世界一の核軍事強国である米国が核の先制不使用を宣言することにより、他の核保持国が核兵器を背景にして、周辺諸国に対し強圧外交を遠慮なく展開できることになる。つまり、いかなる核保持国でも、核保持特権国としての待遇を国際社会で得ることになる。
 
1)オバマ米国大統領が、任期を僅かに残す今、最後っ屁のように出してきたのが核先制不使用の宣言(案)である。同盟国の日本、韓国、フランス、英国などが反対していると、ワシントンポスト紙が報じた。この記事を引用して朝日新聞社説は、安倍総理はオバマ氏に力を添えるべきだと書いている。
 
その中で、川口順子元外相や豪州のエバンズ元外相らアジア太平洋地域の元閣僚らは最近、オバマ政先制不使用(宣言)を求め、日本を含む米国の同盟国に支持を促す声明を出したと書かれている。豪州にとっては中国の核の脅威は小さいので、有りえないことではない。しかし、日本は直接中国と尖閣等で対峙しており、川口氏が本当にそう思っているとしたらバカか、反日分子だろう。
 
佐藤優氏は動画で、この件の安倍総理の反対を当然だとして支持し、朝日新聞の社説を感情と論理を混同していると批判した。https://www.youtube.com/watch?v=CeA3Q8ePYRo そして、「例えば北朝鮮が核兵器を日本に向けて発射準備をし、発射のスイッチを押し、核ミサイルが飛び立つまで、核兵器の使用ができないのだから、そして、その核兵器を撃墜できるとは限らないのだから、米国の核の傘の意味がなくなる」と説明している。
 
その論理もちょっと不完全に思う。日本を第三国が核攻撃しても、米国への核攻撃ではない。従って、核先制不使用宣言をした場合、日本の代わりにする核反撃も放棄することになる。つまりその宣言は、友好国に置いた核の傘を廃止しますと、米国の方から宣言することに等しい。
 
もちろん日米安保条約があっても、日本の核反撃に米国は核攻撃を用いる可能性はほとんど無いだろう。可能性があるとしたら、相手が米国へ核反撃しても100% 撃墜できる自信があるときだけである。それもやらないというのが、核先制不使用宣言である。(補足1)
 
日本と米国は確かに「日本国とアメリカ合衆国との相互協力及び安全保障条約」という名の条約を締結した同盟国である。しかし、この条約文には核という字は一字も書かれていない。つまり核の傘とは、米国が持っている核兵器が使われるかもしれないという可能性を、仮想敵国が勝手に感じる脅威なのである。核の傘は、国際的軋轢はいろいろあっても、戦端が開かれる前にのみ意味のある概念である。平和の時には命の値段が非常に高く、それが核の傘という幻を見せる。しかし一旦核兵器が使われてしまえば、命の値段は急落し、同時に核の傘は幻となって消失してしまう類のものなのだと思う。
 
2)敢えて、核兵器を先制使用しないと宣言する意味は何か? 今までは、オバマ氏の政治的パーフォーマンスと考えてきたが、よく考えれば具体的な意味もある。核兵器を互いに向けて、米国とその仮想敵国が向かいあっている時に、核においても強者である米国の先制不使用宣言は、仮想敵国の心理的動揺による米国への核先制攻撃を防止するように働く。(補足2)つまり、北朝鮮による米国への核先制攻撃の確率を大きく減少させることになる。
 
同様に、同盟国日本への核攻撃の確率も減少するだろう。したがって、対北朝鮮という問題においては、米国の核先制不使用宣言は、三沢などの米軍基地の存在する日本への核先制攻撃の可能性を減らし、日本の安全にも寄与する。つまり、佐藤優氏の北朝鮮を例に挙げた理屈は、現在のところ成立しないと思う。
 
北朝鮮が経済的にも復興して強力な軍事大国になった時は、話は別である。また、現時点で日本における米国の核の傘は、中国を意識していると思う。尖閣諸島の日本からの略奪を考え、沖縄を独立させて併合するシナリオを考えている可能性のある国として、中国は警戒されている。(そのように予想される)中国の画策を恐れるのは、中国が強力な核軍事力を持っているからである。
 
なお、北朝鮮問題は米国が平和条約を締結して、北朝鮮を承認すれば解決するだろう。核兵器の削減も総合的に交渉すれば可能だろうと思う。その趣旨で、以前に幾つか記事を書いてきたので、引用します。
 
北朝鮮に核兵器を開発させたのは米国である:ロイターの記事 20161/24
北朝鮮をソフトランディングさせるべき 201411/03
 
補足:
1)つまり弱小核保持国相手の場合のみである。しかし、先制不使用宣言をすれば、それも無いと宣言することになる。
2)オバマ氏の頭には、真珠湾奇襲攻撃があるのかもしれない。
 
田中宇氏は外交評論家で、有料ブログに無料ブログを混ぜてネット配信をしている。田中氏は今日無料記事として、オバマ氏の核先制攻撃不使用宣言についての考えを配信した。その内容は、全く以外だった。田中氏は、オバマ氏の政治的パーフォーマンスを正面から最大限に評価しているのである。http://tanakanews.com/160822nuke.htm
オバマ氏は、大統領就任直後に核廃絶の目標を発表し、ノーベル平和賞をもらった。しかし、その後は全く核廃絶の動きを見せなかったのだが、それについて田中氏は「しかし、その後のオバマは、米議会など米国内外の軍産複合体に阻まれ、核廃絶を進められなかった。」と書いている。
 
田中氏は、米国大統領の指導力が、現在の世界の政治的勢力図のままで、そして米国の産軍複合体を抑え込めば、核廃絶のための現実的な力になると信じておられるようだ。詳細に引用記事を挿入しての記事なので、正に「木を見て森を見ず」の典型だと思う。
 
極め付けは、以下の文章である。「オバマの主導で世界が核先制不使用を宣言すると、北朝鮮や中国との緊張が緩和され、米国が”米軍がいなくても日本は自衛できる”と考える流れになり、在日米軍が撤退傾向となり、対米従属を続けられなくなる。だから日本はオバマの計画に反対している。戦後日本の平和主義は対米従属のためのものであり、偽善だった。
 
田中氏は、戦後の東アジアにおける外交的緊張は、すべて米国の産軍複合体の企みの結果であり、産軍複合体が活動をやめれば中国や北朝鮮と日本との緊張も消滅すると考えておられるようだ。また、田中氏は米国が核先制不使用を宣言することは、同盟国に対する核の傘が消滅することになることがわかっていないのか、それとも、元々核の傘など何の外交的意味がないと思っているのかどちらかだろう。
 
私は、中国が軍事力で隣国を脅すことが可能なのは、核兵器を持っているからであり、日本が米軍に期待するのは核の傘であると思っている。また、中国の覇権的姿勢は米国の産軍複合体に挑発された結果では説明できないと思っている。日本は、対米従属を好んでしているのではない。
 
更に、先日のオバマ氏の広島訪問に関し、「今から思うと、5月末のオバマの広島訪問は、今回の先制不使用などの計画の先駆となる象徴的な動きだった。オバマは、安倍首相とともに広島を訪問することで、安倍(や後ろで操っている日本外務省)に「口だけでなくちゃんとやれよ。俺はやるぜ」というメッセージを送ったともいえる。」と書いている。オバマ氏のこのパーフォーマンスも、まともな外交と考えておられるには全く驚きである。
 
オバマ氏の広島訪問をこのように評価するなんて、空いた口がふさがらない。オバマ氏の核廃絶や核兵器先制不使用宣言に関する活動について、何度か批判的記事を書いてきたので、以下にそれらのサイトの一部を引用する。

 

核廃絶どころか、核不拡散すら実現できないことを、戦後の世界政治は証明してきたではないのか? スーパーマンの真似をする「エーカッコシー」を最大限評価するというのは、何か別の意図があるのだろうか。

 

追補:田中氏のブログを何年間か有料で読んでいたので、この様な文章をブログに書きました。「そんな人知らない」という人には、不自然に見えるかもしれません。
世界の国々でも日本でも、信教の自由が憲法に定められているケースは多い(補足1)。信教とは宗教を信じることであり、信教の自由とは特定の宗教を信じる自由または一般に宗教を信じない自由をいう。また、宗教とは、超越的絶対者や神聖なるものへの信仰(補足2)である。更に、信仰とは信じ仰ぐことであり、自分をその教えに従属させることである。

宗教に関して、もう少し詳しく我流解釈を書くと次のようになる。“宗教とは、世界と人間の理解、そして人間の行動と精神のあり方に関する、其々教祖の言葉や聖典の文章を、信者である個人が尊び受け入れることである。” それは、聖典や教祖の言葉にある記述に関する限り、精神における個人の自由はないと考えられる。(つまり、他からその人の精神の一部が、完全に予測可能である。)

一方、民主主義の原則は、有権者である個人が政治信条などにおいて独立を保ち、自分の意思でもって政治に参加することである。そこで、教祖や聖典の言葉が政治的判断に直接的に影響する場合、その宗教を信じる自由と民主主義を含むあらゆる政治体制とは、まともな形では両立しなくなる(補足3)。
 
大日本帝国憲法は、「社会の安寧秩序を妨げず、臣民に与えられた義務に背かない限りにおいて」と、条件付で信教の自由を認めている。非常に大まかな縛りの文章であるが、上記問題に関して考慮済みである(補足1b)。実際日露戦争のとき、良心的兵役拒否したキリスト教関係の人は、逮捕収監された。
 
日本国憲法では、それに相当する文言は「いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使してはならない。」である(補足1a)。この文言では、個人の信教の自由による行為には踏み込んでいない。宗教団体は地下に潜ることは可能であるから、現行憲法はこの点に関してかなり防備が弱いと思う
 
一神教の敬虔な信者である外国人を移住者として受け入れる場合、上記問題は難しい事態を招く可能性があると思う。「国家か神か」という選択になった場合、一神教の信者は神を選ぶことになるからである(補足4)。現在、国際政治の場における参加主体は、国家であり宗教でも民族でもない。従って、この種の問題は国際政治を不安定にする。

キリスト教圏などにおいて、信教の自由が政治と衝突しないのは、政治に積極的に参加する層に宗教心が薄く(補足5)、且つ、宗教において高い地位にある人が、政治と宗教の関係に深い理解をもっているからだろう。
 
補足:
a)日本国憲法20:  信教の自由は、何人にしてもこれを保障する。いかなる宗教体も、国から特を受け、又は政治上の力を行使してはならない。2: 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。3: 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
b) 大日本帝国憲法第28条:日本臣民ハ安寧(あんねい)秩序ヲ妨(さまた)ケス及臣民タルノ義務ニ背(そむ)カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス
 
2)広辞苑第二版では宗教を以下のように説明している。“神または何らかの超越的絶対者、或いは卑俗なものから分離され、禁忌された神聖なものに関する信仰・行事またはそれらの連関的体系。帰依者は精神的共同社会を営む。”
3)宗教の聖典に書かれた思想や教祖の口述による思想が、そのまま信者全体に採用され、其々が個人の考えという衣をかぶって政治の舞台に出てくる。
4)同じ宗派の敬虔な信者たちが、二つの敵対する国家に分断された場合などのケースで、この種の問題が生じるのではないだろうか。
5)「神は死んだ」と言っても、その方の身に危害が加えられたとは本などに書いてない。