1)毎日新聞配信の記事:
フランシスコ・ローマ法王は、原爆投下後の長崎で撮影された「焼き場に立つ少年」の写真をカードに印刷し、「戦争が生み出したもの」との言葉を付けて広めるよう指示した。ローマ法王庁(バチカン)が1日までに発表した。法王はこれまでも核兵器廃絶を呼び掛けており、改めて平和を訴えた。
 
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米軍の従軍カメラマン、故ジョー・オダネルさんが撮影した写真は、バチカンの広報を通じて、毎年11月に祝われるカトリック教会による「世界平和の日」に先立って配布された。
 
2)現在世界で行われている核廃絶運動の結果として、核廃絶が実現することはない。それは世界中の国が、核攻撃を受けないために核兵器を保持すべきと考えているからである。その核武装の論理は、カダフィ、フセイン、そして、金正恩らにより証明された。神に祈っても、世界が平和になるわけではないことも同様である。

世界史において、多くの地域の植民地化に大きな力となったのはイエズス会であり、その多くはキリスト教圏の国々により戦争を経て成し遂げられたことは周知である。そして、その後世界の政治を支配し核兵器の多くを所持しているのはキリスト教圏の国々である。

戦争が生み出したものを議論するのなら、その前に何が戦争を生み出すのかについての考えを示すべきである。それがないのなら、その写真を利用すべきではないだろう。(翌朝再編集)

武器は戦争の原因ではなく、単に道具である。従って、上記のような明確な説明がない限り、その運動は核保持国の核独占を支援する核廃絶プロパガンダだと、核を持たない国は解釈するだろう。その種のプロパガンダは、非核保持国の少年が、非核保有国であるが故に将来核攻撃を受けて、同じ姿で焼き場の前に立つことに繋がると思う。


1)中部大学の武田邦彦氏が、日馬富士の暴行事件に関する話をしていたが、その中で日本の相撲、そして日本文化について語った部分が印象に残ったので、その延長の形で日本文化を考えてみた。武田氏の動画から得た文章はイタリックで書いた。それ以外は今回のオリジナルな分析である。https://www.youtube.com/watch?v=JSIHkwix5ME&t=533s
 
大横綱の双葉山は「待った」をしなかったという。相手が幾分早く立ったとしても、待ったをせず、堂々と横綱らしく受けて立つ相撲だったのである。
 
西洋の対決型のスポーツでは、試合の場では格の上下などはなく、細かく定められた同じルールの下で試合をする。そして、ルール違反に当たらない技を総動員して双方が戦い、その結果としての評価は勝ち負けが全てである。しかし相撲の場合、力士に細かく別れた格があり、試合の前に紹介される。試合は、ルール違反の判別には同じルールが適用されるが、格上の力士は格上らしく戦わなければ、評価が落ちる。つまり、評価は勝ち負けだけでなく、独特の“美学”が持ち込まれる。
 
西欧のスポーツでは、スタートは審判が宣言するが、相撲では対決姿勢を取るところまでは審判つまり行司に足されるが、試合の開始は対決者同士で決める。行司は、その後対決が正当かどうかを審判する。(補足1)つまり、相撲は西洋のスポーツに似ているが、しかし、ルールが全てではない日本的スポーツである。相撲の歴史を考えれば、神へ奉納する真剣勝負的な伝統行事なのだろう。
 
その原点から考えれば、現在の日本相撲協会は営業を重視した会社的経営に徹している。そして、モンゴル出身の力士に対して、上記の日本相撲のエッセンスを殆ど敎育していない。何故なら、白鵬は横綱になりながら、そして、圧倒的な強さを誇りながら、奉納相撲にふさわしくない相撲の美学に反する勝ち方をしているからである。
 
立ち会いに“エルボー”で相手を失神させるような技や、殆ど毎回の様に顔面パンチを用いて、自分優位の体制を取ろうとする。それは双葉山の受けて立つ相撲とは180度異なる。また、真剣勝負であるべきにも拘らず、モンゴル力士を含めてかなりの力士たちが、八百長相撲(モンゴル語でナイラ)を疑われている。(補足2)日本の古い奉納相撲を全く無視したような相撲を取らせる協会の姿勢は、この際厳しく批判されるべきである。このあたりで、公益法人という資格は剥奪すべきだと思う。
 
2)武田氏のその話の中で、日本文化の「清濁併せ呑む」という特徴が紹介されていた。中でも印象的だったのは、動画の610秒位から始まるインドの社会学者の話の紹介である。その社会学者が、「日本には性産業が無い様に見えて在り、それでいて社会は健全に見えるのが素晴らしい」と発言したというのである。
 
武田氏はこのインドの学者の話について、それ以上は言及しなかったが、上記双葉山の相撲なども合わせ考えると、日本文化の特徴が見えてくるように思うのである。つまり、近代日本は、個人を同一のルールで縛ることを建前上取り入れているが、それは日本文化の世界とは本質的に矛盾するのである。
 
日本文化の特徴は、人は分をわきまえて行動し、社会が全体として調和的に動くことをよしとしているのだと思う。ナチスの全体主義とは全くことなる、全体主義的文化と言えなくもない。別の表現を用いれば、日本は国家でありながら一つの生命体を構成するのである。インド学者の指摘した様に社会全体が、生物として必然としている人間の全てを、各個人がその”分”を弁えて行動することで受け入れるのだろう。
 
一方、西洋社会のあり方は、人間の中の汚い部分を違法の中に押し込め、犯罪者を同時に生み出すことで処理している。つまり、人を善人と悪人の二種類にわけて、この世を神の子である善人の棲家として、醜悪なる部分を悪人或いは異教徒の仕業として罰するのである。それは、全体から美しい部分或いは上澄み(“表社会”)を取り、その“人工社会”を正義の支配する社会、神の意志を実現した社会と定義するのである。その正義や平和は、その上澄み社会のみでは永続的に実現可能でないなどとは、およそ想像すらできないだろう。
 
3)西欧の社会で語られる人権、平等、自由、自然保護、動物愛護などは、その人工社会の概念であり、それを振りかざして異なったタイプの社会の国家を攻撃する姿は、まさに中世の異教徒弾圧的風景である。善悪は神の領域であり、従って、かれらには迷いはない。つまり、社会が表と裏で全体を為し、表だけでは安定に存在できないという考えは、想像すらできないだろう。
 
一方、日本社会では“悪人”に対しても一定の棲家を与えている。日本には「盗人にも三分の理」という言葉がある。また、幡随院長兵衛に始まるとされる侠客やヤクザなどは、西洋の悪人とはかなり実体が異なるだろう。ヤクザは西洋的観点からは、現代法に反する行為を日常的に行う悪人という範疇に入るが、しかし現在でも“裏社会”を仕切っているようである。
 
現在、日本は西欧的法治国家を標榜している。その一方で、上記インド人学者が素晴らしいとして評価したことや、例えば都市部再開発などにおいて、地上げと悪の汚名をセットで受け持つそれらの人々(裏社会の人々)を、単に処罰するだけで良いのかという疑問が残る。https://www.youtube.com/watch?v=kr1rvu5vR40
 
21世紀の世界は混乱の世界だろう。そこで、行き詰まるのは西欧型社会である。神の論理と人間の本質の間の”ずれ”を、強引に退けるには犠牲者(生贄)が必要である。人の力が科学の力を借りて非常に大きくなった現在、その考え方では多大な犠牲者が必要となるかもしれない。それは人類の破滅に繋がる可能性すらあると思う。
 
インド人の学者が感心した日本の風俗などは、西欧の論理を用いれば二枚舌を用いているとか、悪に対する姿勢が毅然としていないなどの非難の標的となる。それは、人を全て同じ平面に並べた上で、人の性質を善と悪に分けるという、西欧の信仰に毒されているということではないのか?西欧的神の論理を原理としないで、人の“醜悪なる部分”も含めて全人格を受け入れる日本型社会(東洋型社会?)を世界が考えるとしたら、21世紀の世界を考える良い材料、或いは刺激になるのではないだろうか。
 
 
補足:
1)始まる前なら、力士は対決姿勢を一旦解除することを提案できる。それが「待った」である。双葉山は、相手が先に両手をついて試合を一方的にスタートしても、遅れを承知で手を付いてその試合開始に同意したのである。何れにしても手をつかなければ、試合は始まらない。
2)そもそも貴ノ岩暴行の原因(或いは誘因)に、横綱白鵬をボスとするモンゴル力士グループが、真剣勝負をする貴ノ岩に反感を持っていたことと、その真剣勝負で白鵬を破り稀勢の里の優勝をアシストした相撲があったという。
1)「日本国は日本国民一人一人が支えている」と言えば、恐らく殆どの人が同意するだろう。しかし、日本国を支えているとの自覚は日本人にはあまり無いだろう。それが、貴ノ岩暴行事件に対する多くの人の反応を観ての感想である。
 
日本国を、一つの細胞にたとえると、壁に囲まれた色んな組織が見えるだろう。その壁の強さに順番があり、それを知ることが小学校以来教えられている「社会科」の最も基本的なテーマである。しかし、日本国民の殆どがそれを学んでいない。
 
日本国は、国民つまり個人により構成されている。その背景には、国土や歴史などがある。その個人は独立しており、他人が入り込めない領域を持つ。今用いている喩え話では、その個人を壁に囲まれた侵すことのできない領域を持つ存在と見ているのである。
 
近代国家では、その個人という領域が国内において外から明確に見え無ければならない。そして、その次に強い壁として、国家を取り囲む壁が存在する。これら二つの存在、国民と国家は相互依存的である。国民の居ない国家はないが、国家無くしては個人の生存は危ういからである。国家を細胞に喩えたのは、それが世界における生存の基本的単位だからである。
 
勿論、個人は移民などとなって異なる国家を構成することもあるが、その場合はその新しい国家なくしては、その個人の存在は危ういのである。
 
その次に目立つ壁に囲まれた存在は、個人と同様、親族である。親族がそのように国家により認められているのは、互いの協力が国家の成立と安定に寄与するからである。親族の壁の中に手をいれる場合、国家の力も遠慮すべき場面がある。(補足1)
 
更に、もう少し弱い壁でつくられた色んな組織がある。法的人格が認められた存在の「法人」の壁も見える筈である。更に、法的人格は無いが、開放的或いは閉鎖的な個人が結びついた色んな組織がある。(補足2)
 
日本相撲協会は、その法人の一つである。相撲協会の人たちは、自分達の組織を「内部」と意識しているかもしれないが、それは国家あっての組織であり、国家の法の執行が当然優先される。法人は個人のあつまりであるが、上述のようにその個人間には明確なすき間或いは空間がなければならない。その空間は国家の空気(つまり法秩序)が満たしている。(補足3)その部分を、公(おおやけ)という言葉で表現することもできるだろう。
 
今回の事件は、法人の壁の外で行われた私的犯罪である。貴乃花親方のすべきことは、相撲協会が如何なる取り決めをしていても、国家の組織である警察に連絡することであり、その捜査に協力することである。その結果、法人の業務に支障が出ると考えられるのなら、その事実について法人が知らされていないのなら、何らかの手段で報告する義務があるだろう。
 
しかし、その義務を果すことが、警察の捜査を妨害する可能性があると常識的に考えられれば、その義務違反で貴乃花親方が処分される理由はない。その常識として、「犯罪捜査は、犯行現場にいた人たちが互いに連絡を取り合うことを嫌う。そこで、捜査当局は関係者の夫々を隔離する」などが考えられる。
 
犯行の現場に最も近い相撲協会の担当理事が、そのように判断して事件の報告を直接理事長にせず、警察を経由して知らせたのなら、それは正しい判断である。
 
今朝の「とくダネ!」を観ていたが、元検事以外の人たちは、全く上記社会科の基礎がわかっていなかった。貴乃花親方処分はすべきでないという人はいたが、それも「犯罪を切掛として、貴乃花親方の協会内規違反が生じたのだから、処分すべきでない」というものであった。
 
2)因みに、①個人が国家に優先するただ一つの存在であり、そしてその個人が国家を支えていることを、日本人は意識していない。また、②国家が個人以外のあらゆる組織に優先することを、日本人は理解していない。更に、③国民が支える国家以外の強い壁は、その外には全くないということも理解していない。つまり、世界は国家と国家が互いの利益を追求する野生の世界であることを理解していないのである。
 
①や②は、③を原因としている。その原因は、ヨーロッパのように、国家間での悲惨な戦争を繰り返して、その結果、主権国家という概念に到達したという歴史を日本は持たないことである。この主権国家から、市民が支える国民国家になり、奴隷解放から民主国家になったのである。そして、民主国家の基本は個人主義である。
 
この個人主義や国民国家という考えは、西欧の伝統の中から生じたのだろうが、それを取り入れる決断を日本国が明治の時代にした。それは、日本国が独自に決断したと言って良いと思う。明治維新については、英国の企みであると言う人も多いだろう。しかし、それでも、その後の日本国の運命は日本国が背負うのであるから、外国の力と知恵を利用して、日本国が独自に成し遂げたと考えるべきであり、その覚悟を持つべきである。
 
それを、日本国は2,600年前から連続して存在するという風に考えようとするから、「明治維新という過ち」という解釈が出てくるのである。(補足4)
 
(17時20分編集)
 
 
補足:
1)親族間が庇い合うことを、国家もおおめに見る。例えば、犯人隠匿や証拠隠滅の罪は、親族の犯罪においては罰せられない場合もある。(刑法105条)
2)閉鎖的な組織として、高校の同窓会や米国の「ドクロと骨」のような組織がある。開放的な組織として、俳句の会や短歌の会などもある。
3)国内から個人の壁が明確に見えなければならないと上に書いた。換言すれば、国家以外の組織から個人は自立していることが、近代国家成立の要諦である。この個人間の空間から公を排除する組織がある。それらは、ヤクザであり、テロ組織である。日本相撲協会がヤクザ的組織になってはならない。
4)原田伊織著「明治維新という過ち」を参照。その本について幾つか記事を書いた。その一つが以下のものである。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2015/07/blog-post.html