北見市近郊に4ヶ所あった仮乗降場。

西北見駅や愛し野駅が新設される一方、仮乗降場には過酷な運命が…。

そして4ヶ所の仮乗降場は、その明暗がくっきり分かれました。


旭川市の新旭川駅と道東の網走駅を結ぶ石北本線。

網走駅では釧網本線と接続するほか、現在はただのスイッチバック構造の駅となった遠軽駅の行き止まり方向から名寄本線が接続していた一大幹線でした。

北見駅で接続していた池北線と共に網走本線として開通した経緯もあり、池北線も当初は一幹線でした。

しかし、ダイヤ改正の度に駅を廃止によって減らしてきた石北本線には仮乗降場由来の駅も多く、利用者の少ないものは次々と廃止の対象になってきました。

一方で道内全域を見渡しても屈指の出世を果たした柏陽(はくよう)仮乗降場をご紹介します。


北見市近郊には下相ノ内、柏陽、美野、鳥ノ沢の4ヶ所の仮乗降場が集中していましたが、下相ノ内(しもあいのない;留辺蘂〜相ノ内間)、美野(みの;緋牛内〜美幌間)、鳥ノ沢(とりのさわ;緋牛内〜美幌間)は昭和40年代までに廃止と、仮乗降場の中でも早い時期の廃止だったのに対し、柏陽(北見〜(愛し野)端野間)は今や北見市の住宅街の高架駅として立派な駅となりました。

余談ですが、相ノ内、東相ノ内両駅は平成9年4月1日より「相内」「東相内」という表記に改められていますが、下相ノ内はそれより遥かに遡った昭和42年10月1日の廃止なので「ノ」が入った表記になります。

そんな柏陽駅ですが、生い立ちに不明な部分もある仮乗降場でした。


仮乗降場来歴

昭和32(1957)年12月1日

 局設定の仮乗降場として開設

 仮乗降場名は、開設時は「柏陽高校前」とする説と、開設時より「柏陽」だったとする説とがある

時期不詳

 柏陽に改称?

 (昭和37(1962)年時点では既に「柏陽」)

昭和62(1987)年4月1日

 国鉄民営化に伴い正駅となる

 JR北海道柏陽駅に

昭和63(1988)年2月22日

 移転?

 移転前は実キロで北見駅より1.5km・端野駅より4.8km、移転後の実キロは不明

平成2(1990)年3月10日

 営業キロ設定

 この時点での営業キロは北見駅より2.1km・端野駅より4.2km(愛し野駅(昭和61年開業)より2.8km)

平成4(1992)年10月1日

 網走方に600m移転、高架駅となる

 営業キロは北見駅より2.7km・端野駅より3.6km(愛し野駅より2.2km)となる

 ※富士コンテム刊「北海道の駅 878ものがたり」ではこの日に「柏陽高校前」から「柏陽」に改称したとしていますが、これはそれ以前の時刻表からみて誤りと考えられます。


JTB刊「停車場変遷大辞典 国鉄・JR編」では、開設時より「柏陽仮乗降場」の名としており、正駅化後平成2年のキロ設定までの間にも一度移転をしている可能性があるようです(昭和63(1988)年2月22日、「移転か?」、平成4年は「再移転か?」という書き方にて断定を避けています)。


当仮乗降場については、意外に資料が少なく、書籍によっても記述がまちまちなので、不明な点が多いのです。

そもそも移転という大きな出来事であるにも関わらず、その回数が1回なのか2回なのかすら分かりません。

仮乗降場なので営業キロが設定されないため、致し方ありませんが…。


仮乗降場名の由来

北見柏陽高校の最寄りの仮乗降場として開設したため、その高校名を乗降場名としたそうです。

仮乗降場らしい名前の付け方です。

(正駅ならば「北見柏陽高校」「柏陽高校前」などとなったでしょうが、仮に途中で改称したにしても「柏陽」と学校名の一部だけを取る命名の仕方は正駅ではあまり見かけません。)


角川日本地名大辞典によれば、元々は兵村1区と呼ばれた地区の一部で、昭和32年に柏陽高校がここに移転新築し、同時に「柏陽乗降場が設置された」とあり、仮乗降場の設置が高校の存在と密接な関係にあったこと、元々柏陽という仮乗降場名であった可能性が高いことが窺えます。

(それに対して、1度ないし2度の移転をしているのは、柏陽工業団地などの建設もあって、昭和30年代以降急速に発展したこともあり、街の広がりに合わせて乗降場も位置や姿を絶えず変えてきたということなのでしょうか。

その最終形態として現在の高架駅という立派な設備を手にしたと考えられます。

現在地への移転は高架化や北見市の開発計画と一体のものなのですが、地図に照らしてみると、今より600m北見駅寄りにあった頃に比べると、現在の駅の方が柏陽高校に圧倒的に近いことが分かります。

行政が一体となることで、高校の至近に改めて駅の用地を確保できたことが大きいのでしょうか。

やはりあくまで仮乗降場は仮のものでしかなく、土地が確保できたところに簡素な設備を設けて細々と運営せざるを得ない悲哀があったのかも知れません。)


ダイヤ

現在は高架駅で住宅地にあり、乗降客も無人駅にしてはかなり多い方の部類に入る駅ですが、仮乗降場時代は、仮乗降場の中でも停車本数は比較的少ない方でした。

昭和58年2月のダイヤでは朝と夕方に上下1往復ずつの計4本、普通列車が停車するのみで、他の普通列車は全て通過していました。

一方、JR化後(正駅化後)の昭和63年のダイヤではまだキロ程が未設定の時代ですが、全普通列車が停車するようになっていました。

この頃になると既に北見市には愛し野駅や西北見駅も開業しており、かなり人口が増えていたことが推察されます。

当時も今も仮乗降場由来の駅は通過する普通列車も少なくないので、柏陽の場合は民営化を挟んでわずか5年の間に急速に重要性が見直されたと言えるでしょう。

なお、仮乗降場由来の駅は、平成2(1990)年3月10日に北海道全線で一斉にキロ程が設定されました。

ただし第三セクターに移管されたJR池北線の元仮乗降場に関しては、移管された平成元年に一足早く営業キロが設定されています。


棒線のシンプルな構造ながら、高架化を果たし立派になった柏陽は、国鉄民営化で駅に昇格した組の中では一番の出世頭でしょう。

設備面では、仮乗降場由来の駅全体を見ても、高架化を機に正駅化した旭川四条、電化の末端となり現在は路線の終着駅になっている大学前(北海道医療大学)と肩を並べるものかと思います。



人口密集地にある都市の駅でも、いや、都市の駅だからこそかも知れませんが、大きなミステリーを秘めている、とても興味深い元仮乗降場の一つが、この柏陽駅なのです。