山崎豊子著「大地の子」を読んだ。満州開拓団として海を渡ったある一家の内、南下してくるソ連兵の銃弾や銃剣から生き残った幼い兄妹二人のその後の半生を描いた、文庫本4冊の大河ドラマ風小説である。冒頭に、「この作品は、多数の関係者を取材し、小説的に構成したもので、登場する人物、関係機関なども、すべて事実に基づいて再構成したフィクションである」と書かれている。
 
主人公陸一心(日本名、松本勝男)は、日本の中国残留孤児(小日本鬼子)という負の遺産に起因する、壮絶な個人と国家による虐待を受ける一方、高い能力と幸運、それに人間的魅力による多くの個人(男性&女性)による援護を受けて、最終的には養父(陸徳志)にも実の父(松本耕次)にも、認められるような実りある人生を築いた。その人生には、普通の人の数倍の悲しみや迷いと、同じく数倍の喜びと決断を伴っただろうと思う。
 
「大地の子」は人間に起こりうる様々な境遇と、それに応じて人間が性質においては野獣から天使の範囲で、大きさにおいては小鳥から象或いはその数十倍にまで変化しうることを、大きな画面で拡大して見せてくれるような小説であると思う。それと同時に国家とそれを動かす人間、それに扇動或いは虐待される民衆をリアルに描いており、我々一般民が国家とはなにかを考える上でも良い材料になると思う。
 
主人公の陸一心は最後まで等身大の善意な人間として振る舞うが、それは上記の様々な人間たちを測るスケールにもなり得る。
 
以下に簡単に小説の粗筋を書く。
 
 
主人公は7歳の時に、終戦後中ソ国境から南下してきたソ連兵の銃剣から逃れるべく重なった死体の間に身を隠す。幼子を抱いた母や祖父が死に、生き残ったのは一心と妹あつ子のみであった。父は満州から召集されて九州にいたので生き別れとなったのである。
 
農夫に拾われた一心は、そこで牛馬のようにこき使われる。その苛酷な使役から自力で逃れ、途中で別の中国人に捕まり売られるが、温情ある養父に拾われる。貧しい中で大連の工業大学まで卒業させてもらい技師(北京鋼鉄公司)として職を得るが、文化大革命(補足1)の時代になり、運命が暗転する。
 
狂ったような自己保全の空気に支配された群衆によって、主に知識人や地位の高い人間が走資派として、冤罪をでっち上げられる。陸一心は、日本孤児であるという出自も関係して、凄まじいほどの虐待の末に、懲役刑を受け労働改造所(内蒙古)に送られる。文革が終了したあと日本語に関する知識も買われて、日本と中国の合同プロジェクトである上海での大型製鉄所の建設に関わり、中国側の利益のために能力を発揮するが、その日本側の現地代表が実の父松本耕次である。父とは知らないで数年間、主人公はタフな交渉相手となって中国のために尽くすことになる。
 
そのころ中国残留孤児の調査が日本から度々派遣され、松本耕次も参加して子供たちを探す。陸一心は実父松本耕次よりも先に、既に重病を抱えた妹あつ子の所在を突き止め、その病気の治療に尽くすが、その甲斐なくあつ子は死の床につく(補足2)。松本耕次もようやく娘の所在を突き止めて、そこで陸一心を名乗っていた息子の勝男と再会する。
 
父子ともに数十年の空いた時間を埋め合わせる事が容易でないが、わだかまりはそれぞれの事情を知るにつれて徐々に消えていく。日本へ出張することになった陸一心は、僅かな空いた時間を利用して実家に父を訪問し、母の位牌や妹の遺髪が置かれた仏壇に手を合わすことになる。
 
その後、実父は養父と面会して、息子が裸にされて売りに出されていた様子や、長春から解放区へ出る際に残留孤児ではないかと疑われた話、共産党青年部に入部する際の話などを聞いて、再会するまでの息子の歩んだ厳しい道と、実子以上の愛情で接してくれた養父母との関係を知るようになる。二人がその建設に力を尽くした製鉄所の火入れも終わり、松本耕次と陸一心の父と子は、長江三峡下りの船旅にでる。そこで、実父は一心に日本に来て一緒に暮らさないかと言い、息子もこころが動くが、やはり自分は「大地の子」だと言って話は終わる。
 
中国は広い、そしてそこに住む人々の心も暮らしぶりも、広い範囲に亘っている。大家族というネットワークもその一つだが、生き残るにはできるだけ多くの味方を作りそのコネ(ネットワーク)を総動員しなければならない。法もルールも道徳も(補足3)、場合によっては無力であることを、大衆の隅々までもが知っている国であると思う。
 
大きな国では、その政治の波もまた大きい。大躍進運動や文化大革命の他にも、鄧小平が華国鋒を失脚させる手段に、この上海での日中合同プロジェクトが利用され、そのため工事が一時中断することになる。登場人物は仮名だが、容易に実在名がわかるので、文化大革命以後の中国の政治の動きと社会の様子の相関を感じる上でも、有用な小説だと思う。
 
ただ、実際の出来事に基づいているとは言え、多くの事実を再構成する段階で、多くの人生が一つの人生に重ねて作り換えられているのではないかという疑いを持ってしまう。つまり、これほどドラマチックな人生を陸一心という人ひとりが経験しただろうかという疑問である。
 
補足:
1)大躍進運動という誤った経済政策で、一時政権から遠ざかっていた毛沢東が、権力奪還のために始めた運動である。文化大革命と言うものの、文化にも革命にも無関係な毛沢東の権力奪還の運動である。(その時期の中国の様子については、ユン・チャンのワイルドスワン(wild swans)参照)
2)妹のあつ子の人生は本当に凄まじいものであった。一心の人生も悲惨な時期の体験は凄まじいものであり、感想文などでは書けない。
3)法に道徳、その他のルールは、平和な時代の豊かな人たちのものである。
外交問題は国家の生存や国民の生命などに拘ることであり、最終的には“見渡せる時間軸の範囲”を想定して「どちらが得か」を考えた上での判断が、“正しい”決断につながると思う。こちら側がこちら側の持つ資料だけで、法的論理的に正当性があると思っても、その主張を通す過程で例えば戦争になり、多大の損害を被るようなことになれば、その判断は間違いである。
 
つまり、小国は武力のある大国の前では最終的に沈黙するしかない場合もあり得る。しかし、そのような条件下でも、最大限の利益を確保できる様に交渉を行うのが正しい外交だと思う。また、限定的に戦争を行って、名誉ある出口が想定できるのなら、それも外交的選択の一つだろう。
 
したがって、安倍内閣の今回の慰安婦問題における合意は、米国が脅迫的に迫ったのなら、正しいだろう。なぜなら、日本は米国との国交なしには政治的にも経済的にもやっていけないからである。(補足1)また、我々国民の持つ情報は限られており、最終的には時の内閣の決断を支持する以外に道はない。
 
最近の投稿で、安倍内閣や米国と韓国を非難してきたのは、今回の決断の他に日本の名誉を確保する道が、安倍内閣の自由裁量の範囲にあったと仮定してのものである。(補足2)
 
補足:
1)例えば2014年の米国の自動車市場でのシェアは、米国ビッグ3が合計で45.6%、日系企業が37.7%、欧州系企業が9.2%、韓国系企業が8.1%である。フォードT型の量産以降、米国の基幹産業の一つである自動車において、日本メイカーに40%近くのシェアを許している事実は、自由競争という米国のポリシーだけで理解するのは間違いで、良好な日米関係があってこその結果だと思う。
 
私の基本的な理解は、米国は偉大な国であり、世界の中心であり、多くの人種が纏まって国家を形成しているという点で見習うべき点の多い国だと思う。

2)今でもその仮定は正しいのではないかと考えています。(つまり安倍政権は完全にミスを犯したと思う。)したがって、国会で十分議論してほしいと思います。
1)この数日慰安婦問題を議論してきた。この問題の根幹の一つに慰安所(婦)という当時の新造語がある。この言葉は、「兵士を慰安して指揮を高め、日本国の国策に協力する仕事である」という意味を込め、女性やその親族に応募する際の心理的圧迫感を減少させるために作ったのだろう(補足1)。
 
慰安所の実体は売春宿だったのだが、そう言ってしまえば身も蓋もないという反論がでたのだろう。そのような“言語文化”が、実は日本や東アジア特有のごまかしの文化の一端であることを、再確認すべきである。西欧では考えられない言葉の軽視である。(補足2)その原因と対策などを少し考えてみた。
 
言葉が正確に定義される必要性は、公の空間が十分に広く作られている場合に高いのである。それは空間を渡る間に誤解や曲解が生じる(或いは意図的に生じさせる)可能性があるからである。日本において一般大衆が参加する公の空間は、皮一枚程度に薄いか、或いはほとんどない(補足3)。したがって、言葉の定義が曖昧でも社会はそれなりに動くのである。(補足4)
 
この慰安所(婦)という言葉を思いついた軍当局は、阿吽の呼吸でうまくことが運ぶとほくそ笑んだだろう。その言葉が、公の空間を汚すことになるという意識など、当時の軍関係者にはなかっただろう。日本の敗戦は想像できても、慰安婦という言葉が80年後に国際的な公空間に引っ張り出されて、赤恥をかくことなど想像すらできなかっただろう。


2)その次に現れた大きなごまかしの言葉が自衛隊である(補足5)。自衛のための戦争というごまかしを含んだ用法(補足6)も同時につくられた。いうまでもなく、憲法9条第二項との整合性をごまかすために作られた言葉である。当然自衛隊を用いて、自衛のために外国に侵攻するという詭弁も成立するだろう。そして、自衛のために自国が滅びるという皮肉なこともあり得るのである。言葉を軽視するのは、自分をごまかすことであり、他人はおろか自分でも論理の根拠を失うのである。
 
韓国では裁判所が「本件に関しては、行政から斯々然々の要請があった」と読み上げる国であると驚くのは、将に目糞鼻糞を笑うの類である。
 
公の空間を意識する文化へ向かうには、マスコミの努力も重要である。NHKは率先して、政府から独立して発言しなければならない。なぜなら、NHKは現政権のためではなく国民のための放送局だから、国民は税金ではなく視聴料を支払うのである。
 
もっとも、公の空間と個人の自立は、同時達成されるものである。「個人の自立」は東アジア諸国にとって極めて難しい問題である。何時も問題解決を考える時に行き着く先は、学校教育である。
 
 補足:
1)強制連行するのなら、このような言葉を作る必要などない。
2)「始めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。全てのものは彼を通してつくられた。」と聖書にある。言葉は肉を得てキリストとなる。
3)公の空間を意識するところから、公つまり表に向かう姿勢と裏での私的な姿勢に差が生じる。公の空間と私の空間の峻別があって初めて、プライバシーという言葉の意味が理解される。因みに、寄付は公の空間への金銭的貢献である。日本では、寄付を社会人の義務と考えるのではなく、恵まれない個人への施しと考えるのは、本文に示したような未熟な社会的意識による。
4)そのような文化的背景があるため、大衆相手の言葉は定義が曖昧で時代とともに大きく動く可能性が高い。最近の言葉で、例えば”イケメンゴリラ”や”美しすぎる国会議員”では、言葉のかなりの深いところまで崩れている。ゴリラはメンではないし、「すぎる」は形容詞の最上級を示す語尾ではない。
5)念のために補足すると、私は憲法を改訂(改正とはいいません)して、軍隊をもつべきだと思っています。
6)ある国が攻めてきた場合、戦うのは自衛の戦争と言えるという反論はあり得る。しかし、その反論が正当なら、先の大戦で日本と戦った米国の戦争は、自衛のための戦争ということになる。