今回は、名前やその由来が特徴的な仮乗降場として、湧網線にあった志撫子(しぶし)仮乗降場を取り上げたいと思います。


湧網線もまた仮乗降場が非常に多くあった路線です。

同線の仮乗降場は昭和40年代に一部が一斉に廃止になった一方、湧網線の路線廃止まで存続したものも多数ありました。


湧網線と聞いても何処を走っていたか、仮乗降場の名前を出しても線内の何処のことか、分かりにくいかと思いますので、今回は、雑ですが図にしてみました。

青字は仮乗降場です。
正駅として開業したもの、仮乗降場から途中で駅に昇格したものは黒字で示しています。
中湧別で名寄本線(本線:遠軽方面、紋別・興部・名寄方面、および湧別支線)、網走で石北本線(美幌・北見・遠軽・上川・新旭川方面)および釧網本線(斜里・弟子屈・標茶・東釧路方面)と接続します。
網走駅は石北本線、釧網本線、湧網線のどの路線も終点としている駅で、網走駅からはどの方向へ出る列車も上り列車となります。
図ではおおよそ上が西、下が東の方角になります。
土佐、常呂港、中能取の各仮乗降場は昭和47(1972)年2月8日に廃止、それ以外の仮乗降場は昭和62(1987)年3月20日の廃線まで存続しました。


仮乗降場来歴

昭和30(1955)年12月25日

 志撫子仮乗降場として開業

昭和62(1987)年3月20日

 湧網線の廃線により廃止


仮乗降場名の由来

「北海道の駅 878ものがたり」によりますと、「シュプン・ウシ」(ウグイの多くいる川)から出たもので、志撫子川のことを指す、とのことです。


シュプン、「supun」は魚のウグイ(石斑魚、鯏、鰔)のことです。

ウグイは関東地方などでは「ハヤ」とも呼ばれる淡水魚で、古くから食用にもなってきた魚です。

アイヌ語では「s」の音と「sh」の音を区別しないので、「supun」は「スプン」もしくは「シュプン」という読み方になります。

ウシ、「us-i」は名詞に付いて、「〜が多くいる、群在している処」となります。

「us」が「多くいる」という動詞、「i」が動詞を名詞化する接尾辞です。

ウグイは川魚なので、それが多くいる「処」といえば「川」と訳されるわけですね。


ちなみに全く同じ読み方で、鹿児島県志布志市に「志布志」という駅がありますね。

現在は日南線の終点というだけですが、かつては大隅線、志布志線との接続駅で、3路線が乗り入れるターミナルでした。

こちらの「志布志」は、無論アイヌ語とは関係なく、地名学的には「濁った湿地」を表す言葉に由来するようです。


ダイヤ

昭和59(1984)年2月改正のダイヤでは、湧網線には5往復の普通列車が設定されていた他、佐呂間発中湧別経由名寄本線(支線)直通の湧別行き1本がありました。

これらの仮乗降場停車パターンはまちまちで、全ての仮乗降場に停車するという列車は存在しませんでした。

当時最も停車本数が少なかった大曲仮乗降場は一日1往復、最も停車本数が多かった浜床丹は5.5往復全列車が停車、次に多かった興生沢も上記佐呂間〜湧別の区間列車の運転区間外であるため上りが1本少なくはなりますが、5往復全列車が停車していました。

他にも上りの方が停車本数が多いもの、下りの方が多いものなどがあり、とても柔軟なダイヤが組まれていたものと思われます。


このような中で、志撫子仮乗降場についてはかなり停車本数に恵まれており、朝の下り一番列車(中湧別発網走行き)が通過する以外は全て停車で、上りについては佐呂間発の区間列車も合わせて6本全てが停車していました。

下りは5本中4本が停車なので、下り4本・上り6本が停車ということになります。

このように本数の比較的多い志撫子仮乗降場でしたが、唯一通過する下り初列車は東富丘と大曲に停車する唯一の下り列車でもあるので、大曲や東富丘から志撫子までの乗車はできても、志撫子から東富丘や大曲までの乗車というのは不可能でした。

このような仮乗降場の組み合わせは多く、たとえば一日4往復が停車する二見中央仮乗降場からは堺橋に行くことができず、堺橋から二見中央に行けるチャンスも一日一回のみとなっていました。

(堺橋には下り2本、上り1本のみ停車)

また若里仮乗降場は志撫子仮乗降場と同じ停車パターンでしたが、それ以外に同じ停車パターンだった仮乗降場はありません。

なお、五鹿山、福島と東富丘、大曲とは停車列車が完全に分かれており、五鹿山や福島と、東富丘や大曲との間は列車で行き来できないようになっていました。

実際にそのような需要がなかったためなのでしょうが、当時の仮乗降場を取り巻く環境の厳しさを垣間見ることができます。


また、興味深いのは、昭和47(1972)年に廃止された土佐、常呂港、中能取の3仮乗降場がまだ存在した時代、湧網線全体の本数も7往復(プラス佐呂間〜湧別間の上り区間列車)あったのですが(昭和38年)、五鹿山、福島、堺橋、東富丘、大曲といった晩年には殆どの列車が通過していた仮乗降場にもそこそこの本数が停車していた一方、志撫子や若里も1.5往復の通過列車があったり(とはいえ、仮乗降場の中では浜床丹に次いで停車本数は多かったです)、晩年は全列車停車だった浜床丹だけを通過する列車が上り1本設定されていたり(それでも上りはこの1本以外は全て停車)、興生沢は7往復中4.5往復しか停車しなかったりと、仮乗降場間の力関係も時代によって変化している点です。

全列車停車の仮乗降場というのはなく、やはり浜床丹仮乗降場が7.5往復中6.5往復停車と最多でした。

下りの最終列車においては、殆どの仮乗降場を通過する中で、福島と堺橋だけに停車、上りの最終列車も仮乗降場としては大曲、土佐、東富丘、浜床丹だけに停車という、晩年の実態から考えると摩訶不思議にも見えるダイヤになっていました。


昭和47年廃止組の仮乗降場は停車パターンとしては東富丘、二見中央と同じでした(下り7本中4本、上り7本中5本、それぞれ同じ列車が停車)が、土佐仮乗降場だけはこれに加えて上り最終列車が停車したという形です。

つまり土佐仮乗降場は上り列車については1本を除いて全て停車していたにも関わらず、二見中央や東富丘が存続した一方で常呂港、中能取と共に廃止されてしまったのです。

存続組についても、二見中央仮乗降場は晩年にも5往復中4往復が停車していた一方で東富丘は下り1本、上り2本のみの停車になってしまったので、明暗が分かれています。


ちなみにこの昭和38(1963)年の時刻表の当時、仮乗降場も含め全てに停車していた列車が下り2本、上り3本ありました。

これに加えて、下りでは昼過ぎに堺橋以外の全てに停車する1本、上りでは午前中に先述した浜床丹以外の全てに停車する1本が存在しました。

なお湧網線は当時、既に旅客列車は全て気動車による運行になっていたことを付記しておきます。

ちょうどレールバスは全廃された頃ですので、まだ新車だったキハ22や、それに追いやられていったキハ12などが使われていたのでしょうか?




令和5年現在の地図を見ると、志撫子の集落は志撫子川がサロマ湖に注ぐ河口付近にまとまって人家があるものの、決して大きな集落とは言えない状況です。

とはいえ、本数が少なかった仮乗降場のあった集落はここよりもっと寂しいところが多く、志撫子は賑やかな方だったのかも知れません。

サロマ湖に注ぐ川はいくつもありますが、志撫子川は比較的長い川で、上流では丹野沢川、中村沢川などの支流が合流しています。

この志撫子川に沿って、上流の方まで人家が点在しており、まだまだ人々の生活の息吹を感じられます。

湧網線は夏期にはサロマ湖観光で賑わったそうですが、日常の利用が少なく、廃止対象路線になってしまいました。

志撫子の街もサロマ湖に面しており、ふらっと途中下車してみたくなる仮乗降場だったかも知れません。

オホーツクに面したこの沿線の暮らしは決して楽ではないと思いますが、厳しい気候に耐えて現在もたくさんの方々が暮らしておられ、現在に至るまでアイヌの方々が残した地名とともに土地の記憶を継承して来られ、人の歴史を刻み続けて来られていることには心から敬意を表したいと思います。


それにしても、「志撫子」という字を当てたのはどうしてなのでしょうね。

意図した訳ではないのでしょうが、「撫子(なでしこ)」を「志(こころざ)す」、とも読めるこの漢字、「しぶし」という音感と共に、個人的にはとても印象に残る地名だと感じます。