もの描くひとびと、奏でるひとびと

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絵画、浮世絵、音楽のこと

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12月となれば、この曲。

 

トーマス・マンはその音楽小説『ファゥストゥス博士』の中で、主人公のレーヴァーキューンに次のようにいわせている。

「善なるもの、高貴なるもの、つまり善かつ高貴であるにもかかわらず人間的などと言われているもの、そんなものはあってはならない。それを求めて人間だちが闘い、城壁を作り、理想の実現に満たされた者たちが熱狂的に告げ知らせたもの、そんなものはあってはならないんだ。そんなものは撤回するんだ」。

これを聞いた友人ツァイトブロームの「何を撤回しろというんだね?」という問いに、レーヴァーキューンは「第九交響曲さ」と答えるのである。

『第九』が啓蒙の時代の「すべての人に開かれた音楽」という理念の究極の到達点だったことは間違いない。「1000人の第九」といった催しが証明しているように、ここでは万人が参加できる音楽の祝典が、本当に実現されている。

- 岡田暁生・著『西洋音楽史・クラシックの黄昏』より

 

ベートーヴェンは綜合の人である。モーツアルトが万華鏡のような気分の変化を実現する名手だったとすれば、ベートーヴェンの音楽は対立だ。モーツアルトの『ピアノ協奏曲第二十五番』冒頭のトゥッティと木管ソロは、色調の変化でこそあれ、互いに対立していはしない。それに対してベートーヴェンは、まさにヘーゲルの弁証法の意味で、対立と綜合を原理として曲を書くのである。

例えば、『トロイカ』第一楽章の冒頭。二度トゥッティで主和音が打ち鳴らされ、すぐに第一主題が続くわけだが、この主題の前半が変ホ長調の分散和音であるのに対して、後半は半音下降でもって思いがけない方向へ逸れていく。求心力と遠心力が、テーゼにに対するアンチテーゼのように、ここで対置されるわけだ。

こうしたベートーヴェンの「綜合する精神」の記念碑が、いわゆる『第九』である。かつてワーグナーは『交響曲第九番』におけるベートーヴェンを、アメリカ大陸を発見しながらそれをインドと思い込んでいたコロンブスに喩えた。つまりベートーヴェンは器楽と声楽の結合という新大陸を発見しながら、そこに舞台と音楽の融合という可能性があることに気づかなかったというのである。ワーグナーにいわせると、『第九』でベートーヴェンが切り拓いた道の最終的な完成者が、綜合芸術としての楽劇を作り上げた自分だということになるのだが、いずれにせよベートーヴェンは、こうした十九世紀の弁証法思考の先駆者だったといえる。

ジャンル的に『第九』は交響曲とミサ(オラトリオ)を合体させたものである。世俗世界と宗教世界の統合ということだけではない。交響曲というものが表象する近代市民的な公共性と、前近代の宗教共同体を一体化しようとする試みが『第九』である。

- 岡田暁生・著『CD・DVDで語る西洋音楽史』より

 

 

交響曲第九番・合唱付 ニ短調作品125

リッカルド・ムーティ指揮 演奏・シカゴ交響楽団

 

 

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