オードリー・ヘプバーン 素描など | もの描くひとびと、奏でるひとびと

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オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn、1929年5月4日 - 1993年1月20日)は、英国人女優。

ヘップバーンとも表記される。ハリウッド黄金時代に活躍した女優で、映画界ならびにファッション界のアイコンとして知られる。アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)の「最も偉大な女優50選」では第3位にランクインしており、インターナショナル・ベスト・ドレッサーにも殿堂入りしている。

 

オードリー・ヘプバーン 素描 2023.12.18

 

 

ヘップバーンの手紙

福岡、田川の某病院で産婦人科医長のYさんは、熊本・菊池生まれ。
そこで長く内科の開業医だった父親が亡くなった時。
四十九日の法要に帰省して、父の診察室を整理していたら、棚の奥から木箱が出てきた。

 

「開けてびっくり。私の小学校から中学校にかけての通知表が入ってるじゃありませんか」

太平洋戦争が終わったのは小学校五年生のときだったが、Y少年はよく勉強のできる子だった。

通知表は、「優」の字でびっしり埋まっている。
「父はわが子の成績が自慢で、しまっておく気になったのかもしれませんね」
ところが秀才少年の通知表は、中学三年生になると急に乱れ、「優」ががくんと減る。

「本人はいやでも、その理由を思い出さないわけにはいきません。私は勉強そっちのけで映画館通いを始めるようになっていたんです」

そのころ菊池で上映されるのはほとんど時代劇だったが、片岡千恵蔵のファンになり、学校から帰宅の途中映画館へ入る。
受験雑誌を買う、といってもらったお金で映画雑誌を買って読みふける。そのくらい好きだった。

「高校に入ってからは、ときには熊本市内まで行って洋画を観るようになりました。帰りが遅くなると、友だちの家で勉強していた、と嘘をついて」
その嘘がばれ、父からひどく叱られたのも、今は懐かしい思い出だ。
「あるいは父は、映画なんかに凝ると勉強に身が入らなくなるぞ、という見せしめのために通知表を残しておいたのでしょうか」

木箱の通知表を微苦笑とともに見ていくうち、あて名を英字タイプで打った、古ぼけた手紙が一通まぎれ込んでいることに、Yさんは気づいた。

見覚えがあるような気がして、中のカードを出し、開いた瞬間、あっ、と声をあげた。

 

AUDREY HEPBURN-忘れもしないあのヘップバーンのサインではないか。

「ここにあった。親父がしまっておいてくれたんだ‥」
不意に涙が出そうになった。
オードリー・ヘップバーンが亡くなったのは、父の死の一年前だった。
そのときも山田さんは、自分の青春時代を懐かしく思い出し、彼女からもらった手紙を探してみた。
「しかし、どうしても見つからず、大事な宝物を失くしてしまったような気持がしていたのです。それが父の法要の日に出てくるとは―」


高校から久留米大に進学する前後、Yさんの映画熱は頂点に達していた。
洋画一辺倒になり、二本立て、三本立てを含めて週に観る数が十本近くなることもあった。

映画雑誌には、エリザベス・テーラーやゲーリー・クーパーのハリウッドの住所が載っている。
「それを見て、せっせと英文でファンレターを出しました」
『ローマの休日』で初めてヘップバーンを観たのは、大学に入った一九五四(昭和二十九)年だった。
「いっぺんに彼女のことを好きになりました。清潔で、妖精のような愛らしさがあって、白百合に似た人だ、と思いました」

熱に浮かされたようになり、すぐ手紙を書く。
あなたのような素晴らしい女優を観たのは初めてです、ぜひサインを下さい - そう綴った。

 

「でも、待てど暮らせど音沙汰がないんです」
無名の舞台女優だったヘップバーンは、『ローマの休日』の世界的成功で、一躍大スターになろうとしていた。東洋の片隅から学生が出した手紙など、無視されて当然かもしれなかった。
「ところが二ヵ月も経って、忘れもしないその年の九月二十五日に、船便で返事が来たのです」

封を切ると、出てきたのは四つに折った市販のグリーティング・カードで、
「私のことを心に掛けて下さって、ありがとう。心からお礼申し上げます」
という意味の英文が印刷してある。
そして、その下にサインが。

「ブルーブラックのインクを使った、まぎれもない手書きのサインでした」
ふつう英字を筆記体で書くと、上部が右へ斜めに倒れるようになるものだが  、彼女のはどの字もまっすぐ上へ突っ立っている。
「丸っこい、今でいうと漫画字みたいなのが、突っ立って並んでるんです。それがまた、いかにも彼女らしくて愛らしいんです」

これまでにも、出したファンレターに返事をもらったことはある。
だが、どれもタイプで打った文面に、サインは一目でコピーと分かるものだった。
それなのに彼女だけは、ちゃんとサインしてくれたのだ。
「有名になったとはいっても、まだお金持じゃないし、秘書もいません。自分でグリーティング・カードを買ってきて、ロサンゼルスのアパートで愛用の万年筆で書いたのだ - そんな想像をしました」

日本のあて先も自分でタイプしたのに違いない、と思うと、手紙を抱きしめたくなりそうだった。

 

ただ、何日か経つうちに、手書きのサインには違いないが、はたしてほんとうに彼女が書いたのだろうか、という疑念がきざさないわけではなかったが。

ヘップバーンにつかれた医学部学生は、二作目の『麗しのサブリナ』の封切りを待ちかねるように映画館へ駆けつけた。
バリの学校へ行ったサブリナ役のヘップバーンが、アメリカの父親に手紙を書くシーンがある。

 

「彼女がベンで書く字が、スクリーンに大きく出ます。その字がなんと、丸っこくて、まっすぐ上へ突っ立っていて、ぼくがもらったあのサインの字とそっくり同じじゃありませんか!」

思わずシートから飛び上がり、そのまま外へ走り出た。

今見た字がサインの字と同じであることも、下宿に置いてある彼女の手紙で確かめずにはいられない気持になっていた。

「うん、同じだ、これは彼女のサインに間違いない、疑ったりして申し訳ないことをしたと思いました」
それから映画館へ戻り、もう一度料金を払って中に入った。
「麗しのササブリナ」の彼女は、相変わらず清楚で愛らしかった。

そのころを境に、さすがのYさんの映画熱も、冷めていかざるをえなくなった。
医学部の勉強が忙しくなったからだ。
「その時期に彼女の手紙を実家へ持って帰り、家族に自慢して見せて置き忘れたんでしょうね。それを父が黙って四十年も保管してくれていたんです」

映画を観る機会は減ったものの、ヘップバーンの映画だけは欠かさず行った。
『昼下りの情事』、『マイ・フェア・レディ』‥ 。飽きず何度も観に行ったのもある。

「彼女は私の永遠の恋人でした。あんな素敵な人をこの世に送ってくれた神に感謝したいほどの気持です」
彼女が世を去ったときのエリザベス・テーラーの弔詞を、Yさんは今も思い出す。

「神は最も美しい人を召された」

今でも、海外のスターにファンレターを出す若い人はいるだろう。

電話やファックス、パソコンもあるから、思いを伝えるのはずっと楽になったに違いない。

「でも、二カ月待って船便でサインが届き、生涯忘れられない人になる、というような感激は、もう少ないんじゃないでしょうかね。

思えば私たちの青春時代も、まんざら悪いものではなかったんだなあ」

 

 ~ おしまい

 

オードリー・ヘプバーンのサイン