戦争の悲惨さを強調する新聞の知的退廃
1)今朝の読売新聞の一面には、北朝鮮への国連制裁決議、広島原爆忌、戦争文学「野火」の映画化作品が紹介されている。
 
国連安保理の北朝鮮制裁決議には、北朝鮮からの石炭と鉄鉱石の輸入禁止が盛り込まれたが(補足1)、北朝鮮への石油の輸出禁止は盛り込まれなかった。中国とロシアも賛成出来るように工夫されていたのだが、国連は北朝鮮が何処に軟着陸すべきかという着地点は与えていない。軟着陸は米国等の視野にはないのかもしれない。その指摘などは一切記事の中にはない。
 
「話会う前に武器を捨てろ」と国連(米国)は言う。しかし「武器を捨てれば、話の前に滅ぼされる」と北朝鮮が言う。この延長上に解決など見えない。戦前の日本に例えれば、くず鉄禁輸の段階なのだろう。
 
広島原爆忌についての記事は以下の様である:平和記念公園で平和記念式典が開かれ、約5万人の参列者が犠牲者を悼んだ。松井広島市長は、各国政府に対し核兵器の非人道性(補足2)を認識した上で「共に生きるための世界をつくる責務」を自覚するように求め、核兵器禁止条約の重要性を訴えた。
 
そもそも、兵器を作らないことで、この地球上で全ての人が共に生きることが可能になると、市長は考えて居られるのだろうか? 戦争とは、単に人間の悪が為したことだと、この人は考えているのだろうか?
 
何故、米国の原子爆弾による無防備な一般都市の破壊と、市民の大量無差別殺害の記念式典を、平和記念式典と呼ぶのだろうか? 原爆の犠牲者になった人たちのお陰で、平和な世の中になったことを、記念する式典だというのだろうか? 
 
映画「野火」の概略と作者へのインタビューは、六面に続く形で掲載されている。映画「野火」は大岡昇平原作の小説を映画化したものである。戦争末期、フィリピン・レイテ島で、日本軍は米軍の攻撃(反撃)で総崩れとなった。補給のない状態で、生きる日本兵の悲惨な姿を描く。飢餓の中で、生き残る為に人肉食まで行う光景を描いているのだという。
 
毎年8月になると、この種の映画の上映など反戦行事が多くなる。戦争の悲惨さを訴える記事や評論なども増加する。私は、文学作品の評価とは別に、この現象に政治的プロパガンダの匂い感じる。
 
2)一面全体を通して、戦争を単純に悪とし、それを平和の対義語のように用いる単純さには、強い違和感を感じる。私には戦争を賛美する気持ちなど全く無い。しかし、我々現代に生きる人間は戦争における勝者の子孫であり、戦争を避けた民族の子孫ではないという冷厳な事実を、現代人は先ず理解すべきである。(補足3)
 
「野火」の中で紹介されている悲惨な光景には、戦争、飢餓、人肉食の3つの要素がある。戦争は舞台であるが、その悲惨さの責任全部を戦争に押し付けることは出来ない。それは、原爆で焼き殺された広島の人たちが、原爆だけにその責任を押し付けることが出来ないのと同じである。そして、「野火」の悲惨な世界を戦争の責任とし、広島の悲惨な戦禍を原爆の所為にして利用する、政治プロパガンダには気をつけるべきである。
 
戦争は悲惨であり絶対に避けねばならないと宣伝する人たちは、詳細且つ冷徹な戦争の分析とそこから真理を導き出すことを拒否するのだろう。太平洋戦争の悲惨な結末の原因となった、海軍陸戦隊や関東軍による中国侵略を明らかにされたくない人達も居るだろう。また、何故負けることが分かっている対米戦争を始めることになったのか、その原因分析を嫌う人たちも居るかもしれない。
 
「真理は細部に宿る」という言葉がある。詳細に検討した結果、今までの善人が悪人に、悪人が善人になる可能性があることを恐れていいるからかもしれない。単純な善人は、そのような緻密な思考力を持つ悪人に利用されることがある。太平洋戦争では、海軍の米内光政や山本五十六が善人として取り扱われている。しかし、話は逆であり、その背後に巨大な権力が存在すると言う人がいる。(補足4)
 
また、原爆の惨禍を記念する式典において、原子爆弾そのものを攻撃する(ひたすら核兵器廃絶法案の成立を主張する)人たちは、核兵器の拡散を防止することで、単純に平和に貢献していると思う人が大半だろう。しかし、それは核保有国の特権を守るために働いていることになり、その特権を守るべく働いている人たちに使われているのかもしれないと考えるべきである。
 
戦争全体を記述しないで、その中の一つの戦いの悲惨な光景をまるで顕微鏡で拡大する様に記述したものやその映像は、それを評価できる準備の出来た人、つまり戦争全体に一定の知識を持つ人のみに公開されるべきだろう。

一般に公開すれば、全体に知識のない人はそこから安易に結論を導き出すかもしれない。そして、その結論は別の部分の詳細な分析から、安易に導き出した結論と正反対かもしれないからである。それは、悲惨な殺人現場や、専門的な外科手術などの映像を一般に公開しないのと同じである。
 
補足:
1)北朝鮮に輸出を禁止するという制裁なのかどうか、原文がないのでわからない。つまり、北朝鮮への輸出禁止なら、北朝鮮が国連決議に反して(国連からの除名を覚悟で)輸出した石炭や鉄鉱石を中国が買うことは可能になる。制裁を実効性の有るものにするためには、国連加盟国が北朝鮮から石炭や鉄鉱石を買うことの禁止である。
2)この米国による原爆攻撃は、ハーグ陸戦条約の付属規則の23条(残忍兵器の禁止)や25条(都市、集落、建物の砲撃など禁止)に違反するというような指摘は書かれていない。
3)人間の歴史には、経済的困難などが原因で領土の争いが殆ど常に存在した。それらのかなりの部分は、当事者間の平和裏の話合では解決不可能であった。その時、兎も角前進するために戦争で決着を付けることが屡々あった。その多くの戦争の経験から、戦争において犠牲者を最少にするために戦時国際法が出来た。ハーグ陸戦条約などである。
4)副島隆彦著「仕組まれた昭和史」参照。
1)NHKスペシャルで放送された東京裁判の第二話(再放送)を見た。そこで、ウェップ裁判長以下11名の判事が「侵略の罪」について、敗戦国日本の政治家個人を裁けるのかという議論がなされていた。
 
インドのパール判事の「侵略の罪」で個人を裁くことなどできないという主張は最初孤立していたが、やがてオランダのレーリンク判事もその意見に同意するようになる。話は第3話で完結するのだろうが、良い機会を与えられたので、以下に私の東京裁判に関する考えを記す。
 
結論を言えば、この裁判は法的論理性を確保しながら報復したいという、戦勝国のエゴにより為された戦争の延長戦であると考える。つまり戦勝国は正義の戦争に勝ったのだという歴史を作りたいと考えて、却って汚点を歴史に残したと言えるだろう。
 
この時代までの戦争に関する国際条約として、ハーグ陸戦条約(補足1)とパリ不戦条約(補足2)があった。「侵略の罪」とはパリ不戦条約に対する違反である。日本国による中国への侵略行為は、パリ不戦条約違反して行われた。それに対して連合国(米国)が様々な制裁をしたことで起こったのが、あの戦争であった。つまり、パリ不戦条約違反に対する国際的制裁があの戦争であり、その結果が日本の敗戦であった。
 
そして日本の領土はポツダム宣言に書かれたように日本列島に限定され、併合していた朝鮮と台湾は剥ぎ取られることになった。不戦条約はそこで役割を終わった筈であり、その時の侵略を指揮した軍人や政治家個人を裁くことが可能な罪があったとすれば、それを裁くのは日本国であり、連合国ではない。
 
つまり、国際法は本質として各批准国の法律に基づいて履行されるものである。そして、批准国の国内法よりも高位に存在する訳ではない。(補足3)この点が、東京裁判が茶番であるという根拠であると思う。
 
これらの国際条約は、独立した国家群をメンバーとする“国際社会”で制定された条約であり、その履行を要求する相手は国家であり、加盟国の個人ではない。つまり、国際条約を根拠にして、ある国の個人を他国が処罰することなど、不可能なことは素人でもわかることである
 
敗戦国である他国の個人を裁判の振りをして殺すのは、紳士的体裁を取り繕った報復である。こんなことを長々と議論する、各国のエリートたちの頭の中は一体どうなっているのだろうか。
 
2)東京裁判に関する考えは以上であるが、一言追加したい。

①パリ不戦条約は、理想論を述べただけであり、恣意的に適用されるのは目に見えている。20世紀に入り、戦争が野蛮化したのはこの条約の所為であるか、戦争の野蛮化のプロセスの一環として存在するかのどちらかだろう。

②ハーグ陸戦条約の違反行為である捕虜虐待なども国際軍事法廷で裁かれている。これも、A級犯罪とされるケース同様に、他国が裁く権利などない。もし、他国がさばくことができたのなら、その後の残虐行為を行なったとする中国や韓国の日本批判は根拠が無い筈である。それは、同罪で二度裁くことになるからである。

③日本国は国体護持という希望がマッカーサー(米国)により認められ(補足4)、新しい憲法も大日本帝国憲法の改正する形をとった。ただ、連合国の東京裁判が根拠のないものと考えるのなら、日本国独自に戦争に至った経緯と、その際犯罪的行為があったのならその処罰をすべきであったが、何もしていない。
 兎に角、何もかもむちゃくちゃである。
 
補足:
1)ハーグ陸戦条約は、1899オランダハーグで開かれた第1万国平和会議において採択された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約並びに同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」のこと。19072回万国平和会議で改定され今日に至る。
 
交戦者の資格として、指揮官が存在し、公然と兵器を携帯し、徽章(バッジなど)をつけていること、戦争法規を遵守していることを規定。また、捕虜は敵政府の権内に属し、捕らえた個人や部隊に属さない。捕虜は、人道をもって取り扱うこと。更に、毒を兵器に使うこと、不必要な苦痛を与える兵器などを用いないことなどが規定されている。
この根底に、戦争を外交の延長と考える文化が存在する。
 
2)パリ不戦条約:第一次世界大戦後(1928年)に締結された多国間条約で、国際紛争を解決する手段として、締約国相互での戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定した条約
 
第一条:締約国は国際紛争解決の為戦争に訴えることを非とし、且つ、その相互関係において国家の政策と手段としての戦争を放棄することを、その各自の人民の名において厳粛に宣言す。
第二条:締約国は、相互間に起こることあるべき一切の紛争又は紛議は、その性質又は起因の如何を問わず、平和的手段によるのほか、これが処理又は解決を求めざることを約す。(一二条は、旧文体に句点を加えて平仮名表示)
第三条:批准は憲法の要件に従い行う。他国の加入に関して条約をオープンにしておく。批准書等は米国が管理する。(要点のみ)
 
 
 
3)国際法が国内法よりも現実として高位の法になるのは、世界連邦ができた時である。つまり、世界連邦の司法と警察が整備され、実際に有効に機能する時である。この番組映画でも、インドのパール判事はそのような発言をしている。

4)ポツダム宣言を受諾した上での降伏であるから、一応条件付き降伏である。しかし、米国国務省は国家元首たる天皇を処刑すべきだと考えた。マッカーサーが反対しなければ、国民だけでなく元首さえ殺される可能性があった。ほとんど国家として消滅したと考えなければ、つまり、連続した日本国がずっと継続していたと考えるのなら、東京裁判は日本国から見れば連合国による犯罪行為になるだろう。
 
以上、素人の意見です。コメント歓迎します。

この小説は、作者太宰治の経歴を考えると著者自身の生涯がモデルだと思われ、単なる作り話ではなさそうである。つまり、読む気がしないタイプの小説だが、モデルがあるとすると、ある種重要な問題を我々に投げかけているに違いない。最後まで読んで考えても、どうしても非現実的に思えるのだが、それが現実ならどう解釈するかを無理矢理考えてみた。(補足1)
 
1)人間は、野生の本能を持つが、社会という人工的な空間でも生きる能力を持つ。その二つの能力を一定のバランスを保って持つ必要がある。そのバランスが欠けると、人の作る人工的空間で窒息したり溺れたりするのではないだろうか。この小説は後者の溺れるタイプの人間を描いていると思う。
 
人が高度な社会を作って生きるプロセスに伴い、他人との間に潤滑油的な空気をつくる能力を持つ様になったと思う。その人の間の特有の空気は、野生としての人の行動を制御する。これら社会を作る能力と動物としての能力の両方のバランス点は、民族により異なる。つまり、極端な言葉を使えば、野生人の家畜化のレベルは民族文化の一部であると思う。
 
人は、その社会化を受ける性質を遺伝子的に持っていて、それは民族により異なるだろう。それに加えて社会化教育のレベルも方向も、民族に固有のものだろう。この個人の社会的性質と民族の文化は互いに協奏的でなければならない。そうでないと、個人はその社会で浮き上がってしまう。
 
「人間失格」の主人公は、特有の性質と幼少期の環境等により、日本という社会的規制の多い社会で浮き上がったというか、不適応となったのだろう。ただ、通常の場合よりも病的なほどの不適応状態だったと思う。
 
私の想像だが、日本民族は家畜化されやすい性質を強く持っているのではないだろうか。それが社会と協奏的であるという上記の考察から、日本ほど社会的規制の強い国(民族)は無いだろうと思う。つまり、「人間失格」の様な小説は外国には無いのではと想像する。(補足2)
 
2)この小説で、主人公は非常に自堕落な性格である。その原因として、人並み外れた知性と容貌、それに恵まれた家庭経済、末っ子であり自分の周りの空間は常に自分自身のために存在するという状況などにより、欠乏や失敗とそれに伴う教育がない幼少期を送ったことが考えられる。
 
その結果、人からの認知欲求、知識欲など、全てにおいて幼少時に十分形成されなかったのではないだろうか。人の目は常に自分に注がれており、知識は努力などなしに、自然に頭に流れ入ってくる。不足のない日常は食欲さえ忘れる生活だったのだろう。
 
大人たちの性質、訓練を経て得た処世術なども、全て並外れた知性の主人公には丸見えである。その結果、人間一般を侮蔑する様になり、やがて自分自身の疎外感にまで発展してしまったようだ。
 
その疎外感により出来てしまった他人との間の溝を埋めるために、主人公が得た技術が道化なのだろう。その道化による人気、優れた学業による尊敬の目、優れた容貌による女性から憧憬の対象とされるなど、全ては内向的な主人公には他人との深い溝と感じられたようである。
 
その中で得たと思われた安らぎは、同程度に世間の規格からずれた女性や、無垢で無防備と感じる少女との同棲や結婚生活だったのだと思う。しかし、幸せの感覚は、結婚した少女の優れた包摂的性格が招いた“裏切り”、或いは彼女の知り合い男性による“犯罪的事件”なのか(補足3)わからない出来事により、脆い性格でもあった主人公の人生と供に、破壊されてしまった。
 
そのような感想をもった。
 
補足:
1)短編小説であることと、書きにくい内容なので、あらすじは書かなかった。
2)あまり小説を読まないので、これは理系人間の勝手な解釈の可能性があります。詳しい方のご教授をいただきたい。
3)現場を偶然覗き見た友人もどきの堀木の証言は、「電気がついたままで、二匹の動物がいました」とあったことから、裏切りである。