1)真とは真理のことである。“真理とは、言語を用いて整合的に記述した世界(過去から未来への時間的変化も含む)の、夫々の要素の命題(注1)を言う”。
 
“真理の定義なんて、何を今更”と考える人が大半だろう。しかし、“ことばを媒介しないで、真実は定義できない”ということから、上記のような定義に思い至った。そして、過去から未来に亘って世界に居るのはたった1人、自分だけであるとしたら、言葉は不要であり、従って真理も虚偽もないだろう。
 
ここで、これら命題の全体としての集合は、ことばの定義になっているとも言えるだろう。つまり、ヨハネによる福音書にある様に「はじめにことばがあった。全てはことばによって創造された。」ということになる。(1)地球は西から東に回転する;(2)太陽は東から上る;(3)北は北極星の方向である;(4)上る或いは登るは、下方から上方への移動を言う;などの命題も互いに整合的であり、真理(或いは真実)である。これらの命題は、東西南北、太陽、地球、上下、時間などの言葉の定義とも関係している。従って、言葉が存在すれば、真理という概念は必要がないと言えそうだが、虚偽との対立概念としての必要性はある。(注2)
以上から、真理全体は人が世界の中の一員であることを確認する行為として、言葉を用いて創造された命題の集合をなすと言える。
 
2)善とはある社会にとって良きことである。善人と悪人については既にブログで議論した。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2013/12/blog-post_5.html
ウイキペディアでは、善を“社会的な規範において是とされる存在、行為” http://ja.wikipedia.org/wiki/ という定義が紹介されている。
 
善を宗教的な概念と考えることもあり得る(注3)。この場合は、その宗教の聖書に善と記述されたことが善であり、悪と記述されたことが悪になり、善悪の判別は容易である。
 
社会を特定した場合その中での善は、その社会の枠を換えることによって、悪に反転することがある。また、時間の経過により、善は悪に反転することもあり得る。人類全てを対象にした仮想的な社会を想定すると、善は“人としてのあり方”という抽象的な概念となり、上記のような反転などの揺らぎがなくなる。その場合、善なる思想や行為は、倫理学の対象となる。
 
3)美とは視覚や聴覚によって“良きもの”と判別した印(ラベル)である。これについても既に議論した。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/07/blog-post_56.html
 
広辞苑の「美」の哲学的定義によれば、“知覚・感覚・情感を刺激して内的快感をひきおこすもの”となっている(第二版、1845頁「美」)。また、美味という単語にあるように、味覚(感覚の一つではある)にまで美という概念を持ち込むこともある。更に、美しい人生の様に、ほとんど“良い”と同じ意味で用いる場合もある。これらの用い方は、個人の好みを越えて“美”が成立しないので、美の定義領域の広げ過ぎであると考える。
 
例えば、視覚によって美と判別される“形、色彩、動き”は、より良い機能、より深い真理、より大きな善、などを人の心の中に想起させ、快感(注4)として受け取られるものである。つまり、美とはそのような景色、絵画、写真などを形容する“一次元座標のプラス軸につけたラベル(注5)”である。
 
 
注釈:
1)つまり、A:地球は丸い;B:地球は太陽の廻りを廻る;C:地球は惑星の一つ;D:地球上に人類は生息する;E:太陽は太陽系の中心に位置する;F:太陽は恒星の一つ;G:地球は太陽の内側から数えて3番目の惑星など、地球に関する記述(命題)は無限と言って良い程多く存在する。それらは互いに矛盾すること無く、体系をなして現実に対応している。
真理の哲学的定義として、真理の整合説(他の命題と整合的な認識が真理であるとする。)や真理の対応説(「思惟」と「事物」が一致ないし対応していることが真理であるとする。)があるが、上記真理の定義はそれら既存の定義に矛盾していない上に、より精緻なものであると思う。http://ja.wikipedia.org/wiki/真理
 
2)上記ウイキペディアには、真理の余剰説というのがある。  
 
3)英語で、善はgood悪はevilである。goodGod(神)から派生した言葉であるので、最初は宗教的に定義されたものだろう。ただ宗教(民族宗教)は、元々社会を構成員する人々の結束を目的としたと考えられ、その場合の宗教的な善は社会規範としての善に一致する。(ユダヤ教はユダヤ民族の宗教として存在する)
 
4)快感とは、広辞苑では「快い(こころよい)と感じること」とある。また、“快し”とは、気持ちがよい、心中にわだかまるものがない、愉快である。気分が良いなどと書かれている。一言で言えば、「再現可能であればそれを望む感覚」と言えると思う。
 
5)X軸は日付でY軸は価格を表わすというグラフの場合、その日付や価格をラベルと定義する。従って、ここではマイナスの美が醜ということになる。
1)安倍内閣の成長戦略が議論されて久しい。第一の矢と第二の矢は、金融緩和と財政拡大であり、覚悟があれば誰が総理になっても出来る(注1)。第三の矢が的に当てられるかで、成否は決る。規制緩和などで、農業なども含む全ての分野での経済活動の自由度を増すこと、それに、労働市場の正常化、女性の力をこれまで以上に活用するなど、いろいろの案がある。 

しかし、それはそれで一定の効果が期待できるが、本当にそれが出来るだろうか?もし、出来たとして日本は再び経済大国の路を歩めるだろうか?という疑問が残る。

例えば、労働市場の正常化では、同一労働同一賃金の原則の達成が期待される。実現すれば、中途雇用者も非正規雇用者も、正規雇用者と給与で差別を受けなくなる。また会社は、必要に応じた雇用が可能になり、自由度が増加する。また、労働者も正規雇用に拘る必要がなくなり、多様な働き方が可能になる。しかしそうなれば、例えば会社員の人生に於ける、会社の意味が変化することになる。例えば、退社後の“ちょっと一杯どう?”という文化が変わることになるのだ。また、同一賃金同一労働ということになれば、これまでの年功賃金制に変化が生じることにある。それは、30代に長期ローンでマイホームを得るという形の人生設計に、変化が生じることになる。 

つまり、第三の矢は、日本文化の問題でもあるのだ。その点をもっと周知して、議論を国民の間に起こした後に、行なうのでなければ、途中で矢が折れてしまうだろう。ところで、最初の疑問に戻って、それらが実行されたとして、日本の経済がかつての繁栄を取り戻すか? 私はNOだと思う。 

2)アベノミクスの中での定理として、“会社が元気になれば、やがて賃金が増加し、それが需要拡大を引き起こし、プラスの連鎖が生じて、日本経済が立ち直る”というのがある。そして、このトリクルダウンと呼ばれる定理は、成立しないという意見も多い。私は、その最初のステップである会社を元気にすることも、金融緩和という言わば頓服薬の服用を止めても続くかどうかが問題だと思う。つまり、日本のマクロ経済の問題として、この20年間の経済低迷を捉えることがそもそも間違いなのであり、もっとミクロな視点で考えるべきなのではないか。つまり、個々の細胞を元気にする健康法のような考え方が大切だと思う。それは、例えば上記例にも挙げた文化の問題とも言えるし、もっと具体的には人材の問題であるとも言える。 

実行可能で、且つ、もっとも効果的なのは、国内に優秀なる人材を育てることである。その為の教育改革が、時間はかかるが大切な不況対策であると思う。 

この種の問題を考える場合、強い経済の国、つまり米国を参考にすると判り易いだろう。例えば、米国の実体経済を支えている企業として、従来からあるエクソン、GE、ジョンソン&ジョンソンなどの企業の他に、株価総額一位と二位を占めるアップルやグーグルの他に、インテル、マイクロソフト、フェイスブックなどの新興企業が多いことは誰でも知っている。電子・コンピュータ技術からインターネットへの技術発展を背景にした、このような世界企業が、何故短期間の内に米国で生じたのか?それをもっと真剣に考えるべきである。これらの企業は、営業利益率(注2)が非常に高く、多少のドル高など問題にしないほど強靭な体力をもっている。 

これらの企業が短期間の内に、米国で生じたことの原因を、アメリカンドリームという言葉で片付けがちであるが、本当は、優秀な大勢の学生達が大学で即戦力を身につけて社会に出てくるからだと思う。 

今年一月に東大教授であった経済学の伊藤隆敏教授が、コロンビア大学に移られた。テレビ番組(モーニングサテライト)で、確か、東大の定年制に疑問を持ったのが一つの動機であったと聞いた。その伊藤教授が早速大学院での講義の準備をされている光景がテレビで放送されていた。その準備とは、講義で学生達と議論するために、受講者約40名の顔と名前を覚えることだった。 

つまり、数年前に話題になったサンデル教授の白熱教室は、米国での常識的スタイルだったのである。日本の講義スタイルは、先生が教科書片手に喋り、時々黒板に式を書いたりするスタイルだった。学生達の理解度などは、テストするまで判らない。定期テストの前に一夜漬けではないものの2、3日かけて勉強し直してテストを受けるのである。日本の大学や大学院の講義は、高校の延長でしかない。専門分野に進んでも、本当に力をつけることが出来るのは、セミナーや学会で自分が喋ることになってからである(注3)。 

人は社会的動物であり、周囲の雰囲気次第で、勉学でも仕事でも真剣度が全くことなる。大学教員の質と講義の真剣度、学生の大学における勉学態度両面から、日本の大学には改革すべき点が多いと思う。 

中学校や高校での教育も、改革すべき点は多いだろう。橘玲氏の「知的幸福の技術」という本がある(注4)。その教育のセクションに、現在の底辺校のすさましい実態が書かれている。私はこのような状態で放置している政治の貧困に、昨今の残酷な事件と日本国全体の国力の低下の原因を見た気がする。その高校に奉職する橘玲氏の友人が、「自分の職場は教育機関ではなく、生徒の収容施設だ」と言ったと書かれている。 

一般にはこのような現象をゆとり教育の所為にする。しかし、ここでもこの本当の原因は画一的な人生を要求する日本社会、つまり日本文化にある。高校教育を何故、殆ど全ての人が中学卒業後受けなければならないのか?退屈だと思う生徒は、一度社会に出て、後で興味が出た時に勉強すれば良い。おそらく、底辺校の生徒でも自分で動機を見いだせば、かなりの生徒は十分実力をつけるだろう。ただ、そのようなレールを外れた人生を日本社会は拒む。経済のグローバル化が将来の必然なら、徐々に文化もグローバル化しなければならない。  

注釈: 
1)金利が既にゼロ近辺なので、日銀が出来る金融緩和は国債買取などで行なわざるを得ない。これは放漫財政や、市場での流通量減少により正常な取引が出来ないことに因る価格異常(暴落)などの危険がある。また、不況にならない形での金融正常化が非常に難しい。 
2)売上高に占める営業利益の割合が営業利益率である。これが高いことは、他の競争相手を寄せ付けない、オリジナリティーとブランド力を有することを意味している。 
3)ことわざ、To teach is to learn. 教えること(前で喋ること)は、学ぶことであるを思い出す。 
4)この本は決して教育に関する本ではない。人生に拘る多くのことを著者独自の視点で議論した面白い本である。 

素人のコメントですので、ご意見ご批判期待します。
Voice 3月号の巻頭討論「ユーラシアの地政学」を読んだ。テレビでおなじみの佐藤優氏と宮家邦彦氏の対談をまとめたものである。二番目のセクションからは面白く読ませていただいた。二番目からのセクションタイトルは、「プーチンの思惑」、「日豪関係の重要性」、「韓国との付き合い方」、「中国こそ韓国の脅威」、そして「21世紀のグレート・ゲーム」である。例えば、最後のセクションでは、宮家氏が”やはり日本人にとって大切になるのは、四方を海に囲まれた我国が地政学的に如何に恵まれているか、翻って各国が地政学的にどんな状況にあるのか、という想像力でしょうね。”と発言している。この点は本当にその通りであると思った。 
 
しかし、最初のセクション「反知性主義の病理」には一部納得し難い箇所があり、その点に絞って感想を書く。最初に佐藤優氏が、“日本の言論界では反知性主義が席巻しだしている"として、ヘイトスピーチを行い、排外主義的な書物を出版する人たちを非難している。この点には同意するが、そこからの二人の意見には同意しかねる。佐藤氏の反知性主義の定義は、「客観性や実証性を無視もしくは軽視して、自分が望む様に世界を理解する態度のこと」である。そして、”反知性主義は学歴の高い人でも陥る危険がある。外務省をやめた途端に反米主義者になったり、陰謀論者になる人がいて情けないですが、日米同盟は日本の外交に欠かせない要件です。この点が崩れた人の本は読まなくて良いでしょう”と発言している。 
 
私はこの部分の発言で、この人の限界を見た気がする。“外務省を止めたとたんに反米主義者になった人”と非難しているのは、例えば孫崎享氏なのだろうか。また、陰謀論者になった人とは、例えば馬淵睦夫氏なのだろうか。両氏の本(注釈1)を読んだが、非常に示唆に富んだ内容であり、日本の戦略を考える上で役立つ筈だと思った。 
 
もちろん、日米関係は日本外交に欠かせない要件であると思う。しかし、孫崎享氏の考えを反米主義として、馬淵睦夫氏の分析を陰謀論として葬ることでしか、彼らと対峙出来ない人は、そもそも外交専門家としては貧弱に思える。そのような姿勢で、夫々自国の利益をしたたかに追求する外交の場に臨むのは、自国の手足を縛ってしまうようなことになると思う。勿論、現場に居る人は米国の思惑と推理できることがあっても、それを本に書くことはできないだろう。しかし、退職したのなら、国家機密保護の原則にふれない範囲で自由に発表してよい筈である。 
 
続いて宮家氏が、“我々が対峙しているのは、歴史学ではなく、現実としての国際政治です。過去の価値ではなく、現代の価値で戦っている、ということです。現代の価値とは、自由、民主、法の支配、人権、人道という普遍的価値を意味します。こうした普遍的価値に背を向けて、過去の価値体系で議論しても、国際政治の場では何の意味もありません。”と発言している。 
 
表舞台で、これらを普遍的価値と看做すのは当然だろう。しかし、日本が関係を大切にすべき国家である、米国を始めとする西欧諸国が、本当に「自由、民主、法の支配、人権、人道」で動いているのか? 現代的価値というが、その現代は何時から始まったのか?第二次大戦後なのか、それ以前なら何時頃なのか?それを明らかにしなければ議論にならないと思う。そして、何よりも、米国のCIAやM何とかという英国の秘密情報機関、米国と結びつきが強い、イスラエルのモサドなどが、その現代的価値を重視して動いているのか? 
 
本音があるのなら、もう少し本音を出して話して欲しい。本音があっても出せないのなら、そのような発言をしないで欲しい。世界が上記現代的価値で動いていると思う人が多くなるのは、日本の有権者を全体的に幼稚にしてしまう。 
 
佐藤氏による反知性主義の定義は、「客観性や実証性を無視もしくは軽視して、自分が望む様に世界を理解する態度のこと」であった。諜報機関が裏で活動することも多い外交の世界では、当然秘密裏に(宮家氏の定義した)”現代的価値”を無視したことが起こり得て、それが外交を考える上で鍵となることも多い筈である。サイエンスではないので、客観性や実証性に縛られると、非常に外交における思考の幅を狭めてしまうと思う。  
 
陰謀論を披露する人々だが、二つに分類出来ると思う。真面目な陰謀論者と陰謀で陰謀論を語る者である。真面目な方は、例えば上に挙げた馬淵睦夫氏である。彼が著した「国難の正体」は、筆者を含め素人の読者には非常に参考になる本である(注釈2)。もちろん、それを100%信じるのは反知性主義かもしれない。しかし、そのような考え方を披露するのは、反知性主義では決して無いと私は思う。 
 
陰謀で陰謀論を語る者とは、「東日本大震災(地震)は、地震兵器で某国がひき起した」などと語る人である。“陰謀で陰謀論を語る人”は、真面目な陰謀論者を抱き込んで、一緒にゴミ箱に捨てられる役を引き受けているのだろう。もちろん、そのような陰謀があるかどうか客観性も実証性もない。しかし、外交とはそのような世界ではないのか? 
 
注釈: 
1)孫崎享著「アメリカに潰された政治家たち」と馬淵睦夫著「国難の正体」は、有益な本だと思う。そのような考え方があることを、日本人は知るべきである。
2)このように具体名を挙げると、「馬淵さんはちょっと極端な意見を述べただけで、反知性主義者ではありません」と反論されるかもしれない。しかし、彼らには反論の資格がない。何故なら、彼らは反知性主義者の具体名を挙げていないし、且つ、外務省を退職した馬淵睦夫氏が書いた「国難の正体」は、あるグループの陰謀をのべたものであるからである。