週初めの日曜日の「そこまで言って委員会NP」において、性善説とか性悪説を弄った議論をしていた。あまり良い議論に思えなかったので、ここに善と悪を再度考察する。このテーマについては、以前何度も議論したが、一つだけ親鸞の悪人正機説との関連でも議論した記事を引用する。議論コメントなど歓迎します。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2013/12/blog-post_5.html
 
1)生物の命は、他の生物を食物とすることにより維持再生される。食物は異種の生物である場合が多いが、同種の生物は食物とならなくても、食物獲得の競争相手となる。人も生物であり、その点において例外ではない。
 
善と悪は、社会の形成とともに始まったと思うのだが、その定義は簡単である。悪とは人が生存のためにとる行為のうち、他の人の利益や自由を顧みないものである。善とは悪の反対であり、社会において自己を犠牲にする行動や考え(に付けるラベル)である。社会を作らない場合、善も悪も存在しない。
 
ヒト(以下人と書く)が地球上で他の生物を支配出来たのは、多くの個体から形成されるグループを作ったからである。そのグループは、最初の段階ではボスによる恐怖支配の小さなものだろうが、言葉の出現と自己の相対的認識がそのグループに多層的な構造を可能にして、大きく且つ強力にした。(補足1)その成長のプロセスを獲得したグループは、何れ国家と呼べる様にまで成長するだろう。その人と人との間の協力関係を築く行為やそれを支える考え方について、抽象化されたのが“善”という概念である。その善のモデルについて、以下に具体的に説明する。
 
2)言葉(ロゴス)は論理を構成する道具であるから、言葉を得たことは同時に、人が自己を観測の対象とする能力を獲得したことを意味する。他の生物では自己は絶対的であり、従って観測の対象ではないので、自己犠牲も自殺もあり得ない。
 
自己を相対的に把握する能力を得た人間は、自分の所属する運命共同体のグループを、少なくとも自分の生命以上の存在として把握することになる。それは、そのグループの消滅は自分の命の他に、自分の血族など周囲の人の命をも亡くすることになるからである。
 
その段階のグループを形成するようになって初めて、自己を犠牲にして自分のグループを支えることが可能になり、「善」が生まれるのである。その善の論理と自己の相対化は、個の能力に応じた積極的なグループへの参加を即し、グループを多層的に大きく成長させた。そのグループの内部は「社会」と呼べる空間となる。その結果、メンバーはより強力で安全な「生」を享受することになる。その正のフィードバックにより、グループはやがて国家と呼べるようになり、善が人間社会に根付くことになったと考える。
 
自分を認識する能力は、遺伝子に書き込まれたものであるが、自分を犠牲にする協力関係(つまり善)の発生は文化である。それが遺伝子に書き込めない理由は、その反対の悪が生命にとって本質的であるからである。それはまた、自分のグループを存続させるために、他のグループに対して敵対行為をするために必要だからである。人間の歴史は、その争いの物語である。
 
3)敵に勝つため、グループ内部で行えば悪である行為を敵に対して行う。敵を弱める行為、殲滅する行為は、味方の生存にとって必須であり、従って善である。つまり、現在我々が持つ善悪の物差しはグループ内部では成立するが、境界を跨ぐ出来事の場合には逆転する場合が多い。つまり、善と悪は普遍的な概念でなく、グループ内部に限られるのである。
 
現在、善悪の成立境界として明白なのは国境である。パスポートを初めて交付してもらった人は、その中に書かれた文章から、自分の命を保障する国家という存在を改めて知ることになる。国境を越えれば、個人としての権利の保障など本来ない。
 
従って、国家の最重要な義務は、自国民の命の安全と行動の自由を護る(まもる)ことにある。国民の義務は、その国家を自分の能力に応じて支えることである。(補足2)
  
補足:
1)恐怖が支配するグループは猿など他の生物に見られる。この場合、結局決断は一匹のボスの能力で決まり、複雑な大きなグループを維持できない。それは独裁国家や全体主義国家にも見られる欠陥である。並列に知恵を並べて、そこから方針を決断する体制により初めて大きな「人間特有のグループ(社会)」を形成できる。それを支えるのは、メンバー間の自発的で持続的な「善」に基づく協力である。
2)日本海側から多くの日本人が北朝鮮に拉致された。これは北朝鮮が国家として行ったのであるから、宣戦布告なき戦争行為である。それを単に北朝鮮の犯罪と見なすごまかしがまかり通っているのは、日本国は国家の体をなしていないことの証明である。また、拉致被害者を取り返す努力をしないのは、国家の怠慢である。従って、拉致被害者の会が北朝鮮を非難するのはお門違いであり、非難すべきは国家としての義務を果たさない日本国政府である。
一昨日の李克強中国首相と河野洋平元衆議院議長との北朝鮮問題に関する会談で、李克強首相は「朝鮮半島の非核化と安定、対話による解決が必要だというのが中国の一貫した考えだ」としたうえで、「中国と日本でともにできることがある」と話し、協力の必要性を強調したということである。今朝のモーニングサテライトでは、日本政府は米国にたいして、北朝鮮攻撃の際には事前協議をするように要請したと報じていた。戦争の足跡が遠くで聞こえる。
 
中国は北朝鮮との関係を、朝貢国の延長の様に考えてきたと思う。その密接な北朝鮮との関係は、暴れ者北朝鮮の監視役という国際的地位を得ることに繋がったが、その役割についての国際的な評価は、北朝鮮の核開発で非常に低くなっている。また、金正恩がトップになってからは、中国は仮想敵国のように言及されている。

また、中国は北朝鮮の地下資源にたいする支配権を重要だと考えているらしい。中国はこれらの利権を一旦考慮の外において、北朝鮮問題への国際的寄与を果たして欲しい。つまり、独立国の北朝鮮を育てる方向で、米国と協議すべきだと思う。北朝鮮と米国の関係は、戦前の日米関係に似ている。米国は、北朝鮮を陰陽両面から挑発し、北朝鮮が先制攻撃するのを待っているように見える。(補足)

米国がすべきことは、朝鮮戦争を終結して北朝鮮を承認し、平和条約を締結することである。北朝鮮は当然、核兵器の廃棄と今後持たないことと、IAEAの定期的査察に合意することである。最も難しい問題は、北朝鮮の政治体制である。金正恩が自ら敷いた恐怖政治から脱却出来るように、この平和条約締結に相当の期間を取り、そのなかで広い範囲からアドヴァイザーを受け入れさせる様にすべきだと思う。

日本ができることは、小泉政権のときに一度トライしたことだと思うが、北朝鮮の承認と基本条約の締結である。その際に、小泉政権が予定した程度の経済協力が必要だろうが、それは米国との平和条約が済んでからの問題だと思う。この時、拉致問題解決という狭い範囲に目標を定めて交渉を行ったとすれば、それは根本的なミスであり、小泉氏は無能者に違いない。
 
これらの筋書きは、以前にブログで指摘したように、本来なら潘基文氏が国連の事務総長であったときに、国連が調整役を行うべきだったのだが、今回は米中と北朝鮮が話をまとめるべきだと思う。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42389602.html

補足:
戦争は、そのまま景気刺激のための財政支出となり、米国のGDPを押し上げる。シリアへ発射したクルーズミサイルは合計50億円程度だというが、それはそのまま軍需産業の売上になり、GDPの上昇となる。今朝のモーニングサテライトでは、関係企業の株価が上昇していると言っていた。その中には、ロッキード・マーチンなど馴染みの名前があった。

追加:https://www.youtube.com/watch?v=9dpAKPNWg48 にある百田尚樹さんの解説を聞いてください。ついでに、コメント欄のMohkorigoriのコメントも読んで下さい。
1)最近、摘菜収の「ミシマの警告」という本を読んだ。副題は、”保守を偽装するB層の害毒”である。B層とは、マスコミ報道に流されやすい比較的IQの低い人たちのことである。(補足1)著者は、小泉、安倍、橋下、小池の4氏を支援する人たちの大多数をその様に(B層と)考えて、日本は破壊されつつあると言っている。
 
この本の前半のテーマは分かりやすく、「日本で何故健全な保守勢力が育たないか」である。読者としての私が理解したところでは、その答えは議会制民主主義の歴史に学んでいないからである。つまり西欧では、キリスト教から発生した啓蒙思想(補足2)が民主主義を生み、その欠陥を補修した形の議会主義が定着している。日本は明治以降、その結果を輸入したが、その歴史に学んでいないのである。
 
その辺りを、三島由紀夫の著述を引用して書いている。この前半部分は我々理系バカには勉強になるが(補足3)、後半は著者の現実離れした解析に付き合うことになる。小池東京都知事や安倍政権の批判、数年前に大阪府知事だった頃の橋下維新を攻撃するところで終わっている。
 
著者は直接民主主義と間接民主主義を明確に区別し、前者を民主主義、後者を議会主義と呼んでいる。三島由紀夫は議会主義を擁護する立場であったとしている。保守(主義)は、「何とかイズムを信奉しないで過去から受け継いだものを大事にして、現実的改善で対応する政治姿勢」である。
 
三島が議会制を擁護しようとしたというが、それが主題ならそして西欧の議会主義の歴史を考えれば、参議院の改革や一票の格差是正などに話が行くべきだがその点は何も書かれていない。この人は保守且つ改善が嫌いだからだろう。


これまでやってきた延長上に現実的な改良を加え、その範囲に答えを見いだす保守の姿勢は成熟国家にはふさわしいが、日本など西欧のものまねで議会制を導入した国では、形だけのマネに終わっており、元々十分に機能していない点が多々あると思う。
 
三島が真っ当な保守だとの触れ込みだが、石原慎太郎が三島に「共和制という選択はありえないですか」と聞いた時、三島は「あなたが共和制を主張したら、私はあなたを殺す」と言ったという。(P135)その姿勢は保守ではなく、国粋主義のものだろう。イデオロギーを持ち出すのは保守ではないのなら、国粋主義を持ち出す三島は保守ではないということになるが、著者はどう考えているのだろうか?
 
2)繰り返しになるが、保守で国家の運営ができるのは、成熟した国家で且つ孤立した国家の場合である。国際社会で生きていくには、不連続的に変化する国際情勢に対応しなければならないので、革新的な政治姿勢も必要である。幕末の日本はまさにその様な状況であり、保守ではなく薩長の革命政権が天皇制を採用して国難を乗り切った。その辺りの認識はこの著者には何もない。
 
著者は、最近の小泉政権や安倍政権の政治、更に、大阪維新の会の政治を衆愚政治に堕落した(直接)民主主義的政治と看做している。最近の小池都政も同じ解釈で俎板に載せている。味噌も糞も一緒にした議論である。
 
原因として、保守が反共産に<U>堕落した</U>後、本来の保守が日本に戻っていないことをあげている。それも真実だろうが、上記のようにそれだけではない。本物の議会制が未だ一度も日本国に導入されていないと考えるべきだろう。


その処方箋を議論せずに、現状の悪口だけを並べて不平不満を言っているように感じた。その改革すべきところを真面目に議論しようとした勢力をも、保守的でないという理由だけで味噌糞に批判する姿勢には嫌悪感すら感じる。つまり、小池都政と橋下府政の区別をしていない。

橋下氏は、太田房江知事の無責任府政から引き継いだ大阪府を、財政破綻寸前から建てなおしたと私は考えている。道州制も、地域の伝統を新たに利用することで日本国に新しい生きるエネルギーを生み出すには最適だと思う。小池氏はポピュリストであるが、橋下氏を同等のポピュリストと捉えるのには反対である。
 
B層という知能の低い大多数の支援を受けた小泉政権や安倍政権を批判するのはわからない訳ではない。しかし、B層に阿る政権とB層をカルチベイト(cultivate)して、真っ当な政治勢力に育てようとした勢力とを一緒にするのは、東京人の傲慢である。また、この本や「アンチクリスト」の現代語訳の言葉使いの荒さから、この著者がまともな知性を備えた方には思えない。(4月9日早朝編集)
 
補足:
1)著者によると、2005年の郵政選挙の際、自民党が広告会社に作成させた企画書に登場する概念だそうである。(52頁)構造改革に賛成でIQの低い人たちを指す。
2)人間に共通の理性があり、その普遍性を主張する思想。フランス革命、英国の議会制民主主義や三権分立の考えは、そこから発生した。ウィキペディア参照
3)スペインの哲学者のオルテガも大衆を批判する一人である。彼は、近代化に伴い新たにエリート層として台頭し始めた専門家層、とくに「科学者」を、「近代の原始人、近代の野蛮人」と批判した。