GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)による株式投資枠拡大により、株価が後押しされ、株価は高値更新している。http://www.vsm-hk.com/topics/2014/89/ この件、いろんな問題・疑問がある。それらは:

 
1)公務員的な人たちが運用して、利益を上げることなどできるのか?
2)そもそも、今回の株運用枠拡大は、利益を上げる事を目的に行なったのか?そうでなく、株価上昇で景気浮揚を演出するためではないのか?
などである。
 
1)は、GPIFの前身とも言える年金福祉事業団(年福事業団)によるグリーンピア事業の失敗から生じた疑問である。このはあまりにも有名であり、未だに記憶にはっきりと残っている。http://biz-journal.jp/2014/04/post_4637.html

 
上記サイト(BusinessJournal)で、失敗をしても責任をとらない官が、リスキーな株投資(国内株25%; 外国株25%)を行なうことはおかしいとの主張が掲載されている。単に物価連動性の債権(国債)投資で行なえば、GPIFという組織もいらないので、安全且つGPIFの人件費が節約できるという主張には、説得力がある。
 
次に、2)の疑問だが、それはGPIFの運用改革を議論した政府の有識者会議(注1)は2013年11月、アクティブ投資の拡大やROE(注2)に着目したファンドを活用するように提言し、実際に委託先の運用会社はROEの高い株を選んで投資していること由来する。 
 
ROEは純利益と自己資本との比率を%表示したものだが、何故この指標を基準に投資先を選ぶのか、私は素人ながら不思議に思う。何故、営業利益率(業種別に率は代わり得る)か総資本利益率(ROA)を選ばないのだろうか。ROAは全資本(つまり会社の規模を金額で表した数値)あたりの利益率であり、それが大きいことは、そのまま会社が順調に会社の規模に相応しい稼ぎを上げていることを示している。 
 
ROEが高いケースとして、自己資本が少ない、つまり、財務状況の悪い会社で、最近の円安などを背景に差し当たり稼いでいる会社の株がある。そのような会社の株も、この指標に頼れば投資対象になる。逆に、たっぷり稼いで利益剰余金を貯め込み、次の投資先を睨んでいるような健全運営の会社は選ばれない。 
 
一部の非常に健全な財務状況の会社がGPIFの投資対象にしてもらために、純資産のかなりの部分を株主還元(注3)することで減らして、ROEを上げようとしているケースがあるようだ。株主還元の増加は株価を更に押し上げるので、今回の年金基金の株投資枠増加の目的が、株価上昇による好景気演出なら思惑通りということになる。おまけに、塩崎氏や甘利氏のように多くの株をもっている金持ち議員たちには有利だろう(注4)。 

個人ではなく公共の金であるだけに、安全運用を心がけるべきであると思う。そのような場合、この円安で差し当たり利益を得ている会社の株に投資するのは、経済状況が大きく変われば、大きな損失を出すことになる可能性がたかい。 
 
そして、そのときにはグリーンピアの時の様に大損を出しながら、だれも責任をとらないだろう。年金を大幅に下げられた上、誰も責任をとらないということになったら、我々高齢者庶民はどうしたら良いのか。 
 
注釈: 
1)有識者会議などという、結論ありきの人選で会議を開き、それを責任逃れの保健にするという行政のやり方は卑怯だ。 
2)ROEは自己資本利益率の略で、会社が上げた純益と貸借対照表の純資本の部にある額の比である。一方、ROAは資本全体との比である。別種の指標である、営業利益率は本業の儲けと売り上げの比率である。
3)配当の増加、及び自己株式(会社が自分の株を買い上げること)の取得である。
4)週刊新潮の今週号には、閣僚の持ち株について書かれている。
(3/22、注釈2の追加と細部修正)
1)明治維新により国民の間の階級制は廃止されて、近代的な国民国家になった(注1)。戦前までの政府は立憲君主制であり、それは、大日本帝国憲法第1条に、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と書かれていることから明らかである。普通選挙が大正14年に導入されたことから、民主国家であるという誤解をする人も多い(注2)。
 
そして、先の対戦中軍部が旧憲法第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」を根拠に、独裁体制を敷いた。そのことが、特別に悲惨な結果を招いた原因である。
 
明治維新から先の敗戦までの歴史を学ぶと、国民の中に国家という枠組みに対する反感を生じる可能性がある。国家の為という言葉を根拠にして、軍部独裁政府は多くの犠牲を国民に強いた。若い優秀な後継者を特攻隊などで亡くした家族、空襲で命を落した人々の家族、インドネシアやフィリピンのジャングルで補給もないままに放置されて戦死した兵士の家族、全てが国家とは何だったのかと考えるだろう。
 
そして注目したいのは、あれほどの悲惨な戦争の後にも拘らず、大戦前の国家の指導者層と大戦後の国家の指導者層に変化がなかったことである。国家の枠組みを維持するため(注3)かもしれないが、過去のあやまちは国民になるべく知らせたくなかったことが、近代史を国民から遠ざけた理由だろう。
 
2)西欧列強が日本国の周辺に勢力を拡大して来た時代故、国民の生命と財産を守る為に国民国家の枠組が必要であったのは確かだろう。しかし、兵士を無料で調達する手段として機能するその国家体制の下、指導者が不十分な能力しか持っていなかったため(注4)、多くの命を結果として無駄に消費したことも事実であった。
 
大惨事の総括は、戦後の早い時期に終えるべきであったが、時の為政者は1952年のサンフランシスコ平和条約後、戦犯全てを同等に赦免する決議を国会にて行なった。その事実を踏まえ、1978年には戦争を指導した者も、命を国家に捧げた戦死者が祀られている靖国神社に合祀され(注5)、日本は過去の過ちをまるで天災の如く“忘れること”にした様に見える。
 
 
岸信介元総理はA級戦犯として捕らえられ東京裁判に望むとき、「われわれは戦争に負けたことに対して日本国民と天皇陛下に責任はあっても、アメリカに対して責任はない」、そして、「侵略戦争というものもいるだろうが、われわれとしては追い詰められて戦わざるを得なかったという考え方をはっきり後世に残しておく必要がある」(http://ja.wikipedia.org/wiki/岸信介)と言ったという。
 
しかしその言葉を、戦争の全プロセスの分析総括により、実証するという責任を戦後の内閣は果たしていない。その総括には国民全てが参加すべきであり、その為には先ず学校で近代史を必須科目として教育すべきだったと思う。その結果を踏まえて、隣国との戦争中の関係を再考するのは決して無駄なことではないだろう。
 (歴史や政治は専門ではありませんので、コメントなどお願いします。)
 
注釈:
1)国民国家とは、国家内部の全住民をひとつのまとまった構成員(=「国民」)として統合することによって 成り立つ国家。
2)戦前の政治体制が民主主義国家であると考える人も多く居る。学校でしっかりと近代史を教育していないことが原因の一つであると思う。例えば:
3)冷戦時代、インターナショナルという歌を多くの大学で聞くことになった時代、その思想に馴染まない国民国家の枠組みは破壊すべきと考えた若い人が多かった。例えば:
http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2013/08/blog-post_29.html
4)人間社会(特に日本国)では、実務能力よりも対人関係を人事で重視する傾向が強い。そのため、無能な者が上の地位につき、その組織を崩壊させることが多い。今も昔もそのことに変わりはない。”一流の人は一流の人を雇う。二流の人は三流の人を雇う。”という英語の言喭がある。
5)このことは戦争犯罪の存在を否定し、東京裁判で処刑された人も神として靖国に祀る根拠となった。この件で桜井よしこさんを批判したブログ参照
15日のテレビ番組サンデーモーニングで、戦後70年経っても尚、近隣諸国との歴史問題に苦しむことになっている問題が議論されていた。その根本的な原因の一つとして寺島実朗氏により指摘されたのは、国家のリーダーから一般国民に至るまで、日本の近代史を学んでこなかったことである。日本国民の多くは、あのような悲惨な結果に終わった戦争の原因について知りたい筈である。 
 
日本の近代史を全国民が学び直すことが大事だが、その前に一体何が日本国民から日本の近代史を遠ざけて来たのかを考えるべきである。そうしない限り、近代史の学習も中途半端に終わってしまうだろう。 
 
日本の近代史から国民を遠ざけた人たちは、終戦後の為政者や官僚達だろう。その理由は、彼らの多くが濃淡はあるものの、あの戦争に責任があったからではないだろうか。学校で、近代史を教えないことにするのは、高校入試や大学入試に出題しないことで、簡単にできる。何時か何処かから、そのような通達や何か(注1)が出されている可能性大である。それは探し出せないかもしれない。何故なら、この国では、阿吽の呼吸でほとんどの重要亊は進んでしまうからである(注2)。
 
別の角度から眺めると、以下の様に解釈することも可能である。日本人の心の中にある、惨事や凶事の原因を探さない習性、或いは他人にその責任を押し付けることを潔しとしない習性、つまり、それらを包含した日本文化にあると思う。何か惨事があったとして、その原因を論理的に探し、個々の人間や諸因子に帰することを嫌うのである。全てを、まるで天災のようにして終わらせてしまう。 
 
以上二つの近代史を避ける原因の分析は、一つの姿を別の角度から記述したのであり、同一のものである。 
 
何か大きな出来事があったとして、日本での原因分析は常に極めて非論理的であり、実質的に分析されないと言っても良い位である。そして、何時も行なわれる儀式は、関係機関の重要な地位にある人たちが揃って頭を下げることである。 
 
それは広島に原爆が投下されたことに対しても、理化学研究所の論文捏造問題の時も全く同じである(注3)。広島の原爆記念館の碑文、「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」は、国民全てが被爆者に頭を下げている光景を思い浮かべれば、すんなりと理解できるだろう。原因は追求しないのだ。追求して原因が出て来ても、その後の処理が出来ないからである。 
 
続編は書く予定。 
 
注釈:
1)直接そのような通達は決して出さない。”歴史的解釈が定まっている、古代から中世をしっかり教えるように”という通達である。逃げ口上として、”時間があれば、近代史を教えることも大切である”という文言が追加されているかもしれない。
2)国会で主に議論するのは、路チュー問題とお金の問題である。
3)論文捏造問題に関して、理化学研究所の機関としての責任を追求するバカな人たちがマスコミにも多い。それは、「犯人が悪いのではない。時代背景が悪いのだ」と同じ考え方である。そのパターンを受け入れると、世の中に悪人はいなくなる。