1)天皇陛下が、譲位の思いを国民への談話の形で発表されたのは、8月8日である。この言葉で注目されるのが、摂政は解決にはならないことと、象徴という言葉を何回も使われたことである。天皇が直接国民への談話という形で、国政に関係することを話されるのは異例であり、本来なら事前に宮内庁や内閣がご意向を汲んで対応するべきであった。
 
天皇が国民に直接談話の形でご意向を発表されたのには、深い理由があると思う。その一つは、宮内庁か内閣の怠慢である。天皇が譲位の意思をお持ちだというニュースがNHKで流された日の翌朝、宮内庁長官はそんな話は無いと明確に否定した。しかし、他の報道機関もその真偽を確かめて、相次いでNHKと同じ内容の報道をした。そして、それが確かであることが、8月8日の談話で明確になった。 
 
宮内庁は、天皇と内閣の橋渡しをする機関であるから、その橋渡しができなかったことが明確になった時点で、その責任を追及されるべきである。しかしなんの前説もなく、天皇のおことばが宮内庁のホームページに淡々と掲載されている。http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12
 
一方内閣もその責任を宮内庁長官に問う兆候は全くないし、国民への説明も単に「重く受け止める」というだけであった。その後のニュースは、秋に皇室典範の改訂にむけて有識者会議を組織すると報じている。そのような対応は、国民をバカにしているという意見がどこからも出てこないのが不思議である。 
 
今後、有識者会議を組織するのなら、その人選を含めて詳細にその目的、設置する理由を国民に説明すべきである。目的は憲法上、天皇のお言葉と直接関係があってはならない。
 
2)何故そのようななし崩し的に皇室典範の改訂に向かうのか?こちらで勝手に考えてみる。 
 
おそらく宮内庁は、内閣に天皇のご意向を何度も伝えた筈である。それ故、内閣は宮内庁の責任を問わないのである。内閣は天皇のご意志に沿いたくないので、ずっと無視してきたのだろう。そこで、天皇と内閣の板挟みになった宮内庁は、NHKにリークするという強硬手段をとったのだろう。 
 
しかし、天皇のご意志を報道機関にリークしたことが明確になれば、それは守秘義務違反になる。また、天皇のご意志で内閣が動けば憲法違反になるので、翌朝の宮内庁長官は、そんな話はないと否定したのである。では、何故内閣は天皇のご意志を無視したのか、また、何故天皇は強く今回の発表にこだわられたのか?  
 
天皇は、安倍内閣の考えている憲法改訂の方向を推察され、良からぬ方向だと危惧されたのだろう。その危惧とは、「安倍内閣は、天皇の立場を立憲君主的なものに変更する」可能性があることだろう。それが、談話の中で象徴という言葉を何度も使われた理由だと思う。天皇のご意向が無視され続けたことと、衆参両院で安倍政権が改憲勢力を確保したことで、陛下の心の中に高まった危惧の気持ちを宮内庁が強く感じたのではないだろうか。 
 
天皇はここ数百年実際的な意味での権力の座にはなく、単に日本の権威の頂点にあったのみである。この権力と権威の分裂は、あの悲惨な戦争の一つの原因であったと思う。天皇の権威を借りて、独裁的な体制を作り上げることは、その善悪は別にして日本政治における伝統的形だったと思う。明治維新の際にも、天皇の地位は倒幕に利用された。民主主義の時代である現代、そのような天皇の政治利用は避けなければならないと思う。 
 
自民党の新憲法草案では、天皇を「国家の元首」としている。また、天皇の国事行為については、天皇が国家の元首であるという線に沿って書かれている。https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/news/policy/130250_1.pdf
 
例えば、草案5条には、「天皇はこの憲法に定める国事に関する行為を行い、国政に関する機能を有しない」と書かれているが、現行憲法3条に相当する条文は、単独の条文から第6条の第4項として変更の上残されている。(補足1)そのほか随所に天皇の国政への関与を強める表現が盛り込まれている(補足2)。それらは草案5条の”国政に関する機能を有しない”に矛盾する。天皇陛下がこの草案が新憲法となることを危惧されるのは、十分理解できる。
 
自民党の憲法草案では、現行憲法の9条二項を削除して、国防軍の設置を規定している。天皇を国家の元首とするのではなく、日本国民統合の象徴とする条文を残すのなら、天皇陛下は国防軍の設置に反対の気持ちを持たれないと思う。
 
憲法9条だけでなく、論理もなにもないのが、この国の政治の実態である。法(ことば)と実際(世界)をもっと近づけてほしいものである。
 
補足:
1)憲法3条:「天皇の国事に関するすべての行為は、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負う」に相当する条文は、自民党草案では6条4項にある。ただし下線部分が「内閣の進言を必要とし」に書き換えられている。天皇は元首であるから、内閣の助言を内閣の進言に変えたのである。
2)「憲法4条:天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する能を有しない。」に相当する自民党草案5条の文章において、下線部「行為のみ」の「のみ」が削除されている。
 
1)科学の本質:
最近の天気予報は全くあたらない。昨日の予報(愛知)では、今日は曇りと雨のマークが付いていたはずであるが、今朝の予報は晴れ時々曇りであり雨マークはない。気象は自然現象であり、科学の研究対象である。予測が難しいのはわかるが、その理論が十分発達しておれば、もっと予報の確度が上がる筈である。
 
ここで思い出すのは、スパコン開発予算を審議する際に、気象のシミュレーションの刻みが細かく出来、天気予報の精度も上がるという主張がなされたことである(下の知恵袋記事参照)。しかし、その主張は正しくないことが、この当たらない天気予報で証明されたのではないだろうか。


どんなに高速のコンピュータを用いて詳細なシミュレーションをしても、人の頭でつくるモデル(つまり理論)が本質を捉えていなければ、明日の天気も正しく予報できないのである。科学研究は、自然現象の理解のためにより本質をついたモデルをつくることであり、コンピュータがいくら高速になっても科学の発展には直接関係がないのだ。
 
2)政治の世界で科学の本質が理解されていないこと:
ここで理化学研究所に「京」という大型コンピュータを作る際の国会審議について復習したい(2009年)。この件、蓮舫議員による「何故世界一位の計算能力を持つコンピュータをつくらなければならないのでしょうか?二位では何故いけないのでしょうか?」という質問で大きな話題になった。

科学の本質がわかっていないとしか思えないピンボケ批判が、理研所長の⚫⚫を筆頭に文部官僚や自民党議員らから出され、それが日本を席巻した。そのような雲行きのなか、私は蓮舫議員を擁護する記事を書いた。http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n70418
 
その後、2010617日、蓮舫議員は産経新聞などのインタビューで答えて「(日本が)科学技術の分野で一番を目指す。あるいは他の分野でも一番を目指すのは当然だ」と発言。何を勘違いしたのか産経新聞は、「上記事業仕分けの時の発言を修正した」と評した。(補足1)

日本を代表する産経新聞の幹部も科学の本質が全くわかっていないのである。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%AE%E8%88%AB)ここで、科学技術という単語であるが、科学と技術という意味であり、一つの意味を表す単語ではない。深山幽谷のように関係が深い二つの単語を並列につないだだけの単語である。(その関係も、科学技術と深山幽谷とでは全く異なる。日本語は非常に出来が悪い言語である。だからこそ=>3))(補足2)
 3)理系人間を優遇して、政府や報道機関の幹部に登用すべき:
化学専攻だった理研所長、文部官僚達、その尻馬にのる自民党議員達(文教族というらしい)、それに産経新聞等の報道機関などの多くの人は、科学技術とスパコンの性能を切っても切り離せないものと考えていることがわかる。つまり、これら日本の表舞台で活躍する人々は、科学も技術も科学技術もわかっていないのである。
 日本では、理系一種採用の官僚は技官とよばれ、今でも第一線に出るまで出世するのは困難である。文系一種の官僚だけで、霞が関は抑えられている。しかし、この世界の政治において、理系の知識人抜きに、日本が生き残れると考えるのは非常に甘い。
今後日本も優秀な理系官僚を増やして、政府中枢に登用すべきである。もちろん、現在政府機関で働いている理系人間は、悪い待遇のもとで集められたのであり、それほど優秀ではないだろう。20年程度の長期間を想定して文系幹部官僚のかなりの部分の入れ替えを行うべきであると思う。
 因みに、原爆投下の記念日にBSフジのプライムニュースで、歴史家の秦郁彦教授が「原子爆弾が投下された時、政府中枢の中で唯一理系だったのは昭和天皇であり、その天皇のみが原爆の恐ろしさを正しく理解されていた」と話していた。上記スパコンの話では、政府中枢にはまともな理系人間は一人もいなかったのだろう。
補足:
1)科学とは何の関係もないのは科学は頭でするものであり、スパコンでするものではないからである。スパコンの技術も、如何に大規模にするかという問題であり、お金と排熱などの問題だけだろう。革新的な技術、例えば量子コンピュータのような発展は、何もない。
2)ここも論理に飛躍があったので、補足します。要するに言葉を厳密に使えるのは理系人間であるという意味。言葉は定義をしてから使うことが大事で、その点に理系が敏感である。例えば、文系の人は力(ニュートン)、エネルギー(ジュール)、単位時間当たりのエネルギー(ワット)の区別すらできない人が多い。つまり、理系の方が数学や物理学の法則を勉強する分、多くの言葉を知っているからだと思う。
 
芥川賞受賞作が掲載されたので、文藝春秋を久しぶりに買った。早速、受賞作「コンビニ人間」を読んだ。面白いと思う一方、非常に不自然な感じがした。理系人間ではあるが、不遜なる感想を書いてしまうことになる。
 
1)あらすじを簡単に書く:
主人公は小学生から高校生までは、病的というべき性質であり、友達もできずいつも一人で黙っている女の子だった。それは、人間が普通に持つ人の痛みや命の尊さなどに対する感覚を持たないサイコパス的性質である。カウンセリングを受けた結果は、家族の愛情で普通に戻ることを期待しようというものだった。
 
大学生になり、親元を離れ仕送りを受けて通学することになる。沈黙と孤独の生活は変わらない。一年生の時にアルバイトに興味を覚え、ビルの一角にできたコンビニを見つける。そこに応募し、簡単な面接ののち採用され、結局20年近くそこで働くことになる。それまで社会人としては白紙状態だった主人公は、そこでコンビニでの仕事である、挨拶の仕方、客の気持ちの推察、レジ業務、商品の配列など全てを学び、優秀な「コンビニ人間」として作り上げられる。
 
また、男性に興味はなく、その他の社会性を一切持たないままであった。その結果、正業につくべく他社に応募しても、全て採用試験は不合格だった。しかし、「コンビニ人間」として自分が作り上げられたことで、一旦は家族や田舎の同級生からノーマルな社会人と認められるようになる。その後、主人公は年の経過とともに変化しないので、再びノーマルな社会人として見られなくなり、風変わりな男性を家に入れることで年齢相応の姿を偽装することになる。男性に全く興味がないが、二人でいる方が社会の好奇の目から逃れられるからである。
 
その後、その仮面夫婦的な役割の夫役を引き受けたニート的な男性の要求で、もっとまともな仕事を変わることを考え、コンビニを止めて職をさがす。ほとんど書類選考でおとされるが、一社に奇跡的に面接に呼ばれることになったので、二人は電車で出かける。面接までの僅かの時間にふと近くのコンビニに入ってしまう。その店は人手不足なのか、非常に管理の悪い状況であった。それを見た主人公は、店員でもないのに体が勝手に動き出し、商品の並び変えなどをしてしまう。そこで自分は、「コンビニ人間」以外では生きていけないことを自覚して、その男性とその場で喧嘩別れをしてしまうのであった。
 
2)感想であるが:
「コンビニ人間」という発想は面白いし、コンビニを水槽のように記述し、コンビニ人間をその中に飼われて居る生物のように思わせるのも新奇である。社会を一つの機械と考えて、人間をその部品を構成する一個の歯車と見る見方も、一定の支持はあるだろう。
 
しかし、コンビニ店員として優秀な人は、機械の歯車とは違ってその他の接客業においても十分適応できると考えるのが普通である。「コンビニ人間として生まれた」という記述は、機械にはめ込まれた歯車のように他に転用できない人間として作りあげられたと主張している。コンビニ人間になるのが、人間としての柔軟性に由来するのなら、それ以前の病的な人格と矛盾する。従って、コンビニ人間にしかなれないDNAを持ったこの世に生まれたことになる。しかし、そんなことなどあるわけがない。
 
小説の中では、コンビニでアルバイトを始めて、そこで「コンビニ人間として生まれた」と書かれている。そして、それ以前は回想として書かれており、「コンビニ人間として生まれる前は、どこかおぼろげである」と書かれている。そこまで読んだ時は非常に新鮮な感じがして期待したのだが、その後の「コンビニ人間誕生」の物語は、ごく普通の研修であったり、先輩の姿を真似ることであったりする。誕生というからには大きな誕生の苦しみや雷光に打たれるような痛みが書かれていなければならない。 
 
また、コンビニ人間となったのちには普通に同窓会へ参加し、友人と話を繕う姿には普通の人間としての柔軟性を感じ異常を感じない。なによりも、「普通の社会人」という考えを押し付ける周りからの防御を考える姿は、「普通」を証明している。
 
幼少期からのサイコパス的な性質を含め、30代になっても変わらないという設定だが、それはコンビニ人間として客の嗜好を正しく推測するまで“成長”する姿と矛盾するので、「コンビニ人間としての誕生」でなくてはならないという書き手の事情は分かる。また、主人公以上に社会性を持たない異常な男性を飼うことになる(同棲することになる)のも一連の事情の延長線上にあるのだろうが、そのプロセスももっと異常でなくてはならない。主人公ではなくその男性の記述の方に、妙にリアリティーがあるのみである。
 
つまり、小説はどのように書くことも可能であるが、あまりにもこの主人公と話の進行には小説的リアリティー(読者が納得する話の筋)がない。サイコパスでもなんでも、緻密に書けばリアリティーが出てくる筈だと思うのである。同じ号に記載されている芥川賞選評のなかで、島田雅彦氏の評価が当たっているのだろう。(8月16日朝編集)