以前に別サイトにアップしたもので、ここにはないので再録します。なお、一昨日の記事は文章が練れていないので、意欲が湧いた時に編集に再度チャレンジします。
 
山本七平氏の「空気の研究」(文言春秋;文庫)の二つ目の文章は、表題の「水=通常性の研究」(文庫版、以下省略、91-172頁)である。「水」は「空気」と対をなして日本社会の雰囲気を作る因子としている。水という単語を用いたのは盛り上がった雰囲気を元に戻す「水を差す」という言葉からとっただけであり、必ずしもぴったりする言葉ではない。それが補足的に通常性という言葉を付け足した理由であると思う。 
 
 水は全ての考え方を(日本的)通常性に換えてしまう力であり、それは消化酵素のようなものであるとしている。例として浄土宗としての仏教の変質や日本共産党の変質をあげ、議論している。(94-100頁)何故そのような日本社会の通常性へ適合するように消化してしまう「水」が存在するかについては、単に営みの連続性(記憶による)と、人にも何にでも存在する「異常性の排除」というメカニズムをあげている。(103頁) 
 
また、この日本における通常性の特徴として、「情況倫理」と表現されるものをあげている。たとえば、「あの情況ではああするのが正しいが、この情況ではこうするのが正しい」「当時の情況ではああせざるを得なかった。今の基準でとやかく言うのは見当違いだ。批難されるべきはそのような情況を創りだした方だ」というものである。(108頁;注1)この過度な(つまり日本型)情況倫理的な論理は、背後に自己無謬性があるからであり、そして自己無謬性の成因には日本型平等主義がある。(113頁)日常的に慣れ親しんでいる(日本型)情況倫理的思考に異常性を感じる人が多くないかもしれないので、著者はそれと対照的な「固定倫理」の考え方との違いを説明している。それは19世紀までの西欧で厳密に用いられていた倫理である。(123頁)
 
 情況倫理に過度に頭を占領された例として、通知簿にオール3をつけた音楽教師の例があげられている。この例は、流石に嘲笑的に批判されたが、人間を基準とする日本的平等主義の終着駅であることに気付いた人は少ないかもしれない。しかし、複雑な論理を展開するまでもなく、人間を平等とする人間中心での倫理があるとすれば、それで人間を裁くことは不可能である。ただ、倫理が無ければ社会は成り立たないので、情況を超越した一人間、又は一集団、或いはその象徴に、その基準を求めることになる。そして、「一人の絶対者、他は全て平等」という原則が出来上がる。(127頁;注2)
 絶対者を持つことは、それに対する信仰のようなもの、つまり臨在感をもつことになる。
 
 このような情況の原因を、著者は日本型儒教を用いて説明している。儒教には、「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きことその中にあり」(論語、子路第13)とあり、真実或いは社会の法よりも人間関係を重視する。また、上記親子の間の「孝」の他に、「忠」という人間関係もあるが、それは主君或いは会社などへの契約的忠誠である。その儒教の考え方が、日本では「忠孝一致」という考え方が、統治者に都合良く追加された(136頁)。一方西欧では個人主義が伝統としてあり、上記のような情況にはならない。その出発点として、聖書のエレミヤ書の中の言葉をあげている。
 
 以上のように、忠孝一致で極限に達した人間関係重視(つまり、真実や法の軽視)と、それと従属関係にある情況倫理の支配が「通常性」の中身なら、何らかの問題が生じた時に、大衆が大きく一方向に偏る、つまり空気に支配される、のは当然の結果である。一見、良い方に「空気」が偏った例は、明治維新であり、それは「文明開化」というシンボルが臨在韓的に把握され、文明化の「空気」が出来たからである。(154頁)世の中に、西欧諸国との対立という新たな情況が生じたなら、その文明の出所を忌避する「鬼畜英米」の空気に支配されても不思議ではない。それは、まるで日本社会全体の、宗教的回心或いは転向のようである。
 
 以上、空気にしても通常性(水)にしても、日本に置ける束縛、つまり、自由の喪失について、そのメカニズムを述べたものである。しかし(情況倫理が支配的な)日本では、どこに自由という概念をおいて良いのか解っていない。大切なのは、「空気」に「水を差す」自由である。そして、戦後、「自由」を語った多くの人は、この「水を差す自由」をいつでも行使しうる「空気」の醸成に専念してきたのである。しかし、その「”水を差す自由”という空気」にも水が差せることを忘れている(注3)という点で、結局、空気と水(=通常性)しかないのである。(最終頁)
 
 以上が、「水(=通常性)の研究」を私の理解で補足を入れつつ要約した文章である。この章も解り難い。その理由は、著者が「空気」と「水」という表題のキーワードに拘り過ぎているからだと思う。特に「水」の使い方は、おかしい。“水を差す(通常に戻る)”場合と“情況倫理に支配された通常性(=水)”は全く別物だと思う。上記解釈では、その区別をしている。 
 
 私の考えを一言で言うと、日本には西欧にある“自由という伝統”がないということである。それは、一神教とその聖典(つまり聖書)をもつ西欧と、人間しか目に入らない儒教文化の東アジアの差であると思う。偶像を厳しく禁止し、神と人との一対一の関係を築くことで、人は人間関係から本質的自由を得る。民主主義は人と人の間に本質的自由がある状態、つまり個人主義が存在する所でしか成立しない。自由と放任はべつものである。最終頁の「水を差す自由という空気」に水がさせないのは、「自由」の本質と獲得のメカニズムが解っていないだけである。そして人類は、神(ヤーベ神)を持つ以外に「自由」を獲得する方法を発見していないようである。(注4)
 
 戦後、米国が日本に注入したと考えている自由は、実は放任と誤解されたのであり、日本のような行き過ぎた儒教圏(忠孝の区別ができない)での放任は、同時に注入したと考えている民主主義を別物に変質させたのである。 
(以上の解釈等に、誤解があると思われるなら、御指摘下さい。歓迎します。) 
 
注釈: 
1)この情況倫理は何処の国にもある考え方であるが、日本では過度に働いているという意味で書いていると思う。たとえは、「あの時にドロボーしたのは、空腹で命が危ないと思ったからである」が真実なら、どこの国でも裁判において減刑される筈である。 
2)「一人の絶対者、他は全て平等」という原則では、絶対者が実際に力を持たなければ、集団は流動的状態になり、空気が醸成される。この水=通常性の文章は、空気の醸成メカニズムという視点で書かれている。空気に「水を差す」意味での「水=通常性」はほとんど効果がない。それが、この文章を理解しにくくしている理由だと思う。最後の方にもう一度このことを「私の考え」として書いています。 
3)これは、”政府の方針には何でも反対”という所謂左翼系新聞(A新聞やM新聞)が醸成した「空気」だろう。それらマスコミには、政府に賛成する自由(水を差す自由と言う空気」に水を差す自由)はない。社民党なども同様な症状にあると見える。
4)ここでの「自由」は歪んだ人間関係を排除する自由の意味で、西欧人はそれを神への束縛と引き換えに手に入れているにすぎないと言える。当然、人間は協力して生きて行かねばならないのであり、その為の「法と正義」が、神により準備されている。従って、聖典の考慮した範囲を越えない情況下にある限り、西欧社会は悪魔(実際には、屢々入り込む)が入り込まない限りよく工夫された社会であると思う。別の言い方では、西欧社会では、人間関係において自由を獲得したが、神との関係において束縛されている。従って、イスラムとユダヤの争いとその深刻さは、日本人には理解できない。(2014/6/14一部改訂)
 
今月21日に評論家の西部邁氏が多摩川に身を投げて死亡した。最近、チャネル桜などでしばしば、氏の話を聞いていたのでやっぱりと思った。「相当痛みがキツかったのだろうか」とか「精一杯生きて、日本の政治やマスコミの批判などやって欲しかった」という思いも同時に心の中に生じた。
 
1)ここで、西部氏と村本大輔という芸能人との対談で、西部氏が話した内容について批判しようと思う。死した後も議論をふっかけられるというのも、西部さんなら嫌な気がしないように思う。この対談、西部氏は相当楽しんだようで、予定をだいぶ超えて3時間に及んだと何処かに書いてあった。
 
その議論のなかで、村本は芸人はもともとオオカミ。でも、途中から犬になるのです。最初は絶滅したオオカミのように魅力的なところがあったのに、テレビに出だすと首輪をした犬になってしまう。」と言った。
 
それに対して西部氏は、「インテリも同じ。自分の昔の原稿を読むとオオカミとして書いている。それがわずかと思うけど少しずつおとなしくなっている。ワンワンに読んでもらうためにね。」と答えた。
 
村本氏の芸能人についての言葉は、2-3年前のピース又吉による芥川賞受賞作の「火花」のなかで、漫才師「徳永」の姿勢として描写されているので、意外性は全くない。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42350618.html
 
西部氏の言葉の前半も「インテリ」の定義によるが、「インテリ=学者」と考えるのなら、その通りだろう。(補足1)しかし、後半の言葉は無知蒙昧の大衆の対義語としてインテリを用いているのだろう。西部氏の持つ優越意識、大衆蔑視、劣等感の混合から生じた言葉に聞こえる。本を購入してくれた読者を馬鹿にしたことばである。又吉氏の小説では、漫才師徳永は自分の漫才と大衆受けする漫才の間で苦しんだが、学者と大衆の間で苦しむ姿は西部氏の言葉の中には無い。
 
なお、学者が論文を書く場合、仲間或いは同業者を対象に書き、同業者の審査を経て学会誌に掲載される。あくまで仲間を対象に文章(理系では実験をした上で)を書くのが学者の仕事であり、それは専門書の場合も同様である。上記のような言葉は口から出ない筈である。それが啓蒙書でも、将来仲間になり得る若い人を対象に書くのだから、そのような言葉はあり得ない。


人を狼型と犬型の二種類に分けて、犬(大衆)用に本を書いたというのなら、それは芸の世界と同じであり、決して客を犬呼ばわりしてはいけない。そしてその金儲け(芸人なら入場料)が目的の行為を、学者たる自分が恥じて居るのなら、普通の学者連中がそうであるように、黙っているだろう。それでも犬用に書いたというのなら、単に目立つようにベンツの高級モデルを下町にある自宅の前に路上駐車させるのと同じ類の行為だろう。
 
2)西部氏は以前、「60年安保闘争のとき安保反対を叫んでいたが、学生たちは安保条約をまともに読んでいなかった」と言っておられた。出典を示せないのは残念だが、非常に印象的だったので明確に頭の中に叩き込まれている。あれは、感覚的反米闘争であり、現実的闘争ではなかったと思う。
 
岸政権の安保改定は、少なくとも条約の改善であった。また、当時米国支配の中から抜け出ることは不可能であり、もしそれをクーデターでも起こして実行したのなら、日本国により多くの悲劇をもたらしたと思う。
 
西部氏は、村本氏との対談で安倍総理と安保法制について以下のように語っている。
安倍さんとは彼が最初に総理を辞めた後、1年間研究会を開いて正しい保守についてレクチャーをしていました。そのうえで気に入らないことを言わせてもらえば、日米同盟の下で安保法制をつくったことです。
僕は安保法制自体には何の問題もないとの立場で、自衛隊が行く必要のある特殊事情があるなら、地球の裏側でも行け、鉄砲も撃てと思う。だけど、それを米国のような国とやるな。米国は北朝鮮の核武装はけしからんと言っておいて、自分たちの友好国のイスラエルなどには、どんどんやれと言っているような国です。
 
安倍さんにレクチャーしたことを述べた上で、「気に入らないことを言わせて貰えば」というのは、先生が生徒の習熟度に関して採点するという趣旨で使っているのだろう。それは、上記の狼と犬を持ち出した発言を思い出させる。その様な形で安倍政権の政治を批判するのは、間接的だが安倍総理を選んだ国民に対して失礼だと思う。
 
西辺氏の米国に関する記述はその通りだと思うし、それは伊藤貫氏を招いての議論でも、下記の講演などでも明らかである。https://www.youtube.com/watch?v=_5uUlM_w0_4&t=3s 尚、その他の伊藤貫氏の講演も非常に勉強になる。(補足2)
 
憲法改正及び集団的自衛権を持つことは、独立して普通の国になる第一歩であるので、保守系の政治家なら誰もが考えることだろう。そして、そのような第一歩がようやく安倍政権で踏み出せる時が来たように思う。岸信介総理の時代には、そして、その後の池田、佐藤、中曽根など保守本流の長期政権でも為し得なかったことである。現実問題として、他のだれがそれを実行出来るのか?
 
真の保守とは、現実主義でなくてはならないと思うのだが、保守を看板にする西部氏の上記言葉は、単に理想論を述べただけで現実性がない。例えば、「総理候補の岸田氏や石破氏なら、このように外交ができるから、安倍総理の間の憲法改正などには反対だ」というのならわかる。しかし、思想家西部氏の考えは、安倍総理は理想の総理からかけ離れているので、安倍総理の下での集団的自衛権法制化には反対だと言っているように聞こえる。
 
しかし、日本国は、米国、中国、ロシアに囲まれて、どこかと同盟関係を結んで生きる道を選ぶ以外に道はない。(補足3)その3カ国の中で同盟国として選ぶ場合には米国が依然として選択肢のトップにある。その上で、中国やロシアとの友好の道も、将来の同盟も視野に入れつつ、考えるのが政治家の使命であり、それを安倍政権は行っていると思う。それも国民のバックアップがあってこそ可能なことである。石破氏や岸田氏では、そのようなバックアップはないだろう。何故なら、政治家と政治屋は狼と犬の関係にあるからだ。
 
 
補足:
1)インテリとは知識階級のことであり、対義語は大衆である。
2)慶応大学で行われた昨年の講演などは、米国の現状とトランプ政権との関係が良く分かる。https://www.youtube.com/watch?v=Y_oD0ZWfWz4&t=4225s
3)伊藤貫氏は講演で、近代西欧はウエストファリア体制を維持してきた。その根本は、独立国は互いの内政には介入しないで、節度を保とうと言う考えであると説明している。現在、米国、ロシア、中国、ヨーロッパ、インドの5大政治勢力があり、米国一極集中していた世界の覇権がこの5グループに移りつつある。そのなかで、同盟関係を築く方向で日本は将来の安定した位置を探るのである。それは、毛沢東が自宅に田中角栄を招いた際に言ったことと同じである。その時はインドは眼中になかったかもしれないが。
国の政治家はどのような仕事をするのだろうか? そんな疑問が、内藤國夫著「悶死 中川一郎壊死事件」を読んだ時心に浮かんだ。教科書に記述があれは、「政治家の仕事は、国家の政策と予算を議論及び決定すること」と書かれているだろう。国民の議論がそこまでなら、氷山にぶつかるかもしれない日本国という船を救えないと思う。
 
1)一週間ほど前に、たまたま中川一郎の死の謎を議論したyoutube動画を見た。その動画は、14年後の検証というふれこみでテレビ朝日から放送された「驚き桃の木20世紀」(1997/4/18放送)からの抜粋である。しかし、中途半端な推理は逆に謎を深めるだけだったので、その批判文を数日前にブログにかいた。先ず、それに補足することで表記の私の持った問題意識を説明したい。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43536859.html 
 
中川一郎の死の謎をもう少し追求すべく読んだのが、上記内藤國夫氏著の本である。この本でも、最終的な真理は闇の中という結論なのだが、一定の枠の中に問題を追い詰めている。つまり、中川、中川の妻、鈴木宗男筆頭秘書のいわば“三角関係”と日本の政治の特殊性が、中川を死に導いた原因である。(補足1)テレビ朝日が上記番組で紹介したCIAやソ連の工作などとの関連は、中川の死のドラマを一般にも面白くするために、番組が持ち込んだものだろう。
 
この件は、次のように考えると説明可能だと思う。中川とその筆頭秘書である鈴木宗男の作る政治家チームは互いの弱点を補って優秀な政治チームとなった。しかし、そのチームが日本の政治で頭角を現すに伴って、周囲の欲望と期待は、坂道を転げる雪だるまのように大きくなった。坂道を転げる雪だるまは、最後は分解してしまうように、中川は自分で死を選ぶことになったのだと思う。つまり、中川一郎個人の実力を超えるスピードで出世街道を走ってしまったと言うことになるだろう。
 
中川の仕事は国の政治であるが、地元の期待に答えることもそれと同様或いはそれ以上に、大切に考えなければならないのが日本民の政治家の宿命である。その欲望と期待は、後援会を構成する有力者の私的な利益とも絡んだ地域のものであり、その政治チームでは担いきれないものが多かった。そして、その地元にとって不満足な処理をするのは、秘書の役割であった。そこで地元後援会周辺が、秘書の鈴木を中川との間の障害として憎んだ。そして、次に彼等が利用しようとしたのが中川の妻貞子である。妻は、中川の分身として自分も偉くなったと勘違いするのは、想像に難くない。地元後援会周辺の声が中川に届かないのが、筆頭秘書である鈴木宗男の出しゃばりの所為と考えて、夫の仕事上の分身を夫から切り離そうとした。それが、夫婦仲が険悪になる原因だったのだろう。(補足2)
 
中川の妻は、美人であり人並み以上の頭脳を持っていたが、その能力は上記のような環境で夫の中川を助ける方向ではなく、潰す方向に働いたのである。中川は睡眠のために抗うつ剤を妻から受取り、アルコールとともに常用することになった。元々見かけとは逆に繊細な神経を持つ中川は、総裁予備選での惨敗とそれによる派閥の減少を一時的な現象であると知性で理解する一方、沈み込む感情と荒んだ身辺の環境とを持て余したのだろう。(補足3)
 
秘書鈴木を切れば “評価の高い政治チーム”は破壊されるし、鈴木を切らなければ家庭が破壊されるのである。家庭の破壊は、人気商売の政治家の命取りになる。デッドロックである。
 
その中川の自殺の場面では、直接的或いは間接的に中川夫人や後援会の中心人物が重要な役割をしている可能性もある。しかし、真実は道警を巻き込んだ死因隠しにより闇の中に葬られた。(補足4)謎の死の方が、"将来の総理"の死として相応しいのかもしれない。尚、前回紹介したテレビ朝日の放送は、新たにソ連の中川への工作を取り上げて面白く番組を作り上げたのだろう。(13日のブログ記事参照)
 
2)次に日本の政治家のあり方について少し書きたい。ドブ板選挙という言葉がある。各戸の前の側溝を跨いで直接有権者一人一人に会って支持を訴える選挙戦術である。現在、戸別訪問は禁止されているので、徒歩で街頭を回り通行人に握手を求める等も、ドブ板選挙の範疇に入る。
 
ドブ板選挙を推奨した元首相田中角栄の言葉に、「歩いた家の数しか票は出ない。手を握った数しか票は出ない。」がある。現在では角栄の影響を強く受けた小沢一郎などの政治家が、自グループの候補者にドブ板選挙を積極的に勧めている。(補足5)上記田中の言葉は、田中の鋭い感覚と経験からくるのだろうが、政治そのものには無関心な大衆の本質を形容した言葉とも考えられる。
 
日本の政治を現す言葉「地盤、看板、カバン」がある。この、地盤を固めるために田中はドブ板選挙が有効であると主張したのである。地盤とは、後援会組織である。看板とは有名であること、そしてカバンは選挙資金である。政治化二世、芸能人、スポーツ選手などが有力候補となるのは、このことばから自明である。政治家が地盤を利用して当選するのなら、その地盤が政治家を利用しようとするのは当然である
 
その日本的政治の遺物は至る所に見つかるだろう。例えば、中川一郎に政治家の道を開いた大野伴睦の銅像が新幹線岐阜羽島駅近くに作られている。その駅が大野伴睦の働きで出来たからである。その地盤は、大野伴睦の死後息子により、息子の死後、その妻により夫々継承された。
 
上記本の第二章にこのような記述がある。「中川事務所で秘書たちが休めるのは、年に10日前後しかない。平日には他の事務所では考えられないほど、凄まじい数の陳情客や来客、それに殆ど鳴りっぱなしの電話で忙殺される」(p58)国家と世界のことを考えるべき国会議員の事務所が、地元の陳情客の対応に忙殺されるのである。しかも将来の総理大臣候補の事務所こそが、そのような情況に追い込まれる。
 
多くの政治家(特に自民党の政治家)たちは、秘書たちと共に、コネを利用しようとする地元の人たちへ対応する日常にありながら、天下国家のことを考えるべき総理大臣の椅子を目指すのである。それは、優秀なる政治家そして総理総裁を一億の国民から選び出すという民主政治の理想形とは、程遠い政治文化である。カバンは政治資金規正法と政党助成金により相当存在感が薄くなったかもしれない。しかし、地盤と看板とは依然威光を放っている。
 
米国やヨーロッパ等でもそれぞれ独特の政治文化が存在するだろう。欧米など先進国でも民主政は形式的に成立しているに過ぎない。完全な民主政治など世界の何処を探しても存在しない。その形式的民主政のトップランナーの米国では、”民主主義政治”が大衆は愚鈍であるとの前提で動いているのである。それを思わず口にしてしまったのが、米国のブレジンスキー元大統領補佐官である。
 
著名な政治学者であったブレジンスキーは、大衆が政治に目覚めるのを恐れた。上記サイトでの発言で分かるように、自分たちが政治の実権を失うからである。しかし、大衆が政治に目覚めれば、別のメカニズムで世界の政治が混乱する可能性があると私は思う。政治に目覚めた大衆は、個を主張し始めた羊の群れのように統制を失って迷走するのである。(補足6)
 
インターネットは個人に処理能力以上の情報を供給する。そして、基礎的知性を持たないままで、偏った分野において詳細な情報を獲得する人が多くなるだろう。その結果、人間は太古に獲得した協調的社会からも放逐されて、大声で噛み合わない主張を繰り返すバラバラの集団となる可能性がたかい。最終的に生き残るのは、中国のような独裁制を残した国ではないだろうか。
 
補足:
 
1)一般に何かが生じたとして、それを「原因と結果と背景」で記述するのはなかなか困難である。例えばサーカスの綱渡りで落下死亡する事故があったとして、その原因を昨夜の疲労に求めることも可能だが、観客の一声に気持ちが揺らいだのかもしれない。また、物理学者なら地球の引力に根本原因を求めるかもしれない。昨夜の疲労も、足の水虫も、靴の出来具合も、観客の様子も、全てを記述して始めて、その事故を知ることになる。しかし裁判では、上記「原因と結果と背景」のパターンに事故或いは事件を押し込むことが不可欠である。
 
2)自殺の2年後に出た「文藝春秋」851月号には貞子夫人が死の引き金は鈴木氏だとし、「鈴木、よくも、この俺を刺したな!!お前に、俺は殺された。俺は死ぬしかない」と怒鳴り、2030回殴り続けた、といった内容の手記を発表。また、中川一郎の長男である中川昭一氏の妻の中川郁子氏が、貞子さんが明かしたのと同じ光景を目撃したと、「文藝春秋」201010月号の中で「義父中川一郎、昭一『親子連続怪死』の全真相」に書いているという。これらの文章を読んでは居ない。しかし、より客観的視点で書かれた上記単行本を読んだ私は、彼女らの手記は信憑性に欠けると思った。14年目に放送されたテレビ朝日の放送も、上記手記を否定するのには十分だろうとさえ思う。
確かに鈴木宗男が参議院選に出るといったときに中川一郎に殴られたという話は、上記内藤國夫の本の7章に出てくる。しかし、その参議院選の話は年内(1982年)に解決している。さらに、上記本には参議院選へ立候補するように鈴木を仕向けたのは、後援会の工作であったと書かれている。尚、上記中川郁子氏の手記に対する鈴木宗男氏の反論が新潮 201011月号に掲載されたという。何方が正しいのかは、明白だろう。https://www.j-cast.com/2010/10/18078488.html?p=all
 
3)向精神薬をアルコールと共に飲むのは絶対タブーである。自殺をしてしまった背景として、その影響が大きく存在すると思われる。
 
4)縊死が完全に自発的だったのか、それとも強い教唆によるものなのか、半ば強制的だったものなのか、その疑問が残る。それは死体の状態を側近で長い間の友人であった佐藤尚文氏らが、中川の死体を人に見せないようにしたからである。自宅に戻した後も、普通なら棺から出して北枕に寝かせ通夜を行うのだが、一切棺から出さず顔もあまり見せないようにした。更に、荼毘を繰り上げて行う工作を、佐藤尚文、中川貞子、鈴木宗男が行い、死の翌日午前10時に荼毘に付された。(内藤國夫著の本、第8章)縊死の場合、首に二重跡がのこる場合、何らかの異常がそのプロセスにあった証明となる。しかし、内藤の本にもその跡が一重だったか二重だったかなどについての記述はなかった。死因隠しに協力した北海道警察の幹部はその後処分された。
 
5)日本改造計画の前書きに、グランドキャニオンに垣が設置されていないことを紹介している。予め垣を施して、事故を防いて個人の自由を侵害する日本と大違いだ。そして、個人の自立こそ真の民主主義社会の成立に不可欠だと書いている。この本を読んで、小沢ファンになった人がおおいだろう。しかし、小沢氏の推奨するドブ板選挙とは思想的に正反対ではないかと戸惑ったのだが、この本には数人のゴーストライターがいたということで納得した。
 
6)大衆の政治に於ける目覚めは、小沢一郎著の「日本改造計画」でも民主政の必須条件である。そして、民主政治のトップランナーの国の重鎮であるブレジンスキーの考え方は、それを否定している。しかし、大衆が本当に政治に目覚めれば、民主政が上手く機能するか? 答えはNOだと思うし、ブレジンスキーもそう考えているだろう。つまり、本来高度な専門職である政治が、大衆が如何に政治に目覚めたとしても、大衆の手の届くところには降りてこないのである。それは、政治よりも単純な物理学や化学、生物学や医学を考えても同様である。(補足6は1/21早朝追加)