大正11(1922)年4月に、鉄道敷設法が公布されました。
明治に同法が施行され、それに基づいて鉄道網が拡充して来ましたが、これを改正する形で公布されたもので、「鉄道敷設法(新法)」や「改正鉄道敷設法」などと俗に呼ばれているものです。
新法の条文では、別表として建設予定の路線が一覧で掲載され、第1項から第149項までの149項からなる建設予定の線区が本州、四国、九州、北海道の順で掲載されました。
後にこれに加えて52線区が、第●項ノ◯という形で枝番が付されて追加され、また第150項も追加され、最終的に第51項ノ2の品川〜木更津の1線区が削除されて全150項、200線区が予定線として名を連ねました。
この中には実際に全通したものもありますが、部分開業に留まったもの、着工までしたものの未成線となったもの、結局着工すらされなかったものなど、様々です。
今回は北海道に絞って、この「改正鉄道敷設法別表」の線区と末路を見てみたいと思います。
1.北海道の予定線
北海道については「改正鉄道敷設法別表」の第128項から第149項までと、改正鉄道敷設法公布後に追加された第150項の23項30線区が盛り込まれました。
第150項以外では、後から追加となった線区は第130項の2、第137項の2、第142項の2〜4、第144項の2、第147項の2の枝番が付されています。
2.予定線一覧
では、具体的にどういった線区が名を連ねていたのか、条文を抜粋して引用します。
原文は漢字と片仮名で表記されていますが、漢字は旧字体は新字体に、片仮名は固有名詞についてはそのまま、助詞などは読みやすいように平仮名に、漢数字はアラビア数字に置き換えていますので、ご了承下さい。
仮名遣いは原文のままとします。
本表の作成にあたっては、下記の書籍「鉄道未成線を歩く 国鉄編」の巻末に改正鉄道敷設法別表に明記された予定線の一覧が載っており、そちらを参考にさせて頂きました。
(地名など現在と異なる表記のものは適宜( )書きにて註記しています。)
128.渡島国函館より戸井に至る鉄道
129.渡島国上磯より木古内を経て江差に至る鉄道及木古内より分岐して大島に至る鉄道
130.胆振国八雲より後志国利別に至る鉄道
130の2.後志国黒松内より岩内附近に至る鉄道
131.胆振国京極より喜茂別、壮瞥を経て紋鼈(現在の紋別)に至る鉄道
132.胆振国京極より留寿都を経て壮瞥に至る鉄道
133.胆振国苫小牧より鵡川、日高国浦川(浦河)、十勝国広尾を経て帯広に至る鉄道
134.胆振国鵡川より石狩国金山に至る鉄道及「ペンケオロオツプナイ」附近より分岐して石狩国登川に至る鉄道
135.石狩国札幌より石狩を経て天塩国増毛に至る鉄道
136.石狩国札幌より当別を経て沼田に至る鉄道
137.石狩国白石より胆振国広島を経て追分に至る鉄道及広島より分岐して苫小牧に至る鉄道
137の2.石狩国深川附近より芦別に至る鉄道
138.石狩国比布より下愛別附近に至る鉄道
139.石狩国「ルベシベ」(留辺志部、現在の越路)より北見国滝ノ上に至る鉄道
140.日高国高江(現在の新冠)附近より十勝国帯広に至る鉄道
141.十勝国上士幌より石狩国「ルベシベ」(留辺志部、現在の越路)に至る鉄道
142.十勝国芽室より「トムラウシ」附近に至る鉄道
142の2.十勝国御影附近より日高国右左府(現在の日高町)を経て胆振国辺富内(現在の富内)に至る鉄道
142の3.新得より上士幌を経て足寄に至る鉄道
142の4.落合より串内付近に至る鉄道
143.天塩国名寄より石狩国雨龍を経て天塩国羽幌に至る鉄道
144.天塩国羽幌より天塩を経て下沙流附近に至る鉄道
144の2.天塩国美深より北見国枝幸に至る鉄道
145.北見国興部より幌別、枝幸を経て浜頓別に至る鉄道及幌別より分岐して小頓別に至る鉄道
146.北見国中湧別より常呂を経て網走に至る鉄道
147.北見国留辺蕊(現在の留辺蘂)より伊頓武華(現在のイトムカ)に至る鉄道
147の2.釧路国白糠より十勝国足寄に至る鉄道
148.釧路国釧路より北見国相生に至る鉄道
149.根室国厚床附近より標津を経て北見国斜里に至る鉄道
150.根室国中標津より釧路国標茶に至る鉄道
以上が「別表」に記載の予定線でした。
3.計画された線区のその後
上記の一覧を見て、見慣れない線区もあれば、見覚えのある線区もあると思います。
具体的にどうなったのか、少々長くなってしまいますが、一つずつ見ていきましょう。
128.渡島国函館より戸井に至る鉄道
これは「戸井線」として建設まで開始された線区です。
戦時中に急ピッチで進められましたがその後建設意義を喪失し、未成線となり、現在も一部に遺構が見られることで有名です。
津軽海峡を挟んだ対岸には同じく「別表」の第1項に名を連ねる「青森県田名部より大畑を経て大間に至る鉄道」、「大間線」として建設が進められた線区の未成線の遺構が今も保存されています。
129.渡島国上磯より木古内を経て江差に至る鉄道及木古内より分岐して大島に至る鉄道
制定当初は終点が「大島」ではなく「福島」でした。
昭和17(1942)年に「大島」に変更されましたが、変更前の「福島」は松前線の渡島福島駅として開業済みで、大島への線区は未開業に終わったものの、それ以外は江差線および松前線として開業しました。
起点は上磯駅ではなく函館本線の五稜郭駅となり、五稜郭〜木古内駅間は現在でも鉄路が残っています。
結局、松前から大島にかけてはマンガン鉱を求めて戦時中に延伸工事をしたものの完工を見ずに敗戦となり、現在も未成線の遺構として存在します。
松前〜大島〜江差の着工された区間は後にバスが結ぶようになり、マンガン鉱という目的を失ってからは鉄道を開通させても採算性に疑問符が付く形になったのも仕方ないことかも知れません。
130.胆振国八雲より後志国利別に至る鉄道
「利別」というのは今金町の地名で瀬棚線今金駅と函館本線八雲駅を結ぶ計画だった線区となります。
一切開業しないまま終わりましたが、瀬棚線は起点側より終点側の今金〜瀬棚間の輸送量の方が多かった路線なので、この線区がもし開通していたら少し違った未来があったかも知れません。
130の2.後志国黒松内より岩内附近に至る鉄道
岩内線として無事全線開業に漕ぎ着けた路線ですが、特定地方交通線として廃止され、現存しません。
131.胆振国京極より喜茂別、壮瞥を経て紋鼈(現在の紋別)に至る鉄道
「紋別」は伊達市の地名で、室蘭本線伊達紋別駅に相当します。
この線区は胆振線のうち京極駅から伊達紋別駅までの区間を指し、私鉄である胆振縦貫鉄道が開通させ、戦時中に国有化された路線です。
全線開業していますが、特定地方交通線に指定され現存しません。
132.胆振国京極より留寿都を経て壮瞥に至る鉄道
胆振線の別経路的な線区になります。
洞爺湖畔を回って、現在はリゾート地として開発された留寿都を経由します。
世が世なら第131項より先に建設されたかも知れませんし、もし開通していたら、可能性は低いものの意外に現在も生き残っていたかも知れません。
133.胆振国苫小牧より鵡川、日高国浦川(浦河)、十勝国広尾を経て帯広に至る鉄道
苫小牧側は日高本線、帯広側は広尾線として開通していますが、両者を繋ぐ区間は分厚い日高山脈に阻まれて(そのためにそもそも需要が少なかったとも思われます)、未開通に終わっています。
日高本線も相次ぐ自然災害に勝てず、苫小牧駅〜鵡川駅が痕跡的に残るのみです。
134.胆振国鵡川より石狩国金山に至る鉄道及「ペンケオロオツプナイ」附近より分岐して石狩国登川に至る鉄道
「ペンケオロップナイ」というのがかなりローカルな小地名のようですが、占冠村の地名のようです。
形はだいぶ変わりましたが、石勝線の原形のような線区です。
135.石狩国札幌より石狩を経て天塩国増毛に至る鉄道
札幌に隣接しつつも鉄道のない石狩市。
その市域となる旧石狩村を経由し、留萠本線の増毛駅まで結ばれる計画があったのです。
実現していれば留萠本線の輸送量に響いたでしょうし、実際にはバスがこの間を結んでいて現実に留萌本線を間接的に廃止に追いやったわけで、開通していたら石狩地方の交通勢力図は変わっていたかも知れません。
136.石狩国札幌より当別を経て沼田に至る鉄道
札沼線として全線開通しています。
全通は昭和10(1935)年とやや遅く、戦中には早くも不要不急路線として休止、戦後しばらく経った昭和31(1956)年にようやく全線再開するも、昭和47(1972)年にいわゆる赤字83線の一つに指定された新十津川駅〜石狩沼田駅間が廃止に、と、波乱の生涯でした。
令和2(2020)年には北海道医療大学駅〜新十津川駅間も廃止になった一方、残された区間は道内屈指の輸送密度を誇る大都市圏路線へと発展しています。
137.石狩国白石より胆振国広島を経て追分に至る鉄道及広島より分岐して苫小牧に至る鉄道
現在の千歳線および石勝線の南千歳駅〜追分駅間に相当します。
千歳線も元は私鉄の手により開業し、国有化されたもので、苫小牧港への貨物輸送が主眼におかれていましたが、現在は室蘭本線と函館本線を結ぶ重要な幹線の一部です。
広島は市制施行までは札幌郡広島町といっていましたが、市制施行時に、広島県の広島市と重複しないように、北広島市と命名されています。
市名は原則として重複させることは許されておらず(法令などによる明文化はされていないそうですが)、重複市名は当該都市同志で合意があった場合に限られるようです。
北海道伊達市と福島県伊達市はその数少ない例の一つです。
137の2.石狩国深川附近より芦別に至る鉄道
未開業に終わっています。
炭鉱が隆盛を極めた頃は、芦別の炭田から深川、留萠本線を経て留萌港から運び出すという目論見があったのでしょうか。
ただ着工自体はされており、新神居古潭駅というものも計画の中にあり、深川側では函館本線納内駅から分岐する計画として具現化されていました。
138.石狩国比布より下愛別附近に至る鉄道
こちらも未開業に終わっています。
現在の宗谷本線と石北本線を短絡するような路線になっています。
今の尺度で考えても無意味ではありますが、どうしてこのような経路で計画されたのか、不思議な線区です。
開通していても、日田彦山線に対しての添田線のように、旭川という大消費地を避けて通ったがために不採算になったという未来になっていたのでは?と思うのは素人考えが過ぎるでしょうか。
139.石狩国「ルベシベ」(留辺志部、現在の越路)より北見国滝ノ上に至る鉄道
ここでの「留辺志部」は上川郡上川町の地名で、紋別市への短絡路として計画されたようです。
現在はバスが札幌からこの区間を経由して紋別市までを結んでいますので、鉄道が開通しても太刀打ちできなかったでしょう。
140.日高国高江(現在の新冠)附近より十勝国帯広に至る鉄道
第133項、第144項と同様、日高と十勝を結ぶ線区です。
後述の第142項の2も含めて、日高から十勝を結ぶルートはいくつも構想があったことが分かります。
141.十勝国上士幌より石狩国「ルベシベ」(留辺志部、現在の越路)に至る鉄道
北を目指して志半ばで倒れた士幌線の延長区間となる予定だった線区です。
上士幌へは新得からも北海道拓殖鉄道が延びており、十勝地方はちょっとした鉄道稠密地帯でした。
142.十勝国芽室より「トムラウシ」附近に至る鉄道
「トムラウシ」は新得町の地名で、大雪山系の山名でもあります。
観光需要を意識したルートのようですが、北海道拓殖鉄道とルート的には競合する形になっています。
142の2.十勝国御影附近より日高国右左府(現在の日高町)を経て胆振国辺富内(現在の富内)に至る鉄道
右左府(うしゃっぷ)は沙流郡日高町が町制施行前に名乗っていた村名です。
辺富内までは私鉄の手により開通し、これを国有化した(この時に辺富内駅を富内駅に改称)後、戦後になって順次延伸し、富内線として日高町までは昭和39(1964)年に開通しています。
その先は日高山脈に阻まれ、人流も少ない区間だったことからか、延伸されることはありませんでした。
142の3.新得より上士幌を経て足寄に至る鉄道
新得から上士幌までは北海道拓殖鉄道が路線を開通させています。
モータリゼーションには勝てず、その先の延伸もされないまま、すでに開業した区間も昭和43(1968)年に廃止となっています。
142の4.落合より串内付近に至る鉄道
根室本線の狩勝越えの区間の新線として開通している線区です。
143.天塩国名寄より石狩国雨龍を経て天塩国羽幌に至る鉄道
「名雨線」や「名羽線」として計画された線区で、日本海沿岸の羽幌から当線を経て名寄本線とを結び、オホーツク沿岸の紋別方面までを短絡する遠大な計画でした。
名寄と羽幌を結ぶことから「名羽線」と呼ばれています。
経由地は雨龍といっても札沼線の雨竜駅のことを指すわけではなく、札沼線雨竜駅のある雨竜町を含む広域地名、雨竜郡のことのようで、具体的には深名線朱鞠内駅(雨竜郡幌加内町)で接続する計画として建設が進みました。
つまり名寄駅から朱鞠内駅までは深名線として先に開業しており、朱鞠内駅で分かれて羽幌方面に向かう区間が未成線となります。
深名線の名寄側は戦後の開業で、深名線が全通するまでのこの区間を「名雨線」と呼んでいました。
読みは同じですが少々紛らわしいところですね。
未開通区間は路盤が場所によってかなり出来ていたようですが、やはりモータリゼーションに勝てず、未成のままで終わってしまいました。
未開通区間のうち、羽幌町の築別駅から曙駅までを結んだ羽幌炭礦鉄道が、曙駅の先にある三毛別(熊害事件で有名な所と同名ですが異なる土地です)の炭山を利用するため、曙〜三毛別間の免許を国鉄から借り受けし、貨物専業で三毛別駅を開業させており、この曙駅〜三毛別駅間は名羽線の中で先行開業した区間と言えます。
144.天塩国羽幌より天塩を経て下沙流附近に至る鉄道
羽幌線のうち、羽幌側からは羽幌線の延伸区間として、幌延側からは「天塩線」として延伸されていった線区です。
下沙流は下沼駅へと変更され、宗谷本線へと編入されています。
羽幌線は昭和30年代に相次いで残りの区間が開通し、やっと全通したものの、昭和62(1987)年、国鉄時台最末期に特定地方交通線として全線廃止となってしまいました。
144の2.天塩国美深より北見国枝幸に至る鉄道
日本一の赤字路線として美深町長自らPRしたことなどで話題にもなり、未成線としても有名な「美幸線」です。
美深駅から途中の仁宇布駅までは開業、残りの区間も路盤の工事までは大方完成していたところに国鉄再建法が成立、未成線となった路線です。
歌登町営軌道が用地を譲るなど、この路線の計画、着工から凍結、廃止までの流れには背景に様々なドラマがあります。
弊ブログでも以前取り上げたことがありますので、よろしければご覧下さい。
(下記URL)
https://ameblo.jp/pon-chape/entry-12807013318.html
145.北見国興部より幌別、枝幸を経て浜頓別に至る鉄道及幌別より分岐して小頓別に至る鉄道
「興浜線」と命名された線区を規定した条文です。
興浜南線興部駅〜雄武駅、興浜北線北見枝幸駅〜浜頓別駅が開業しましたが、残りの区間は開業させても収支は絶望的ということで、国鉄再建法の元で工事が凍結され、出来上がっていた路盤なども放棄されてしまいました。
すでに開業した区間も特定地方交通線として廃止されています。
146.北見国中湧別より常呂を経て網走に至る鉄道
湧網線として全線開業しています。
特定地方交通線に指定され現存しません。
147.北見国留辺蕊(現在の留辺蘂)より伊頓武華(現在のイトムカ)に至る鉄道
未着工のまま終わっています。
温根沼(おんねとう)、イトムカまで留辺蘂町内で完結する線区で、石北本線の支線的な位置づけだったようです。
147の2.釧路国白糠より十勝国足寄に至る鉄道
白糠線です。
開業区間は途中の北進駅までで、昭和39(1964)年に開業したものの昭和58(1983)年に特定地方交通線のトップを切って廃止され、最後の延伸区間、上茶路駅〜北進駅間は19年という短命でした。
白糠線は開業区間33.5kmというそれなりに距離のある路線全体が白糠町という一つの町内で完結する珍しさでも知られていました。
148.釧路国釧路より北見国相生に至る鉄道
美幌駅〜北見相生駅間の相生線の延伸区間に相当する線区です。
釧路側は雄別鉄道が雄別炭山(大祥内)まで開業させていました。
また同社が北見相生までの路線の免許を保有していましたが、結局延伸されることなく、相生線より先に雄別鉄道の方が廃線となってしまいました。
149.根室国厚床附近より標津を経て北見国斜里に至る鉄道
標津線および根北線に相当します。
標津線は本線的な位置づけの標茶駅〜中標津駅〜根室標津駅と、支線的な中標津駅〜厚床駅とに二分され、片仮名の「イ」の字のような路線となっていますが、準拠する条文が異なることが背景にあります。
斜里側からは越川駅までの区間が根北線として開業しましたが、赤字83線に指定され、開業から13年後の昭和45(1970)年12月に廃止されてしまいました。
一方の標津線は名寄本線、天北線、池北線とともにいわゆる「長大4路線」の一つとして冬期の代替交通手段が確保できるまで廃止は保留とされ、民営化後の平成元(1989)年になって廃線になりました。
150.根室国中標津より釧路国標茶に至る鉄道
第149項とともに標津線を構成する線区です。
開業後はこちらが本線格となり、標津線は厚床駅で接続する根室線ではなく、標茶で接続する釧網線の支線として計上されました。
以上、大雑把に羅列する形になってしまいましたが、ざっと見てみました。
こうした背景を知ることでなぜこの路線がこの形で通っていたのか、など、分かってくる部分もあるかと思います。
未成線として終わるのも悲しいですが、やっとのことで悲願の開通に漕ぎ着けても、その先の未来は必ずしも明るいとは限らない悲哀を感じます。
改正鉄道敷設法に盛り込まれた路線は、最重要幹線がひとしきり整備された後に計画されたもののため、どうしても需要や重要度が高くないものが多く含まれていたり、制定された時代背景が後の世情に合わなくなってしまった結果、必要性が薄れていったりしたものが多々あるようです。
それでも地元の人々に鉄道が通って欲しいという願いがあるのはどこも同じで、広域の交通と地元自治体との微妙な駆け引きの上に成り立つ悲喜こもごもなのかも知れません。
公共性の高い鉄道という性質上、仕方のない部分ではありますが、それに振り回される地元の人達を忘れてはいけないとも考えさせられます。
以上はあくまで私の感想です。
今回も私自身の備忘録的な記事ではありますが、何かのご参考になれば幸いです。
ここまでお付き合い頂き、誠にありがとうございました。