今回は旭川四条(あさひかわよじょう)仮乗降場を取り上げます。

今では高架駅、複線電化された近代的な姿をした、旭川四条駅。

(ただし定期旅客列車は電車ではなくディーゼルカーです。電化されているのは車両基地の入出庫の関係で、境線の米子駅〜後藤駅間が電化されているのと同じようなものです。)

開設までの経緯は、少し複雑というか、特異なケースです。


仮乗降場来歴

昭和32(1957)年2月1日?

 宗谷本線、旭川駅〜新旭川駅間に、旭川四条(あさひかわよじょう)仮乗降場として開設

 両隣の旭川駅、新旭川駅は当時「あさひがわ」と読ませていましたが、この仮乗降場は当初より「あさひかわ」でした。

 (旭川駅が「あさひがわ」という読みになっていた理由は不詳です。自治体名は元々「あさひかわ」でした)

昭和48(1973)年9月29日

 高架化、複線化が完了し、正駅化、旭川四条駅となる


記録や当時の記憶を持つ方々の証言から、この仮乗降場の開設は昭和32(1957)年2月とされています。

旭川電気軌道のターミナルが旭川四条駅であり、国鉄側の接続駅として仮乗降場が開設された形です。

しかし、「時刻表から消えた北海道の私鉄」(フォト・パブリッシング刊)の「旭川電気軌道」の項に掲載されている昭和28(1953)年発行の建設省発行の5万分の1地形図には国鉄側にもはっきり駅があるように描かれています。

これは果たして誤記なのか、あるいは…。


ちなみに、上記の本は、本文の誤記は少ないものの、キャプションや付属資料の誤記・誤字・写真の取り違えなどのミスプリントがかなり目立つので、この本だけを基に判断はできません…。

資料的価値は高く、情報量も多い、とても良い書籍ではあるので、お薦めです。


ただ、昭和24(1949)年の「運転時刻表」(北海道鉄道総局発行)には旭川四条の記載がありませんので、この時点ではまだ仮乗降場が開設していないのは間違いなく、昭和33年には確実に存在していたそうですので、仮に昭和28年の地形図が正しかったとしても、さらに掲載の地形図のキャプションが正しく、本当に昭和28年の地形図だったとしても、開設時期はその前後数年に自ずと絞られます。


文献によっては、旭川四条仮乗降場の開設時期は「不詳」としているものも見かけたことがあります

国土地理院提供の航空写真は、昭和23(1948)年に米軍が撮影したものが見られますが、解像度の関係で判別できません。

また昭和30(1955)年前後に撮影された写真がなく、次に古い写真が昭和37(1962)年のものなので、昭和32年の開設したとされる時期の写真を確認することもできません。


なお、旭川電気軌道が旭川四条駅をターミナルとしていたのは、同線が開業した当時、旭川市内は路面電車である旭川市街軌道が路線を有しており、これに接続する形で旭川電気軌道が敷設されたためです。

貨物輸送だけは国鉄旭川駅に隣接する貨物ヤードまで運ぶ必要があり、旭川四条駅からは旭川電気軌道の貨物専用線が宗谷本線に沿って旭川駅方面へ延びていました。

旭川は軍都として栄えた街でもあり、敗戦後は市内軌道の利用者が激減し、敢えなく廃線となってしまい、接続先を失った旭川電気軌道との新たな結節点として、国鉄宗谷本線に旭川四条仮乗降場が開設されたという経緯があります。

しかしモータリゼーションの波とともに、一部併用軌道であった旭川電気軌道は次第に邪魔者とする向きがあり、昭和48年に国鉄宗谷本線の高架化が決まったことが決定打となり、旭川電気軌道は同年の1月1日付けで廃止となります。

これにより、上川郡東川町は現在に至るまで鉄道路線のない自治体となってしまいます。

旭川電気軌道には旭川追分駅で東川町に向かう東川線と旭山公園に向かう東旭川線とが分岐していました。

上川郡東旭川町には石北本線の東旭川駅もありましたが、町役場などの中心部は旭川電気軌道の役場前停留所が最寄りでした。

ただし両者の距離は1キロ強であまり離れてはいません。

東旭川町は昭和38(1963)年に旭川市に合併しますが、旭川電気軌道は最後まで役場前停留所という名称を残していました。

東旭川町は明治期に永山村から分村して出来た、米飯(ぺーぱん)川流域の町です。

(pe-pan、peは水、panは飲む、または甘いという意味だそうです)

旭山公園駅が東旭川線の終点でしたが、旭山公園へは石北本線の北日ノ出駅(当時は仮乗降場)も直線距離でいえば比較的近かったです。


ともあれ、旭川電気軌道の「旭川四条駅」と、国鉄の「旭川四条駅」は、同時に存在していた時期はないのがポイントです。

このため旭川電気軌道は国鉄の連絡会社線という扱いにはなりませんでした。


仮乗降場名の由来

旭川の市街地、四条通りに位置していたことによります。

「しじょう」や「よんじょう」ではなく、「よじょう」と読むのは慣れていない人にはちょっと難しいかも知れません。


旭川の名前は元のアイヌ語地名、「chuk-pet」(チュク・ペッ、秋の川)か「chiw-pet」(チュウ・ペッ、波立つ川)が次第に転訛し「chup-pet」(チュッペッ←チュプ・ペッ、日の川)や「chupki-pet」(チュプキ・ペッ、東の川)と混同され、東、つまり日が昇る方角ということで意訳されて「旭川」となったようです。

現在も「忠別(ちゅうべつ)川」があり昔日のアイヌ語地名を今に伝えています。

東川町も同じ由来です。

余談ですが、石北本線の特急「オホーツク」に乗車すると、停車駅が「砂川」「滝川」「深川」「旭川」「上川」と、「川」が付く駅名が連続する区間があります。

日本語では「かわ」「がわ」が混在しますが、現在の特急の車内放送では中国語も流れますので、中国語で停車駅案内を聞くとより一層印象に残ります。


ダイヤ

仮乗降場時代も、正駅化後も、通過する普通列車が一部に存在しました。

とはいえ、宗谷本線と石北本線の両方の列車が通るので、列車の本数自体が多く、仮乗降場としては段違いに停車本数が多かったです。

1962年(昭和37年)5月号の交通公社版「北海道各線時刻表」では、宗谷本線の普通列車は気動車での運転に切り替わっており、僅かに客車列車が残っている状況、一方石北本線は気動車は進出しているもののまだ客車列車が約半数を占めているといった時代でした。

石北本線には手宮発網走行きというロングランの客車普通列車も見られました(この年の5月には手宮線(南小樽駅〜手宮駅)は旅客営業を廃止することになります)。

宗谷本線、石北本線とも、気動車列車は全列車停車、客車列車は通過というダイヤになっています。

現在は普通列車自体の本数が激減していますが、全列車停車にはなっています。

さすがに特急や快速など優等列車は停まりません。


蛇足ながら、石北本線の起点駅である新旭川駅ですが、現在は無人駅となり寂しい限りですが、上記の時刻表の頃は一部の急行列車も停車していました。

本線同士の分岐駅ですので、往時は活況を呈したことでしょう。

(宗谷本線が巨大な盲腸線と化した現在、新旭川駅は日本最北端の分岐駅なのだそうです。言われてみれば確かに…。なんとも寂しいです。)



今回は脱線話が主体で、仮乗降場そのものはさらりとご紹介するに留まってしまいましたが、設置の経緯がかなり珍しい仮乗降場のお話でした。

ちょっとした謎も残しつつ、筆を置きたいと思います。


今回もここまでお付き合い頂き、ありがとうございました。