さて、移動中に更新。
芝居を始めてから今日に至るまで、独学で研究を重ね、また、様々な諸先輩方、魅力ある後輩たちに出会い、その芝居に触れること、共に作品を創り上げることで学んできた。
現場に入る際には、誰より早く台詞を入れるのが当たり前で、それを良しともしていた。
今も悪いこととは思わないが。
若い時分、役によってというのもあるだろうが、読んでるうちに自然と台詞が入ってきた。
何度も新鮮に演じるという意識が殊に強かったし、結果、本番でいきなり相手が間違えても止まることなく自然な流れで違う台詞を吐いて返していた。
怖いこともなかったように思う。
それは、読解力や技術は拙くとも、自然とそこに居ることができていたということのように思う。
相手に対して集中し、信頼し、楽しんでいたのかもしれない。
最近、個人的な状態として非常によくない状態が続いていた。
本番になると頭の中に台詞が浮かぶのである。
これはもう最悪で、それこそこの一年半ほど、地獄のような時間を過ごしたように思う。
本番では見抜かれていないだろうが(そう信じるが)、持ち得る技術で何とかした瞬間はいくつもあった。
昨日、芝居のトレーニングで俳優仲間と話していて、タイトルにもあるあの話題が出た。
なぜ台詞を「覚えていた」のか。
その人は自分なりの答えを見つけていた。
なるほどと思える。
では、僕は??
うまくいっていた頃は、その世界に入り込んで読むことができていたと思う。
そして、本番でもその中を生きられた。
台本を持って世界に浸る、やがて相手と共に世界に浸る。
出てくる言葉はその役の話す、それはつまり「僕」の話す言葉で、それが当たり前だった。
選ぶ言葉のチョイス、リズム、ビート、居方、すべてが無意識で当たり前。
台詞は「出てくる状態」だった。
ということだ。
それ故にリラックスしてそこに在ることができるし、相手に集中して生きられる。
技術も、そこでは馴染んだものだけが蓄積として身体にあり、捨てていられる。
「技術は捨てる」とは「技術がない」ということでは決してないのは文字通りだ。
しかしながら、安易に言える言葉ではなかったと、改めて感じている。
なぜ台詞を「覚えていた」か。
なぜ台詞を「覚える」のか。
その質問は正解か。
台詞とはそもそも何か。
今は今の答えとして腑に落ちるものがある。
また少し楽しくなってきた。
【ポムカンパニーWS情報】
日程:2015年6月