1)ある米国在住と思われる方のブログ記事を読み、加瀬英明氏が代表となっている「慰安婦の真実」国民運動というグループが日本にあることを知った。https://blogs.yahoo.co.jp/kiko10da/folder/519863.html このグループの活動を非難する記事の中で、ブログの主は「真の国益という立場に立てば、日本政府に韓国政府との慰安婦補償問題の解決交渉に応じるように運動することであろう。」と書いている。私には、韓国政府が直接補償を要求する法的根拠がわからない。
 
勿論、「日韓両国が協力してその事実を解明すべきである」と言うのならわかる。歴史学あるいは社会学の一つとして、戦争と性の問題を研究するのは一つの学問分野になり得ると思う。東西冷戦時(補足1)やイスラム圏での内戦(補足2)などでも、多くの悲惨なケースがあったし現在も存在する。しかし、大戦前の韓国人慰安婦への補償を日本政府に要求する法的根拠は、韓国政府にはない。また、事実関係を実証しうる場合を除き、韓国の元慰安婦の方々にもないと思う。しかし、戦後に生きる我々と関係国政府は、戦争で悲惨な経験をしたその他の人たちを含め、謝罪(道義上)と補償をできるだけ行うべきであると思う。以下にそれについて私の意見を書く。素人なので、文章の内容に間違いがあれば指摘してもらいたい。
 
2)日韓基本条約とそれに付随する日韓請求権並びに経済協力協定で、ほとんどの両国間の補償問題は解決済みの筈である。勿論、後者の第3条には協定の執行時における紛争には、仲裁委員をたててその決定に委ねると書かれている。しかし、元慰安婦の方々がその条文の規定により補償を要求するには、慰安婦となった経緯と慰安婦としての日常において、日本軍兵士及び当時の大日本帝国政府による違法行為の立証がなければならない。
 
その場合立証が比較的簡単な不法行為は、官憲による強制連行ということになる。これは明確な法律違反である。また、逃亡の力による防止や行為の強制であるが、これが慰安所経営の業者によるものなら、不法性と責任(大日本帝国の)の立証はより困難な作業となる。従って、一般的な謝罪と慰安婦の方の特定以外の事実究明を必要としない形での補償を行う方が、より双方に受け入れ安い(つまり法的な複雑性がなくなる)だろう。
 
日本、朝鮮、台湾など多くの国から慰安婦として参加せざるを得ない情況に追い込まれ、その結果として人生を台無しにされた慰安婦の方々に対して、関係諸国がヒューマニズムの観点からお詫びの気持ちを表明し、基金を設立して道義的責任に基づく補償金を手渡すのは必要なことだろう。勿論、韓国が独自にそれらの方々に年金などを支給するのは、好ましいことだと思う。
 
日本政府は、韓国政府や韓国世論の意向を受けて、独自の判断でアジア女性基金を設立した。アジア女性基金は、韓国女性の他に、インドネシアでのオランダ女性を日本軍兵士が拉致し暴行したケースが戦後の軍事裁判で明らかになっているので、その被害者にも補償を行なっている。同基金は、必要と思われる補償をすませとして、2007年に解散している。
 
以上のように人道的見地から慰安婦に対して補償を行うのは、戦後に生きる人間としての義務だろう。そして、戦争行為以外において(戦争との関連で)悲惨な境遇に追い込まれた人たち一般にも、同じ根拠で補償を行うことが必要だろう。しかし、残念ながら、このような補償ができるほどどこも余裕がないようである。
 
3)戦後補償には慰安婦の他にも色々あると思うが、それらのケースを政治的に利用することは厳に慎むべきであると思う。慰安婦の件に関連して一部の人間が、韓国や米国等に慰安婦像と称するモニュメントを建てている。それらの行為は、我々日本人にとっては、日本国と日本国民とを侮辱するネットワークの国際的構築を目的にしているように見える。従って、非常に腹立たしい。その目的は、慰安婦の救済ではなく、明らかに政治的である。(補足3)
 
 
この件、米国の一部の思惑と一致する様である。つまり、米国は200012月にナチスの戦争犯罪資料省庁連携ワーキンググループを改組し、ナチス戦争犯罪及び日本帝国記録省庁連携グループを作った。これはナチスのホロコーストと日本の慰安婦を同列に扱いたいという思惑が、米国の政治勢力の中にあることを示している。
 
慰安婦問題の本来の当事者は、元慰安婦の方々と大日本帝国の軍人と彼らが所属する大日本帝国である。しかし、大日本帝国は無くなったので、現在の当事者は元慰安婦の方々とこの問題を継承した日本国政府である。韓国政府は1945年以前には存在しなかったのだから、元慰安婦の方々の現在の所属国として元慰安婦の方々の権利を主張すると言う限定的な意味でのみ当事国であり得る。
 
つまり、韓国国民は慰安婦とその親族以外は直接の当事者ではない。従って、韓国人一般の心情は理解できるが、慰安婦問題で日本国を非難する権利(法的な)はない。一方日本国民は、日本政府が一定の責任を持つ以上、この問題の当事者である。それ以外の第三者(例えば米国人など)などには、このケースで政治的活動をする法的根拠はないし、補償を主張する場合にも、言論の自由以外の根拠はない。(15:40全体編集;21:25一文編集)
 
補足:
1)ベトナム戦争のとき、韓国軍がベトナム人女性を強制連行し性奴隷にした犯罪についてはよく知られている。そのほか、ウィキペディアの記事に詳しい記述がある。
2)このケースは我々部外者には更に異常かつ悲惨に見える。詳しくは例えば、http://tocana.jp/2014/01/post_3563_3.html
3)昨年韓国の挺対協は、旧慰安婦に日本からの補償金を受け取らない様に圧力をかけた。
 
<先の文章の意味が分かりにくいようなので、敢えて再度アブストラクトを書きます。>
 
何が善(正義)で何が悪(邪悪)か、それは分類する人の都合による。つまり、その人が推奨したいのが善であり、撲滅したいのが悪である。それが全く解っていないが如く外交を展開している国が、現在世界を牛耳っている米国である。解っていないふりをしているのか、解っていないのかわからない。マッドマンの理論とビッグスティックの外交は彼らの得意技だからだ。自分たちの善悪の分類を守りたいだけかもしれない。
 
生物が有限の空間で生きるとき、必然として争いが生じる。ABが争う場合、BAにとって悪であり、ABにとって悪である。Aの内部ではBを殲滅することが善として語られる。ABを含む大きな視野を持つものがあったとしたら、その善と悪の分類には意味がない。つまり善悪は相対的なものである。 
 
善は味方が団結するために味方のメンバーとその行為につけるマークであり、悪は敵を殲滅するために敵と敵の行為につけるマークにすぎない。 
 
人類普遍の善と悪の定義が可能だと考える傲慢な連中がいる。最近良く聞く「テロは人類の敵だ」という台詞に傲慢さを感じないとしたら、それはその傲慢さによるか、知性が無いかのどちらかである。その台詞の中の「テロ」とは敵による攻撃であり、「人類」とはテロという言葉を発する自分たちとその味方のことにすぎない。 
 
第二次大戦での民間人への残虐行為が、双方の国の軍により行われた。講和が成立した後も尚、敗戦国とその国民に対して人道に反する罪を犯した者の国とその子孫として侮辱する人がいる。それを外交において利用して、利益を得ようとする人たちがいる。善と悪が状況により相手によりことなることが解っていない身勝手な人たちと、彼らがつくる国家(政府)である。

 

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1)現在何人かと幾つかのサイトで、日本軍の慰安婦問題に関して議論している。その中には、日本軍が韓国など旧植民地の女性を性奴隷にしたと批難される方もいるし、比較的日本軍に”甘い人”もいる。客観的に記述すると、先刻投稿した米国政府の「Nazi War Crimes andJapanese Imperial Government Records Interagency Working Group」報告にあるように、強制売春でありどの程度の強制や残虐性があるかについては、未だ未解明であるということになるのだろう。
 
私は、慰安婦の制度にたいして、少数の元慰安婦の方の証言を信用して、性奴隷というのが実態であると、旧日本軍の行為とそれを正しく謝罪しない日本政府の姿勢を激しく批判される方に対して、「自分を事件から全く離れた場所において、悪行をひはんするのは簡単です。」と批判的な意見を返したところ、以下の反論をもらった。「自分の信念(例えばクリスチャンとして)にもとづいて、悪行を批判するのは簡単なことでしょうか?悪行が批難されるのは当然である。そうでなければどうして社会に正義をもたらすのですか?」というものである。そこで、それに対する答えを対話風に以下記述する。
 
2)善と悪の問題ですが、その前に日本人の宗教について一言書きます。日本人は決して無宗教ではありません。日本人は人格神を信じていませんが、自然そのものを神として崇めています。それ(神道)には教義はありませんから、日本人は誤って無宗教と言ってしまう癖があります。むしろ神道は強く日本人の心に根付いているため、本人すら気がついて居ないのです。
 
原爆投下の件で米国をきつく追求しないのは、自分たちが下手なことをやってしまったのも原因の一つだと感じているからです。原爆資料館の碑文をご存知かと思います。そこには、「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませんから」と書かれています。つまり、頭の何処かに天罰的であると考えている部分があるのです。分かり易く言えば、碑文を書いた人にはそのような情況に追い込まれてしまったという感覚があるのです。それと同時に、同じ程度に米国の将軍は、そしてエノラ・ゲイの搭乗員は、原爆を落とす運命というか役回りになったのだと感じているのです。しかし、断定は出来ません。

 

どのような悪事についても、その原因を突き止めるように(突きとめられるように)問題を明確に立てて(単純にたてて)、その犯人として一人の名を上げるという、問題の単純化には、日本人は躊躇するのです。何故そう言えるか、それは戦争責任者たちも全て戦後国民の署名で名誉回復し、靖国神社に祀ったことでおわかりかと思います。(勿論、対米戦開戦時の首相の東条英機の人気は極めて低いですが)

 

この非論理的な対応が良いと言っているのではありません。それではこの厳しい国際社会を生き残れないでしょう。その理由ですが、日本人は個別の問題をその時の情況など全体の運動の結果のように捉えるからだと思います。つまり、西欧の方の正義とその実現という姿勢は極端に問題を単純化し、自分勝手に回答を出していると考えるのです。
 
自分の信念に基いて悪行を批判する能力があるのなら、何故米国のエノラ・ゲイの搭乗員は原爆投下を拒否しなかったのですか?米国の司令官はエノラゲイの搭乗員にそのような過酷な命令を出したのですか?それともジャップという猿を退治するだけだと割り切ったのでしょうか?それでも弱者や貧しいものを擁護するキリスト教徒でしょうか?
 
つまり、善と悪のラベルを個人の行動につけるのは、難しいというか困難である、或いは無慈悲であると考えます。キリスト教徒のように神の判断により善と悪が決定され、その悪を犯した人間の置かれた情況が如何なるものであっても、それとは無関係であると考えることは出来ません。否、多くのキリスト教徒も実はそうはしていません。キリスト教徒であれ何教徒であれ、悪を非難しますが、自分は悪を為す立場にならないように、或いは、悪を為したと避難されない立場になるように知恵を使っているに過ぎないと思います。
 
そのような情況に追い込まれた時、人はあたかもコンピュータが計算した通りのように、悪を行う場合が殆どです。それが「戦争犯罪者」の真の姿です。平和な日常では明るい優しいお父さんであり、お兄さんであった人が、あの情況下で戦争犯罪者になったのです。日本人は、そのような情況は、自然の流れというか運命によりもたらされると考える傾向があります。それが他の企みによるとは考えない傾向があります。原爆資料館の記念碑の碑文にある通りです。
 
本当は、自分がそのような情況に追い込まれる前に注意深く情況を把握し、悪に追い込まれる情況を他人に押し付ける人が、善人の顔をして生き残っている場合が多いのです。

 

3)「親鸞」を書いた五木寛之さんは、終戦後南進して暴虐の限りをつくすロシア軍兵士から逃れる為に朝鮮から日本に逃げ帰ります。五木さんは無事逃げ帰れたのですが、多くの人が強姦されたり殺されたりしましたし、生き残った人も大勢がシベリアに送られて死にました。
 
その際、情報を早く握った軍の幹部たちは素早く逃げていたのです。そして五木さんは結論します。悪人が生き残るのだと。
 
現在、日本はロシアと国後島や択捉島などの共同開発の話を初めています。熊のように日本女性を強姦し、多くの日本人男性を殺すかシベリアに送った人の国を相手にしての共同開発です。何故そのような話を進めるのか?そのロシア人たちも、平和な時には優しい面白い人達であることを我々は知っているのです。
 
あの悪行を批難する資格があると信じる人は、すれば良いでしょう。私は心の中では、そのような資格をこの地球上の人の殆どに与えません。「心の中」とか「殆ど」とかいう言葉を用いたのは、私にはそのように決めつける自信がないからです。
 
補足:
1) 欧米に居る人に、欧米の韓国人日本人2世も当然含まれます。