茨城県に牛久(うしく)という都市があります。
関東地方以外に在住の方には馴染みが薄い地名かもしれません。
牛久沼や牛久大仏で知られます。
鉄道路線としてはJR常磐線が通っており、市内に牛久、ひたち野うしくの2駅がおかれています。
ひたち野うしく駅は昭和60(1985)年のつくば博の際に臨時駅「万博中央駅」が設置されたのとほぼ同位置に平成10(1998)年に開業した新しい駅です。
「JR・第3セクター 全駅名ルーツ事典」(村石利夫編著)ではこの「牛久」という地名の由来は「諸説あってはっきりしない」旨が書かれています。
上掲の書籍は「国鉄全駅ルーツ大辞典」に新たな知見を加えて加筆・修正した改訂版にあたり、「国鉄全駅ルーツ大辞典」では牛久駅の項で「地名学者が一人として同じことをいわない諸説紛々の地名である」とまで言っています。
ただ、どちらの版でも、地名学者の間で「アイヌ語由来説」が比較的有力な説として紹介されています。
筆者はアイヌ語由来説には慎重な姿勢で、あくまで諸説ある中の一つとして紹介していますが、地名学者の間では有力であるとは記しています。
曰く、「ウシ・キ(たくさん密生している芦)」とのこと。
アイヌ語的に解すると、「ウㇱ・キ」(us-ki:多い芦)となるわけです。
なお、筆者は私説として「ウシギ(川水の堰に木を組み、石積みしたもの)と考える」と述べています。
このアイヌ語由来説ですが、どうにも問題がいくつかあるように思われますので、私の私見になりますが、一つずつ挙げたいと思います。
まず以前もご紹介した「アイヌ語地名の南限を探る」(筒井功著)で比定された「アイヌ語地名の南限」(太平洋側では宮城県中部)より遥かに南に位置する茨城にあるため、より慎重にならなければなりません。
もちろんこの「南限」はアイヌの人々の定住、アイヌ文化圏の南限であって、それ以南にアイヌ語地名が皆無と決めつけることはできません。
地名は人の流れに乗って移動することもあります。
そもそもの前提として牛久の位置ですが、茨城県でもかなり南部に位置します。
茨城県の南部は一部下総国に入りますが、牛久は常陸国の南縁に近い位置となります。
昭和29(1954)年より町制を施行し稲敷郡牛久町となり、昭和61(1986)年に市制施行した新しい市です。
平成の大合併以降では、JR常磐線沿いに数えると茨城県に入って3つ目の市(最初の市である取手市は下総国で、常陸国としては龍ケ崎市に次いで2つ目)です。
前述の通り、市制施行前は稲敷郡に属し、県南のエリアに含まれますが、他の稲敷郡域の各自治体と決定的に異なる点として鉄道路線として常磐線が通っており土浦市や水戸市に1本で行くことができ、反対方向では東京都心部へも1時間未満で行くことが出来る点で、文化圏としてはかつてと現在とでは随分様相が変わってきているものと思われます。
近年は東京のベッドタウンとしても発展し、牛久駅は基本的に特急停車駅クラスではないものの(朝の通勤ライナー的な特急は停車)、特急停車駅の土浦駅に比肩する(年度によっては上回る)乗降客数を誇る都市型の駅へと変貌を遂げています。
そして肝心のアイヌ語地名説ですが、正直に申し上げて、なぜ地名学者の間で有力視されているのかがよく分かりませんでした。
上述の通り、アイヌ文化圏でないことは明白ですが、地名が人の移動とともに運ばれて定着するケースはあり得ます。
しかし「ウㇱ・キ」(多い茅)というのはあまり地名らしくない形です。
地名だと「キ・ウㇱ・イ」(ki-us-i:茅の多い処)のような形を取る場合がほとんどかと思います。
そしてアイヌ語圏でもないこの地域に、突発的にもたらされたアイヌ語として何の変哲もない「多くの茅」という意味の言葉「ウㇱ・キ」が定着するでしょうか。
もちろん当時の和人にとって意味が分からない言葉が何かのきっかけでこの地にもたらされ、偶然地名に残ったという可能性はゼロではないでしょうが、積極的にこの説が最有力だと言うには決め手に欠けるのです。
ここでアイヌ語説ではない別の説をひとつご紹介します。
これも比較的有力ですが、伝説に基づいているということで半ば後付けのように捉える向きもあるかと思います。
それは冒頭で名前を出した「牛久沼」によるもので、これが「牛喰う沼」から転じたものとする説です。
曰く、「地元の伝説では、寺の小僧が沼のほとりで昼寝しているところを和尚にどやされると、びっくりして大きな牛になり、沼に飛び込んで沈んでしまったという。それ以来この沼を『牛食う沼』と呼ぶようになったという。」(国鉄全駅ルーツ大辞典)
ただ「角川日本地名大辞典 茨城県」の「牛久沼」の項によれば「泥深くて牛をも飲み込んでしまう『牛食沼』にちなむという」ということで、これを見ると伝説ではなく実際の地形に基づく地名らしく感じられます。
いずれにせよ、「牛久」の地名の興りはこの「牛久沼」であり、沼があることから湿地帯で、茅の群生も当然見られたであろうということです。
アイヌ語地名の研究者の方々は実地踏査をして、本当にそのような地形があるかを確かめて説を補強するかと思います。
それ自体はフィールドワークの基本であり、必要な作業ですが、それにミスリードされないように傍証を積み上げることもまた時に必要なのではないかと思わされるのが、この「牛久」の地名のアイヌ語説だと感じる次第です。
なお、「うしく」という地名の文献での記録ですが、戦国時代には既に見え、あるいは「うしよく」「うしゆく」とも記録されており、この点からも、どうもアイヌ語由来にしてはやや古く(確認されている最古が1564年頃)、形もアイヌ語説の中で唱えられているもの違うので、やはりアイヌ語地名らしくない地名という印象です。
古い地名は時代とともに音も変化し、元の由来が分からなくなることも多いので、結論が出ないのも止むなきことですが、アイヌ語地名を好む一個人として、こうしたアイヌ語由来説に出会った際には一度精査しておきたいと改めて思いました。
現在調査中の次期題材が現在難航中につき、今回もコラム的な記事になりましたが、いつも通り長々とまとまりのない文章になってしまいました。
ここまでお付き合い下さり、誠にありがとうございました。