山科さんの 元亀二年十二月十五日 三:霜臺、夕庵、鳴海、村民、與五、 | おらのなにがし~かしく、瀧左とのへ~

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    ことしはきうてんさまのおんとし

 

 

つづいて今日は

ひとびとの紹介…(-_-)

ゆうめいぢんばっかだけどね

 

元亀二年十二月十五日

 

十五日、

癸卯、雪降、自巳刻晴、天一・・、月蝕申酉刻、

令出立乗馬發足、ろくへ一里、次慈恩寺半(里、脱ヵ)次

加賀島へ一里、次がうどへ一里、次岐阜へ一里半、以上五里、

坂井文介宿へ着了、未刻文介尾州へ供云々、子隼人十三歳

馳走也、霜臺昨朝尾州へ鷹野云々、次武井入道夕庵へ罷向、

山中湯治云々、次鳴海助左衛門所へ罷向、夫婦對面、諸事

頼之由申、先蒸麺にて一盞有之、次晩飡濟々儀也、供三人同前、

殘兩人文介所に有之云々、助左衛門に扇十本梨門、竹門、御歌

被遊之、遣之、女房に帶一長遣之、次村井民部少輔所へ罷向、

客人有之云々、次去々年之宿風呂屋之與五所へ立寄、次

文介所へ罷向留了、文介に人参丁香散、二両、女房に帶二筋、

隼人に三ゆかけ二、遣之、

※巳刻…午前九時~十一時、

※申酉刻…

・申=午後三時~五時

・酉=午後五時~七時

※未刻…午後一時~三時

※霜臺…三郎、霜臺とは弾正忠の唐名である(-_-)いみうむ

※武井入道夕庵…もう入道だし、山中湯治だし、

斎藤道三おやぢの頃からいる噂だし、

このとき50歳は過ぎとるかなあ、ナゾ

 

※鳴海助左衛門…一説には助右衛門とも、

ま、正直どっちでもいいけど、

本人にしたら意味のある

左・右なんだわな

たっきーが右近、瀧右だったら

きっと別人なってたもんね(`・ω・´)

あそばせな扇十本もあげちゃったよ!

どんだけ諸事頼之由申なの

 

※供三人、殘兩人…

えっと(・o・)…山科さん以外の名前ある人たち、

・山口又左衛門、與三左衛門

・彌二郎(青門)

・四郎右衛門(妙門)

・越後(竹門)

やば、ちょうど五人だよ~!でもどこに誰やら…

 

※帶一長、帶二筋

…室町の頃の帶は、着てる衣と同布じゃなければ、

ほぼ組紐なので、

・一長は、いちたけと読んで、

布地から作った帶(帯状の布)

・二筋は、まさに組紐で、

二本、筋模様入りの組紐ってことで

どうかなあ(´・ω・`)

(∩´∀`)∩「御衣紋の石帯なしそいまめかし」

おうた(・∀・)?

 

※村井民部少輔…村民じいさん、京都にいないだなんて!

客人いようが山科さんの相手はせんとあかんよ!( `ー´)ノ

 

※去々年之宿風呂屋之與五…前にちらと話題に出た

永禄十二年(1569年)七月頃の濃州滞在時のこと、だよね!

與五さんは、

長興寺の(三郎の肖像画の)余語正勝と関係あるんやろか?

 

※隼人十三歳…山科さんは子供の年齢もきちんと書くんだよね

(・ω・)ほんと筆大納言様!