今日は現実的問題から離れて哲学的思考の重要性について書く。一般には、哲学は宗教学とともに難解な形而上学的分野であると考えられ、関心が薄いかもしれない。しかし、本当は、科学も哲学の中から発展した哲学の一部である。実際、自然科学で有名なパスカルやニュートンなどは哲学者としても紹介されている。つまり哲学は、この人間が生きる世界について論理的に思考し探求する学術であり、非常に広く且つ重要である。

 

哲学の歴史等については全くの素人なのだが、それにも拘わらず哲学関連で書こうと思ったのは、日本では伝統が浅く上記のように誤解されていることと、そして、現代は時代の節目であり、哲学的思考が社会そして政治を考える上で非常に大事であることの二つが気に掛かったからである。突っ込みどころ満載かも知れないので、諸賢のコメントをいただければ有難い。

1)和製漢語である「哲学」とその定義

明治時代、日本は西欧文明を受け入れる決断をして、西欧の概念を取り入れる為に多くの和製漢語を創作した。哲学もその一つである。この他、和製漢語には、国家、人民、共和国、平和などの多くの政治用語、科学、化学、物理、音楽、工学、原子、分子などの学術用語、主観、客観、理性、宗教などの日常言語など非常にたくさん存在し、それらの殆どはこの時代に創られた。

和製漢語のリストは膨大である。これらの多くは隣国中国にも輸出され現在も利用されている。これは、清の時代から孫文などが活躍した中華民国時代にかけての中国人の現実主義と度量の広さを示していると思う。https://www5b.biglobe.ne.jp/~shu-sato/kanji/waseikango.htm


西欧語を翻訳し和製漢語として取り入れた後には、思考の傾向やその幅や質などに、そしてその後の日本の文化にも相当影響があったと考えるべきだろう。ただ、それらの原語は元々西欧文化の中で創られたのであり、その西欧文化のある部分が日本に定着しなかったとすれば、それらの言葉も誤解されている可能性が高い。

その誤解された和製漢語の中の重要な一つが、「哲学」だろうと思う。哲学は英語のphilosophy(ドイツPhilosophie)からの翻訳であり、好きであるという意味のphilと知或いは知恵を意味するsophyとの合成された言葉である。

ロシアを含めてヨーロッパやアラブ圏などでも日本語の哲学に相当する言葉は、語源的に英語と同じくphil(好む;愛する)とsophy(知、知恵)の合成、つまり「知を愛すること」を意味する。つまり、ユーラシア大陸の広い範囲でphilosophyという言葉に共通の理解がある。(補足1)

一方、日本では、「(明治時代に)西周(にし あまね)が賢哲の希求という意を表すため希哲学と訳したが、やがて哲学という訳語が用いられるにいたった。世界・人生の究極の根本原理を追及する学問(広辞苑、第二版)と理解されている。何故そんなに日常あまり用いない漢字を用いて、型ぐるしい分野に押し込んだのか? philosophy=愛知で良いのではないのか? 

この日本のphilosophyに対する取り扱いに違和感を感じる。(補足2)この定義だと、哲学は形而上学であり、古代の自然科学を産んだギリシャ哲学の足跡のかなりの部分が消えていると感じるからである。西欧のphilosophy に存在する、何かについて前提を置かずに理解する(=何かについての知る)という意味から遠いからである。何故、知を愛する「愛知」が用いられなかったのだろうか?(補足3)

勿論、西欧でもphilosophyという概念は、古代ギリシャ時代の時代の非常に広い意味から現代の人文科学的な分野に変化してきたのは事実だが、それでも何かについての知を追求するという元々の意味がphilosophyという言葉に保存されている。


2)思考における3つのレベル

伊藤貫氏は何本かの動画で、思考する場合に思考の枠組を設定するのが普通であり、それには3つのレベルが存在すると話していた。(補足4)それぞれ、policy level(戦術レベル)、paradigm level(パラダイムレベル)、philosophical level(哲学レベル)という様だ。因みにパラダイムとは学術等の分野を意味する。

私なりの理解を記すと: 全く未知の事や物を解釈するには、出来るだけ広く思考の枠を設定する必要がある。その一方、既知の物や現象の変化等の解釈では、専門分野の狭い思考の枠を設定した方が能率的である。その思考の枠を狭い方から順に、戦術レベル、パラダイムレベル、そして哲学レベルと呼ぶのである。

 

何か未知の物事を理解するために哲学レベルの思考の枠を採用する場合、原点から何の前提を置かないで、まず議論或いは思考に用いる言葉の定義の確認から始める。そして広い知識と深い洞察力を持つ賢人が出来れば複数で議論し、論理展開に誤りがないかどうかをチェックしながら思考することが必要となる。

論理に誤りがなければ、思考の枠が広い程導き出したその物事に関する理解はより確実となる。戦術的思考では、その分野の専門家の議論だけで可能となるが、情況が大きく変わった場合や長期の予測では根本的間違いを犯す可能性がある。

 

高度に組織された現代世界の長期の傾向の予測は、一般に困難である。特に、現在のような大きな時代の節目で、世界政治の進行など考える場合には、原点から根本的に問題を考える哲学的思考が不可欠だろう。そして、専門分野の境界を撤廃し、広い知見を同じテーブルに乗せ、異なる分野の専門家が分野間の正しい情報伝達にも注意して、集団で思考するシンクタンク的な思考が必要になるだろう。

現在あちこちで発生している戦争を考える場合、それら戦争は多民族間(異文化間)の争い(或いは或いは付き合い)だが、戦術的思考だけでは、その意味や進展に対して確かな予測が得られないと思う。これが思考の枠組みという考え方と哲学的思考(の枠組)の重要性である。



終わりに:


現代、世界は時代の節目に差し掛かっている。国際政治は近代西欧文明の枠組みで考えるのが普通だったが、その枠組みでの常識は通用しなくなった。何故なら、西欧の近代が築いた文化が米国を中心に破壊されようとしているからである。ある有力な(少数)民族が国際的に力を持ち出し、その内層での激しい動きが遂に国際政治の表舞台に出るまでになったのである。(補足5)

この米国の情況は、一言で言えば文明の終焉でありその基礎にある言語の破壊とも言える。男女、結婚、国家、戦争、法、人権、司法、歴史など、全ての概念が現在の米国ネオコン政権により破壊され、そしてその動きがグローバルに展開されようとしている。LGBT法など、何の哲学思考なく国会を通したのは、日本国の言語文化の貧困と哲学の欠落を示していると思う。

 

日本は、令和の時代を生き残るために先ずこれらのことに気づく必要があると思う。


補足:

1)哲学に相当する諸外国での単語を、言語名或いは国名とペアで示すと、英語philosophy;フランスphilosophie;ドイツPhilosophie;イタリアfilosofia;トルコFelsefe;スペインfilosofía;ロシアфилософия(filosofiya);ギリシャφιλοσοφία(filosofía);アラビア語falsafaである。これらは、phの表記がф、φ或いはfに変化するが、英語と同じphil「好む」とsophy「知」を合成した概念で「知を追及する(好む)こと」を意味する。philは、一般には「愛する」の意味とされる場合が多いが、本文で「好む」とした。それは、日本語の「愛する」は、対人心情を表す意味が濃いからである。勿論、若い世代では「愛する」の意味も、定年後の世代でのようには“湿った”意味が少ないので一般的表現にした方が良いかもしれない。

2)東アジアではエリート層が知を独占する文化がある。愚民統治の伝統である。例えば、仏教でも儒教でも、日本の教育は重要な文章を丸暗記させることを重要視する。一方、西欧ではギリシャでも中東でも、重要な言葉についてはその真意から伝達しようとする。聖書と仏典の大きな違いは、そこにある。恐らく西欧には奴隷制度があり、そこからの解放があった。しかし、東アジアではその代わりに愚民政策があったのだが、そこからの解放されたという文化を一般民は持っていない。

 

3)愛知県の愛知は、哲学の意味ではない。愛知県のHPに、「万葉集巻三の高市黒人の歌「桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし鶴鳴き渡る」に詠まれている、「年魚市潟(あゆちがた)」の「あゆち」が「あいち」に転じたと言われている」と書かれている。

 

4)何かを分析する場合、言葉の定義、設定する条件や前提、何を解明するかという思考の目的を明確にする。これらは通常の科学論文では序文(introduction)として記す。実験系の分野では、用いる装置な物質などを書く部分が続く。これらの設定がここでの「思考の枠」に相当する。文系では、例えば「不景気」という言葉を議論に用いるには、厳密な定義を示さないと、思考が進まない。

 

5)最近、米国左翼の地区検事の下では、日本円で15万円程度の万引きは軽犯罪であり即日釈放される。或いは、これも度々引用するのだが、ユダヤ教のラビ(つまり先生)である サイモン・ウィ―ゼンタール・センター のアブラハム・クーパー副館長が、新潮社編集部の取材で、広島と長崎への原爆投下について、「率直にお話ししますが、個人的に言うと、私は原爆投下は戦争犯罪だと思っていません」(「新潮45」2000年12月号)と語った。ハーグ陸戦条約とか国連憲章とか、近代西欧が築いた政治文化などを前提にしていては議論など出来ない。そのような言葉が出るのが時代の節目なのである。「ロシアのウクライナ侵攻は国家主権の侵犯という国際法違反であり、それ故ロシアが悪い」などという日本の右派の人々の言葉が如何に浅薄なものかわかるだろう。

(15:00、編集)

 

自衛隊の元陸将である用田和仁氏が、釈量子氏との対談で「欧州・米国は中国と戦う気などない」と言っている。そして、もしウクライナ戦争へNATOの一角が直接介入すれば、ロシアのメドベージェフ元大統領の言う通り、核戦争になると警告している。つまり世界は今、第三次世界大戦の瀬戸際にある。

 

この世界政治における情況分析には全く同感である。是非この動画を視聴してもらいたい。https://www.youtube.com/watch?v=6jLn5SCbEi8

 

 

用田元陸将は、「日本の政治を握っている保守陣営は、その事に対して全く気がついていない」と嘆く。しかし私は、岸田首相が全く気が付いていないとは思わないし、かれらが日本の保守勢力であるとも思っていない。彼らは、米国ネオコン政権に盲従する売国政権である。

 

日本の政界で保守と辛うじて言えるのは、参政党などの少数政党だけである。多分、日本保守党もその中に入るかもしれない。参政党は、正しい歴史を国民全てが学ぶということを強調しているので心配ない。百田尚樹氏にも期待したいのだが、皇国史観しか持ち出すものが無くて古い過ちを繰り返すことにならないか心配である。

 

自民党政権の話に戻ると、吉田茂内閣の1955年以降、自分の地位と引き換えに日本を支配し米国の奴隷国家として管理する売国政権であったと思う。勿論、吉田茂の時代には、それしか日本の生きる道は無かったかもしれないので、非難することに若干の躊躇はあるが、経済復興を遂げた以降で、米国に失脚させられた以外の歴代自民党首相は、売国者だと考えてよい。

 

特にひどいのは、中曽根康弘、小泉純一郎、そして現岸田文雄だろう。岸田首相は、安倍晋三元総理の暗殺事件の詳細を知っているだろう。奈良県警も、自民党重要閣僚たちも知っている筈である。その後、ウクライナ戦争等への協力命令が、売国者たちへ命令違反の姿を思い出させるように、上の方から下ったのである。

 

 

https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12833354394.html<

 

 

 

ところで、世界支配を目指す彼ら英米ネオコンを中心とするグローバリストたちは、どのような戦略ですすむのだろうか? 第一段階で滅ぼすことになっているのは、ロシアのプーチン政権、米国のトランプらMAGA達、欧州やアジアの特に強硬な独立派、中東では反イスラエルの国々だろう。欧州や日本の米国ネオコンに従順な人たちは、その第一段階を生き残るために彼らに盲従しているのである。

 

彼らがロシアに期待しているのは、プーチン政権崩壊とロシアの幾つなの弱小国への分裂だろう。恐らく、核戦争になっても良いとは、今のところ思っていないだろう。従って、プーチンが生存してロシアを牛耳る以上、この第一段階が終わらない。ウクライナはそのうち消滅して、ノヴォロシア的な領域とポーランド側の領域に分裂して安定化するだろう。

 

ただ、このグローバリストたちによる世界戦略が第二段階以降に進んだとした場合、欧州各国も中国も、最後の段階までそのまま残ることはないだろう。彼らにとってそれらの国々は、ロシアが分解され、トランプらが滅ぼされるまでの間だけの味方なのだろう。非核保有国は、第二段階以降では傭兵的存在か単なる草刈り場であると思う。

 

第二段階で、グローバリストたちが対中国戦争を考えているのなら、やはり分裂させて幾つかの弱小国になることを期待しているだろう。日本の岸田政権の相続者には、そこでウクライナの役割(中国分断の際の)を担うことが期待されているだろう。

 

以上。

世界を知るにはお金をについて知る必要がある。お金の本質から世界政治の中でのお金の役柄などについて断片的ながら少し考えてみましたので、そのメモを残します。素人なので、誤りの指摘や議論は歓迎します。

 

1)紙幣誕生の歴史

 

貨幣(お金)は人間を物々交換の煩わしさから解放する商取引必須の道具である。貴金属片など元々価値があって、小さくて持ち運びや管理が簡単なものがその役割を果たした。その代表としては、金貨や銀貨がある。権力と権威に裏付けされた秩序ある国家組織が社会を支配する様になると、政府は貴金属以外の貨幣を発行し、流通させることが可能になった。

 

和同開珎や寛永通宝などの硬貨は、政府の刻印(coin)がその価値を保証した。政府が価値を保証すれば、紙に貨幣である旨とその価値を表示すれば同じ役割を果たす可能性がある。日本の紙幣の歴史は江戸時代に藩札などで始まるが、本格的な紙幣は西欧の方式を取り入れるまでなかった。https://www.npb.go.jp/ja/intro/ostu_history.html (下図は明治政府発行の紙幣)

西欧の紙幣は、金の預かり証が起源だと言われている。貿易商などが決済で受け取った金を、頑丈な金庫をもっていた金細工師(goldsmithに預けるという習慣があったのだが、賢い金細工師がその預かり証を保持する金よりも大量に作成して人に利子をとって貸し付けたというのである。そして、それが銀行の始まりでもあると言う。銀行の信用創造という役割は、この時に始まったのである。(補足1、重要)https://yumenavi.info/vue/lecture.html?GNKCD=g001103

 

日本でも江戸時代から銀の預かり証が類似の働きをしたことがあったようだ。しかし、そこから本格的な紙幣へ発展するには、大きな発想の転換が必要であり、更にそれが制度として根付くのにはそれに相応しい経済的且つ文化的土壌がなければならないだろう。https://www.boj.or.jp/paym/outline/kg21.htm 

 

金と交換するとの約束が果たされるかどうかの不安は、本質的だろう。西欧で金を預ける習慣が定着したのは、泥棒や強盗に盗られるリスクが常にあり、それより金細工人に預けるリスクの方が相当小さいと預け入れる側が評価したからだろう。このリスク評価という習慣は、強かな西欧人のものだと思う。日本にはあまり無いのではないだろうか。(補足2)

 

金細工人も強かな人たちである。保持する金よりも遥かに多くのを金交換証発行して、その利子で金コイン等を細工し作るよりも遥かに大きな収益を得た。金を預けた人たちもそれを敏感に察知し、金細工人は自分の持つ金交換証で交換可能な金を保持しているだろうかという不安感を持つ。そして、時として金の取り付け騒ぎが起こるのだが、これが現在でも銀行の遺伝病である。

 

勿論、この金交換証が貨幣として一般の商取引で広く流通する限り、金との交換を希望する人はそれ程多くない。発行主のGoldsmithさん(補足3)は、そのリスクを様々な方法で管理することで、十分な信用力と巨万の富を得たのである。この段階で金交換証が紙幣として生まれ替わったことになる。

 

何れにしても、使う側に金と交換してもらえるという安心感は100%ではない。この不安感は紙幣に内在する本質的な性質である

 

金(一般に紙幣に記載された貴金属)と交換可能な紙幣を兌換紙幣、金との交換が約束されない紙幣を不換紙幣というのだが、不換紙幣には兌換紙幣以上の大きな不安がある。明治時代初頭 に発行された不換紙幣の太政官札(上の写真)が2年程で姿を消したのは当然である。太政官札のような紙幣の発行は、国家権力を用いた暴力的な資金調達と言えるだろう。

 

以上が紙幣誕生のプロセスだが、要約すると、紙幣が流通するにはその紙幣と発行主に高い信用が無くてはならないということである。紙幣が金など貴金属の小片から兌換紙幣、そして不換紙幣に発展するプロセスは、人間社会の金融資本主義社会への発展のプロセス(社会における信用の増大)であるとも言える。

 

 

2)国際取引

 

通貨とその発行主に対する信頼度の要求は、国内商取引よりも国際商取引(貿易等)においてより高いので、国際取引の決済は近代まで主に金(ゴールド)で行なわれてきた。取引が多くなると通貨として用いる金が不足し、貿易とその決済の円滑な進行には、金以外の信用度の高い決済通貨が必要である。

 

19世紀になって、世界中に冨を手にいれた英国の兌換紙幣が貿易の為の通貨(基軸通貨)として機能した。第一次大戦後、徐々に世界経済の中心が米国に移動した結果、兌換紙幣の米ドルが広く決済通貨に用いられるようになった。貿易の決済を不換紙幣で行なうことが困難なのは、その紙幣の価値を金の量と比較して確認することが出来ないからである。

 

兌換紙幣の米ドルは信頼性が高かったのだが、兌換紙幣である限り金との紐づけが必要になる。保管する金の何倍何十倍のドル札を発行したとしても、その札を金に交換する要望に応えるには金が不足してきた。そこで、197012月に当時大統領だったニクソンがドルを不換紙幣にすると宣言した。

 

この時まで一ドルは1トロイオンス(約31.12グラム)35ドルと決められていた。(1944、ブレトンウッズ体制)米国は約8000トンの金を保有すると言われているので、その金は90億ドル分である。米ドルを持つ方々の国から金との交換を要求された場合、取り付け騒ぎから米中央銀行は破産に追い込まれる。

 

米国の支配下にある国は、決してそのようなことはしないだろうが、敵対国の場合はその限りではない。しかし不換紙幣にすれば米ドルの信用が低下し、貿易の決済通貨(基軸通貨)としての役割が果たせなくなり、世界経済は停滞する。従ってこの宣言は、苦渋の決断だろう。

 

不換紙幣となった時、米ドル札は本質的には紙きれに過ぎないとも言える。その紙きれをお金つまり金と同等だと信じた振りをさせる為に、米国の軍事力が時として用いられる。勿論、世界経済の発展の恩恵を受けている人間には、それを米国の悪行だとして単に非難するのは少し厚かましいだろう。

 

兎も角、米ドルの高い信用は米国の強大な経済力と軍事力を背景に維持されているのである。世界の金融を支配する人たちがそのような米国に移住して、米国の政治を支配しようとするのはある意味当然である。

 

複式簿記に慣れた人なら、金融資産の大元には誰かの借金証書が存在することを理解できるだろう。その誰かが強大な軍事力を背景に借金など無かった筈だと言えば、その金融資産は消えてなくなるのである。

 

 

3)ペトロダラー: 米ドルを石油と紐づけする工夫

 

197012月、米ドル札を不換紙幣にすることをニクソン大統領が宣言した。金と紐づけできなくなった米ドルの信用がガタ落ちとなる可能性がある。そこで考え出したのが、米ドルを産業のコメと言われる石油に紐づけする体制である。それがペトロダラー体制である。

 

アラブの盟主と言われるサウジアラビア(以下サウジ)の防衛は米国が責任を持つという約束で、サウジに対して石油取引の一切を米ドルで行なうという約束を取り付けたのである。サウジアラビアの潜在的敵国は当然イスラエルである。イスラエルとまるで親子関係の様に親密な米国によるある意味不自然な約束である。

 

そのペトロダラー体制に不満を覚えるアラブの国々は当然多いだろう。イスラエル建国以来、イスラエルを軍事的に支えるのは英米である。その英米の軍門に下ることで生き残る道を選んだサウジアラビアの決断には、恐らくサウジ国内にも反発がある筈である。サウジの王は、それしかサウジに生き残る道はないと気付いた(或いは気付かされた)のだろう。

 

中東の石油を米国に支配されたと考えたのか分からないが、イラクは米国の石油支配に反発して、石油のユーロ決済を決定した。その結果、米国は「イラクは大量破壊兵器を隠し持っている」という嘘を口実としたイラク戦争である。サダム・フセイン政権はバグダット陥落とともに消失した。

 

そのようにして英米に経済力と軍事力が蓄積された。世界の金融を牛耳る英国シティと米国ウォール街の住人は、世界の最終戦争かと思われる作戦を現在強行しつつある。グローバリズムという衣を着た彼らネオ・シオニストたちにとって、聖書にあるという大イスラエルを作り上げる話を、全世界を支配することに読み替えているのだろう。彼らは、傲慢にも聖書は彼らの著作だと思っているのだろう。

 

英国銀行で通貨発行権を得たロスチャイルド家がイスラエル建国を達成し、仲間と共同で世界の金融を支配するまでになった。金融の支配は世界経済を支配することであり、それは世界の政治を支配することに繋がるだろう。ゴールドが人間を支配するようになったのである。

 

通貨は経済の血液である。それを含めて金融の近代化は、科学の成果を産業に応用するという産業革命と、経済発展の車の両輪となったと言えるだろう。世界の金融を作り上げた彼らの功績は確かに大きい。しかし、世界を支配する資格があると考えることは思い違いだろう。

 

 

終わりに替えて:

 

19世紀始め、ワーテルローの戦いでナポレオンが率いるフランス軍が、英国、オランダ、プロイセン軍と戦った。この戦いの勝敗を欧州中は固唾を呑んで見守っていた。 そんな時、欧州各地に兄弟を持ち情報通であると見られていたネイサン・ロスチャイルドは、英国の敗戦を知っているかのように英国公債を売ったので、それに続いて売る人が多くなり、公債価格は暴落した。

 

その後、ロスチャイルドは底値で公債を買い集め、ナポレオンが負けたと分った後の暴騰で巨万の冨を築くこになった。そのようなこともあり、彼は英国銀行の紙幣発行権を得た。このような取引は合法ではあったが、その冨を築いた手法に敵意を持つ者も大勢いただろう。https://zuuonline.com/archives/229044

 

これが国際金融をユダヤの一家族ロスチャイルド家が握ることになった経緯である。勿論、誇張等はあるかもしれないが、その理解のモデルとしては正しい。ただ、紙幣発行権を一民間人が持つことは、人類が平和で安定な社会を希求する以上、好ましいことではない。

 

民主的国家が樹立された後は、一民間人よりも政府の方が信用を保持するのは当然である。ただ同然で印刷された紙幣は、発行された時点で高い価値を持つのだから、貨幣発行は国民全ての参加によって形成された国家の責任によって行なわれるべきである。

 

英国で貨幣発行権を得たロスチャイルド家を含め、金融を牛耳るユダヤ人家族は分家や同族のネットワークを構築して、国際的に生きている。それは、国家を持たなかった民族の生きる方法であったのだろう。

 

彼らの同族はその後米国の貨幣発行権も得ることになる。その詳細は林千勝氏の「ザ・ロスチャイルド」(経営科学出版、2021年)に書かれている。

 

つまり、米国の連邦準備法(Federal Reserve Act)は、191312月第28代大統領ウッドロー・ウィルソンによってその設立が認可された。それにより設立された連邦準備制度理事会(FRB; Federal Reserve Board )は、米国の中央銀行としての役割を果たす。(補足4)

 

中央銀行である連邦準備銀行の金融政策に対し、米国政府側の規制が法で定められているが、その権限の多くはユダヤ系が持つことに疑いはない。連邦準備銀行のシステムは日本銀行と殆ど同じだが、日本銀行の場合は、その株の51%を財務大臣が保有する。株主に対し配当が分配されることや、収益の余った部分(剰余金)が政府に渡されることなども、日米に違いはない。

 

どの国でも同じかもしれないが、米国の場合は金融を握るものは国家を握ると言えるだろう。つまり、米国の外交、少なくとも第二次大戦後の外交政策の多くは、米国国民の為になされたと言うよりも、米国金融資本(ウォール街)の為に為されたと考える人が多い。(補足5)

 

 

補足:

 

1)信用創造とは、銀行が持つ“本物のお”の何倍ものお金を貸し付けることである。本物のお金とは、ここの文脈ではゴールドであり、現在の銀行制度では中央銀行が発行したお金で、準備預金と呼ばれる。準備預金も中央銀行が信用創造したお金だと言える。中央銀行にとっての本物のお金は、通常は金(ゴールド)である。ここでの金の預かり証を発行するGoldsmithさんは、従って現在の中央銀行に相当する。因みに、日本銀行はゴールドをあまり持たない。多分、国債を金と同等と考えているのかもしれない。

 

2)このようなリスクの定量的評価の習慣は、西欧には古くからあっただろう。日本は、政治でも経済でも単純な善悪二元論の国のように思える。保険という考え方も、西欧から福沢諭吉が取り入れたと言われている。この単純さが、日本の大きな弱点である。

 

3)Goldsmithが姓となった人は英米に多い。更に、GoldmanやGoldschmidtも同じ意味だろう(オランダ goudsmid, ドイツ Goldschmeidなど)。彼らの多くはユダヤ系である。つまり、差別されたユダヤ人は金融業者としてたくましく生きた。逆境は人を鍛えるのだろう。世界の学者や芸術家などにもユダヤ系が多い。

 

4)実務としての中央銀行業務は、連邦準備銀行(FRBFederal Reserve Bank)が行なうが、その理事9人の内、3人は連邦準備制度理事会が選ぶ。米国の金融政策の決定は、FOMC(連邦公開市場委員会)でなされ、その委員12人の内5人は連邦準備銀行の理事長が選ぶ。このように米国は、FRBの支配は銀行業務だけであると思える体制に作られている。しかし、非常にFRBを支配する者たちが米国全体を支配するということを妨げるようには作られていない。第一、SuperPACなる制度は、選挙を金で買える制度とも言えるのではないのか。

 

5)米国の政治は軍産共同体が握っていると言う人も多い。軍需産業は軍事力を維持する為に必要だが、その軍事力の諸外国での行使は、軍需産業の為だけではない。それはドルの国際的権威を守るためとだけと考えるのも十分ではない。究極の目的は、グローバル化の達成であると思う。グローバル化とは単に地球規模化ではない、シオニズム構想の拡大版であり、二度目の世界の全体主義支配を目指すことである。一度目は、レーニンとトロツキー(共にユダヤ系)による国際共産主義革命を目指したことである。

レーニンは死に、トロツキーはスターリンとの政争に破れた。その生き残りが米国のユダヤ系と合流して作り上げたのがネオコンであり、その米国支配がオバマの時代に強力な政権を作り上げた。その政治目標が米国民の福祉向上からはずれていることに気づき、米国を米国民のための米国に戻そうと訴えているのがトランプである。

 

(3月14日、15日早朝、編集し最終稿とする)