1)国際社会は野生の原理が支配している。適当な相手を見つけ出し、弱みにつけ込み、罠をしかけ、つるんで用意した窪みに落とし、四方八方から攻撃し殺して餌にする。正義とか論理とか、そんな話は後で作れば良い。真実の定義は、強者の言葉である。
 
若干古いのだが、偶然次の記事を見つけて読み、そのような感想をもった。中国が、「ロシア、韓国に反日統一共同戦線構築を提案した」と題する記事である。
 
20121114日にモスクワで開かれた露中韓の三国による国際会議「東アジアにおける安全保障と協力」で演説にたった中国外務省付属国際問題研究所の郭 (ゴ・シャンガン)副所長のプレゼンテーションは、上記三ヶ国が抱える日本との領土問題を、戦後のサンフランシスコ講和条約の時点に戻って解決しようと呼びかけるものだった。
 
郭氏は、「51年にソ連と中国の承認なしに締結されたサンフランシスコ講和条約は内容が古くなっているとの見方を示し、それにかわるものとして新たな講和条約が結ばれなければならない」と語ったという。
しかし、日中はサンフランシスコ講和条約後に、それを前提として講和した筈である。また、日ソも同様に共同宣言で、サンフランシスコ講和条約を前提に平和条約の方向を決めた。韓国は当時日本に含まれていて交戦国ではなかったので、戦後1965年に講和条約ではなく日韓基本条約を締結している。
 
郭氏は、それらを十分承知しながら、強者の論理で歴史の捏造を提案したのである。この一つの出来事をとっても、中国という国家の恐ろしさが理解されるだろう。韓国同様、歴史も法や条約も過去に遡って書き換えられると思っている。

 

中国はすでに、パキスタン、スリランカ、バングラデシュ、ミャンマーに中国海軍が利用できる軍港を構築しているなど、AIIBや一帯一路構想という新たな拡張主義は、世界一の覇権国を目指していることを示している。http://blogos.com/article/21823/
 
中国の強い点は一党独裁体制であり、決断も早く実行の際の抵抗も少ない点である。その強い点は特に政治の面で発揮されるだろう。一方、経済の面では、独裁的に決定する方法は、いろんな面での小さい錯誤でも相互矛盾となって拡大し、上手くいかない。鄧小平が、独裁主義と自由主義を政経で使い分ける方法を発明したが、それは過渡的手法としてのみ有効だと思う。
 
現実には、独裁的手法がどうしても経済にも及ぶことになり、そこから歯車が狂い出すだろうと思う。そこで、政治の面での強さを用いて、他国から搾取する手法で乗り切る方法を考えるだろう。つまり、近隣にとって非常に厄介な国になると思う。
 
2)北朝鮮の核保持問題で世界は揺れているが、なんどもブログに書いてきたが、北朝鮮は本来日本の脅威ではない。何故なら、北朝鮮問題は朝鮮戦争の延長上にあり、当事国は米国(当時国連軍の衣を着ていた)、北朝鮮、中国(義勇軍の衣を着て居た)であるからである。
 
更に、北朝鮮問題で得をしてきた国、得をしている国は、それぞれ米国と中国であり、日本とは直接には無関係だからである。(補足1)それに、北朝鮮の核開発は、米国に対する防衛、つまり、朝鮮戦争における最終的勝利を目的に始められた。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43440054.html
 
北朝鮮問題で日本政府は脅威を感じているが、日本国民はそれほど脅威を感じて居ない。それは国家存亡の危機にあるのは、明らかに北朝鮮の方であるからである。勿論、金正恩政権の核を抱いた自爆は、大きな脅威であるが、それはないだろう。
 
ティラーソン国務長官の最近の発言などでも、北朝鮮の核保持を現在の状態まで認めることになると思われる。それは米国の支配層の本音である。例えば、オバマ政権で大統領補佐官を務めたコンドリーザ・ライス氏はニューヨーク・タイムズに寄稿したコラムの中で「我々は北朝鮮の核保有を大目に見ることができる。冷戦中にソビエトの何千もの核兵器を大目に見てきたように」と言ったという。https://abematimes.com/posts/2877513
 
これまでの絶対に核保持を許さないという姿勢は、単に日本での核武装論の高まりを考えてのことであり、日本に核武装論が起こらなければ、更に、日本に核共有論さえ起こらないのなら、核廃絶を北朝鮮に強要して金正恩の暴発を誘発する危険を犯すべきではないと考えている筈である。
 
日本の安倍総理以下の自民党政権と外務官僚たちは知性に欠けるため、米国追従を唯一の日本の命綱と考えている。それは、自民党結党時の政綱と矛盾しようが全く気にもとめていない。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43493531.html
 
その腑抜け的日本政府(補足2)の対応を見定めた上で、米国は北朝鮮と協議に入るだろう。それは、日本が最低限の威厳を保った生き残りのチャンスを与えてくれた暴れん坊北朝鮮の消滅を意味する。その代わりに誕生するのが、対日強硬路線をとる憎っくき統一朝鮮だろう。そして、それと連携するのが、中国だろう。
 
その結果日本は、核保持あるいは最低限必要な核共有のチャンスを逃し、これまでの哀れな韓国の役をすることになる。それは有史以来朝鮮が考えてきた姿、つまり、東夷の国が中国の朝貢国となり、朝鮮の下に位置する中華秩序の完成である。
 
 
補足:
1)米国はこれまでの極東域での派遣国としての足場を、北朝鮮との戦争継続で得てきた。具体的には、日米安全保障条約を結び、在日米軍を置く根拠となった。それは、日本の再軍備防止、東西冷戦の戦略的拠点、更に、インド洋から中東までを視野に入れた、世界戦略の基地として存在したのだろう。また中国は、現在北朝鮮を制御する姿勢で、国際政治における大国としての地位を確立した。
2)米国供与の命綱がかくも脆いものであることなど、今だに自民党や外務官僚は気にもして居ない。それは官僚と官僚上がりの政治家は、自分と自分の家族の楽な人生という小さい視野しか持たないからである。だいたい、安定職として公務員を、そして定年後の天下りを目指す人間に、政治家の素質などある筈がない。
1)先日報道された日馬富士による貴の岩暴行障害事件も、検察の書類送検で一段落しそうである。しかし、それを教訓として相撲協会が、いろいろ言われている件に関して、大相撲改革ができるのか注目されるが、その見通しはたって居ないようである。
 
一方、その事件が新しい展開を見せるかどうかにも、依然関心が持たれている。そんなおり、その事件の深層に関する「週刊新潮、中瀬ゆかり」と題する動画を見つけた。(補足1)そこには、私が予想していた通りのことが語られており、事件の真相を知った感じがする。その動画が語る事件の背景と進行に、整合性があると感じたのである。https://www.youtube.com/watch?v=hjlAZrz_9hI
 
それによると、今回の日馬富士による貴の岩暴行事件の背景に、モンゴル勢の間にも存在する八百長体質がある様だ。八百長を非難しそれに与しなかったのが、貴乃花親方の弟子の貴ノ岩であった。そして、白鵬が貴の岩に自粛するように指導したという「粗暴な言動」の中に、貴の岩のいう「俺はナイラはやらない」が含まれるのだろう。 ナイラとはモンゴル語で八百長を意味する。
 
今回の事件の遠因となっているのは、どうやら今年の初場所で貴の岩が白鵬に初挑戦した相撲のようである。貴の岩がまさにそのガチンコ相撲(八百長でない相撲)で白鵬を下し、白鵬の優勝を困難にした。その相撲が結果として、稀勢の里の優勝とその後の横綱稀勢の里誕生に繋がったのである。
 
その相撲を、貴の岩が自慢げに「ガチンコで白鵬に勝った」と方々で喋り、それが白鵬の耳に入ったようだ。横綱として優勝し続けることが、相撲界に君臨する為の必須条件であると感じる白鵬にとって、八百長してでも何とかしたかったのだろうと想像する。
 
これらの貴の岩の言動に腹を立てた白鵬は、横綱だが格下の日馬富士を利用することを考え、「お前のことも、悪く言ってたぞ」と耳打ちしたという。この話はよくできて居て、捏造とは思えない。
 
当日、暴行を止めに入った照ノ富士が殴られ、鶴竜が止めに入ったが十分な力がなく、最後に止めたのは白鵬だという。横綱と大関が止めても止められず、最終的に白鵬しか止められなかったという事実は、上記の話がなければ非常に不自然である。
 
以上を総合して、白鵬の思い上がり、モンゴル勢の八百長などが、今回の暴行の背景にあったと思う。もともと大相撲が「ガチンコ相撲」が原則なら、白鵬が負けた貴ノ岩に恨みを持つ筈はない。
 
あの九州場所での嘉風戦で、白鵬は対戦者の自分が審判も兼ねる様な態度を取った。また、千秋楽での自分が万歳三唱の音頭をとったことや「今回の件を丸く収めるべきだ」という協会への干渉と取れる発言、さらに、巡業部長の貴乃花親方の下ではその後の巡業に参加したくないと発言するなど、白鵬の態度は目にあまる。「大相撲は自分でもっている」と考え行動しているのだろう。
 
そのほか、週刊文春に掲載されたという白鵬の愛人の話、それに付随した白鵬の言葉(ここに書くのを躊躇うので、動画を観てもらいたい)に真実味がある。これら全てを総括すると、白鵬は日本の相撲を汚していると感じる。あの肘打ちで顔面を狙う、カチ上げや、土俵を割った力士を土俵下に突き落とす荒い相撲など、日本の神に奉納する意味などあるとは言えないだろう。
 
完全に相撲協会は白鵬に乗っ取られたようだ。そんな状態では相撲協会を、公益法人の指定を取り消すべきだし、NHKは全国放送などすべきでない。
 
2)ウインブルドン方式というのを政治評論家の手嶋龍一氏が語って居た。英国がウインブルドンテニス大会を、ある時世界に解放したことで、その大会とテニスの地位が高くなった。その成功は、ウインブルドンの関係者が、「テニスコートを守った」からであると手嶋氏は語る。
 
つまり、ウインブルドンを世界に公開するが、同時に大会を公正で品格のあるものに守る決意をしたというのである。https://www.youtube.com/watch?v=maKL72yOnNs
 
大相撲も世界に開くのなら、同時にウインブルドン方式に習って、「土俵を守る」という決意がなければならない。その決意を示すことに、相撲協会は失敗しているのではないか、そう手嶋氏は指摘したいのだろう。
 
大相撲を世界に公開したものの、「日本伝統の土俵」を護れないのなら、日本政府は日本相撲協会を公益法人にして税制上優遇し、政府の指導の下にあるNHKが全国放送するという形で、支援&擁護する理由などないのだ。(補足2)
 
補足:
1)週刊新潮1214日号に詳細が語られているようである。また、関連記事が週刊文春の同日号に記載されている。
2)先日の最高裁判決にあった様にテレビ設置者はNHKと視聴契約をする義務があり、従って視聴料は税金とほとんど同じ意味を持つ。それは、NHK放送が公益に寄与することが前提である。もし、単に娯楽番組の提供と引き換えに視聴料を取るのなら、NHKは民営化し、放送法第64条は廃止すべきである。
 

 北朝鮮危機がテレビ等で話題になっているが、日本では誰もそれに備えるほど危機感を抱いていない。政治家はその難問を避けて自己保身に走り、テレビの評論家は大きな声で喋っても、その意見に必死に情報を集め解析したという努力のあとが感じられない。彼らには、利己主義が蔓延している。
 
声の大きい人に二通りある。知識と自信に基いて明確に喋る人と、知識の有無は分からないが、自分或いは自分の所属する団体の利益を考えて喋る人である。どちらが正しいのか、声の大きさだけでは全くわからない。この国では、互いの主張が矛盾していても、正面衝突することは稀である。
 
本人達が避けるのか、報道機関などがそのような場面設定を避けるのか分からない。多分両方のメカニズムが、この「和の国」では働くのだろう。「和の国」というのは、議論を避けることを優先する国のことであり、我が国を指している。議論は、問題を洗い出して解決の方法を見つける為にするのが一般的だが、この国では多くの場合議論は口論の始まりであり、口論は喧嘩で終わる場合が多い。無駄に終わり団結を阻害するのなら、最初から議論など始めない方が良いと考えるのだろう。(補足1)
 
勿論、個人が自分の知識を基に信用できる人を探し出し、その意見を参考にして何事も自己責任で判断するしかないのだが、この国ではそれが一層難しいのではないだろうか。
 
「和の国」の政治家は能力がないし、官僚やマスコミは利己的である。マスコミは、コスト削減か何か知らないが、何時も評論家の顔ぶれは同じである。(補足2)米国べったりの元官僚や元新聞社の人たちが、何時も同じことを喋っている。
 
シリアスな政治番組など地上波放送局では出来ないと思ったのか、嘗てかなり聴きごたえのあった政治バラエティー番組が、全編お笑い番組のようになったものもある。(補足3)この危機の時に、三流週刊誌のような番組作りをする神経がわからない。司会者には、放送法一条を読めといいたい。
 
この国ではまともな意見を述べる人が出演するのは、ミニコミ的番組のみである。(補足4)何故そのようになってしまうのか?この「和の国」の特徴、マスコミなどで意見を述べる資格を得た人(=リーダー的存在)の能力、彼らの選ばれ方、などについて少し考えてみる。前置きが長くなってしまったが、以下本論を始める。
 
尚、ここで考える日本の特徴は、人間に共通するものである。それを特別に色濃く社会全体で持つのが日本であるというだけである。
 
[]
「和の国」の掟は人の非難をしないことである。目の前の人がバカげたことを言ったとしても、この国ではそれを非難をした途端、大衆の刃は非難した人に向かう。正論を提げても、言論意味不明の「人格者」には勝てない。何処の国でも、一番恐ろしいのは大衆の刃である。中国やロシアでもそれは同じである。(補足5)
 
多くの国では非難は議論の出発点になるが、この国では、非難は「和」の破壊という終着駅である。上述のように、議論は何も産まないからである。
 
和は大切である。絶対君主が支配する国でも、君主は一定の範囲だが、和の実現を体制維持の為の主要課題と考えるだろう。長期的には、広く国内全体の和が、その体制の命運を決めるだろう。しかし、「和」が社会での最重要な価値として宗教の様に信じられている国、つまり「和」絶対主義の国は日本以外にないだろう。
 
一般に国家の仕事は、国民の権利保障と福祉実現である。それは、国民の安全及び自由の確保と領土の保全といった国家の枠に関するものと、国内での「富の効率的な創生と公正な分配」に分けられるだろう。そこには和の実現という項目は不要である。何故なら、公正且つ豊かな分配の結果として、和が成り立つからである。表題に書いたように、和は結果であって方法ではなないのである。
 
つまり、和は目標であり方法ではない。しかし、「和」絶対主義の国では、「和」は方法であり且つ目的でもある。非常に深刻なことだが、この国では国際関係を考える際にも、「和」原理主義が、大手を振っていることである。どこの国が親日的でどこが反日的だとか、誰が親日的で誰が侮日的(反日的)だとかが、関心ごとの中心にある。(補足6)
 
社会という公の空間で和を中心に置くのは本質的に間違いである。何故なら、和は基本的に1:1の融和的関係の輪の広がりで達成される状態であり、公の(パブリックな)概念でないからである。
 
一方、議論や評論は、公の空間に投げかけ(パブリッシュし)、社会全体の(公の)空間で磨かれる(ブラッシュアップされる)。国家の運営は、公の空間でオープンに議論を行って、その方針を決定するのが基本である。(補足7)
 
[]
 正当なる分配は、分配の規則は何かという公の議論で決められるだろう。それが、社会への寄与と同じ社会に生を受けた人間の既得権の二つであるとして、それをどう評価しどう足し合わせるかするか。その方針決定には、解析的議論が不可欠である。議論が始まれば、複数の考え方が衝突し、方針はブラッシュアップされるだろう。その議論の場が、公という空間の役割である。相撲で言えば土俵である。そして、その議論の積み重ねは、その社会の問題解決能力を育て、対外問題などが生じた時は高い解決力の基礎となる。
 
しかし、残念なことに日本では、「和」は自己目的化しており、正当なる分配を議論するよりも、目で見える「横並び」で達成しようとする。
 
与党の国会議員らは、大臣ポストをバラ巻きし、政党という社会での和を実現しようとする。そこには、公を向いた姿勢など存在しない。国権の最高機関にしてこのような非常にみっともない状況にある。
 
同じ団地で、周囲の人が国産車に乗っているのなら、「和」の実現を考えて経済的に余裕のある人でもBMWやベンツは避けようとする。(補足8)個の自立して居ない人たちは、孤立とイジメをおそれ、社会で思いのままに振る舞う自由を無くしている。
 
横並びには“苦手な議論”は不要であり、偽りの平衡点に忍耐を持って立ち止まることで、偽りの和が達成できる。「和」とは偽りの和である。その文化により、日本人は精神まで染め上げられている。小学生のランドセル、高校までの制服など、幼少期から極めて高い統一された姿に安心し、周囲に叛かないように教育される。それを明確に指摘したのは、山本七平だろう。
 
その「和の文化」の下、大金持ちでも質素に生活すること、能力があっても謙虚寡黙に徹する姿勢が、高く評価される。議論をする人間は、横並びから脱して高みを目指す理屈屋として嫌われる。明治の「万機公論に決すべし」は、日本に欠けたところを指摘したのだろう。
 
一方、文明国では組織がなければ社会は成り立たない。そして、その組織のリーダーや運営者の人選は必要である。自分が適当だと考えても、「和の国」では自薦より他薦が望ましい。その推薦は、「人格」と「能力」を基準になされる。人格者とは「和の社会」に適合した人の意味である。そして、能力は「人格」というブースターがなければ、他者に伝わらない。「能力」は本当の意味での能力ではない。
 
「人格」は一次元の物差し(高低)で測られる。これまでの「和の文化」での実績と、家柄、人脈、学歴、專門分野での実績などに基いて、周辺の人が作る。その人格という一次元の物差しで測った値が、これまでの所属した分野に関係なく人選の指標となる。
 
わかり易い例を挙げると、花を活けるのが得意な人が、日本相撲協会の評議員会議長になっていることが、最近の相撲界での事件で知れわたった。議長はテレビでこの事件について話をしているが、説得力は皆無である。法治国家の基本さえわかって居ない。その人は、家柄とその家で磨いた生け花の実績で、高い人格と評価されたのだろう。
 
 
補足:
1)私は、この原因の一つとして日本語が議論に向かない、出来の悪い言語であると考えている。“日本語と日本教について”https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/41385533.html“日本語と日本文化について”http://island.geocities.jp/mopyesr/kotoba.html
2)例えば、日曜の朝の時事放談という番組があるが、そこに出た評論家は必ずと言っていいほど、その日の別の局に出演する。録画を両方で同日(金曜日)に済ませるのだろう。
3)日曜午後のSIIKというお笑い政治番組は、嘗て、勝谷誠彦や橋下徹などの議論で相当面白かった。しかし、自衛隊に命を救われた人が司会者になって以降、お笑い番組になってしまった。不愉快な顔を見たくないので、現在観て居ない。
 
4)現在もっとも面白いのは、西部邁と伊藤貫両氏の議論であり、youtubeで観ている。右寄りだと意識して観れば面白いのは、3時間番組のチャネル桜の水島社長司会の番組である。社長が人選をするのは当然だとしても、佐藤健志氏ら意見が異る人を出さないのは度量不足だろう。
5)唯一、大衆の刃を矯める力を持った例外は米国である。ブレジンスキー(今年5月死去)の言葉がそれを物語っている。https://blogs.yahoo.co.jp/hetanonanpin/64822106.html
米国程偉大で恐ろしい国はない。従って、日本も米国とは喧嘩をしないほうが良い。それを理解しなかった過去の日本のリーダーは、無能であった。
6)何処かで誰かが、米国には日本人と比べて中国人の方が話しが通じるという人が多いと言って居た。
7)森友問題や加計問題には、公という概念に疎い人たちの醜態が隠れている。
8)近くに住んで居ても「和」の満たすグループではない場合、その違いを強調する意味でなされるのが、ネグレクトや誇示的消費である。「和」を考える範囲の外にあると見なされる場合、その境界は憎しみや蔑みの感情で明確に色分けされる。