1)卒業と入学のシーズンがやってきた。学校の光景として、校庭に置かれた薪を背負いながら読書に励む二宮尊徳の銅像を記憶しているひとは多いかもしれない。しかし、どんな本を読んでいたのか、説明などなかったのではないだろうか。http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20120127/ninomiya
 
上記サイトによれば、二宮尊徳は儒教に関する本を読んでいたのではないかと書かれている。テレビなどの時代劇をみると、学校(寺子屋)では儒教、例えば、論語の文章を丸暗記する場面が多かったと想像する。もちろんその中には知恵がたくさん含まれている。例えば、「子曰く、学びて思わざれば則ちくらし、思いて学ばざれば則ちあやうし」は学習のあり方を適切に指摘していると思う。
 
つまり、本を読んで学んだつもりでも、自分の考えとして取り込めなければ(消化不良の形で単に記憶に残るだけでは)、知恵とはならない。また、何かを考えても他人の考えを取り入れて(読書や学習で)自分の考えを磨かなければ、独善に走る可能性がある。
 
社会の指導層は、読書し学んだ者でほぼ占められるが、彼らが消化不良の情報を元に動けば、社会を間違った方向に導く可能性がある。その典型例として、マルクスの本を読んで、消化できずに国を率いた悲劇が挙げられると思う(補足1)。
 
2)一般に、本を読んでも消化不良に終わる場合がほとんどである(補足2)。食べ物と同じで、消化不良の部分が排泄されるだけならほとんど害はない。しかし、吸収された場合、つまり、丸暗記と誤解の形で記憶に残った場合、その読書はむしろ有害となる。


もちろん、個人的にはその本を読了したという快感が残るので(浪費した時間を考えなければ)有害とばかりは言えないかもしれないが、社会にその消化不良の知識をばらまけば、社会全体では有害となる。政治のスローガンに用いるとか、ネット上に公開することで、人を惑わすことになるからである。(補足3)
 
どうすれば読書の害を無くするか? 
 
まず常識を動員して、人心を惑わすような本を見分けて読まないことである。しかし、古典として残った名著を読む場合、当時の時代背景を考えて読まなければ誤解は心の底にまで達する可能性があり、注意を要する。例えば、論語の「人に大切な心は、仁である。仁は、親に対しては孝、主従の関係に関しては義、仲間に対しては信である、全ての人に対して礼を保つ」などと説かれれば、かなりの説得力を持つ。


しかし、均一(注釈1)で狭い社会空間を前提にした思想であり、現在のように世界の価値観が交錯する時代の価値の物差しとしはそれほど有力とは言えないと思う(補足4)。“正しい”とか“真理”とか言うが、それらは所詮その社会での多数派の考えに過ぎない。万有引力の法則も多数派の意見であり、それは“科学的”に証明できる考え方ではない(補足5)。
 
従って、本の与えてくれる知識や知恵を理解したとしても、それらは自分が思考するための道具として用いるべきである。知的活動の主人公はあくまでも自分であり、自分が思考し自分が判断しなければならない。そのように考えて本を読むこと、が上記質問の答の一つとなると思う。


つまり、人間は他人と知識を共有することはあっても、本質的には知的に独立した存在である。従って、その独立のプライドを失ったヒト科の動物は、ホモサピエンス(知的人間)とは言えないと思う。パスカルの言葉をモジルと:「人間は考える葦である。しかも孤独な葦である。」
 
補足:
1)資本論は精緻に資本主義経済を論じているのだろう。しかし、その成果からの遠望としての未来社会のモデルを、現実の政治で利用したのは何故なのか? 資本家から資本を取り上げて共有とし、共産主義社会を建設する。そして、労働者は「能力に応じて働き、必要に応じて取る」ことができる。精緻な理論とその杜撰な政治利用との間のどこかに、大きなインチキがなければ社会主義の失敗は説明できない。

2)二人はも夜も聖書をんだ。だが私が白とんだところをあなたはんだ。
(英国の詩人 ウィリアムブレーク)

3)これは、自分で自分の首を絞めるような言葉である。ただ、ネット上で公開した場合、一定の説得力がなければ、読まれないので害は少ない。一方、政治的に既に著名な人間によりブランドラベルが貼られると、読む人が多くなり有害の度合いも大きくなる。
4)机上の空論を繰り返して出来上がった精緻な空論の体系に思える。そのような現実離れした精緻な空論は、現実に利用されれば、例えば、皇帝による人民の家畜化指針などに用い得る。
5)自然科学の法則は、正確には仮説(仮定としておく説)である。それを元に、実験結果が例外なく説明された場合、それを法則と呼ぶ。

注釈:
1)人の身分には上下があるが、その”構造が社会(国家)全体で一定である”という意味で”均一”を用いた。
(16:00 少し編集)
世界は激変の年を迎えた。一方、我が国のマスコミは、無能な国会議員たちを言葉狩りで攻めて、国民に安上がりの娯楽として与えている。(補足1)
 
自民党の大西英男衆院議員が衆院北海道5区補選の応援で現地入りした際、神社の巫女から「自民はあまり好きじゃない」と言われたことに対して「巫女さんのくせになんだと思った」と発言した。これは女性蔑視、職業蔑視と捉えられる発言であるとして、各メディアが報道している。
 
夕方のNHKニュースでも、大西英男議員のこの発言が報道されていた。民進党の岡田代表や谷垣自民党幹事長も国民の政治への信頼感を損なうと、大西議員に苦言を呈していた。
 
また、上記ヤフーニュースでは、“巫女は天の神と地の人間とを結ぶ女性といえるでしょう。そうした日本の神道の信仰を支える巫女を「巫女のくせに」というのはかなり乱暴な表現です。女性蔑視、職業蔑視というだけでなく、神社関係者は自民党の系列だ、関係者は支配下にあるというちょっとした思い上がりがあったようにも受け取らえる失言です”と書いている。 
 
現代の巫女さんを“天の神と地の人間とを結ぶ女性”と説明するのも白々しいし(補足2)、それを大西議員の言葉狩りに用いるのも難癖の類である。この程度の批判を神妙に受けて、遺憾であると発言する谷垣幹事長の政治家としての小ささ、真顔で攻撃する岡田委員長のバカバカしさにうんざり(補足3)。もっと大事なことがあるだろうに。
 
大西議員といえば、20144月に衆議院総務委員会で、質問中の日本維新の会(当時)の上西小百合衆院議員に「子どもを産まないとダメだぞ」とやじを飛ばして話題になった人。その時は上西議員に謝罪して話は収まった。その上西議員といえば、予算委員会を病気だと言って欠席して、翌日は知人と旅行を楽しんだことで、維新を除名された人。この国は、狂っている。
 
補足:
1)北朝鮮は爆発寸前の火薬庫のような状態である。中東は悲劇的に混乱している。世界経済はアルプスの稜線上を渡っているような状態である。米国は無責任にも孤立主義をとるかもしれない。その時、日本はスラム街を警戒感もなく丸腰で歩くような状態である。日本の政治家は、単なる穀潰しなのか? マスコミは仮想敵国のプロパガンダ機関なのか?

2)上記の巫女の説明を読んである体験を思い出した。数年前に長野県にドライブで行った際、有名な神社で何の迷いか、夫婦で祈祷をしてもらった。その祈祷料10,000円札一枚を窓口の巫女さんに手渡した時、札をピンと指で弾く姿が印象的だった。女性の銀行員が札を数える時に最後の一枚を確認するあの仕草である。

3)大西議員があまりにもレベルが低いのなら、黙って除名なりすれば良い。(追加)
以下は、最近読んだ片岡鉄哉著「日本永久占領」と外務省ホームページなどから得た情報を元に、日米安保条約の改訂について書いた私的メモである。本文中の引用ページは、「日本永久占領」の頁を示す。

1)戦後サンフランシスコ講和条約と同時に日米安全保証条約が締結された。この条約は、講和条約締結時に軍隊を持たないために、日本が防衛の為の暫定措置として米軍の駐留を希望し、米国も同意するという形で締結された。

旧安保の各条文の概要を書く:
前文には、「合衆国は日本国が攻撃的な脅威となるような軍備を持つことをさけつつ、侵略に対する自国防衛のため漸増的に自らの責任を負うことを期待する」と書かれている。
(第1条)米国は日本国内に陸海空軍を置く権利を得る。日本に駐留する米軍は、極東における国際平和維持に寄与し、日本国内の内乱や騒擾の鎮圧、日本への外部の武力攻撃に使用できる
(第2条)日本国は米国の事前の同意なくして第三国に軍の基地使用、駐兵や軍の通過権利を与えない
(第3条)米軍の配備を規律する条件などは両国間の行政協定による。
(第4条)日本区域における充分な平和維持の措置が他に生じた時は、効力を失う(第5条)この条約は批准を要する。
 
この条約は講和条約後のものとしては、米国への隷属的な内容であり、改訂は自民党政権の課題であった。しかし、その時期については自民党内でも大きな開きがあった。当時その考えが希薄であったのは、吉田茂一派だと思う(補足1)。河野一郎や岸信介らは、憲法改正と安保改訂を早期に且つ同時に行いたかったが、吉田茂らの反対意見が強く、首相の岸はかなり早い時期に憲法改訂を諦めた。

改訂案では(岸内閣がマッカーサー二世駐日大使らと共に作ったものだと思う、詳細は後日触れる予定;当時大統領はアイゼンハワー、国務長官はダレスであった。)不平等な条項が一部削除されたり表現が和らげられたりしている。つまり、①米軍による内乱鎮圧の権利は削除された。②第三国の軍の通過権を排除する文章もなくなった。③極東有事の際に条約の実施に際して、事前協議を行う規定(第4条)が追加された。④“米国は日本に陸海空軍を置く権利を得る”という表現は、“陸海空軍を置くことを許される”という表現になっている。また、⑤条約の形態として相互協力的なものに変えられた:つまり、第5条で、「両国は日本国内での一方に対する攻撃は自国への脅威と解釈し、自国の憲法の範囲内で共通の危険に対処する」が追加された。

また、旧安保の第4条の代わりに、第10条で「どちらの国も10年後に条約終了を通告でき、その場合、1年後に条約は終了する」となっている。これが改定時の安保騒動に加えて、更に10年後にも安保騒動が起こりえた理由である。この条約では、国連の活動を非常に重視している様に書かれている。

ただ、肝心な点には何も触っていない。それらは、憲法の改正と軍備保持である。従って、改正案での変更点は、旧安保の包装紙を変えた様なものかもしれない。
 
2)重要な点は、旧安保は第4条にある様に、暫定的なものであり、日本が憲法改正と独自軍を保持することと同時に解消されるべきものであった。その点に最後まで拘ったのは河野一郎であった。「憲法改正、不平等条約改正、再軍備、自主外交の全てを骨抜きにした以上、河野は梯子を外された失望を味わったであろう。国を思う熱いナショナリズムで結ばれた同士関係(岸と河野)はナショナリズムという鎹を失ったのである」(452頁)と上記本には書かれている。
 
従って、岸信介は吉田茂の応援を得て、この安保改訂を成し遂げることになるが、それは岸の面子を保つ意味はあったが、日本がまともな独立国になる機会を無くしたことになるのかもしれない。岸の河野との同盟を諦めて、吉田の協力を仰ぐことになる姿勢を、上記本の著者は“両岸”と呼んでいる。(補足1及び補足2)
 
この安保条約改訂に反対する運動が、社会党や大学生の左翼的組織により日本列島を揺るがせた。所謂60年安保闘争であり、東大では女子学生が一人死亡した。安保改訂は日本が米国に隷属するという形を少しではあるが、解消するものであり、社会党や共産党には本来反対する理由はない。しかし、社会党は安保改訂阻止を掲げて国会を混乱させていた。
 
従って、安保改訂に対する反対というより、日米安保体制に対する反対であり、それは社会党の行動から明らかだった。つまり、安保改訂論議が始まるまえに、警察官職務執行法の改訂が岸内閣により提案された時(結局審議未了)、社会党の風見章訪中団の共同声明に、「日米安保条約破棄」と「アメリカ帝国主義は日中両国人民の敵である」という文言が入っていた。その翌年3月(1959年)の浅沼訪中の際の共同声明として発表された。(443頁)
 
現憲法下では、米国との同盟関係は日本の防衛にとって不可欠である。このような反日政党が国会の1/3の議席を占めていたこと、そして、東大や京大などのトップ大学で、学生たちが安保反対の大騒ぎを起こしたのは、日本国民の心の中にナショナリズムの感情はあっても“国家”という思想がなかったことを証明していると思う。
 
3)上記本「日本永久占領」の日米安保改訂の部分は非常に退屈で、読み終わるのに時間を要した。それは政争のための政争が延々と続くから、面白くないのである。その政争は、マッカーサーが育てた社会党や自民党官僚政治家らが、国家としての形を回復したいと考えた岸信介や河野一郎らの政治家と「国家」という概念の重要性(の感覚)を共有しなかったことが原因で生じたと思う。
 

この原因として、占領政治が日本から国家という骨組みを粉々に破壊したため、戦後いつまでたっても「国家として片輪の状態にある」という説をよく聞く。その「」内の言葉は意外にも、実際にマッカーサーが作った骨抜き憲法を擁護し、マッカーサーの下で権力を築いた吉田茂が、池田内閣の所得倍増計画で経済に集中していたときに発した言葉である(吉田茂“世界と日本”番町書房、1963;補足3)。しかし、「一旦国家という枠組みを国民が得ていたのなら、党人政治家がほとんどパージされたとしても、このようなことになるのだろうか?」という疑問は残る

 
日本人も他の国同様十分強いナショナリズムを持っている。しかし、それが現実の政治体制の中に希薄にしか存在しないのは何故か。それは、一般国民の間に「政治は、明治の時代から薩長&貴族によるものであり、平民の関与するものではない」という意識が強くあるからだと思う。それを変えるには、有識者一般が投票する側だけでなく、投票される側に立つという形での政治参加に義務を感じる“空気”を醸成すべきであると考える(補足4)。
 
 
補足:
1)朝鮮戦争が勃発して、米国は再軍備を要求するようになった。吉田茂は「日本は貧乏であり再軍備など出来ない」と、マッカーサー1世の作った日本国憲法を逆手にとり、且つ、経済援助を要求することでこれを避けていた。それに対して、米国極東司令部のマグルーダー中将は、「日本をまず富裕にしてから軍事的に強化するという概念は、日本人の倫理的体質を弱め、日本が自衛能力を獲得することを無期限に延期するだろう」と発言した。また、アリソン駐日大使は「日本は自由陣営を支持するともしないとも、確固たる信条がないのだから、我々が勝ち馬であるときだけついてくるのだ」と報告している。(301頁)
2)このような改訂になったのは、中国共産党と台湾の金門砲撃(金門・馬祖砲撃)で、米国は台湾を後ろで支えることになる。条約を完全に対等なものにし、憲法改正と独自軍保持を行うと、日本も米国とともにこの種の紛争に直接関与することになる。その覚悟を問われることになり、自民党も左派を中心にして、二の足をふむことになった。
 
3)吉田茂も、当然のことながら、早期に憲法を改正して自国軍を持つ独立国家となることが理想であったと思う。しかし、GHQの存在下での脆弱な経済の回復が緊急かつ最優先の課題だったという言い訳を準備して、より安易な道を選択したのだろう。しかし、憲法改正と自国軍の保持は、経済復興の後で行うと考えることは、幼児に対して言葉を覚えさせてから歩行の訓練をするようなものだろう。
 
4)例えば、大学と名のつく全ての教育機関で教授及び准教授であった者に対して、60歳で定年退職し市会議員などへの立候補を義務化すればどうか。あるいは、国民に対して政治家になってほしい知識人を選挙の際にパソコン画面の中から選ばせる。そこで、一定数以上の票を得たものに選挙に立候補する義務を課するのである。もちろん、運動をしなければ落選するだろう。その場合は供託金没収(職場で選挙費用引当金の形で積み立てておく)という形で、これまで日本国のお陰で出世してきた礼金として諦めてもらう。しかし、何人かに一人は積極的に運動するはずである。これは極論である。しかし、橋下徹のような素人から政治家になる人間を日本に数千人誕生させれば、日本の政治は変わると思う。