今回も前回までに続き、北海道で駅名の変更が行われた事例を路線別に列挙してみたいと思います。

最終回の今回は私鉄・公営鉄道編となります。

資料的な記事になりますが、よろしければお付き合い下さい。


また、今回はデータ類を新潮社刊「日本鉄道旅行地図 1 北海道」に依拠しております。

同著は国鉄〜JRではデータ類をJTB社刊「停車場変遷大辞典」を参照したとありましたが両著で一部に齟齬があり、比較検討しながらなるべく裏を取るようにして弊ブログに掲載したつもりです。

一方、私鉄については資料が少なく、各自治体の市町村史なども参照する必要があり、私個人での調査に限界がありますので、データ類の裏取りは基本的に省略させて頂いております

誤りや、他にお持ちの情報などがありましたら、ご指摘頂けると有り難いです。


簡易軌道(殖民軌道)、専用鉄道は性質上、駅名の変更を追いきれないため、今回は省略しました。


また駅名の由来をそれぞれ併記しておきますが、山田秀三氏、知里真志保氏、本多貢氏ほか諸先生方の各著書、および「角川日本地名大辞典」を適宜参考にしております。

諸説ある中の一部のみのご紹介となりますことを予めご了承下さい。


文中、(仮)は仮乗降場、(仮停)は仮停車場、(留)は停留場、(信)は信号場を表し、特にこうした標記のないものは正式な駅(停車場)を意味するものとします。



●大沼電鉄

1.鬼柳(おにやなぎ)→池田園(いけだえん)

改称年月日:不詳

旧駅名の由来:当時の所在地名から。軍川村字鬼柳。この地名の由来については、「鬼柳」という荒くれ者がいて村を苦しめたが、村民一丸となって謀りこれを倒し、村に平穏が戻ったという伝説がある。

新駅名の由来:当地開拓の祖、池田醇が明治30(1897)年、この地の再開発に尽力、一帯を大沼公園に付随して公園化する計画をした功績を顕彰して付けられた地名。


2.留の沢(とめのさわ;留ノ沢との表記も見られる)→大沼温泉(おおぬまおんせん)

改称年月日:昭和23(1948)年1月16日復活時

旧駅名の由来:大沼温泉の湯治場として古くから「留の湯(とめのゆ)」があったが、これに関連するものか。なお、地名としての「留の沢」は大沼温泉のある七飯町ではなく、鹿部町(旧鹿部村)の地名(現在の駒見)である。

新駅名の由来:大沼周辺の温泉場として古くからある名称。


3.新小川(しんおがわ)→駒見(こまみ)

改称年月日:昭和23(1948)年1月16日復活時

旧駅名の由来:元々は地区名を小川と称したことによる。「小川」という地名は全国に無数に存在するので、「新」を冠したのであろうか。なお地内北部を折戸川が流れているが、次項で挙げる「本別」は折戸川よりさらに北であるので、この「小川」は本別川を和訳したものとは考えにくいが…。

新駅名の由来:地区名から。明治23(1890)年に福井県の中川忠四郎が中心となって農地を開拓した地。「駒見」は昭和15(1940)年に起立した字名で、元は鹿部村小川および留の沢という地区名。地名の由来については、当地が駒ケ岳の南麓に位置していることから、駒ケ岳を望むという意味で命名したものと思われる。昭和50(1975)年頃には無人地帯となった。


4.新本別(しんほんべつ)→宮ノ浜(みやのはま)

改称年月日:昭和23(1948)年1月16日復活時

旧駅名の由来:本別は地区名。アイヌ語の「ポン・ペッ」(pon-pet:小さい方の川)で、南隣の折戸(おりと)川が「大きい方の川」を意味する「ポロ・ペッ」と呼ばれたのに対しての本別川の呼び名ということらしい。「新」を付けた理由ははっきりしないが、省線網走本線(後の池北線)の本別駅との区別のためと考えるのが妥当だろうか。戦前は私鉄も省線の駅名との重複を回避させられるために駅名変更を余儀なくされたケースも数多ある。

新駅名の由来:駅の所在する地区名(鹿部町の行政字名)から。ただし地名は「宮浜(みやはま)」である。


5.鹿部(しかべ)→鹿部温泉(しかべおんせん)→鹿部(しかべ)

改称年月日:昭和23(1948)年1月16日、昭和24(1949)年2月20日

駅名の由来:鹿部町観光協会公式HPではアイヌ語の「シケルペ」(キハダの木のあるところ)の転訛としたうえで、キハダは神聖な木として尊重されていた旨を解説している(ただし出典が不詳)。「地名アイヌ語小辞典」を見ると、確かにキハダは「シケㇽペ」(sikerpe-ni、niは「木」の意で地名では往々にして省略される)。「北海道駅名の起源」などでは「シカペ」(アホウドリの意)という説を採っている。他には従来からの説では「シカウンペ」(物を背負う処;上原熊次郎説)がある。国鉄函館本線の鹿部駅が鷹待駅に改称したのと同時に、当駅は「鹿部温泉」から「鹿部」に改称している。(鷹待駅は大沼電鉄廃線により鹿部駅に戻している。)


※大沼電鉄は戦時中の昭和20(1945)年1月31日に一度廃止、昭和23年1月16日に一部区間が復活も、昭和27年12月25日に全線廃止となっている。


    

【コラム】渡島海岸鉄道


森〜砂原間を結んで、和2(1927)年に

開業した私鉄です。

戦時中の昭和20(1945)年に省線函館本線

の渡島砂原回りが開通するのに際し、

国有化され廃止となりました。

砂原支線は渡島海岸鉄道の軌道敷をそのまま

転用した区間は少なく、

大部分は並行して新たに新線を建設。

渡島海岸鉄道時代に駅名の改称が

行われたものはないため、本稿では

取り上げていませんが、駅名が継承された

ものは本シリーズの函館本線の項で

ご紹介しました。


ここではインパクトのある駅名も多かった

渡島海岸鉄道の駅から、「度杭崎駅」を

ご紹介します。

読みは「どぐいさき」で、アイヌ語とも

和語ともつかない不思議な響きをもつ

地名ですが、「角川日本地名大辞典」に

よれば、「イタドリのよく茂る出崎」の意

だそうです(砂原町沿革史年表)。

同書には「アイヌ語由来」とは明記されていませんが、アイヌ語だとすればどのように

分解されるのか、全く分かりません。


ちなみにアイヌ語地名でイタドリを指す

場合は「クッタㇽ」という語が用いられる

ことが多いです。



●定山渓鉄道

1.北茨木(きたいばらき)→澄川(すみかわ)

改称年月日:昭和32年12月(日付不詳)

旧駅名の由来:明治29(1896)年に福岡県遠賀村(現・芦屋町)から移住した茨木与八郎が当地に茨木農場を開きリンゴを栽培した。澄川の平野部の大部分を茨木農場が占めていたことによる。

新駅名の由来:昭和19(1944)年に起立した豊平町(現・札幌市南区)の行政地名。地内を流れる精進川の水が澄んでいたことに由来するといわれる。「精進川」は魚がいないことにちなんで名付けられたとも、アイヌ語の「オソウシペッ」(o-so-us-pet:川尻に滝のある川)から来たともいわれる。


2.藤ノ沢(ふじのさわ)→藤の沢(ふじのさわ)

改称年月日:不詳


3.滝ノ沢(たきのさわ)→滝の沢(たきのさわ)

改称年月日:不詳


4.一ノ沢(いちのさわ)→一の沢(いちのさわ)

改称年月日:不詳

駅名の「ノ」を「の」に変更する改称は、昭和32年より定山渓鉄道の親会社となった東京急行電鉄(現・東急電鉄)でも昭和41年に一斉に実施されているが(この時「ケ」も「が」に改めている)、定山渓鉄道は昭和37年の交通公社版時刻表を見ると既に「の」に変更後の駅名で記載されているので、東急での動きとは関係なく行われたようである。(一方で弘済会版昭和38年12月号の北海道時刻表では「ノ」で表記されている。)



●札幌市交通局南北線

1.霊園前(れいえんまえ)→南平岸(みなみひらぎし)

改称年月日:平成6(1994)年10月14日

旧駅名の由来:平岸霊園の最寄り駅であるため。

新駅名の由来:平岸駅の南隣にあるため。所在地名は平岸4条。平岸の名はアイヌ語の「ピラ・ケㇱ」(pira-kes:崖の末端)から。


※軌道線は数が膨大かつ資料に乏しいため、割愛させて頂きます。



●夕張鉄道(北海道炭礦汽船夕張鉄道線)

1.野幌停(のっぽろてい)→北海鋼機前(ほっかいこうきまえ)

改称年月日:昭和39(1964)年7月20日

旧駅名の由来:野幌バス停前であることから。引用元の資料では旧駅名を「野幌バス停前」としているが、交通公社版北海道時刻表では「野幌停」と表記されているため、本稿ではこれに従った。

新駅名の由来:昭和36(1961)年に創業した鉄鋼二次製品メーカー、北海鋼機の本社(江別市上江別441)最寄り駅であるため。


2.南幌向(みなみほろむい)→南幌(みなみほろ)→南幌(なんぽろ)

改称年月日:昭和38(1963)年4月5日、昭和43(1968)年4月5日

駅名の由来:幌向原野の南に位置することから。幌向村が昭和37(1962)年に町制施行する際に南幌町(みなみほろちょう)に改称、駅名はまずこれに追随した。しかし、町名「南幌町」は夕張鉄道の「南幌向駅」にちなんで命名されたもので、駅名にちなんで付けた町名に駅名が後から合わせるという奇妙な現象が生じた。昭和43(1968)年に南幌町は漢字はそのままに読みを「みなみほろちょう」から「なんぽろちょう」に改め、駅名も再び追随した。

幌向はアイヌ語の「ポロ・モィ」(poro-moy:大きなモイ)から。モイ(moy)は湾の意もあるが、ここでは大きな川で流路が曲がっていて水がゆったり流れている処の意。


3.長沼(ながぬま)→北長沼(きたながぬま)

改称年月日:昭和29(1954)年1月16日

駅名の由来:長沼町唯一の鉄道駅であるため「長沼」を名乗ったが、町の中心部からは大きく外れた町域の北部に駅は位置しており、後に「北」を冠した。国鉄バスの中央長沼が中心部に近かった。長沼の名はアイヌ語の「タンネトウ(タンネ・ト)」(tanne-to:長い沼)の意訳。町名のもととなった「タンネトウ」は昭和52(1977)年圃場整備に際して埋め立てられ現存しない。


4.若菜辺(わかなべ)→若菜(わかな)

改称年月日:昭和29(1954)年1月16日

駅名の由来:アイヌ語の「ワッカ・ナㇺ・ペッ」(wakka-nam-pet:水が冷たい川)に「若南部」という字を当てていたが、明治39(1906)年に新鉱が開鉱する際に「若鍋坑」という表記をし、読みも「わっかなんぶ」から「わかなべ」となった。若鍋坑では大正3(1914)年にガス爆発事故があり、「鍋」の字が火を連想させて不吉ということで読みはそのままに漢字を「若菜辺坑」に変更した。地名も大正8(1919)年に若南部から若菜辺に変更し、大正15(1926)年にこの地に出来た駅もこれを駅名とした。昭和17(1942)年に字名を再編する際、字若菜辺は廃止となり、町名として若菜となったため、駅名もこれに合わせた。


5.新夕張(しんゆうばり)→夕張本町(ゆうばりほんちょう)

改称年月日:昭和29(1954)年1月16日

旧駅名の由来:地区名(行政字名)より。

新駅名の由来:昭和17(1942)年の行政字名再編により字新夕張は廃止となり、新たに本町1〜6丁目となったため、これに駅名も合わせた。なお、国鉄新夕張駅は昭和56(1981)年に紅葉山から改称されて誕生しており、位置的にも時期的にも別物である。



●三菱鉱業美唄鉄道

1.盤の沢(ばんのさわ)→盤ノ沢(ばんのさわ)

改称年月日:大正14(1925)12月15日

駅名の由来:パンの沢、バンの沢、磐の沢とも表記した地名で、アイヌ語地名という説がある(「パンケ・ナィ」panke-nay:下の川)。改称は引用元の書籍には大正14年とあるが、1962年の交通公社版北海道時刻表では「盤の沢」だったのが1963年の同北海道時刻表では「盤ノ沢」に改められており、一方で同年の弘済会版北海道時刻表ではまだ「盤の沢」となっており表記にブレが見られる。


2.沼貝(ぬまかい)→美唄炭山(びばいたんざん)

改称年月日:大正7(1918)年9月1日

旧駅名の由来:開業時の町名から。現在は美唄市となっているが、かつては「ビバイ」の元のアイヌ語を意訳した「沼貝村(ぬまかいむら)」を名乗っており、函館本線の駅名だけが「美唄」を名乗っていた。

ビバイはアイヌ語の「ピパ・オ・イ」(pipa-o-i:カラス貝の多い処)より。アイヌ語のpipaはカラス貝の他にも「沼貝」「川真珠貝」「真珠貝」など数種の二枚貝を指す言葉で、ここでは沼貝として村名にしたものである。なかでもカラス貝は粟の穂を刈り取る道具として用いられる、アイヌにとっては特別な貝であり、このため地名に多く残っている。


3.北一の沢(きたいちのさわ)→常盤台(ときわだい)

改称年月日:不詳

旧駅名の由来:美唄川上流の開拓地を一の沢と呼んでいたことから。

新駅名の由来:地区名より。地区名の由来は不詳。



●旭川電気軌道

改称年月日はいずれも不詳

●東川線

1.下公有地(しもこうゆうち)→二号線(にごうせん)

旧駅名の由来:ウシシュベツ下公有地に位置したことによる。ウシシュベツは現在の牛朱別川のことで、忠別川のすぐ上流にある石狩川の支流。アイヌ語の「ウシㇱ・ペッ」(usis-pet:鹿の蹄跡の川)より。雪解け水でしばしば氾濫し、水が引いた後に鹿の蹄跡が残るためにこの名が付いたという。

新駅名の由来:2号線上に位置したため。「〜号」は旭川周辺では北東から南西の方向に走る通りとなっており、旭川電気軌道と直角に交わる方向である。屯田兵により開拓されたため、通りが碁盤の目状に走る条丁目を形成している。(旭川電気軌道の東川線は始発駅が旭川四条駅となっているとおり、東川まで四条通り上を南東へ忠別川に平行に走っていた。)


2.公有地(こうゆうち)→千代田(ちよだ)

旧駅名の由来:ウシシュベツ下公有地に位置したため。前駅より牛朱別川および忠別川の上流側に位置するため、「下」を外して前駅と区別したものか。

新駅名の由来:地区名(行政字名)から。池田町のようなアイヌ語由来(蝶多から千代田へ改称したもの)の地名ではないようである。


3.早稲田(わせだ)→四号線(よんごうせん)

旧駅名の由来:東旭川に「早稲田」という地名はなく、不詳。

新駅名の由来:4号線上に位置したため。


4.坂上(さかうえ)→坂ノ上(さかのうえ)

駅名の由来:東旭川村(当時)の中心、省線東旭川駅から南へ続く下6号線沿いに位置する駅。東旭川駅の海抜が約135m、当駅が位置する交差点が海抜153m。ただし東旭川の市街地から見ての「坂ノ上」の意であるかどうかは分からない。現在の地名は東旭川町下兵村。


5.上公有地(かみこうゆうち)→上旭正(かみきょくせい)

旧駅名の由来:ウシシュベツ上公有地に位置したため。昭和12(1937)年に地内の一部が東旭川村字旭正となった。

新駅名の由来:旭正より忠別川あるいは基北川の上流側に位置するため。


6.御料道(ごりょうみち)→上七号線(かみななごうせん)

旧駅名の由来:上川離宮の造営が当地(忠別川と美瑛川の間の河岸段丘)に予定されており、上川御料地が選定された。上川離宮は札幌の反対などから頓挫、上川御料地は神楽、神居、美瑛、東川の各御料地となった。このうち神楽御料地は神楽岡を境に忠別川流域の東御料、美瑛川流域の西御料に分割され、この東御料が当駅の駅名の由来と考えられる。当駅の面する通りは忠別川に東神楽橋を架して旧御料地に至っている。

新駅名の由来:上七号線上に位置したため。東川町内では「号」は北東から南西に走る通りであるが、旧東旭川町内では北から南に走る通りに「号」が付けられている。

なお、隣の十号駅は東旭川町内で、東旭川町の上八号線と東川町の西10号とに面しているが東川町の通りである西10号から駅名を採っている。


7.遊園地(ゆうえんち)→十号(じゅうごう)

旧駅名の由来:「遊園地」は公園のことであるが、不詳。

新駅名の由来:西10号線上に位置したため。


8.西九号(にしくごう)→九号(くごう)

駅名の由来:西9号線上に位置したため。


●東旭川線

9.難波田(なんばた)→愛宕(あたご)

旧駅名の由来:伝承によれば、屯田兵の将校の名によるというが、定かでない。牛朱別川の支流に難波田川があるが、明治31年の5万分図では、「シニウシペツ」(sini-us-pet:〈そこで〉いつも休む川)となっていた地名である。

新駅名の由来:元ウシシュベツ下公有地と称した地区の一部で、昭和12(1937)年に東旭川村(当時)の行政字名となり、駅名もこれによった。明治35(1902)年に浄土宗説教所および愛宕墓地を地内に開設したのが始まり。


10.東旭川市街(ひがしあさひかわしがい)→二丁目(にちょうめ)

旧駅名の由来:東旭川村の市街地にあったため。明治25(1892)年に屯田兵が入植し、明治31年永山村から分村。東旭川村の入植地から旭川村(当時)へ通じる大通り付近が発展し市街地を形成した。大正11(1922)年に省線石北線(現在の石北本線)が開通し東旭川駅が置かれるとそちらの周辺が発展するようになった。

新駅名の由来:二丁目通りに位置したため。省線(現在の石北本線)を挟んで北は北二丁目、旭川電気軌道の走る側は南側になるため南二丁目と称する。



●三菱石炭鉱業大夕張鉄道線

1.遠幌加別(えんほろかべつ)→遠幌(えんほろ)

改称年月日:昭和17(1942)年8月1日

駅名の由来:アイヌ語の「ウェン・ホㇽカ・ペッ」(wen-horka-pet:悪い後戻りする川)から。遠幌加別川のことであるが、何が「ウェン(悪い)」なのかは分からない。「ホㇽカ」は川の流れる方角が180°変わるような流れ方をする川を指す。

昭和17年に字が一部廃止され、この時起立した南部という町内に所在し、南部遠幌町という町名になっている。これに合わせての改称か。


2.二股(ふたまた)→大夕張(おおゆうばり;初代)→南大夕張(みなみおおゆうばり)

改称年月日:大正7(1918)年6月14日、昭和4(1929)年1月22日

旧駅名の由来:不詳。夕張町(夕張市)内の地名として存在する「二股」は夕張鉄道の新二岐駅周辺であり、当駅は全く異なる場所に存在するが、大夕張地内にも「二股」という地名があり、駅名はこちらに由来する。なお夕張町字二股が起立したのは大正8(1919)年のことであり、駅名はそれより前に改称されていた。また夕張町字二股は、阿野呂川と富野川の合流地点であることを表すが、当駅は夕張川本流に沿った地域である。

余談だが右から合流する阿野呂川流域を左股、左から合流する富野川を右股と呼んでおり、阿野呂川流域には左岐神社跡というものが現在も地図で確認できる。合流地点から見た際の左右の位置関係から付いた地名であろうが、アイヌの頃も川は源流を頭、河口を尻と見て登っていくものであった。

合流部の下流側も河川名は阿野呂川で、阿野呂川は夕張川の一次支流、富野川は阿野呂川の支流、すなわち夕張川の二次支流である。

新駅名の由来:夕張川支流のシュウパロ川の半訳。シュウパロとはアイヌ語の「シ・ユーパロ」(si-yu-paro:大きい夕張川)により、ユーパロ(yu-paro)は温泉の口という意味になるが、「夕張」の語義は元来「ユー・パロ」ではなく「イ・パロ」(i-paro:その口)で、千歳方面へ出る際の入り口となっていることに由来するという説が近年では有力。これは「温泉の口」に相当する地形が当地に見られないためで、数々の実地踏査の結果から否定的に捉えられるようになってきたものである。

大夕張炭山は当初この地にて操業していたが、昭和5(1930)年に休止となり、北部大夕張(鹿島地区)に移転し、そちらが大夕張駅となって、当駅は南大夕張駅に再度改称された。


3.北部(ほくぶ)→大夕張(おおゆうばり;2代目)

改称年月日:昭和4(1929)年1月22日

旧駅名の由来:大夕張の地内で北部にあり、北部大夕張と呼ばれていた地区のため。

新駅名の由来:初代大夕張駅の地区で操業していた炭鉱が休止し、こちらに移転してきたため、当駅を大夕張、初代大夕張駅を南大夕張駅に改称した。


4.通洞(つうどう)(貨)→大夕張炭山(おおゆうばりたんざん)(貨)

改称年月日:昭和13(1938)年10月20日

※昭和28(1953)年より旅客も取り扱い。

駅名の由来:新旧いずれも大夕張炭鉱にちなんだ駅名。昭和4(1929)年6月1日開業。大夕張炭鉱が後の南大夕張からこちらに移転してきたことによるものである。


●早来鉄道

1.知決辺(ちけっぺ)→厚真(あつま)

改称年月日:不詳

旧駅名の由来:知決辺川(厚真町の中心部を南北に流れる、厚真川の支流)から。アイヌ語の「チ・ケ・ㇷ゚」(chi-ke-p:自らを削る者=削れた処=断崖)によるという(北海道地名漢字解)。

新駅名の由来:厚真町の中心部に近いことから町名を駅名としたものと思われる。厚真の名はアイヌ語の「アッ・オマ・ㇷ゚」(at-oma-p:オヒョウニレのある処)という説が有力とされるが、他にも「アッ・マ・ㇷ゚」(at-ma-p:モモンガが泳ぐ処)という説も有力で、実際のところは不明である。

厚真町には省線日高本線が海岸沿いを通っており浜厚真駅が置かれているが、国有化以前の大正14(1925)年まではそちらが厚真駅を名乗っていた。早来鉄道の厚真駅(旧知決辺駅)は大正11(1922)年の開業であるので、改称は早くとも開業後4年目以降であろうと思われる。



●留萠鉄道

1.浅野炭山(あさのたんざん)→新雨竜(しんうりゅう)

改称年月日:昭和27(1952)年10月1日

旧駅名の由来:当地の浅野炭鉱(昭和43年閉鉱)から。

新駅名の由来:雨竜は雨竜川筋を中心とする広域な地名であり、当地は雨竜川筋の幌新太刀別川流域にあたるため、広域な地名である「雨竜」を駅名に用いたものと思われる。雨竜郡雨竜町に国鉄札沼線雨竜駅があり、区別のため「新」を付けたと推測される。所在地は雨竜郡沼田町。雨竜の名はアイヌ語由来であるが諸説あって不詳である。昭和46(1971)年に廃線となったが、翌昭和47年に沼田ダムの建設が始まり、新雨竜駅周辺の廃線跡はダム湖であるホロピリ湖に沈んだ。



●三井芦別鉄道

1.下芦別(しもあしべつ)(貨)→芦別(あしべつ)

改称年月日:昭和24(1949)年1月20日

駅名の由来:国鉄接続駅。国鉄根室本線の同駅は当初芦別川の下流にあるため下芦別を名乗っていたが、現在の芦別駅に改称し、三井芦別鉄道もこれに合わせる形となった。専用鉄道から地方鉄道に変更となり旅客も取り扱うようになったタイミングでの改称である。(国鉄は昭和21年改称。)

芦別はアイヌ語の「ハㇱ・ペッ」(has-pet:灌木の川)によるという。


2.社芦別(しゃあしべつ)→高校通り(こうこうどおり)(留)

改称年月日:昭和33(1958)年1月20日復活時

旧駅名の由来:昭和17年開業、昭和21年に一度廃止となっている。国鉄が下芦別駅を芦別駅に改称したのは昭和21年であるが、芦別町(当時)の代表駅である国鉄の下芦別駅に配慮したためか、芦別駅を名乗ることはしなかった。会社線の駅では、区別のため「社」(国鉄連絡社線の意)を冠することはよくあった。

新駅名の由来:北海道芦別高校の最寄り駅で、高校が面している通りと当線との交差部近くに設けられた停留場であったため。高校自体は国鉄線を挟んで反対側にあり、高校から当駅までは若干距離があるが、芦別駅からよりは近く、高校通学生の利用は多かったという。


3.西芦別(にしあしべつ)→三井芦別(みついあしべつ)

改称年月日:昭和24(1949)年1月20日

地方鉄道に変更したタイミングでの改称。



●十勝鉄道

1.女学校前(じょがっこうまえ)→明星校前(めいせいこうまえ)

改称年月日:不詳

旧駅名の由来:帯広大谷女学校(現・帯広大谷高等学校)の最寄り駅であったため。同校は昭和52(1977)年に現在地に移転している。

新駅名の由来:昭和10(1935)年に開校した帯広市立明星尋常小学校(現・明星小学校)より。


2.太平(たいへい;初代)→上清川(かみきよかわ)

改称年月日:不詳

旧駅名の由来:地内の牧場名にちなむ。

新駅名の由来:地区名から。清川は無数の小川が流れていたことにちなんで命名されたという。清川の中心部には既に十勝鉄道十勝清川駅があり、当駅は戸蔦別川の上流側に位置するため「上」を冠した。


3.千代田(ちよだ)→八千代(やちよ)

改称年月日:不詳

駅名の由来:明治38(1905)年に広島県より山口千代太郎、翌39年に田村直次郎が入植、両名の名を取って「千代田」としたものの、同名の地が北海道内に多いので、まず十勝鉄道の駅名を「八千代」に変更、行政地名も昭和2(1927)年に川西村大字八千代となった。


4.西太平(にしたいへい)→太平(たいへい;2代目)

改称年月日:不詳

駅名の由来:太平(初代)の項を参照。



●雄別鉄道

1.鳥取(とっとり)(信)→雄鉄昭和(ゆうてつしょうわ)

改称年月日:昭和43(1968)年1月20日

旧駅名の由来:所在地名より。鳥取県士族移住地であったことから名付いた。かつては鳥取村(大正12〈1923〉年より鳥取町)という独立した自治体であったが、昭和24(1949)年に釧路市に編入した。

新駅名の由来:地区名より。厚岸共同牧場を中心に昭和3(1928)年御大典記念事業として理想郷昭和村を創設すべく開発が始められたことにちなむという(角川日本地名大辞典)。

新富士駅の接続ルート変更に際し、釧路駅方面と新富士駅方面の分岐点だった当信号場が鶴野駅にその役目を譲り、旅客駅となった。


2.平戸前(ひらとまえ)→北斗(ほくと)

改称年月日:昭和31(1956)年3月21日

旧駅名の由来:アイヌ語の「ヒラトマナイ」(崖の突き出ているところにある川の意)より(角川日本地名大辞典)。対訳から解釈すると「ピラ・ト゚・オマ・ナィ」(pira-tu-oma-nay:崖の岬がある川)あるいは「ピラ・ト゚・オマ・イ」(pira-tu-oma-i:崖の岬がある処)かと思われる。

新駅名の由来:釧路市の北部にあることから北斗七星になぞらえて命名。


3.穏禰平(おんねびら)→山花(やまはな)

改称年月日:昭和31(1956)年3月21日

旧駅名の由来:アイヌ語の「オンネ・ピラ」(onne-pira:大きい〈親の〉崖)によると思われるが定かでない。

新駅名の由来:地区名より。付近に山桜が多かったことにちなむ。


4.湯波内(ゆっぱない)→桜田(さくらだ)

改称年月日:昭和31(1956)年3月21日

旧駅名の由来:アイヌ語の「エッパ・ナィ」(eppa-nay:溢れる川)より。阿寒町(現・釧路市)の地区名で、駅も阿寒町側にあった。

新駅名の由来:地区名より。釧路市側の地名である。エゾヤマザクラが多かったことと、大正初期に水田があったことにちなむ。


5.舌辛(したから)→阿寒(あかん)

改称年月日:昭和25(1950)年5月1日

旧駅名の由来:諸説あるが、アイヌ語の「シタッ・カㇽ」(sitat-kar:ダケカンバを穫る)から。sitatは普通、「ウダイカンバ」のことを指すが、ここではダケカンバの意で用いられている。

新駅名の由来:阿寒町の町名を駅名とした。阿寒の名はアイヌ語の「アカン」(不動の意)と釧路アイヌに伝承されている(昔の大地震の際にも雄阿寒岳が動かなかったという言い伝え)というが、アカンという語や同様の用例が確認されておらず、はっきりしていない。他にも「アカㇺ」(車輪)という伝承を松浦武四郎が書き残しているが、これもはっきりしない。



●士別軌道

1.御料地(ごりょうち)→奥士別(おくしべつ)

改称年月日:不詳

旧駅名の由来:士別軌道は元々皇室御料林の木材運搬のために敷設された鉄道であり、その終点である当駅は皇室御料林であった。これに由来する駅名。

新駅名の由来:現在では士別市朝日町中央だが、昭和31(1956)年まで朝日村内であった。明治35(1902)年に士別から奥士別までの道路開削が着工され、当時より奥士別と呼ばれていたことが分かる。士別は元々屯田兵により開拓された地であり、官設鉄道天塩線士別駅(現在の宗谷本線士別駅)が明治33(1900)年に開業したことを契機に士別駅前を公設市街として区画設定したため、士別駅を起点とする先述の道路の終端は奥地となり「奥士別」と呼ばれるようになったものであろう。



※函館市、旭川市内の軌道線については割愛します。

※殖民軌道(簡易軌道)は準拠法上、一般の鉄道とは異なる扱いであったこと、またそれに起因して今なお実態が把握しきれていないことから割愛します。






以上、5回に亘った本シリーズはここに終了とさせて頂きます。

最後、私鉄編は資料に乏しく消化不良な感のある記事になってしまいました。

私個人で様々な資料に当たって書いてみましたが、どうしても「不詳」というところもあり、調査が不行き届きな点、誠にお恥ずかしい限りですが、何卒ご容赦頂ければ幸甚です。

また誤りなどもあるかとは存じますが、本記事がお読み下さった皆さまの研究の一助になれば望外の喜びです。


長らくお付き合いくださり、誠にありがとうございました。