この件、大橋巨泉さんを始めネットでは多くの人により議論されているので、今更という感じがするが、一寸書いてみる。
 巨泉さんは、官房長官が出向いての褒賞授与を、政治的パーフォーマンスとして批判しておられる。(注1)論点は明確である。つまり、踏み切りの仕切り棒が降りている時に、線路内に入るのは違法行為であり、その“違法行為”に政府から褒賞を贈るのはおかしいという理屈である。このような明確な批判が、マスコミ界で飯を喰っている人からあまり聞かれないのは、「この国はものが言えない国」ということを示しているような気がする。
 私は、女性は咄嗟の判断ミスをして死亡したのでだと思う。また、そのような救命行動をとった勇気は誉められるべきだが、一般に勧められる行動では無い。ましてや、それにより死亡したことを誉めたたえる安倍総理や菅官房長官の言葉には、非常な違和感を覚える。もし、成功した場合、官房長官が出向いて紅綬褒章を授与するだろうか?本当は、成功したときの方が賞賛に値する筈なのに、死亡したことに特別の意味を持たせる今回の褒賞は一体何を意味しているのか?過去に、山手線のホームから落ちた人を助けに韓国人青年と日本人カメラマンがホームに降りたが、3人とも死亡した事故があった。その当時、事件は大きく報道されたが、政府要人が遺族を訪問していない。
 ところで、私はこの件を考えている時に、突然、安倍さんが過去の戦争で命を失った多くの人を思い出したのではないかと思った。日本国民は昔から、他人のために命を捧げることに、最高の価値を置く感覚を持っていると強調するための褒賞及び銀杯ではないかと。終戦間際に戦闘機で艦船に体当たりする行為は、犠牲でもなんでもない。無駄な死であったと思う。優秀なる若者を無駄に死に追いやるという愚かな政策を採った、当時の日本国指導者の多くは、東京裁判で死刑になった。しかし、櫻井よしこさんを始め、所謂右翼的な人は、そのような人も日本国内の視点では戦犯ではなく、靖国神社に祀られて当然であるとの考えである。(注2)
 国家の指導者の責任を問うか問わないかが、民主主義と全体主義の違いだと思う。櫻井さんは戦前の全体主義的政治を良しとする感覚をもっているのではないかと思う。そして、安倍さんを始め多くの自民党議員達も同様だろう。マスコミ人は、今回の特別な褒賞の理由を首相に正すべきだと思う。
 上記感想は、ちょっと想像し過ぎかもしれない。安倍さんはもっと単純に、愚民政策的に人気取りをしただけかもしれない。どちらにしても悪質である。
注1)http://www.youtube.com/watch?v=YA7OMkIphkk
注2)http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2013/08/blog-post_29.html
 JR北海道で線路幅が基準値からずれていたのに放置されていたことが問題になっている。脱線事故の原因究明の過程の中で、報道されるようになった。これはずさんな経営ではあるが、根本原因はJR北海道の財務情況が芳しくないことであると思う。同じような情況にあるのがJR四国であり、橋桁の修理もままならない情況であるとのことである。サンデーモーニングで河野洋平氏が、「国鉄分割民営化の時に既にこのような情況になることが解っていた。解決はこの時の問題点に戻ら無ければ出来ない(細かいところは間違っているかもしれない)」と言っていた。何故、河野洋平氏が解っていたことに目をつむって、分割民営化したか?おそらく、河野洋平氏の理解は中途半端であると思う。つまり、国は民営化されたJR#に、地方の採算のとれない路線を廃止して、採算のとれる様にスリム化することを期待したのではないだろうか。つまり、国の行政としては出来ない地方切り捨てでも株式会社なら出来るので、後の処理を民営化後のJR#に任せたというのが本当のところではないのか。その厳しい仕事が、出来なかったのは、中途半端な形で国との癒着がのこっていた事が一つであり、もう一つは私企業として経営が出来る優秀な人材を経営者として据えなかったことだと思う。力のある人がJR東海やJR東日本などの良いポストを取り、残った人がJR北海道などに配属されたのでは。この重要な人事の問題を、政府主導で行なわなかったのではないのか。

 ここで更に書きたいことは、JRについての上記議論を一般化して、過疎化への対応という問題についてである。一般に、経済構造が変化した時に、人の再分配が行なわれるのは必然である。誰でも生まれ育った土地に愛着があり、不便だがその場所に残る人も多いだろう。しかし、それは元々個人の選択の問題であり、その不便さや経済的困難な情況を、過疎(過度に疎になる)という言葉で表現するのは、正直に言わせてもらえば、一寸身勝手である。それは、地震などの天災で損害をうけた人は、本来自己の努力で、その損害を引き受けなければならないのと同様である。経済構造の変化は明らかなので、予見可能な分、天災に見舞われた人よりは対応は簡単だった筈である。他の地方の人が出来ることは、その自助努力への善意に基づく協力という範囲に限られる。一方、日本に於ける“民主政治”は、一票の価値を過疎地に2倍程度有利にしており、その結果、地方の過疎化を異常事態と捉え、その解消を政府の重点課題の一つとしている。人口再分配の経過措置として予算を計上するのは、行政としては当然のことであるが、それを阻止する方向で行なうのは間違っている。もちろん地方の自治体が新しい人を引きつける手段を創造すれば話は別であるが、中央政府の仕事ではない。

 更に一般化すれば、国民の間の危険や不幸を最少にすべく、本質的及び制度的な面で行政が関与するのは重要な仕事であるが、個々の災害や不幸は、セイフティーネット的なものは別にして、個人の負うべきことである。そこのところを国民に、正しく理解してもらうという努力を、日本の行政は十分行なっていないのではないのか。


注釈:

(1) JRは民営化された後の一定期間は、国(清算事業団など)との繋がりは継続されるが、その後は一私企業としての責任を果たすべきである。
 福知山線の事故に間して、会社の経営者が業務上過失致死罪で強制起訴されたが、無罪になった。NHK午後6時のニュースで、法律の専門家と思われる人が、刑法には枠があり、経営者を処罰することは無理なので、新しい法律を造るべきと言っていた。この方のコメントは、全くのピント外れである。

 あの事故において、法で処罰されるべきは、運転士(いませんが)や不適応な運転士を業務から外さなかった現場の上司だと思う。会社の最高幹部には本来の仕事がある筈。もちろんより安全な設備や運行形態を実現するように、関係部局に指示するのはその一つであることは言うまでもない。しかし、それ以下の具体的なことの責任は現場にある筈。
 日本社会における最高幹部に関する理解は、双六の上がりのポジションのようなもの、或は、会社の看板になることのようである。何かあるとテレビカメラの前で深々と(心の中とは無関係に)頭を下げることや、会社が看板を一新する場合には首を差し出すのが大切な仕事のようである。これは日本病が会社などの組織に表れた症状の一つで、これに感染すれば、電器系S社やP社などの大企業でも危機を迎える。そんな国で、この様なケースで現場を知らない最高幹部を罰する法律を造れば、一寸雨が降るだけで、列車が動かなくなる。

 この件でもう一つ問題にすべきは、検察審査会という組織・制度だと考える。法律の専門家数人(検察官、弁護士、裁判官)が証拠と論理的な討論の末に出した不起訴の結論を出したにも拘らず、素人が感情の趣くままに検察審査会を利用して、強制起訴するという馬鹿げた制度である。このことは、小沢一郎さんの政治資金規正法違反のケースで、証明されている。従って、廃止すべきだと思う。
=ちょっと、ヤフーの知恵袋に投稿したのをmodifyして、掲載します。===