人は何故英雄を必要とするかなどについて、以下議論します。勝手に推理しただけのまとまりの無い内容ですが、今回はその前半のつもりです。

1)人は何故英雄を必要とするか:
今年初めの大谷の人気はすごかった。アメリカ人も地元の人は大はしゃぎという感じだった。スポーツではないが、将棋の藤井7段の活躍と、それに伴う人気もすごかった。以前から、この「人気」の存在の背景に人の生物としての特異性が存在すると考えている。それについて書いてみる。
 
人氣選手などが生じる背景に、ヒトの英雄を欲する習性があると思う。それと関連して思い出すのは、人類の歴史(そして文化)は、大勢の人間の支持を得た(祀り上げた)英雄により作られてきたことである。この歴史的英雄も、スポーツや芸能など限られた分野で生じる小型短期的英雄も、規模は異なるが同じ人の習性が発揮された結果だと思う。
 
大きな歴史的レベルの話としては、例えば、キリスト教の誕生がある。聖書によると、ヒトは迷える羊に、神が羊飼いに、それぞれ喩えられる。そして、神の声(福音)を伝えるために人の世に現れたのがイエス・キリストである。

キリスト教の開祖と考えられているイエスは、キリスト教徒から見れば神であるが、その外に居る人間には一人の英雄に見える。(補足1)イエスは人々の英雄を欲する気持ちに応えたので、人々はその人の下に馳せ参じ、迷いから脱する道を教えられたということになる。 

キリスト教徒にとっては、イエスは救世主(キリスト)であり、人々の迷える魂はイエス・キリストにより安定的に固定され、以後は新たな強力な英雄が現れない限り離れることはないだろう。(補足2) 
 
信者は、迷いから脱する方法を得たと信じるに至ったのだろうが、即座に現在の悩みや苦しみなど全てから開放されたわけではない。何故なら、その不満は本来解消不可能であり、生そのものの本質と言えるからである。(補足3)

そして、偉大な英雄を得ても、英雄を欲する習性がなくなる訳ではない。英雄を探す魂の振動は、その生命が終わるまで続くだろう。スポーツ選手を応援することに熱中するのも、その魂の振動の一つだろう。 
 
短くまとめると以下のようになるだろう:
英雄を欲する心は、人生における根源的苦痛に由来する。その苦痛は決して解消されることはない。そして、その苦痛の理由や解消する方法を考えることが悩みであり、その悩みを解消してくれるかもしれない英雄を探すのである。しかし、その苦痛は生ある限りなくなりはしない。釈迦牟尼が看破したとおりである。
 
2)人の迷いの本質について:
生命体は、物理的にも化学的にも常に不安定である。水、燃料、酸素、そして自身の補修材料の補給を受けることで、その命を維持している。それらのうち一つでも絶たれれば、命はたちまち消滅する。生命は、そのような不安定な存在ではあるが、二つの点で極めて安定にできている。それらは、その①生命を維持し②子孫を残すという性質であり、不安定な生命の中心にありながら、遺伝子に頑強に設定されている。
 
ヒトは誕生後に意識を持った時、母親と強く結びつき何の不安もないだろう。その後成長して、上記2点において明確な方向に向けて立っている自分を発見する。その後時間が経過しても、ヒトはその生に対して明確な目的も価値も見出すことはできない。 

ヒトの持つ知性は、日常の中で例えばどこかに向けて進む時、何らかの目的を持って進む自分を自覚している。また、何かを作る時その用途を予め考えて作る。しかし、その知性が自分の生命と人生の目的に向けられた時、全く無力であることに気付く。そして、将来の死を自覚するのみである。 

全ての作られた物には目的が存在する。もし創造主(としての神)が存在するのなら、ヒト(つまり自分)を創造された理由が存在する筈である。それを知らない自分は、一刻も早くそれを知っている方の下に馳せ参じるべきであると考えるだろう。一方、創造主が存在しないのなら、一体自分は何者なのか、何のためにこの世に生を受けたのか? と悩む。 

そのような考えが、人生における迷いの本質だろう。そして、その迷いを解消するために、自分の生きる目的と方向を教えてくれる英雄、あるいは神を人は探すのだろう。 
 
3)原始の昔に戻って、人生の悩みの発生を考える:
上記のような人生の迷いが生じるには、その出発点に自分の生命と人生の目的を考えるという動機が存在する筈である。何事も順調に行っている時、普通ヒトは何も考えない。他人の受ける苦痛なども、自分の体験を思い出すことや幼児期の教育などの疑似体験がなければ、思い及ばないのが普通だろう。
 
そこで、ヒトが自分の生命と人生の目的を考える動機を以下考えてみる。
 
人はその知性により、互いに密接に団結できるようになった。その結果、人以外の外敵と戦って生き延び、地表の主となった。人が地表にあふれるようになると、次の段階としてそれら団結したグループの間での生存競争が起こる。そこで、より高度に組織化された「社会」と言える団結構造を作った部族が、有利に戦いを進めることになる。そのためには高度な情報交換も可能なように言語が発達した。
 
その結果、この地表で生きる生命の主人公はヒトなのか、ヒトが作る集団なのかわからない状況になった。その後者の極端な見方をとると、社会が大きな生命体であり、個人はその中で機能化された細胞とみなされる。
 
一方、個人としての人間のダーウイン的進化は、それほど早く進まない。個人は依然、自分の利益と欲求を優先する遺伝子に支配された存在であり、社会の発展に貢献するという遺伝子は存在しない。社会は、大きく発展するに従い、独自にその社会自体の目的と欲求を持つかのようであり、個人にそれに従うように強制力を発揮するようになる。
 
その社会と個人の対立が、個人が自分の人生の目的を考える動機であり、悩みや迷いの根源である。そして、この社会のリーダーとなり、社会と個人の仲介役としても働くのが、英雄である。
 
(以上、中途半端ですが、ここで今回は終わります。)
 
補足:
1)イエスの弟子たちや大衆への語りをまとめた聖書の編纂や、キリスト教会をつくり大きな教団として育てたのはパウロだと言われる。http://mrtoris.jugem.jp/?eid=430に面白い話が掲載されている
2)魂が固定されるとは、人生の悩み解消のリーダーとしてその英雄を選んだという意味である。宗教的意味があるので、そのような言葉を選んだ。
3)仏教では生即苦であり、キリスト教でも天国に入るのは死後のことである。
1)今回の西日本豪雨での死亡者数は最終的に200名以上になるだろう。被害は西日本全体にわたるが、死亡者の80%以上は岡山、広島、愛媛の3県で出ている。河川の堤防決壊や崖崩れが原因で亡くなった方がほとんどだろう。報道によると、被害地域はハザードマップに危険箇所と記載の場所にほとんど一致している。予想通りの災害であり、対策の遅れは非常に残念である。
 
一方、この機会とばかりに「国土強靭化計画」を言い出した人がネットで宣伝している。その一例が次の動画である。最初は、経済学者の三橋貴明氏であり、次が内閣参与で京大土木の藤井聡氏である。因みに、三橋氏は藤井氏の親しい知人らしい。
 
勿論、今回の災害を教訓に、多少の国債増額をしてでも必要だと誰もが納得する治山治水事業は一気にやるべきである。しかし、それは通常の予算を大幅に増加する形で行うべきで、「国土強靭化計画」などという掛け声は不要である。掛け声を用いた行政は、何も考えない人の支持をとりつける卑怯且つ危険なやり方である。(補足1)
 
上記動画では、南海プレート地震(東海、東南海地震)と首都直下型地震が同時に起こった場合の経済的損失を、土木学会が試算した内容を紹介して、国土強靭化の必要性を主張している。不自然な仮定の下での、不自然なシミュレーションを紹介していると、私には感じられた。
 
2)対策には緊急避難的対策と基本的対策の二種がある。基本的対策はゼロから多角的に立案すべきである。その際、前提条件を把握しておくことが大事だと思う。例えば、①日本は一人当たりの平地が非常に少ない国家であるということや、②食の安全や国防との整合性も考慮すべき、などである。また誰が考えても、天災を防止することは無理である。従って、③人的被害を減らす基本は逃げることだろう。
 
豪雨対策の場合:①土砂崩れの危険性のある場所や堤防決壊で住宅が浸水する可能性のある場所では新規住宅建設をさせない、②住宅が浸水する可能性のある場所に止むを得ず住宅を建設する場合は、人が立ち入る場所の一部を、必ず堤防よりも高くすることを義務付ける、などの対策が有効だろう。大幅に人的被害を減らす筈である。
 
従って、農漁村こそ高層マンションを一定の割合で住居として採用すべきだと考える。(補足2)河川氾濫や津波に対して堤防を高くする工事を考えることは、土木の方は潤うが一般には無駄が多い上に景観を害することになる。
 
緊急避難的対策は、夫々の箇所を対象に具体的でなければならない。例えば今回被害の大きかった岡山県倉敷市真備町をグーグルマップでみると、南北に流れる大きな高梁川とそれに西から合流する小田川と接し、中央部分に水田地帯と思われる農地が広がっている。両河川にそって堤防があり、今回小田川の堤防が決壊して洪水となったようである。
 
以前から危険性が指摘されていて、小田川の高梁川との合流地域での水位を低下させる工事が計画されていたという。既に計画されているこれらの工事は急いで行うべきだ。冷静な分析による長期的視野の下での対策、緊急避難的問題即応型の具体的対策、何れにしても、大げさな掛け声や標語は不要だと思う。
 
補足:
1)掛け声で政治を行うのは日本の悪い伝統である。江戸末期の尊皇攘夷、戦前の鬼畜米英、戦中の一億玉砕、戦後の非武装中立などを並べて見ればわかる。大きな振幅で、左右に揺れた日本の政治史が理解できるだろう。掛け声政治は、議論を封じて全体主義を目指す時の方法である。
2)一戸建て住居は田園部の伝統であることは分かる。しかし、その伝統文化が作られた時代、洪水で現代以上の数の人がなくなっていただろう。それは継承したくないが、一戸建ての伝統は守りたいというのがエゴイズムなのかどうかは、都会を含めた全国で考えるべきことである。
「中国に勝つ日本の大戦略」について


以下は昨日投稿したものの修正版です。(2018/7/11am8:30)
 
1)北野幸伯著「中国に勝つ日本の大戦略」を、途中少し飛ばしたところもあるが、最終章「中国の近未来」を残してざっと読んだ。ここ10年ほどの日本を取り巻く国際政治に関する記述は、簡潔で分かりやすく書かれており勉強になった。 
 
しかし、そこには日本のとるべき大戦略が書かれていると思ったが、それは著者も書いているが期待外れであった。米国との安保条約を宝として維持し、日本の名誉を汚す韓国の主張に対する反論なども抑えて、近隣諸国との友好関係を戦略的に推進あるいは構築すべきであるとの内容だからである。 
 
その理由として書かれているのは、過去の歴史を見ると分かるように、同時に多くの国と対立しては外交で失敗するという、まあ当たり前のことである。その方法が、「戦略的忍耐」であるというから、読者ががっかりするのは当然だろう。以上の主張は単に、破滅への道は日米関係の破綻或いは中国や韓国を結果的に挑発してしまうことだという命題の対偶(補足1)をとって言葉にしたに過ぎないと思う。 
 
この本の中で著者の姿勢を示していると思われる重要なポイントの一つは、日本の核武装は不可能だと決めつけていることである。その理由の一つとして、米中には日本に核兵器を持たせないという密約があると書いている。それは、ニクソン時代のキッシンジャーと中国周恩来らとの間で結ばれたという伊藤貫氏の本の中の記述の再録である。そこから短絡的に日本の核武装は国際的孤立への道だと結論している。北野氏は伊藤貫氏が日本の核武装を主張していることには全く触れていない。(補足2) 
 
そして、自民党の伝統的方針である日米同盟の堅持、およびインド東南アジア諸国との戦略的関係構築やロシアとの関係構築などを目指すことに加えて、韓国との融和姿勢を回復することなどが、重要だとしている。特に慰安婦問題などを主張する韓国を現状のまま認め、融和路線を敷くべきだという主張は、日本の国家としての骨組みなど無視しろと言っているに等しい。 
 
本来、このタイトルの本であれば、そこには:
戦後完全に抜かれてしまった日本の背骨を再生し、国家としての体裁を回復するかが最初に記述され、更にそれを前提にして、日米関係をいわゆる互恵関係の形での強化すること、インドとの強い関係の構築、韓国との友好関係の樹立などに関する方法論がなければならないだろう。後の部分は無くても良いくらいだと思う。国際問題の本質は、日本国をしっかり現代建築として立て直すという国内問題である。
 
2)日米関係が大事なことは言うまでもない。インドとの関係深化、ロシアとの関係回復、中国を刺激しないこと、全て大事なのは当然のことである。それらを日本が軟体動物的なその場その場の現実主義で成し遂げようとするしか生き残る方法がないのなら、差し当たり北野氏の書いた通り、そうすべきだろう。しかし、そこには国家としての発展はないし、国民にとって夢も希望もない。
 
安倍総理が戦後レジームからの脱却という言葉を引っさげて二度目の登板を果たした。それは、戦後完全に抜かれてしまった日本の背骨を再生し、国家としての体裁を回復することの宣言であった。しかし、靖国参拝で国際的なバッシングを受け、孤立することになった。安倍総理が戦後レジームの脱却と言いながら、単に戦前への復帰ととられかねない姿勢をとってしまったのは大失敗であったのは事実である。
 
これらの方針を北野氏は完全否定しているが、それは北野氏がどこか別の国の利益を代表しているのかと思わせる。ことの本質は、国際的関係を支配するのは野生の原理であり、日本イジメの良い材料を安倍総理が与えてしまったということである。それは安倍総理の国際関係と歴史認識不足や政治的能力が十分でなかったことが原因だと思う。
 
その後、米国議会において希望の同盟演説を行い、安倍総理は米国の評価を完全に回復した。そして、中国の「日米関係の分断工作」を無効化させることになった。これを北野氏は、高く評価しているが、おそらく昔からの自由民主党の伝統的方針通り行ったことが、世界の情勢変化とピッタリ合っただけだと思う。
 
日本の大戦略の第一は、日本の背骨の回復と頭脳のブラッシュアップである。それが、日本が国際的に名誉ある地位を占めるという厚い面の皮をつけることにつながる筈である。そのためには、日本の政治を田舎の政治屋から取り戻すことが何よりも大事だと思う。
 
具体的には、一票の格差完全撤廃と道州制など大選挙区制を実現し、主に都市部の知識階級から中央政府の政治家を選ぶという改革がもっとも有効だと思う。
 
そのために英雄が必要かもしれない(橋下徹は英雄に似ていたが、何者かに潰された)。英雄の出現には、その素地が必要である。その素地作りのため、国民が政治経済歴史など社会学への関心を持つことが大事である。それを阻んでいる日本のマスコミ、特にクイズ番組、健康番組、お笑いとスポーツのみを放送しているテレビ界を如何に改革するか、全ての日本国民は考えるべきである。
 
特に、力を持つ官僚たち、裁判官たち、知識人たち、報道界の人たちは、国難の今こそ行動すべきである。官僚たちは、かなりの割合で今の事態がわかっているだろう。日本政府の中枢にいるのだから、内閣にコネを作って意見を積極的に提出するなどの行動をすべきだと思う。最高裁の心ある人も立ち上がるべきである。一票の格差2倍は明らかに違憲なのだから、選挙の無効を宣言すべきである。その後、最高裁を首になり、細々と生きることになっても良いではないか。二、三人その程度の志を持つ判事はいないのか。
 
補足:
1)対偶「pならばqである」という命題の対偶は、「qでなければpでない」である。真なる命題の対偶は必ず真である。多分、中学の数学の教科書にある。
2)日本が背骨と立派な頭があり、そこにはまともな哲学や歴史認識があると世界が認めるなら、核武装も可能になる時代がくるだろう。軟体動物では、永久に憲法9条を堅持するしか、生き残る道はない。