不良でここまでお読み下さった皆様には申し訳なく思いますが、こうした停車場がかつて札沼線に存在したという事実だけでもご紹介したいと思い、記事にさせて頂きました。


ここまでお付き合い下さり、誠にありがとうございました。