1)殺人や殺人未遂などの罪に問われた元名古屋大女子学生(A、現在21歳)の裁判員裁判第16回公判が22日、名古屋地裁で開かれ、精神鑑定をした医師2人が出廷した。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170223-00000001-khks-soci
 
元女子学生のAは、昨年宗教の勧誘にきた老女を斧で殺害し逮捕された。Aは淡々と取り調べに応じ、高齢女性殺害について「人を殺し、達成感があった」と発言するなど、不可解な説明を繰り返した。また、取り調べの中で、高校生の時に人を殺してみたいという欲求が高まり、同級生らにタリウムを飲ませて殺害しようとしたと打ち明けて、二度逮捕されるなど異例の展開をたどった。
 
一昨日、犯人に罪の意識があったかどうかについて、検察側と弁護側双方が立てた鑑定医に対する尋問があった。検察側の医師は善悪の判断ができたという結果を、弁護側は善悪の判断ができなかったという結果をそれぞれ尋問に答える形で出した。下に読売新聞朝刊から取った鑑定のまとめを示す。
 
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この鑑定が大事なのは、たとえ残虐な殺人でも犯人に善悪の判断ができない場合、その犯人を罰することができないと刑法38条(補足1)に書かれているからである。

 

 
ここで、弁護側の鑑定医の主張をまとめると以下のようになる。「犯行時には重度の躁状態で、衝動を抑えられなかった。発達障害のために社会性がなく、自分の意思とは無関係に「人を殺したい」という気持ちが湧く。そのような理由で善悪の判断ができなかった。」となる。
 
ここで、弁護側鑑定医が、論理的な考察の結果として結論を出しているのか?
 
2)先ず大事なことは、刑法にいう善悪の判断とはどういうことかについて、知ることである。(補足2)「善悪の判断ができない」という言葉の意味を考えると、①「殺人が悪として処罰の対象になるという知識がない」ということ(つまり、反社会的行為であるという知識がない)か、或いは、②「人が人を殺すことが、なぜ悪になるのかがわからない」、の二つの場合がある。
 
②の場合は更に、②—1:自分の思想信条や宗教的見地、又は強い殺人嗜好の表明にすぎない場合と、②—2:殺人という行為は殺される側が望まないことであり、堪え難い苦痛を殺される側に与えることすらわからない、のふた通りある。刑法が善悪の判断がつかない場合というのは、①且つ②—2の場合(積集合)であると思う(理由は下に書く)。
 
刑法41条の「十四歳に満たない者の行為は、これを罰しない。」という条項は、同じ趣旨で、処罰しないケースを年齢で一律に分けた条項である。この年齢に達するまでは、精神の発達が十分でないため他人の苦痛を十分想像できない。(②—2)そのため、人を殺すことが重大な犯罪として処罰の対象となる根拠を得るに到っていないと考えられるからだと思う。善悪の判断がつかないとは、このような意味である。
 
3)今回の元女子学生Aの場合、「殺人が悪として処罰の対象になるという知識」はあった筈である(①に該当しない)。更に、「人は殺される時に苦痛を味わい、且つ故無く殺されることを望まない」ことを知っていた筈である(②-2にも該当しない;上図:弁護側医師の村上医師もそれには同意している)。何故なら、日本有数の名門大学に合格し、国語や社会などについて十分な学力を備えているからである。一方、Aには強い殺人願望があったという。それを「殺人が悪であるとは認識していない」と居直るのは、極めて身勝手な屁理屈である。
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新聞記事によると、弁護側の医師は、「Aには自分なりの物事の定義があり、悪いことと認識していなかった」と述べた、と書かれている。(補足3)それは、上記の②—1の「自分の思想信条や宗教的見地、又は強い殺人嗜好の表明にすぎない場合」であり、Aの引き起こした殺人事件はその意味で、オームサリン事件などのテロリストやナチスのホロコーストと極めてよく似ている。
 
②—1として分類した、「人が人を殺すことが何故悪いのか判らない」というこれらの犯罪に対する場合、社会は(つまり国家は)テロリストから社会を防衛する姿勢で立ち向かうことになる。その戦いは戦争と殆ど同義である。それを、日本国民として認め、殺人犯で裁くことは、むしろ温情による裁きである。
 
(以上は一市民の意見です。25日朝編集)
 
 補足:
1)刑法第38条 罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。2 重い罪に当たるべき行為をしたのに、行為の時にその重い罪に当たることとなる事実を知らなかった者は、その重い罪によって処断することはできない。3 法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。ただし、情状により、その刑を減軽することができる。
同第39条:1.心神喪失者の行為は、罰しない。2.心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。
同41条:十四歳に満たない者の行為は、これを罰しない。
2)法律はそれを制定する趣旨に従って解釈しなければならない。
3)弁護士と相談してこのような意見を述べたのだろうか?
 
1)馬淵睦夫氏の出演する以下の動画をみていてふしぎに思ったことがある。https://www.youtube.com/watch?v=TXlTNN-HzG8(補足1)

 

それは何故日本で、金正恩をキムジョンウン、金日成をキムイルスンと呼ぶのだろうか。中国の政治家に対しては、例えば、習近平はシュウキンペイと呼び、毛沢東をモウタクトウと呼ぶ。毛沢東をマオツオートンとは呼ばない。 
 
我々日本人は知らず知らずのうちに、朝鮮半島の人に気を使い、そして、洗脳されているという証では無いだろうか。いつ頃からそのように半島の人の名前だけ特別に現地語読みに変えたのだろうか? 
 
そう思って、検索して見ると、同じ質問をヤフーの知恵袋にした人がいた。
この回答によると、ある韓国人が日本の法廷で、ボクではなくパクと呼ぶように要求したのが最初だという。それだけで、日本中で韓国語読みするようになるだろうか。
 
おそらく、マスコミ業界には朝鮮半島に気兼ねする強い空気があるからでは無いだろうか。日本国民の中は半島にそれほど気を使う空気がないのに、マスコミにだけそのような空気があるということは、半島に関する報道も日本人一般の感覚からは著しくずれていることを意味している。関係者に半島出身者が多いとか、何かトラップにかかっているとかで、マスコミ界の全体の空気が、ある種の汚染をしているのだろう。
 
日本のマスコミ関係者が気を使って朝鮮語読みしている状況証拠がもうひとつある。それはテレビに出演した大阪市立大学の朴一教授が、金正男など半島の人の名前を屡々「きんまさお」などと日本語読みすることである。朴一教授には、半島の人に気を使うという動機が存在しない分、客観的な態度が取れるのである。
 
つまり朴一教授は、日本人が朝鮮半島の人の名前を、気を使って現地語読みしていることをご存知であり、逆にそんな配慮は過剰であると思われているのだと思うのである。従って、学校等では歴史などの勉強の際に、毛沢東は「もうたくとう」、朴正煕は「ぼくせいき」と呼び、記憶するべきである。いちいちパクチョンヒと読んで覚えるようでは、まるで植民地ではないのか。

 

補足:
1)そこで議論されていたのは、金正男の暗殺事件および釜山に設置された慰安婦の撤去問題である。この動画中での馬淵さんの考えには全く同意できないので、ここでは議論しない。
1)「独裁政治は悪であり、民主政治は善である」という命題が真(YES)であるというのが常識のようだが、本当にそうだろうか?(補足1)
 
現在独裁国家と考えられている国として、中国や北朝鮮のほか、中東のシリア、アフリカのスーダン、コンゴ、ジンバブエなど数国と東ヨーロッパにベラルーシが存在する。中国の少数民族の弾圧や北朝鮮の粛清政治など、独裁政治には悪評がふさわしいように思われているが、そうでないケースもある。例えば数年遡れば、カダフィ大佐(補足2)の率いたリビアやニヤゾフ大統領のトルクメニスタンは独裁国だったが、産出した石油や天然ガスから得られる利益を国民に還元し、福祉国家を実現していた。
 
したがって、独裁国も様々であり、一様に批判するのはおかしい。一定の豊かさと時間がなければ、一般民が政治的意見をもち、それを吸い上げる代表が政治を行う民主政治など成立する筈がない。従って、他国の政治制度へ干渉することは、当然、内政不干渉の原則に反するとして批判されるべきである。(補足3)
 
更に、多くの民主国家は民主の仮面を被っているだけである。そして、その中の最大の国が行ってきたのが、独裁的な国際政治である。現在最悪のテロ国家と言われる北朝鮮だが、米国が話し合いに応じて、朝鮮戦争の終結と講和に応じていればずっと早い時期に、北朝鮮は核兵器抜きで中国式の国家に生まれ変わっていた可能性大である。その際、日本の拉致被害者も帰国していただろう。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/41810584.html
 
2)民主主義は良い制度なのか?
英国のチャーチルが「民主主義は最悪の政治制度である。ただし、他の制度を除いての話だが」と言ったといわれる。(補足4)チャーチルが政治の難しさを語ったのだろうが、自分が独裁者なら話は別だという言葉が心の中を過ぎったと思う。
 
もし、社会の構成員を個人ではなく国家だと考えると、つまり、国際社会のなかでの国家の繁栄と将来への生き残りが価値の尺度なら、民主主義は但し書きなしで最悪の政治制度だろう。そしてまた、”国で生きる国民とその子孫の幸福の総和を考えても答えは同じ”だろう。(補足5)
 
つまり、二つの互いに敵対する国があったとして、一つが独裁政治を採用し、もう一つが民主政治を選択しているとする。最後には恐らく独裁国が勝利し、民主国は滅びるだろう。その勝敗が決する最後の時点で国民の幸福度の総和をとれば、上記結論(””内)は明らかに「真」である。
 
世界を制覇する可能性のある中国の政治制度を考える。中国は、共産党の一党独裁国家である。政治のトップに存在するのが国家主席であり、その習近平を含めて重鎮7名(チャイナセブン)が強い発言力を持つグループである。第二位が李克強である。独裁といっても、北朝鮮の絶対王政のような独裁ではなく、トップと二番目がすれ違う時に無視する瞬間もあるという、メンバー間に批判(勢力争い)もありうる“集団指導体制”である。
 
共産党員になる名誉は一般民には高嶺の花であるから、上記の分類によると専制政治に近いと思う。(補足6)一般に、独裁体制は何かを決断すれば実行までの時間が短く、体制の新陳代謝など指導者の質を維持するシステムで存在すれば、有力な体制だと思う。そのために中国は、優秀な人間を党員にする狭き門を設けている。

 

民主主義体制下でも、民族が興亡の境目に至ると世論は沸騰して最終的に独裁に以降するのは、戦前のドイツや日本を見ればわかる。そして、その時既に時間的に余裕をなくしており、愚かな決断しかできない場合が多いのではないだろうか。
 
3)最終的には、純粋に民主主義体制をとるのは民族として自殺行為だと思う。それは世界では既に自明のことでは無いだろうか。つまり、米国が他国に民主主義体制を強いるのは、民族や国家の競争相手を少なくするための長期戦略であると考えられる。元々、米国は民主制という仮面を表に被り、裏に強力な諜報機関と我々には訳のわからない情報機関(シンクタンク)を組織する二重張政治制度を採用している。表の民主制が仮面にすぎないことは、多くの暗殺された大統領を思い出せばわかると思う。
 
ここで、ローマクラブによる “成長の限界等”の出版(1972;1992年)によっても指摘された、資源の枯渇や人口の増加により、近い将来、人類の成長の限界が来るということを思い出すべきである。地球温暖化の二酸化炭素原因説は、如何に諸外国の経済発展を抑えるかという問題意識からスタートしている。従って、もともと科学的には根拠の薄いインチキ学説であり、民主主義的先進国の作り上げた国際戦略の一つである。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/08/blog-post_26.html
 
また、欧米のグローバリストたちは、如何に現在から近未来において世界の経済を支配するかという視点で動いているだろう。その経済力は、地球が狭くなるに従って、弱小国の支配と衰退化に使われるだろう。そこで、モノを言うのが核兵器などの軍事力である。(補足7)(経済力と軍事力とは並行する) 
 
そのような環境下で弱小国に落ちようとしている国は生き残るのが困難である。しかし、北朝鮮がこのまま朝鮮半島が核兵器を保持した国として残る野心を失わなず、体制を中国式に改善すれば、22世紀に地球上に生き残るのは、日本民族ではなく朝鮮民族ということになるだろう。それは工夫された独裁制が純粋な民主制に勝ることの証明となると思う。このような民主主義の仮面を被った、所謂先進国と競って生き残るには、或いは、それらの国々に優先して生き残るには、途中からこのレースに参加した国は独裁国になるべきかもしれない。 
 
 補足:
1)独裁政治とは、個人や少数の人または一つの党派が政治権力を独占する政治体制のことである。その中で絶対君主制とは、世襲の君主が独裁政治を行う政治制度である。固定的な支配層がそれ以外(被支配層)を支配する場合を専制政治という。独裁政治というばあい、国民の社会的身分に差がない。このあたりは自分の知識固めの意味もあって分かりやすく書いている。専制政治と独裁政治の境目は、支配階級が固定されているかどうかである。もし、共産党一党独裁国と言われる国家で、共産党員になれる人が世襲などでほぼ固定されているばあい、実際は専制政治的ということになる。また、社会主義人民共和国を名乗っていても、トップが世襲制と見なされれば、そして政治形態が独裁的であれば、その国は絶対君主制である。同じ独裁国でも、中国の政治は専制に近く、北朝鮮の政治は絶対王制に近い。
 
2)カダフィ大佐を殺害したのは、ヒラリー・クリントンの率いた米国国務省だったという説が多い。カダフィ大佐についての日本などでも悪評は、米国等の宣伝である可能性が高いと思う。一説では米国などがリビアの石油利権を得ることが、暗殺の動機だったといわれる。
3)フィリピンのルテルテ大統領の麻薬関係者への非常に厳しい取り締まりを、米国などは非人道的だとして非難したが、それも内政干渉であると思う。何故なら、米国にフィリピンの麻薬取締が出来る訳ではない上、ルテルテ大統領の支持率が非常に高いからである。
4)チャーチルのオリジナルではなく、誰かの言葉の引用かもしれない。https://richardlangworth.com/worst-form-of-government
5)極少数の基本的人権などのルールに抵触することが独裁制の弱点だと考えられる。しかし、民主主義国の徴兵制などや闇の世界が行なっていることをかんがえると、360度の神の視点から見れば、人権無視という点でもそれほど差がないのではと思う。もちろん、ウイグル、チベット、モンゴルなどの不幸な状態は解消すべきである。しかし、民主制と独裁制を比較する場合には、民主制の旗頭の米国が行なってききたアジアや中東での政治介入も考える必要がある。そうすると、大差無いではないか。
6)ユン・チアン著のワイルド・スワン(WildSwans: Three Daughters of China数年前に読み、感想文を書いたことがある。
 
7)日本人の多くは、愚かにも平和と戦争を反対の概念と信じている。そして、核兵器は日本を平和に導くという論理など、驚天動地の屁理屈と受け取るだろう。情けない民族である。以下にいくつかのブログを引用する。