1)最近、中国の政治経済の今後を考えるネット番組を観た。その一つは河添恵子氏が中心に、「SEALDSらの運動の背後に中国が存在する」と指摘・議論をする番組であり、(Ahttps://www.youtube.com/watch?v=sn9fc3ZWiMA
一つは、SakurasoTVの3時間番組、「危ない中国の行方」と題する番組、
最後に、現在富士通総研主席研究員の柯隆氏による日本記者クラブでの「どうなる中国経済」と題した講演である。(C) https://www.youtube.com/watch?v=lbSMgEU2pwA
 
すべて今年9月に公表されたものである。何れも、中国の特徴として、公務員の汚職が文化として定着していることを指摘しており、それは河添氏が上記講演(A)で指摘した、「中国では現在もほとんど “公”という感覚がない」という言葉に集約されると思う。
 
上記の3番組は非常に広い範囲に亘る議論であるが、その中から一つだけこの「中国には公という感覚がない」をとりあげた。公とは何か、何の為にあるのか、その存立の条件はなにか、などについて素人ながら考えてみた。
 
2)河添氏は、“公(おおやけ)”を、“私(わたくし)”に対することばで、公共と同じ意味に使っている。公(おおやけ)は、社会全体の運営や発展を考える意識やその空間とでも言えるだろう。つまり、英語のプライベート(private)に対することばパブリックpublic (people in general; 人々一般)と同義だろう(補足1)。
 
公は大宅または大家と書き、朝廷や宮廷、そして国家が原義であり、公共という意味は後で生じた。公共というのはpublicの訳として明治時代に作られた和製漢語であるから、その概念は明治以前の我国にはなかったのである。公も、明治以降に公共の公の意味で用いられるようになった。英語に訳せばともにpublicである。現在の日本には公共や公は根付いているように見えるが、そうでない場面に幾度も出くわす。
 
公とよく似た言葉に“お上(おかみ)”がある。このことばのニュアンスは、民衆から離れて上にある国家組織を指し、前近代的国家ではこのお上が、社会の運営や基盤整備などの行政と外国との付き合いである外交など(場合によっては戦争)を行う(補足2)。
 
このように考えれば、中国では「おおやけ」という感覚がないのは当然だということになるだろう。なぜなら、お上(共産党幹部特に党主席)が国家の政治のすべて行うからである。若干中国には失礼な比喩であるが、日本でも江戸時代には、お上の支配階級と被支配階級の農工商を生業とする庶民がいた。被支配階級の人間は、公のことを考えることもその必要性もないが、支配階級が動員をかければ、作業や戦争にかり出されることになる。そのような作業をする際、駆り出された人には被害者意識的なものは残るが、決して「おおやけ」の感覚で参加したと思う人はいないだろう。
 
公あるいは公共というのは、その“お上”としての立場を民衆一般がとり、従って、同時に支配・被支配の関係がなくなった時に初めて生じる概念である。つまり、民主国家になって生じる市民の義務の在処である。河添恵子さんが「中国には公という感覚がない」とか、「彼らは日本人とは全く異なる人間である」というのは少々変であり、異なるのは日本と中国の歴史的段階であり、それに伴う文化の違いであると思う。
 
最近、習近平主席が汚職の撲滅運動を行っている。それは胡錦濤前主席の側近にまで及び、胡錦濤さんは自殺未遂まで起こしたと言われている(B)。この件、汚職撲滅運動を権力闘争に用いたのであり、公の感覚を中国に持ち込もうとしたわけではない。なぜなら、共産党一党独裁、しかも党主席が皇帝のように振る舞う体制には、公の感覚など育ち得ないからである。単に規則を厳しく適用することで、自分の地位を誇示安定させるのが目的で、丁度急に厳格に取り締まりをする交通安全運動のようなものである。終われば、運転する人のあたまから制限速度は消えているし、黄色信号は青信号となんら変わらない。
 
中国人で著名な評論家で富士通総研主席研究員の柯隆氏の日本記者クラブでの講演(C)で、氏は中国での汚職は経済活動の潤滑油的な役割もあると言っておられる(補足3)。権力闘争にその汚職撲滅を用いたのは、共産党幹部の組織において背後に層の厚い人脈を持たない周近平主席の戦略であると理解できるが、難しいのはそこから如何にして出るかの出口戦略であるという(補足4)。
 
あまりに徹底してしまうと、経済にマイナスとなるというのである。例えば、工事費の3割を中央政府が持ち、残りを地方政府が持つ形で公共工事の金を地方政府に交付しても、なかなか工事が進まない。監視の厳しい情況下では、役人に旨味がないため積極的に動かないのだという。
 
柯隆氏が経済活動の潤滑油的な面もあるという同じことを、河添氏はそれを腐りきっていると形容するのである。二人の物差しの違いは、“公”という感覚のない文化への理解度だと思う。
 
工業製品にISO規格があることで象徴される様に、グローバル社会では、感覚や物差しの共通化が必要であることはいうまでもない。 しかし、グローバル社会に接したときに、ことなる文化の国が順応するには一定の時間がかかるのは当然であるだろう。それは先進国側の国も、同様に考えるべきことである。日本の中国との急激な経済交流は、河添氏の指摘とおり、そして、昨今の中国と日本の関係を考えると、更に、中国経済の現状を考えると拙速に過ぎたと思う。孫氏の兵法に拙速巧遅に勝る」というのがあるそうだが。。。
 
 
補足:
1)     peoplebody of persons comprising a communityと語源辞書には書かれており、共同体を構成する人々の意味である。従って、public は共同体に属する人々一般に関係するという意味である。
2) 広辞苑にあるのは、①天皇、朝廷、②政府、官庁、③貴族、④主君、などの意味がある。①と②は、おおやけと同じ意味である。ここでは、同じ意味の二つのことばの用途が分離したと考え、そのような意味に用いた。
3)     ワイルドスワンズに書かれている。公務員になって、そのコネで一族に貢献しないのなら、何の為になったのかわからないそうである。
4)   米国をはじめ世界中で行われている大規模な金融緩和も出口戦略が非常に難しい。今回の話題と全く関係がないイエレン氏のことを思い出した。何れにしても出口戦略に頭を悩ますようなことは、できるだけやらない方が良いと思う。   
安倍総理がスマホなどの携帯の利用料金が高すぎるという発言を行った。その発言を受けて、総務省が年内に対策を立てることになったという。この安倍発言で、携帯3社の株価が急落した。 そして、三社の経営者たちも新しい料金体系を考えるということで、この騒動は決着しそうである。 
 
しかし、自由経済の原則から考えて、首相発言も不思議だが、その意向を受けて料金体系を改める動きに出る携帯3社も不思議である。携帯3社の株価は、安倍発言の直後料金体系見直しの姿勢が出る前に急落したので、市場は首相の発言の段階で携帯運営会社の料金値下げと収益悪化を正しく予見していたことになる。 
 
三社に料金を引き下げたプランが可能なのに、それがないままに棲み分けてきたことは不思議である。従来の見方によれば、携帯3社は互いに競争関係にありながら、何らかの価格協定のような違反行為があったと疑われても仕方ないのではないだろうか。

しかし、それは表には出ることはないだろう。そして同時に、行政も独禁法違反という形ではない新しい介入の仕方があることを主張しているのである。それは日本独特のものなのか、それとも世界的に起こりつつある大きな政治的経済的変化なのだろうか。 
 
最近の日本経済は、韓国のような財閥支配とまでは言えないのかもしれないが、多くの巨大な会社群が牛耳っている。そして、巨大資本は国家行政と密接な関係を持つ。行政府によるトップセールスなどは、企業にとってグローバル経済で生き残る上で非常に大切になっている。 

今や、外国への新幹線の売り込みや、外国からの天然ガスなどの資源の獲得など、優秀なセールスができる首長が期待されるようになっている様に見える。それに対する疑問も一向に出ないのも不思議である。 
 
このようなグローバルな国家による市場開拓の情況は、昔の植民地獲得競争とが重なって見える。

先日から米国を訪問している中国の周近平主席も、米国で活発に経済活動を行った。中国のアリババなどの巨大企業の経営者を引き連れて、米国の巨大企業のアップルやマイクロソフトなどのトップと会議を持った。米国企業のトップを“てこの支点”のように用いて米国政府を動かそうとしている様にも見える。つまり、裏から見れば米国の政治を牛耳っているのは、何とか資本だという話は良く聞くのだが、今や国家と巨大企業の密接な関係が当たり前で、真正面からの光景であるかの様である。
 
以上から、歴史は新しい段階に入っているようである。つまり、国際関係を国民国家という単位で考える時代から、徐々に企業国家という単位で議論する時代である。中国は、帝国から企業国家へと直接向かうようにも見える。

素人の意見ではありますが、馬鹿げた意見と言って無視しないで、出来れば意見・反論等お願いします。 
1) 今日の中日新聞文化欄に、新宿区経王寺の住職、互井観章氏による仏教再生を探る(下)という記事が掲載されていた。主眼とするのは、仏教が日本でどのように定着し、今後どのように生き残るかである。
 
仏教の定着について互井氏は、「現在の日本仏教は死者供養を中心とした仏教である。儒教・道教と結びついた仏教が伝来し、日本の風土(神道やアニミズム)と融合し、大きな変革を幾度も経て、現在に至った。」と記し、更にその具体的な姿を、「お盆に死者(の霊)が帰ってくることも、お墓に亡き人の霊が眠っていることも、死者にお経を上げると成仏することも、何の抵抗もなく受け入れられている。その仏教的風習を大切にしてきたのは村などの共同体であり、家であった。」と解説している。
 
この文章を読んで、日本仏教の本質について、素人ながら考えるヒントを得たように思った。そこで、以下に私の日本仏教についての考えを書き記す。
 
2)元々インドで発生した仏教は、色界を空、つまり物質からなる現世に実体はないと捉え、その知恵(般若)を正しくつければ、現世の宿命である生病老死など四苦八苦から超越すること(つまり解脱)ができるとする宗教であると思う。仏教はあくまで苦(思い通りにならないこと)を個人の問題として捉え、そこからの超越とその方法を教えるのが本来の姿であると思う。その知恵は真理のことばであり、それを理解することが解脱である。
 
日本に伝来した当時の仏教は、ほとんど上流階級のものだった。ほとんどの人が仏教伝来前に持っていた宗教は、神道である。日々の食料調達にすべての神経をすり減らすような生活に生きている個人は、八百万の神々の怒りにふれないように、ただひたすら祈りを捧げる。
仏教の大衆化に伴って、この世の心配事である災難や自然現象に関することは神道に任せて、日本独特の(死者の)霊を弔う形の仏教へと発展したのだろう。そして、仏教と家族制度、そして地域共同体が、それぞれ日本独特のものに、トータルとして調和的に出来上がったのだろう。
 
この日本仏教の本質は、「この世とあの世を跨いで、先祖、自分、および子孫の霊魂が一体となってそのつながりを確保し、それを永久に保つことで、一族のすべての霊が救われる」ということである。つまり、自分が死亡した時には、分断されていた先祖の霊と親族関係を回復し、現世から来世に亘って揃って安心立命の境地を得るのである。つまり、先祖の供養は自分の本質である霊魂と先に霊魂のみとなった先祖との繋がりを確保することである。
 
供養の文字通りの意味は、供え養うことである。つまり、この世に生きる子孫が墓の手入れを始めとして、法事などの供養をしてくれなくては、あの世の先祖の霊が糸の切れた凧のようになり、安泰で無くなるのだろう(補足1)。つまり、とは過去から未来へと、そして、この世とあの世の境を超えて永続的に存在する、一族の霊の住処なのである。そして先祖の墓は、あの世に存在する家とこの世の家とを結ぶ大切な門であり、それを荒廃させてしまうと、の永続性がとぎれてしまうのである。
 
日本の仏教は、このように魂の永続と家という親子親族関係とを関連つけた宗教であると思う。もちろん宗派によって、この平均的な日本の仏教像からズレが存在すると思う。浄土真宗は、上記のような傾向が少ない筈である。しかし、それも時代とともに平均的日本仏教に近づいたのではないだろうか。

補足:
1)この先祖供養は、神道の鎮魂を取り入れたものだと思う。そして、神道と日本的仏教は渾然一体となっているとも考えられる。つまり、死者はすべて神となると考えれば、供養と鎮魂は同一のものとなり、靖国神社への参拝は仏教の墓参りと同じものとなる。