1)韓国の元徴用工判決(補足1)に関する意見は既に書いている。(1126日の記事)それに尽きるのだが、そこにコメントをいただいたので、そのポイントについての議論を新たな記事としてアップする。
 
今回の徴用工裁判において韓国の最高裁判所は、日本の不法な植民地支配下でなされた強制動員への「慰謝料」として賠償権を認め、この「慰謝料」は未払賃金や補償金などの民事的な請求とは異なると位置付けている。
 
つまり韓国側は、1965年の請求権協定の取り決めがあるため、通常の請求権補償を巡る争いでは負けるとわかっているので、日本の「不法な植民地支配」によって傷つけられた人権・人道問題への補償という新しい争点設定を持ち出したのである。http://agora-web.jp/archives/2035974.html
 
この「日本の不法な植民地支配」という論点は、全く根拠がない。何故なら、韓国議会の決議により日韓併合はなされているからである。その経緯については詳しく書かれている記事は多くあるが、徴用工判決との関係でのものを以下に引用する。https://president.jp/articles/-/26873
 
また、仮に「徴用自体が不法で人道に対する罪である」という論理が成り立ったとしても、それに時効がないとするのには無理がある。ウィキペディアによると、1968年の国連総会において、人道に対する罪に時効がないとする議決がなされたが、英米などが反対した他、主要国の多くは棄権しており、条約としての効力はない。
 
2)「時効を無くした人道に対する罪」(補足2)で世界を裁くという方法は、米国の一部勢力が米国を筆頭とする連合国(United Nations)の背後から打ち出した一つの戦術だと思う。


それは、力(米国の力)で特定の国々をねじ伏せるための道具として用意したのだろう。彼らは、ナチスのホロコーストに対しては、徹底した態度を取りながら、ソ連のポグリムやカチンの森事件にはそれほど騒がない。それは、「人道に対する罪」は彼らにとって一つの武器だということを証明している。武器の使用は、相手によりけりだからである。
 
「時効を無くした人道に対する罪」を掲げて、過去の戦争を裁く権威を、全ての現存人は持たない。その論理によれば、「現存人類は過去に滅んだ民族に補償しなければならない」ということになる。過去の戦争全てにおいて、人道に対する罪の山が築かれている筈だからである。「絶滅した民族には補償しようがない」と逃げることはできない。どこかにその民族の末裔が、少数は残っている筈だからである。
 
つまり、「時効を無くした人道に対する罪」は、現存人が等しく意識すべき「原罪」と言えるだろうが、平和条約などで未来志向にある両国の国境を超えて、新たに補償を要求する理由にはなり得ない。宣戦布告以外には、その補償要求を貫徹する方法はないだろう。
 
ナチスのホロコーストも、ソ連のポグリムも、米国の原爆投下も、日本の重慶爆撃も、英仏伊西ポの植民地支配も、全て「人道に対する罪」である。歴史を真面目に振り返れば、そして「時効を無くした人道に反する罪」を持ち出せば、その瞬間に現在生きている我々全ては、その被告席に立たされることになる。
 
補足:
1)新日鉄住金を相手に争われた徴用工裁判の原告側の人たちは、実際には徴用工ではなく、任意に応募した人だという。西岡力氏がそれを明らかにしている。https://www.youtube.com/watch?v=oCvz8ZjXCWY
2)「人道に反する罪」は、人道という概念が定着してからの罪である。事後法での処罰や遡及処罰は日本国憲法に反するのだが、それは他国でも自明のことだろう。人道に対する罪から時効を無くするということは、人間の歴史と文明を否定するような考え方である。それゆえ、特別に「」付きで、「時効を無くした人道に対する罪」と書いたのである。
 1)日本人は、自然の中に生きることを善とし満足している一方、西欧人は、自然を克服して、「人工」の領域に生きる空間を拡大することを善としているのではないだろうか。その結果、日本では人工を追求した成果としての「技術」の開発が活発ではないと思う。
 
日本は、温暖な気候に恵まれ、良質の飲料水も豊富なので、食料と若干の衣服を手に入れさえすれば生きていける。たまに飢饉になっても、周りが海なので棲む領域の拡大には至らず、耐えることで生き延びる。その後飢饉が終われば、その記憶を民族として持ち続けることができず、ただ忘れるのみである。(補足1)そのような環境に住む民族は、世界でも少ないのではと想像する。日本の文化が、自然と融和的なのはその結果であり、それに慣れた日本人には殊更自然保護や環境改善を叫ぶことは、不自然だったと思う。
 
一方、近代文明は自然の解明という形で、西欧で誕生した。人間は自然の中で生まれたが、人口増加にともない必然として生存競争が生じる。その頻繁な争いに苦しむことから、自然の成り立ちや現象を解明し、その知識を用いて人工的環境をつくり、南北に居住地域を広げようと努力したのだと思う。その結果、自然を人工と別けて認識し、その両方に足を広げて生きる方法を身につけたと思う。
 
2)自然と人工という日本語を形容詞で用いる場合、英語ではnaturalartificialが対応するだろう。それらの語幹部分は、natureartである。それが、日本語で上記形容詞の名詞形、自然と人工物となるのなら、日本人と西欧人の言葉は(翻訳すれば)同じだということになる。(補足2)
 
しかし、そうはなっていない。英語のartを日本語に訳せば「芸術」であり、「芸術」は自然の対義語とは異質な概念である。Artの二番目の和訳として技術が出てくる。それらの辞書の記述は、artという英語の概念が二つあるというよりも、日本語の概念の区分の中にうまく当てはまらないということを意味している。
 
このことに最初に関心を持ったのは、大学教養部の英語教材:エリック・フロムの“The art of loving ”を読んだ時である。「愛する技術」や「愛する芸術」と訳すると、日本人男性のほとんどは三流週刊誌の何かエッチな記事のような印象を持つだろう。しかし、この本は哲学書である。そして、フロムが言いたかったことは、「愛」は人間特有であり、猿から人になったときに新たに身につけるべき人間的な性質であるということである。
 
このArtという言葉の解釈が、日本人には全く欠けている。人が生きることは、西欧人にとってartの実践であり、それが大事な人間関係に向かう時には愛(love)であり、道具に向かうときが技術である。そのように私は理解している。そして、日本には本当の意味のartという概念が欠けている。その文化的異質性が時として日本人が芸術として表現したものが、世界を驚かせることになるのだろう。しかし、それは日本人が自慢すべきことではないと思う。
 
最近、日本人には日本の技術を自慢する人が多い。テレビ番組を見ると、「技術を学びに来日する外国人」を紹介する類のものが多い。テレビのプロデューサーは、その種の番組が日本人一般の自尊心を満足させ、高い視聴率を記録することを狙っているのだろう。その貧しい心にウンザリする。
 
何故なら、日本の道具には上記技術の観点が未成熟のように思えて仕方がないからである。つまり、日本の技術、特に昔のもの、は本物のようには見えないことが多い。本物なら日本人の生活にあったオリジナルな技術が多い筈。しかし、単に猿真似に見えるものが多いように見える。それは言い過ぎだろうか。
 
3)言いたいことは以上だが、ここで、例として白磁食器を取り上げて、更に持論を補強したい。日本の白磁技術は、中国の景徳鎮で始まった技術が輸入され、最初に日本で焼かれたのは有田焼である。それが日本の伊万里港からヨーロッパに輸出された。このオランダの東インド会社からヨーロッパに運ばれたイマリ焼きは、西欧に大きなインパクトを与えたのである。(補足3)
 

 

西欧でも独自に白磁を製造するようになるが、その最初は、1710年に始まったドイツのマイセンである。その後、その技術は良質のカオリン含有粘土に恵まれた地方に、マイセンから或いは独自に広まった。その結果、西欧白磁は18世紀後半にはイタリア、英国、フランス、ドイツ、ロシアなど広い地域で焼かれるようになった。
イメージ 1
上の写真は、英国ロイヤルクラウンダービーが製造しているIMARIのカップ&ソーサーである。日本のイマリ磁器をモディファイしたもので、独自の洗練されたパターンになっている。
 
ここで、西欧陶磁器と日本陶磁器を比較してみたい。最初に気がつくのは、西欧産の紅茶やコーヒーのカップには、当然のように取手が付いているが、有田などの茶飲みコップ(茶碗)には取手がついていないことである。その理由は、取手をつけるには一定の工夫、つまり、技術が必要だからだろう。
 
その陶磁器技術の先進国の日本で、茶碗に取手が無かったことは不思議である。それは、日本は現状をそのまま受け入れる文化を持ち、その不便を解消する必要性を感じることができなかったからだろう。それを一般化すれば、大げさに聞こえるかもしれないが、人間の生息する空間(この場合は文明空間)を人工の範囲に拡大しなかったからだと思う。(補足4)
 
その日本の文化的特徴が、磁器の上の絵付けにも現れている。絵付けの技術に関しても、西欧磁器でのその後の発展の方が大きいと思う。斬新でart的な絵付けを施した品物が、日本では売れないことがその原因だろう。19世紀に入って、日本産でも西洋磁器のコピーのような華麗な絵付けの磁器がたくさん作られたが、そのほとんどが輸出用のノリタケなどの製品だと思う。それらは、ネットオークションではオールドノリタケとして一つのジャンルを作っている。(補足5)
 
日本が技術先進国だといっても、多くは西欧の二番煎じである。その原因の根本にあるのは、日本人は自然から離れた人工をあまり好まないことである。つまり日本の文化は、自然と人工を積極的に別けて、人工的領域に生きる空間を広げる工夫が無かったように思える。その文化の所為で、多くのオリジナルなものを賞賛するのではなく、批判する傾向にあると思う。(補足6)悪くいえば、それは日本の遺伝病である。この日本人の性質は日本のあらゆる側面に存在するが、それらの多くは山本七平の本に書かれている。
 
以上は素人の議論です。各方面のからの意見をお寄せください。(16時改訂)
 
 補足:
 
1)そのような状況では、多民族と争うことで領域を拡大するという方法も選択できない。その結果、民族を束ねる同族意識(愛国心など)をあまり持たない。
 
2)言語は、それを使う民族が世界をどのように理解しているかを直接表現している。聖書のヨハネによる福音書の冒頭の言葉、それに最近では、西部邁の「昔、言葉は思想だった」なども、その事実を表現している。
 
3)白磁技術は中国で古くに始まり、特に宋代(13世紀まで)の景徳鎮で焼かれたものが有名だった。中国から朝鮮、そして16世紀には日本に伝わった。日本では、秀吉が朝鮮に出兵した際、朝鮮人や中国人の陶工(ウィキペディアの伊万里焼参照)を連れ帰ったのが始まりだという。17世紀に入り、北九州有田に良い原料石が見つかったとのことで、日本初の白磁の製造が1616年に有田で始まる。
オランダの東インド会社が、伊万里港で磁器を買い入れてヨーロッパに運んだのは、1650年ごろの話である。上記のサイトではマイセンに技術が伝わったのは、伊万里焼経由であると書かれている。それを契機に、ヨーロッパで白磁の開発が始まったのだろう。
ヨーロッパの多くの地域で18世紀初頭から中頃までに白磁の製造が始まったことから、ヨーロッパの磁器製造は、伊万里焼きなど東アジアの磁器の東インド会社を通して輸入が動機となっていることは確かだろう。
 
4)日本の古い家には庭があるが、それは自然のコピーである。田舎の自然に恵まれた場所でも同じである。また、茶碗の不完全な形を自然の景色になぞらえて鑑賞するなど、人工的なものにまで自然を取り入れようとする。何故、人工的なものなら、徹底的に人との関係のみを最優先しないのだろうか。例えば、庭なら何かをプレイするものを設けることの方が、その利用価値を上げると思う。
 
5)オールド・ノリタケの磁器の華麗さは、日本文化からでたものではなく、どこか不自然さを感じる。華麗なミントン(英国)やリモージュ(フランス)の磁器には敵わないだろう。
 
6)ダイソン型の扇風機は、空気清浄機や冷暖房機能をつけると総合的な空調機となる。その扇風機を東芝の研究者がダイソンよりも早く考えついた。しかし、それを製品化できないところ(会社の上層部が開発を認めないこと)に日本の技術が十分に人工を追求できない弱点がある。https://www.narinari.com/Nd/20091012482.html
今年1月27日の日付で、別サイトに編集中のまま放置されていた文章を掲載します。

1)表題は、現代社会に於いて「正義は点と線のみで確保されている」との主張を表現している。つまり、我々は、近代国家の内部全体において、法と正義が支配していると考えるのは勘違いであると思うのである。それは、犯罪が現代社会の多くの領域で起こり得るという主張ではない。法と正義に反する行為が存在したとしても、それらが全て行政と司法により然るべく処理されると考えるのは間違いだという主張である。それは、これまで観てきた社会の諸事象から得た結論である。 

この事実は、例えば、相撲協会での出来事を考察すれば、一般にも理解出来るだろう。犯罪は隠蔽され、闇に葬られることの方が多かっただろう。そうでなければ、部分的にせよ諦めて泣き寝入りをする人が多い筈がない。(補足1)また、商店街の住人で“みかじめ料”などのトラブルに巻き込まれた人には、上記命題が嫌というほど身に沁みている人が多いだろう。さらに、ネットオークションなどで壊れたものを高い値で買ってしまい、売り主と交渉してもはかどらず、結局泣き寝入りするしか無かった人もその考えに同意するだろう。 

警察(行政)も司法も、結局点と線以外には完全には役立たないのである。個人が出来ることは、その点と線の上を歩くように、私的な努力をすることである。ただ、その私的な努力が点と線を動かす様になると、社会全体が法治国家という建前も維持できないことになる。それは独裁国家の入り口である。 

点と線の上に乗る努力とは、司法や行政の中に人脈を作り上げることなどだろう。点と線を動かすとは、司法や行政(警察)への介入を意味する。国家の首脳レベルでは、そのような疑惑は歴史の中に多く有るだろう。東アジア諸国では、法と正義の支配する社会の確立そのものが怪しげである一方、西欧ではそれが一応完成しているようである。しかし西欧でも、空間全体の法と正義の支配は建前としてのみ成立しているのであり、現実は理想から遠く乖離しているだろう。

何れにしても、法と正義による社会の支配は、不完全且つ限定的である。

2)以上は国家とその中で生きる個人を対象にした議論であるが、世界とその中で“生きている”国家の関係を考えると、上記現実が一層理解し易いだろう。

近代になって、世界は凄惨な戦争を振り返り、国際的な枠組みを作るようになった。(補足2)現在では、国連憲章、国際司法裁判所、国連軍が国家に類似した枠組みをこの世界に作っている。西欧が中心になって作ったこの仕組は、絵に書いただけのようなものだが、世界政府的なイメージを想像させる。
<br><br>

つまり、国連憲章、国連軍、国際司法裁判所は、国家のシステムから類推すれば、世界の法、行政(警察)、司法ということになる。それを本気というか、あまりにも真面目に考えている(振りをしている)のが、日本政界における革新系野党である。また、与党にもそのように考える人が多く、今は野党に属するが小沢一郎氏がその代表だった。(補足3)

そのように世界のモデルを考えると、直ぐに「法と正義」が成立する「点と線」の上に乗っている国家と、そのような力と知恵のない国家の区別が明確に出来る。「点と線」を自分の上に引き寄せているのが、国連常任理事国と言われる国々であり、その中の最大最強の国は、点と線を自分で描いていると言えるだろう。(補足4)

上記のように、社会における「点と線の正義」というモデルは、国内と世界の両方を見ると理解し易いように思う。

3)文明による文化の破壊: 
そのような世界でどう生きるかだが、国によってもその具体的方法は異なるだろう。例えば、中国なら血縁を大事にして、一族から上級の共産党員を生み出して、そこからの利益誘導を考えるだろう。そのような国で、公務員の利益誘導や汚職を無くすることなど不可能である。「ハエも虎も叩く」の言葉には、その文の主語が大虎であったという“落ち”があることを中国人は知っているだろう。(補足5)

日本では血縁とともに地縁が大きな役割をしてきた。地縁は血縁を超える繋がりであり、全体として公正な社会構築の素地となり得る。それが、日本国民が米国の押し付けた憲法前文にそれほど違和感を感じない理由の一つだろう。また、野党の幼稚な正義論が未だに力を持つ背景にあるのだろう。

しかし、近代資本主義は血縁も地縁も破壊してしまい、現在ではこの国も荒涼とした社会になりつつある。(補足6)正義の社会が映る様な“レントゲン撮影”をすれば、この国の風景も砂漠のなかにオアシスと舗装道路だけ存在するようなものだろう。オアシスを離れたところにあるテント村が日本相撲協会だと考えれば、今回の春日野部屋での障害事件が理解できる。

信用が空間を満たすことが、法と正義の支配が点と線ではなく面と体で成立する為の条件である。今朝も話題になっていた成人式用の貸衣装を業とする「はれのひ」の詐欺的商法や、最近多くなった企業による不正事件の増加は、日本的な“信用を重視する文化”の崩壊を示している。

それは単に歴史の出来事の一つではなく、人類史の必然の流れだろうと思う。つまり、文明と文化が並行して発展してきた近代史は終わり、現代以降は文明による文化の破壊のフェーズなのだろう。経済的に一定以上豊かになった人間は、思考する人間の特技を錆びつかせ、本能のみの存在に還るのである。 

それを先送りできるとしたら、政治というサービス業の革新と効率化のみだろう。つまり、行政(警察)、司法、立法の三分野全ての効率を飛躍的に高くし、人知を超えた全く新しいタイプの社会主義の確立が必要だろう。それが出来るのは、天才かAGI(統合的な人工頭脳)である。 

シンギュラリティー(補足7)というのは、ひょっとして人類史における明治維新的なものかもしれない。つまり、それは排除(攘夷)すべき対象ではなく、それにより新しい世界を開くということになるかもしれない。勿論、人間が人口頭脳の奴隷にならぬよう、注意が必要である。
  

補足:

1)1)琴光喜の追放などは、たまたま点の上に琴光喜が乗ってしまった結果だろう。ここで補足したいのは、点と線の上の正義でも、その他の分野や地域での不正義の発生を不完全ながら抑止する働きは存在する。 

2)“歴史には無知”の領域に入る筆者だが、ウエストファリア条約(1648年)やパリ不戦条約(1928年)などが近代になって作られた、国際的枠組みの基本的なものだと思う。戦争のルールに関しては、ハーグ陸戦条約が知られている。 
3)小沢一郎氏が国連中心主義を掲げる代表である。しかし小沢氏は、日本が世界の覇権を握る場合にのみ、国連中心主義が日本の外交姿勢になり得ることを知らないのか、知らないふりをしているのだろう。https://yoshiko-sakurai.jp/2007/10/25/633 宮沢喜一らを面接して、総理大臣を選んだと言われている小沢一郎にしてこの程度なのだ。 

4)点と線の近くに居ると表現したのは、彼等常任理事国が正義を定義するのだから、正義は彼等の近くに存在する筈という位の意味である。 

5)汚職追放を大々的に担ぎ出したのは、薄煕来である。彼は中国での権力闘争で、それを看板に勝ち抜こうとしたが、自身の不正やスキャンダルで失脚した。不正蓄財は温家宝など殆どの共産党幹部や元幹部で行われていると言われる。  
6)経済発展で豊かになることは、人と人が協力する基本的文化を破壊する方向にも働く。更に、農村や山村から都市部への人口流動が全国的に生じ、それを受け入れる大規模団地が各地に作られ、地縁的協力の文化も破壊した。それは防寒のための体毛喪失と、服や着物の文化が同時進行的に人という動物に起こったことと重なって見える。 

7)技術的特異点(Technological Singularity)、またはシンギュラリティ(Singularity)とは、人工知能(AGI)の発明が急激な技術の成長を引き起こし、人間文明に計り知れない変化をもたらすという仮説である。ウィキペディア参照。