仮乗降場というのは、国鉄が民営化されてJRとなった際に、正式な駅になるか臨時駅になるかなど何らかの形で全て仮乗降場ではなくなりました。

すなわち仮乗降場が存在したのは国鉄時代までです。

そのような仮乗降場ですが、史上最後に新設されたのがこの大学前(だいがくまえ)仮乗降場です。

とはいえ、わずか4か月で正駅に昇格していますが…。

もしかすると、始めから正駅化の予定で、11月に先行して仮乗降場として開設されたのかも知れません。

余談ですが、国鉄最後のダイヤ改正である昭和61(1986)年11月1日に、新駅が臨時駅扱いで多数開業しており、昭和62(1987)年4月1日のJR化と同時に正式な駅に移行した例が全国的に存在します。


国鉄再建法が成立してからは合理化へと舵を切っていったため、国鉄末期の仮乗降場の新設はかなり少なく、昭和50年代は日高本線東町仮乗降場(昭和52年)、幌内線栄町仮乗降場(昭和55年)とこの大学前仮乗降場(昭和56年)くらいしか開設されていません。

一方、神路、上越、鹿越など、昭和50年代には正駅から降格して新たに仮乗降場となったものはいくつかあり、また不採算の仮乗降場は昭和40年代にひとしきり廃止されたため、昭和50年代に廃止となった仮乗降場は深名線の大曲仮乗降場などわずかで、仮乗降場の増減の少ない「嵐の前の静けさ」のような年代だったように思います。

(胆振線の尾路園仮乗降場も昭和50年代の廃止という説がありますが定かではありません。状況的には実質的な廃止が昭和50年代の可能性は高いと個人的には思います。)


仮乗降場から始まった当駅には、無人駅ながら立派な駅舎が。


さて、大学前仮乗降場のあった札沼線ですが、札幌駅から列車が発着しているにも関わらず、国鉄時代は一日に数えるほどしか列車が運転されておらず、国鉄末期からJR化後にかけてようやく、そして急速に発展した路線です。


札沼線の名の通り、札幌(桑園駅)から留萠本線(当時)の石狩沼田駅までを結んでいたのてすが、浦臼駅以北は戦時中には不要不急路線として休止、戦後11年目の昭和31年にようやく全線が復旧したのも束の間、昭和43年にはいわゆる赤字83線に指定されてしまい、昭和47年に新十津川駅から石狩沼田駅までは廃線となってしまいました。

その後は特定地方交通線への指定を辛くも回避しつつ、長らく浦臼駅以北は一日3往復という過疎ダイヤのまま細々と生き長らえてきました。

石狩川を挟んで数キロの距離のところを函館本線が並走しているにも関わらず、石狩川右岸にも鉄道を、という開拓時の熱い思いが脈々と受け継がれてきたのかも知れませんが、実のところは札沼線沿線は函館本線沿線との結び付きが強く、赤字83線指定以降の約50年間、いつ廃止されてもおかしくない状態でした。

平成28(2016)年に浦臼駅以北がついに一日1往復となりましたが、札幌口の発展とは裏腹に、結局国鉄時代から大きくダイヤが変わることもなく、北海道医療大学〜新十津川間の鉄路は令和2(2020)年まで持ちこたえました。


一方、札幌口では宅地化も進み、すっかり通勤路線として重要なポジションを勝ち取り、複線化、そして電化へと漕ぎ着けました。

そしてその電化区間から外れた北部が廃止となったことで、皮肉にも北海道でも有数の利用を誇る路線となり、地方交通線の中では一躍、広島県の可部線に次ぐ輸送密度を誇る路線へと変貌を遂げました。


仮乗降場来歴

昭和56(1981)年12月1日

 大学前仮乗降場として開設

昭和57(1982)年4月1日

 正駅に昇格、大学前駅となる

昭和62(1987)年4月1日

 国鉄民営化、JR北海道大学前駅に

平成7(1995)年3月16日

 大学名の変更に伴い、北海道医療大学駅に改称

平成24(2012)年6月1日

 桑園駅から当駅までが交流電化され、電化区間の末端となる

令和2(2020)年5月7日

 札沼線の当駅から新十津川駅までが廃止となり、終着駅となる

 (当駅以北の列車最終運行は同年4月17日)


仮乗降場名の由来

東日本学園大学当別キャンパスの最寄りの仮乗降場として開設したことによります。

平成6(1994)年4月1日より大学名は北海道医療大学となり、翌年、駅名も大学名に合わせて変更されています。


ダイヤ

当初より需要が見込まれていたのか、普通列車のみの当路線において、一部の駅を通過する列車も存在した中でも、当乗降場を通過する列車は多くはなかったようです。

開設した直後の時刻表は所有していないので申し訳ございませんが、開設後比較的早い時期の版として、昭和57年11月改正(大学前は正駅化後)の時刻表を見ますと、一日9往復がこの区間を運行していました。

このうち、上りの朝ラッシュを過ぎた時間帯の新十津川発札幌行き1本のみ、当駅を通過していました。

なおこの列車は普通列車扱いながら停車駅がかなり少なく、新十津川駅を出ると下徳富、浦臼、晩生内、札比内、石狩月形、中小屋、石狩当別のみに停車し、石狩当別から各駅に停車でした。

したがって、大学前駅には一日8.5往復が停車していたことになります。


大学前仮乗降場開設直前のダイヤ(昭和54年10月1日改正)でも石狩当別以北は9往復と少なく、さらに上りの一番列車(浦臼発札幌行き)も浦臼、晩生内、札比内、石狩月形、中小屋からの各駅に停車という停車パターンで、大学前開設後に当駅を唯一通過していた先述の列車も、この当時はさらに釜谷臼駅をも通過するダイヤでした。


昭和47年2月、新十津川駅〜石狩沼田駅間廃止間近のダイヤでは浦臼以北が一日5往復(新十津川駅折り返しの列車は存在せず)、同区間廃止後の昭和49年当時もやはり浦臼以北は一日5往復でした(余談ですが、同年の弘済会版「道内時刻表」にはなぜか於札内仮乗降場が非掲載でした)。

一方、昭和54年のダイヤでは浦臼以北が下り7本、上り6本の6.5往復にまで増えていました。

大学前開業後、特定地方交通線の廃止が始まる直前の昭和57年11月のダイヤではまだ6.5往復と、まだ本数は持ちこたえていました。

しかし、特定地方交通線の廃止の嵐が吹きすさぶ昭和61年のダイヤともなると、大学前折り返しの列車が出現し、札幌口の輸送が徐々に増加の兆しを見せる一方(なお頭端式の折り返しホームは平成7年の設置とのことです)、それまで時刻表上で横線の入っていた(着発両方の時刻が表示)浦臼駅が他の駅と同じ表記にランクダウンし(ただし浦臼駅折り返しの列車は引き続き存在)、ついには浦臼駅以北が一日3往復体制となってしまいました。

浦臼駅以北の本数については、この状態が平成28年まで長らく続くことになります。


電化区間の末端となり、現在は路線の終点にもなりました。



浦臼〜石狩沼田に於札内の他に南雨竜、中雨竜と仮乗降場が3ヶ所あったのは、この区間が旭川鉄道管理局管内であったことの表れと思われ、於札内仮乗降場はかつて石狩沼田まで繋がっていた時代の痕跡のような存在でした。
この当時は、深川発留萠本線、札沼線経由札幌行きといった列車もあり、のんびりとした時代であったことが偲ばれます。
他方、大学前仮乗降場は札幌鉄道総局管内にあって仮乗降場の少ないエリアに設けられた仮乗降場として異彩を放つも、将来を嘱望されて誕生し、立派に成長した駅となりました。

時代の流れが明暗を分けた札沼線の仮乗降場たち。
その一つ、大学前仮乗降場改め北海道医療大学駅のお話でした。