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「絶対的な価値観」なんてまぼろしで、全ては限定的な世界での「絶対」にすぎない。
と言うお話しをしてきました。
なぜこんな話を書くかというと、「社会の求める正しさ」や「普通」や「常識」に気を使いすぎて、自分を歪めすぎて、疲れてしまっている人がたくさんいるからです。
このブログは、そういう気持ちの優しい人向けに書いているので、「うんうん」とうなずいてくれる人が多いはずです。
それではこれから、どうすればいいかを書きます。
「絶対的なもの」なんて無いと書いてきましたが、実は私たちを守ってくれるのが「絶対的なもの」だったりします。
「絶対的なもの」は、小さな世界の、特定の条件下のものにすぎない。と書きました。
だったらいっそ、極限まで小さくしてしまったらいいのです。
つまり「私」です。
「私」にとっての善悪。
「私」にとっての良し悪し。
「私」にとっての正誤。
これだったら、限定的な小さな世界なので「絶対的な価値基準」は成立します。
なおかつ、「私」という小さな世界の中の「絶対」だと分かっているから、他の人に当てはめる必要もないのです。
私はこれが、多様性を尊ぶ世の中の最適解だと思っています。
生き方、働き方、人間関係、気遣い、など。
「私」にとっての「これ」という価値基準を作るのです。
難しく考えることはありません。
要は自分がどうしたいか。
何が好きか。
ということです。
私の友人で「世界平和は私の趣味」と言った人がいます。
世界平和なんて、それこそ絶対的に正しいことのように思えますが、実は多くの国が「できればその方がいいよね」というモアベターなものくらいにしか考えていません。
時代が変わればもっと、世界平和なんて理想論にすぎない、的な考えが主流だと思います。
だからこそ、彼女は世界平和を絶対的に正しいものではなく、「私は世界平和が好きだから、私にとっては正しい」という考えにたどり着いたのだと思います。
農耕の文化は、大自然の中に人間の領域を作り、その中での価値基準を作りました。
私たちは価値基準が大きく、複雑になるにつれ、それが絶対的なもので、合わせられない自分を責めたりしてきました。
でも、実は絶対的なものなどないのです。
あるとすれば、「私」の中に「私」だけの絶対があるだけです。
それが大自然のシステムに従って生きる、狩猟採集の価値観だと思います。
現生人類が生まれたのは、6〜4万年前といわれます。
私たちには、自然の一部として生きてきたDNAが確かに残っています。
中途半端に狭い世の中の価値観に振り回されたり、苦しんだりする必要は、本当はないのだと思います。
価値観は「私」の好みや居心地の良さで作ればいいのです。
多様性が大切にされる今の時代は、それが許される時代に向かっているのだと私は信じたいです。
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