1)同性間のパートナーシップを同性婚と呼び(補足1)、その関係を法的に結婚と同等と見做すかどうかが、議論されている。それを認めることは、戸籍法や財産権等を定める法律中の結婚(婚姻)や配偶者を、“同性婚”とその相手方を意味する言葉に読み替えることになる。それに関して、自民党など保守政党は反対であり、野党の民進党、社民党、共産党などは賛成である。
 
しかし、この同性間のパートナーシップ(“同性婚”)を従来の結婚と同等なものとして、現在の法を読み替えることは言語学的には無理である。更に、何よりも問題なのは、従来の結婚や家族を軽視することに繋がり、それは社会に混乱を持ち込む。
 
また、LGBTではない正常な同性間にもその様な関係を認めざるを得ないだろう。その結果、その関係を利用して相続税などの対象額を少なくすることなどに利用される可能性もあり、その点でも社会に混乱を起こすなど、問題点が多い。
 
杉田水脈氏の“同性婚”に関する新潮上での記事は、上記のような社会の混乱を意識しつつ、法整備などに関連して生じる様々な行政コストなどから、“同性婚”を認めるべきではないという主張なのだろう。元々“同性婚”を制度化することに賛成の野党政治屋らは、その中の攻撃し易い言葉尻を捉えて、大衆の反権力意識を醸成して居るのだろう。
 
2)仮に“同性婚”を認めるとしたときに、先ず大きな障害となるのは、“同性婚”は憲法24条に違反することである。それを既に安倍総理は指摘している。
 
憲法24条: 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
 
この憲法問題を、小西洋之参議院議員(民進党)がlivedoor newsで粗雑に議論しているので、その反論の形で以下筆者の考えを述べる。小西氏は以下のように記している。(下線は本ブログ筆者による)http://blogos.com/article/316459/
 
実は、安倍内閣は、「同性婚は憲法24条に違反し、許されない」という解釈を何の根拠もなく打ち出していたのです。
発端は、2015218日の参院本会議における安倍総理の以下の国会答弁です。『憲法二十四条は、婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立すると定めており、現行憲法の下では、同性カップルに婚姻の成立を認めることは想定されておりません。』
しかし、憲法の条文を解釈する際に大切なことは、その条文の根本的な意味(趣旨)に基づくことです
憲法24条が定められた趣旨は、明治憲法下においては結婚には家長や父母の同意が必要であったものを改め(家族制の廃止)、あくまでも、結婚を個人の自由意志のみに基づくものにし、結婚する個人の尊厳の尊重を守ることにあります。
であるならば、個人の尊厳は男女であれLGBTの皆さんであれ、誰でも絶対に尊重されなければならないものであるのですから、憲法24条1項の「両性」を「男女」と解釈する必要性はないし、寧ろ、そのようにしてはならないのです。
 
小西議員の考え方(最初の二つの下線部)によれば、家族制は廃止されるべきであり、それが現憲法24条の趣旨だという。その趣旨が憲法のどこにあるのか? 本来憲法制定の趣旨は、前文に書かれるべきだが、個人の尊厳などという言葉は一切書かれていない。(補足2)また、同じ第3章の第13条には、「生命、自由および幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と書かれている。
 
小西氏は、憲法24条の前に存在するこの憲法13条を読んでいないのだろうか。“同性婚”も含め、個人の幸福追求の権利は、公共の福祉に反しない限り尊重されるのである。
 
“同性婚”という同性間のパートナーシップを結婚と同等と公に認めることは、生物としての有史以来生き残ってきた人類の基本的生活形態に反する。家族で子供を産み育てるという、結婚と家族の特別な意味を否定することになる。それは、社会を混乱に導くことになり、公共の福祉に著しく反するだろう。
 
結婚や家族関係を、社会における個人間の関係の一つに過ぎないのであり、特別視する必要など無いと言うのは、異星人の暴論である。それなら、結婚など憲法で記述する必要などないではないか。
 
つまり、「人は成長して家族を為し、子を産み育てる」という個人の人生が、社会の健全な形での維持つまり公共の福祉のために必須である。社会の健全な形での維持は、民族および国家の繁栄の要諦である。家族関係維持を社会における基本的制度と捉える考え方を否定するのが、野党政治屋の考えなのだろう。
 
同性の間の結婚を両性の間の結婚と同一視するということは、別の角度から見ればこのようなことになる。
 
3)「法はその趣旨に基づいて解釈すべきだ」との考えは、法解釈の基礎だろう。しかし、それはどちらの解釈が正しいかということが問題となる場合であり、両性を同性と読み換えることはあり得ない。それは、自衛隊は他国を攻撃するための戦力ではないので、憲法違反ではないという憲法解釈と似た流儀の憲法解釈であり(補足3)、常日頃小西氏の民進党、社民党、共産党など野党が反対している憲法解釈ではなかったのか。
 
民進党、社民党、共産党などが、同性婚を制度として認めるべきだと主張しているが、その為に憲法24条を改訂すべきとは言っていない。つまり、憲法24条の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」の「両性」という語句など無視すべきだと主張していることになるのだが、この事には本当にびっくりである。
 
上の内容と一部重複するが、私の結婚と家族に対する考え方と、この記事の結論を以下に記す。
 
家族は社会の構造図において、個人の直ぐ上の階層に位置する基本的単位だと理解している。そして、家族は最初一組の男女が結婚し夫婦となってスタートし、子供を得て家族が大きくなる。家族は、次の世代の担い手を養育するという、社会において重要な機能の大きな部分を負担する。
 
家庭においては、父親と母親は別の役割を持つ。父は家庭を守る義務があり、母は家庭を維持し子供の養育の中心となる。その男女の子供養育の場(人間では家庭)に於ける役割分担は、基本的にはほとんど全ての哺乳動物に共通である。それは遺伝子レベルから決定されている。この男女の自然な機能は、家族との生活の中で(家庭の中で)子供たちに学習されるべきである。
 
子供のいない家庭も存在する。しかし、家庭を維持することは、社会の中に調和的に生きる上で、双方に益となる。結婚しない人や、離婚した人、配偶者と死別した人など、独身の方も社会には相当数いるだろう。上記の様な制度を維持することは、それらの人々から家庭を維持する重要性への理解を得ることに繋がる。更に、その制度により安定な社会が維持されれば、それら独身の方々の利益にもなるだろう。
 
勿論、LGBTの方々が、独自に契約を行なって安定なパートナーとなり、家庭を築くことは好ましいことだろう。しかし、それに対して一般のハウスシェアリングと区別して、行政が関与する必要はないと思う。
 
以上の様な趣旨で、憲法24条も解釈するのが当然である。それに疑義を挟む人が居るとすれば、異星人か、他国の諜報機関の為に働く人だと思う。
 
補足:
1)広辞苑第二版で結婚を引くと、「男女が夫婦になること」とのみ書かれている。同性婚などという言葉は当然掲載されていない。同性の間の結婚はあり得ないのであり、従って、「同性間のパートナーシップ」と言うべきである。同性婚
2)憲法全文には、国民主権、平和主義(諸国民の公正と信義の信頼に基づく国際主義)が書かれて居る。
3)「国家における自衛権は、憲法以前の自然権である。憲法9条第一項は、それを否定していない。自衛隊はその自衛権の行使のために存在する。それは他国を侵略し、攻撃するための戦力に当たらない。」私は、それに必ずしも同意している訳ではないが、以上が自衛隊合憲論の考えだと理解している。つまり、野党が批判する自衛隊合憲論は、もう少し緻密にその根拠が組み立てられているのだ。
杉田水脈氏(自民党衆議院議員)の同性婚に関する新潮上での記事について、野党議員等からの非難と反論が大きく世間にこだましている。これに関して自民党幹部の議員たちは困っているようだ。(補足1)民進党の理屈が得意な政治屋たちが、自民党攻撃の材料として飛びついたからである。馬鹿馬鹿しい限りだが、ブログを書いているので避けずに一言意見を出そうと思う。
 
1)実は、201511月に既に一度書いていたことが閲覧記録からわかった。それは、「同性婚の法制化には反対である」と題した文章である。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42533121.html  ;この文章では、その問題に関するNHKのアンケート調査の質問設定を批判したのち、自分の意見を書いている。
 
自分の意見に関する部分のみについて、その主旨を要約すると以下の①—③のようになる。それに続いて前回の内容も含め、今回新たに自分の意見としてここに記す。
 
①基本的な理解であるが、LGBTというのは性的障害である。そして、それが直接妨げにならない法的権利については、当然認められるべきである。
LGBTの同性の二人が、人生のパートナーとなる法的契約を新たに作ることには、それほど反対ではない。しかし、仮にそれを認める場合には、LGBTに限らず一般に認めるべきである。つまり、LGBTでない同性間のパートナーシップを法的に新たに創設するのである。
③同性のパートナーシップを法的に認める場合、従来の結婚により二人が得る権利と同等ではないだろう。
 
言うまでもないが、結婚は次の世代を作り育てること、そして、その世代が社会を支えて行くのである。その中には、前の世代の老後の面倒を見ることも含まれる。その連続により、社会が世代循環的に維持されると言うことである。従って、結婚して子を産み育てることがノーマルな人生の形であり、社会がそのようなタイプのパートナーシップを支持するものでなくてはならない。(補足2)我々は社会の中でしか生きられない。従って、社会を維持防衛することが行政の責任なのは言うまでもない。
 
上記②に関してだが、同性のパートナーシップを法制化するのなら、それをLGBTでないノーマルな人にも認めるべきである。それを認めないとしたら、それも差別である。また、普通の結婚(異性婚)と同性のパートナーシップの間にいろんな明確な違いがある以上、社会との関係に於いて差が生じるのも至極当然である。
 
これらのパートナーシップに付与される権利を法的に規定するには、遺産相続や贈与税などの財産権関連の法律との整合性を考え、それらの法を改訂する必要も出てくるだろう。従って、日本文化との調和性を含め慎重に考察して制定すべきである。

 

西洋の真似をすることが日本国に適しているとはかぎらないのである。その議論を国会等で行い、制度を制定するにはコストがかかるが、現社会の構成員としての個人の多数がそれを要求するのなら、それはやるべきである。
 
この「多数が要求する」というのは、民主主義政体を採用する以上、行政システムを使う場合の基本的要件である。勿論、多数が要求することは、多数が直接関わる(多数の問題である)こととは等価ではない。それは、社会が正常に運営されるために、それが必要だと多数が考え要求することである。その意味で、多数が要求しないのなら、そのような制度を創設する必要はない。
 
2)杉田水脈氏の新潮上の記事について議論が、Amebaテレビで放映された。https://www.youtube.com/watch?v=vUDc2-qrCsY そこで、パネルとしてまとめたられた杉田氏の主張の要点を、Amebaテレビの画面から再録する。(補足3)
 
行政が動くということは税金をつかうということです。
②彼ら彼女らは子供を作らない、つまり生産性がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。
③普通に恋愛して結婚できる人まで、「これって(同性愛)いいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。
 
この中で、①「行政が動くということは税金をつかうということです」はその通りである。②の前半、「生産性がないのです」は、全く問題はない。この言葉が問題視されることは、驚異である。
 
杉田氏は、子供を作らないことを「生産性(英語productivityの翻訳語だろう)が低い」と言ったのだが、このproductivityには多産(性)の意味も(当然)ある。つまり、議論の対象が物品と子供の違いがあるが、生む数/つぎ込んだエネルギーという点では共通だからである。
 
この杉田発言を批判する「世論の嵐」の原因は、工業産品と人生での子育てを一緒にされるのが腹立たしいということらしい。この、言霊に支配されたレベルの低い批判が大半である点に注目すべきである。また、その嵐を煽る枝野氏など民進党の人たちは、それを政治利用しているのであり、政治屋としての典型的行動である。
 
 
②の後半に話を戻す。LGBTのパートナーシップ制度創設が、子供の生産性が低いからと言って、その制度を作る必要がないと言うことにはならない。それは既に上に述べた。LGBTの人も社会の構成員である。それらの方がカップルとなり、家族を構成する制度を作るべきだと言う意見の人が多数を占めれば、その類の制度を作る必要があると結論するのが、民主国家での行政のあり方である。(補足4)
 
 
しかし、同性のパートナーシップを通常の異性間の結婚と同一の法的権利を設定すること出来ないのは、最初のところに書いた通りである。「異性婚の間にも生産性のないカップルもある」とか、「同性カップルでも養子縁組もあり得る」という意見がAmebaテレビの上記番組でも出ているが、この問題は、今後できれば議論する予定である。
 
ただ、ゲストの明治大教授の鈴木賢氏が主張するように、「公の空間でゲイ同士が手を繋いで歩く権利があり、それを差別視することはあってはならない」は間違いである。何故なら、個人は好き嫌いを表現する自由があるからである。人々がその光景の主に、蔑視の視線を向けることも、その結果差別を受けたと腹立たしい感情をゲイの方が持つのも、同様に個人的な好き嫌いの表現である。
 
その様な視線を向けるのは、下品であると人々が見るのなら、そのような視線は少なくなるだろう。その逆に、社会の健全な維持のためには、それらのカップルに冷たくしても当たり前だと言う考えが支配的になれば、視線は一層冷たくなるだろう。
 
社会から差別一切をなくすべきだと言う意見は、非常にナイーブな意見である。基本的人権は守るべきであるが、その人権の中に好き嫌いの表明も含まれる。人生は差別の連続である。(補足5)何故なら、個人は異なる能力を持ち、異なる容姿を持って、異なる両親の下に生まれる。もちろん、異なる国、異なる文化の中に生まれる。そこで一般的に差別をなくすることは不可能であり、そう主張するのは夢想家のすることである。
 
また、他の民族や他の国家が、特定の国や民族の文化に対して、干渉することは最小限に抑えるべきである。その一例がこのLGBTへの対応の問題である。それは、この国の文化の問題であり、他国、多民族がとやかく言うことではない。その因果応報は、その国その民族が引き受けるからである。番組のイントロで、ゲストのパックンが行った通りである。
 
(9月29日午前7時加筆編集) 
 
補足:
1)竹下郁子と言う人が、杉田発言を非難している。https://www.businessinsider.jp/post-172378このかた、何もわかっていない。この程度の議論で、マスコミに掲載されることそのものが、日本の病気である。枝野氏も同程度の意見なのだろう。https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/201808010000179.html
 
2)子供ができない夫婦、子供を作らない夫婦も存在する。また、同性カップルでも、養子を育てることが可能である。この点については本文でも書いた様に、今後できれば議論する予定である。
 
3)パネルに書かれた項目全てを下に再録する。
   LGBTだからといって、実際そんなに差別されているものでしょうか
   LGBT当事者から聞いた話として)「社会的な差別云々よりも、自分達の親が理解してくれないことの方が辛いと言います。親は自分たちの子供が、自分たちと同じ様に結婚して、やがて子供をもうけてくれると信じています。だから、子供が同性愛者だと分かると凄いショックを受ける。
   「そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか」
   行政が動くということは税金をつかうということです。
   彼ら彼女らは子供を作らない、つまり生産性がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。
   私は中高一環の女子校で、まわりには男性がいませんでした。女子校では、同級生や先輩と言った女性が疑似恋愛の対象になります。ただ、それは一過性のもので、成長するにつれ、みんな男性と恋愛して普通に結婚していきました。
   普通に恋愛して結婚できる人まで、「これって(同性愛)いいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。
 
4)杉田氏の、LGBTの人たちのパートナーシップ制度の創設に関して、子供の生産性/行政コストでその可否を判断すべきだと考えは間違いである。分子に来るべきは、「社会(国家)の持続性、発展性、安定性への寄与」である。この点を、枝野氏らは正しく批判していない。文春オンライン(http://bunshun.jp/articles/-/8326https://www.businessinsider.jp/post-172378)、ビジネス・インサイダー日本の人(https://www.businessinsider.jp/post-172378)、ライブドアニュース(http://blogos.com/article/316459/)らも同様である。最後の記事などは、非常に劣悪な批判である。
5)「差別」とは待遇が異なることを言う。社会に貢献するあらゆる要素において、与える質と量が少ない個人が、少ない評価や報酬を受けるのは自然な差別である。共産主義経済の考え方に「能力に応じて働き、必要に応じて取る」は、差別を否定する究極の考えである。しかし、「必要」が具体的に規定できないことは明らかであり、このような無意味な言葉が一定の歴史的役割をしたのは、驚異であり脅威である。
 
1)明治の初め、英語かフランス語を国語に採用したらどうかという意見が出た。このことは、既に何度かブログで取り上げた。具体的には、志賀直哉が国語をフランス語にすべきだと主張し、初代文部大臣の森有礼が国語を英語にすべきだと主張した。その背景には、日本語の習得の難しさや使用の際の不便があると思う。
 
現在、1,000万人程度以上の人口を持つ先進国の国民の中で、日本人は英語が話せない国民の筆頭だろう。人と資本が自由に国境をまたぐ今日、そのような状況では国家も国民も、今後何かと不利な状況に追い込まれるのは必然である。
 
最近のテレビニュースでも、独自に英語を公用語化する大企業が増加しているという報道があった。(補足1)そこで、ネット検索してみると、「時代の流れ“英語公用語化”大手企業一覧」(2015/8/27)という記事を見つけた。https://matome.naver.jp/odai/2144054770821558201
 
企業内での英語公用語化とは、英語を用いて会議や連絡をすると社内の規定として定めたということである。その様な企業には、楽天(2012)、ファーストリテイリング(Fast Retailing; 2012)、シャープなどがある。また、三井不動産(総合職社内全員のTOEIC 730点以上を目標)、三菱商事(1992年に一度英語公用語化を宣言したが失敗)なども追随する予定のようだ。
 
また、最近の日経新聞(2018/9/25電子版)によれば、資生堂やホンダ(2020年から)も、英語を準公用語化にするそうである。準公用語化というのは、日本語も使うことで現場の負担を少なくするためのようである。例えば、資生堂は10月から、会議と社内文書を英語に切り替えるという。
 
企業の社内英語公用語化の動きは、仕事の取引先などに外国人が含まれることが多く、必要に迫られてのものであり、尻に火がついたという状況下での対応だろう。そこで少し目を転じてみると、「そのような状況にあるのは、果たして大企業だけなのだろうか?」という疑問が浮かぶ。
 
例えば政府、中でも内閣官房や外務省や経産省などはとっくの昔から尻に火がついていたのではないだろうか?それを放置して、火元になるべく近づかない様にしてきたため、日本は外交において非常に不利な状況に追い込まれてきたのだろう。(補足2)
 
私は、明治時代に森有礼が英語の国語化を主張したときに、準国語化でも良いから実行しておくべきだったと思う。中高年は知識層や支配層から始めて、幼年は学校教育からでよい。全ての学校で無理なら、一部で初めて徐々に拡大すれば良い。100年後には、つまり現在、ほとんどの国民はバイリンガルになっていただろう。
 
また、日本の文化も大幅にかわっていただろう。相手に話をする時にyouが入り、自分の考えを言う時にはIを用いるだけで、人々は論理的に考えるようになっていただろう。(補足3)そして、空気を読む力よりも、論理的思考力の方が社会で重視されていたと思う。その結果、“忖度”よりも明確な手続きの跡を残して行政もなされただろう。
 
2)日本語の弱点: 
日本語では、言葉から音と情報の両方が伝達される。お坊さんの経は、ほとんど音楽であり、情報は少なくとも一般人には伝達され無い。歌謡曲のような場合でも、その歌詞は意味と音の両方がほとんど同程度に重要である。外国語の歌でも、日本人は意味を考えずに唄うことに何の抵抗も感じていないようだ。(補足4)子供の名前も同様である。普通、漢字を用いるが、漢字の意味よりも音を重視する人が多い。意味を考えると恥ずかしくなるような、あるいは訳のわからないような名前が多いのは、それが原因である。
 
日本語は変化が激しく、現在若者が使う言葉は年寄りには理解できず、年寄りが学んだ言葉は若者に理解されなくなる。その原因は、日本語の出来があまりにも悪いことである。その根本原因として私が思い当たる重要な点は、日本語の単語は語源から組織的にできていないことである。(補足5)
 
毎年文化庁が行なっている国語調査でも、頻繁に用いられるかなり多くの単語が、意味を取り違えて用いられていることが明らかにされている。昨年と今年の例を下に抜粋した。
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今年の調査では、「ゲキを飛ばす」とか「なし崩し」の正しい意味を理解しているのは、20%程度であることが明らかにされた。「やおら」では40%程度である。「檄を飛ばす」が何故、「自分の主張や考えを広く人々に知らせて同意を求めること」になるのか、語源的根拠などない。それが、この言葉が正しく暗記されない一つの理由である。そして、この言葉は恐らく100年か200年程度以下の歴史しか持たないからだろう。
 
「やおら」が40%理解されているのは、その音から受ける印象が「本来の意味」に近いのが理由だろう。この単語も、語源など明確ではないだろう。「ゲキを飛ばす」の誤用の70%近くが、「元気のない者に刺激を与えて活気付ける」の意味で用いているので、20年もすれば広辞苑に正しい用法として記載されるだろう。日本語の変化がはやい理由の一つは誤用だろう。
 
言葉の変化が大きい理由は、その意味が語源にしっかりと繋がっていないことが原因だと思う。「済し崩し」は、語源がしっかりしているではないか?という人もいるだろう。しかし、済し崩しの「済し」を理解している人はほとんどいないし、「なし」と聞いただけでは、無し、成し、為しなど色んな「なし」がある。
 
また、「なし崩し」の「し」の意味は何なのか? 無しなら形容詞の「し」であり、成しや済しなら連用形「成したり」の「し」だろう。何故、連用形が二つくっ付いて、一つの単語に作り上げ、それを覚えることを要求するのか? それぞれ、別に使えば良いではないか。
 
英語のように音を聞いて、直ぐに書ける言葉は便利である。それについては何年も前にこのホームページで書いた。http://island.geocities.jp/mopyesr/kotoba.html
 
3)明治時代に国語を英語かフランス語にする決断をしておけば、大企業もこのような苦労をせずにすんだだろう。大企業の場合の総合職の間では、高学歴の人が多いので、なんとかなるだろう。しかしそれは、言語的に国民を分断することになる可能性が高い。


現在のように学ぶべきことが多くなった時、国語を英語にするという決断は出来ないだろう。言語上非効率なことへのエネルギーを割いて、英語の早期教育をすること位が関の山だろう。非効率なこと:漢字ブームや俳句ブームなどその中に入るだろう。クイズ番組などのテレビ放送はできれば慎むべきだ。
 
言葉は本来国民全ての会話、連絡、情報交換などのための道具である。それが、うまく機能していないのが、日本人を沈黙の民にする原因の一つである。そこに流れ込む外来語は、その傾向を加速する。文化庁は、調査はするが対策は打てない。下に外来語の理解度を示す調査結果を示す。外来語の多用は、外国語習得への好影響はないと思う。


イメージ 2

補足:


1)ここで公用語化というのは、不正確な日本語かもしれない。英語を用いるといっても会社だけだから、公用語とは言えないからである。これは言葉が常に準備されているとは限らないため、誤用だとわかっているが、故意に近い意味の言葉を用いたのだろう。そのような事態を経験することが、日本語を用いる場合非常に多いと思う。日本語は、言語空間に隙間が多い。それが外来語が入り込む理由だと思う。


2)正式な外交上の話し合いは通訳を通すべきだろう。しかし、立ち話など非公式の話で、相手の腹を探ることが出来なければ、本当の意味での外交など出来ないのではないか。例を挙げる。イスラエル訪問した日本の総理大臣に、会食で靴の中に盛ったデザートを出した。そのような場面では、席を蹴る位の迫力がなければ、外交にはならないだろう。しかし、席を蹴っては外交にならない。つまり、ネタニヤフは日本の総理と会話など出来ない、外交など不可能だということを、世界に宣伝したのである。その行為に対する反応も日本では大してないことを知っている。日本ではまともな言葉を使っていないのだろうとバカにしているのだ。


3バイリンガルのケント・ギルバート氏が、以下のようなことをテレビで話していた。彼は、原稿を日本語で考えて書く場合と、英語で考えて書く場合があるという。「英語で書いた原稿を日本語にするときは非常に簡単だが、日本語の原稿を英語にするときは文章を大幅に書き換えることが多い。」

4)サイモンとガーファンクルの「Bridge over troubled water」の訳が、何故か「明日に架ける橋」となっている。そして、英語で歌われるのだ。日本語で歌われることはあまりないので、視聴者は歌詞の意味など気にしない。https://www.youtube.com/watch?v=EGfY6oQYqg0

5)例を挙げるまでもないが、あえて一つ。英語では、come, combat, compact, contribute, consent, などのcom, conは二つの近づきを表す。batはbattle, pactはpack, tributeなどそれぞれも意味が合体して、上記単語は出来ている。